山田 尚子。 山田尚子

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山田 尚子

1997年の開催から今年度で20回目の節目を迎える文化庁メディア芸術祭。 そんな第20回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で優秀賞に輝いたのが、一昨年度に新人賞を受賞した『たまこラブストーリー』につづく、山田尚子監督による『映画『聲の形』』だ。 人と人とのコミュニケーションという普遍性の高いテーマを、リリカルな映像感覚や、それと有機的に絡み合う音像により、まるでインスタレーションのように体験させる本作は、いったいどのように取り組まれ、またどのような想いが形になっていたものなのか。 2017年9月16日(土)から開催されている受賞作品展に向けてお聴きした山田監督の声を届ける。 山田 ありがとうございます。 文化庁メディア芸術祭は、いつも作品を作るときの一つの目標にしているので、とてもとてもうれしいです。 そこであらためて、基礎的なところからうかがわせてください。 本作は大今良時先生のマンガ『聲の形』のアニメ化ですが、最初に原作を読まれた際の印象というのは? 山田 頑ななまでに希望を欲する心が描かれているように感じました。 生きていたら、失敗したり、傷ついたり、傷つけてしまったり、どうしようもない状況になってしまったりすることがあると思うんですけど、それでも生きていけるし、生きていっていいという、そういう希望を描きたいと思いました。 どのような点に気をつけられましたか。 山田 原作はひとつひとつのエピソードが魅力的なうえ、解釈のレイヤーがいくつもある作品だと思います。 山田 一番は、まず作品全体を見通して、そこから必要なことを逆算しながら作ることですね。 これはいままで関わらせていただいた、どの作品でも大事にしてきたやり方ですけど、この作品では特に気を付けました。 登場人物は一人ひとり悩みを抱えていて、明日を迎えるのすらつらそうな子たちばかりなんですけど、それに対して世界の側は、そんな子たちをいつでも迎え入れてくれるような懐の深い存在であってほしくて。 なので、将也たちを包む世界を一貫して美しく描くようにしました。

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山田尚子とは (ヤマダナオコとは) [単語記事]

山田 尚子

近年とくに、一部の作品に対し「障害者を感動の道具にしているのではないか」という指摘がなされるようになった。 「難病による恋人や家族との別れ」や、「自分の障害と健気に闘う姿」などの要素を使い、「泣ける作品」として、涙を搾り取ろうとするだけの安易な態度の作品が一定数あるのは確かだ。 ただ本作は、「聴覚障害」という特徴的な要素がクローズアップされていくのかと思いきや、じつはドラマの展開において、その要素はそれほど重要なものとしては扱われていない。 ここで描かれる聴覚障害による苦悩やディスコミュニケーションは、他の障害だったり、性格や身体的特徴などに置き換えることも可能なはずである。 本作は、障害者の特徴を実際より大きく扱うわけでも、また起き得る現実社会との摩擦を無視するわけでもなく、ヒロインがたまたま聴覚障害を持っているに過ぎないと思わせるほど、自然に描かれている。 それよりも重視されているのは、本人の内面的特徴である。 このようなバランスで作劇をするというのは、かなり画期的なことではないだろうか。 むしろここで不自然なものとして取りざたされているのは、将也の精神的問題についてだ。 彼は、「自責の念」から「自己嫌悪」を引き起こし、そこに自身が受けたいじめ体験が加わることによって、高校のクラスメートなど身の回りの他人が、いつでも自分の悪口を言っているのではないかと怯え、他人の顔をまっすぐ見れないようになってしまう。 このマークは、人付き合いをする前から相手に対し、「自分に悪意がある」、「自分をあざけり笑っている」という「レッテル貼り」を事前に施すことによって、裏切られまいと過剰な自己防衛を講ずるようになってしまっている精神状態を意味している。 このような「対人恐怖」の戯画化は、かなり分かりやすくリアリティのある見事な表現となっている。 この恐怖の源泉は、彼の小学校時代の失敗体験である。 その「自責の念」を克服することで「自己嫌悪」を払拭し、自分自身を信頼し自信を持たなければ、他人に立ち向かう勇気は得られない。 もし彼が自分自身を許し、好きになることができたなら、この恐怖から逃れ得ることができるのである。 それは一種の「呪い」とも言い換えることができる。 将也に好意を寄せる、やはり小学生時代にいじめに加わっていた植野直花(うえの なおか)も、その「呪い」に巻き込まれている。 彼女は、「西宮硝子さえいなければ、私たちは何の問題もなかった」と振り返る。 確かにそうだったのかもしれない。 だが、それは正確な表現ではない。 西宮硝子という強情に誠意を示す存在が現れることで、彼ら小学校のクラスメートたちの、もともと持っていた醜い差別意識が、あぶり出されてしまったのである。 西宮硝子は、まさに「硝子(ガラス)」のように、人の内面の顔を映し出す存在でもある。 自分の醜さに気づいてしまった者は、自分を好きになることができなくなってしまう。 彼らが「自分の内面を変化させる」ことができなければ、永遠にその呪いから逃れることはできない。 それはあくまで、硝子ではなく自分自身の問題なのである。 山田尚子監督の最大の武器とは何か それでは、本作の映画作品としての単体の価値について考えたい。 京都アニメーション作品は、前述したような「萌えアニメ」の表現に長けており、その価値観によって支持を受けてきた部分が大きい。 だが今回は、今までになく強力なテーマを持つ、問題作ともいえる原作を得たことで、ともすれば萌えを描くことを主眼に置いてしまいがちだった作画技術を、より広い観客に向けて利用できている。 また、少々ドロドロになり過ぎてしまっていた原作の表現を、今までマイルドなふわふわした世界を描いてきた山田尚子監督によってソフトに描写され直したことで、より万人向けに洗練され、相乗的に完成度が高められていると感じる。 山田尚子監督の演出的な特徴は、キャラクターの繊細な演技から生まれる場面的なリアリティと、実写風の抑制された画面の構成である。 それは、登場するキャラクターと鑑賞者の間に明確な差異を与え、一種、突き放した冷徹さすら生じさせる。 だが、その持ち味は、客観的なまなざしが必要であるはずの本作にふさわしい資質であったように思える。 ただ、比較的シンプルな構成だった原作から、時系列の複雑な組み換えによって、原作未読の観客にとってドラマの推移が少々わかりにくくなっている部分もある。 全体を通しピアノをはじくようなニュアンスによる劇伴が使用されているところは、おそらく製作者の意図に反して、全体が「ひとつの回想、思い出」のように見えるという効果を発揮してしまい、前に進みだそうとするテーマとは裏腹に、ノスタルジックで優し過ぎる印象を与えている。 これは、山田監督の繊細さが、原作の迫真性を一部減じてしまっている点ではないかと思われる。 しかし、山田尚子監督の最大の武器は、それらとはまた別にある。 劇場作品『たまこラブストーリー』では、ある女子高生が「好きだ」とひとこと言われただけで、彼女を包み込む景色のすべてが光の粒子に置き変わり、それが水彩表現に変化していくという、アートアニメーションを用いた実験的演出がとられる。 その瞬間、今までのリアリティによる抑制が一気に解かれ、作品全体に輝きを与えることになる。 日本の商業的なアニメーションにおける文法から完全に離れた、手法的な解放が、物語自体の解放とも結びついているのである。 この、ある体験によって「一瞬にして世界が輝きだす」という表現が、山田尚子監督の持つ作家性の核である。 本作、映画『聲の形』が、ある「スペクタクル」をラストシーンに設定するという、原作からの改変は、まさに世界が主観的に切り替わる瞬間こそが自身の作家性であることに自覚があるからであろう。 そこで描かれたのは、「呪いを解く魔法」であり、「人は変わることができる」というメッセージである。 onodera) 映画評論家。 映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。 やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。 2 current.

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けいおん!でお馴染み京アニ名監督『山田尚子』の映画特集!

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「音・色・動きを付けることで、 辛い想いのもう一歩先の出口まで描きたい」 映画『聲の形』監督・山田尚子インタビュー 退屈することが何よりも嫌いな石田将也は、聴覚障害を持つ西宮硝子が転校してきたことをきっかけに、退屈から解放された日々を送り始める。 ところがある出来事から、今度は将也が周囲から独立してしまう。 そしてやがて高校生になった彼らは、再会を果たし、自分たちの過去や大人になった友人たちと対峙しながら成長してゆく…。 原作は「週刊少年マガジン」に連載され、「このマンガがすごい!」や「マンガ大賞」などでも高い評価を受けた大今良時の『聲の形』。 その作品性からも賛否両論を巻き起こした同作を、『映画 けいおん!』や『たまこラブストーリー』を手がけた京都アニメーションの山田尚子監督によって映画化。 話題作を映画化するということ、悩みながらも前に進もうとする登場人物たち、山田監督がすくい上げて伝えようとする映画『聲の形』について話を訊いた。 監督のお話をいただく前に実は映画化するっていう話は聞いていて、そこで原作を読んでしまうととにかく監督をやりたくなってしまうから、読むのは我慢していました。 一見、「聴覚障害の女の子をいじめる男の子の話」という結構センセーショナルな取り上げられ方をする作品ですが、いざ読んでみると、ただただ人と人とが繋がりたいだけの、ただただ人と人が心をやりとりしたいという物語で、本当に真心と愛のある作品だと思いました。 これを映画化させてもらえるのは、心を丹念に織っていけるというか、人の心を描いていける素敵な機会だと。 とにかく愛の深い作品だなと思ったのが第一印象です。 でも原作の大今先生と直接お会いして、先生から生の言葉をいただくことができましたので、自分が信じた『聲の形』から受け取った感動やパワーを素直に出したいと思いました。 これはすごく作品性によく出てると思うんですけど、先生は口に出される言葉だけが答えじゃないというか…たくさんの想いがあって、その中から一生懸命言葉を選んでらっしゃるので、言葉としてだけ受け取るのもやめようと思っていました。 先生が持っている心の中にある想いをなんとか抽出していきたいと。 なんかビンゴの紙がばーっと回っている、あの中から大切な想いを受けとるみたいな感じでした。 だから具体的な言葉を聞きながらも、そこに付随する他の空気感も読み取るようなイメージでしたね。 原作を読んだ時、彼は結構好き嫌いがあるキャラクターかなと思ったんです。 彼を見ることで自分の嫌なところを見せられている気になる人がいるかもしれないし、客観的に見て彼を許せないかもしれない。 原作は毎週しっかり前後も含めて説明されているけど、映画は2時間しかなくて勝手に時間が流れていってしまうので、見ている人が将也を最初に「苦手」と思ってしまわないようにちゃんと将也の根っこの部分をしっかり読み解いて、優しかったり素直だったりする部分をきっちり描いていこうと。 将也を描けるような気がしてからは、硝子はその対になる存在…光と影、太陽と月のように描いていけたらと思いました。 どっちも強い意思のある子で、そんなふたりの想いが絡まり合って共鳴していくようなイメージですね。 それらの自然のものに作品の中で担わせたかったことはなんだったのでしょうか。 この子たちは明日を生きるのも辛そうなくらいすごく悩んでいますよね。 でも一歩引いて見た時に、その子たちがいる世界ごとはそんなに絶望感がある訳じゃない。 ちゃんと生命は宿っていてお花は咲くし、水も湧くし。 彼らがいる世界全てが悩んでいたら嫌だというか、彼らがパッと見上げた空は絶対に綺麗であって欲しいと思ったんです。 水だったり空気だったり生命だったり根源的なものは、前向きな感情を持って描きたかったので「ちゃんと綺麗なものとして描こう」と思っていました。 あと、見ている方的にも居心地の良い映画でありたいという思いがありました。 この子たちだけの社会だけではないことを今は気付けてなくても、いつか気づくことがあるといいなと。 喜ばしいことがまわりにたくさんあるということに気付けていないことが罪なのでは? と思ったりするんです。 だから彼らを無償の愛をもってして支える舞台であって欲しかったのかな。 今の若い子たちも同じで、SNSとかもうひとつの世界で生きていて、そこは得体の知れないもうひとつの世界って感じで、本当のお花の匂いや転んだ時のアスファルトの匂いとか痛さを知らないかもしれない。 そういうことをちゃんと描きたいと思いました。 きっかけは、音響監督から「ひとつの映画としてみんなの心に残るエバーグリーンな曲が使えるといいよね」ってお話をいただいて、んーーーエバーグリーンかぁ、と。 人の心に根ざすような音楽ってなんだろうなと考えていた時に、岐阜の養老天命反転地に行ったんです。 そこで将也のことをひたすら考えていた時に、突然The WhoのMy Generationが頭の中でかかってきて、すごい若い時の…底抜けに退屈だけどすごい万能感があって、小学校時代の将也とすごく重なって同化した瞬間があったんです。 なんかね、仲間がいて底抜けに走っていける感じとかどこか弱さがある感じとか、とてもぴったりくるなと思って恐る恐る曲の提案をしてみました。 プロデューサーの方々がおろろ…という顔をされたのが印象的でした。 海外の、とても有名な楽曲でしたので、許可してもらえるのだろうかと…。 見ている人が、いい意味で将也たちとシンクロしていただけるとよいなと思ったんです。 将也を「こいつおもしろいな」と思ってもらえたらいいなというか。 たくさんのセリフで将也を説明するよりは、The Whoのこの曲がかかったほうが将也を表現できた。 一方で、音楽の牛尾(憲輔)さんは、将也の感じている空気に最後まで寄り添い続けてくださったんです。 劇中では一見して音楽がなっていないぐらいの印象かもしれなけど、寄り添い続けて最終的には50曲ぐらいの音楽が流れています。 劇伴とSEとで内にこもっていた将也がもう一度外に向かって生まれ直すイメージで作っていきました。 体の中の音だったり、体感することができる音…鼓動だったり血流だったりっていうそういう人の中に根ざした、硝子も受け取ることができるであろう音から紐解いていただきました。 ピアノを解体して、ピアノの中で鳴っている音を録っていただいたり、体の中に入ったイメージで映画を通して包まれているようなところを目指しました。 この作品を映画化したことの意味とは? 答えは…わかんないな…。 でも想いとしては、生きていくことに寄り添える映画でありたかったんです。 映画化することで音がついたり、色や動きがついたり、時間が存在することで、より見ている人たちの体験に寄り添うことができるのかなと思います。 人の生理や感情に寄り添って、誰しもが抱えているたくさんの思いのもう一歩その先の出口まで描けていればな、と。 そういうことに挑戦することができたのかなと思っています。 (2016年10月 4日更新).

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