ファイターズ 王国。 北海道日本ハムファイターズ

北海道日本ハムファイターズ

ファイターズ 王国

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[B!] 吉田輝星のファッション : ファイターズ王国@日ハムまとめブログ

ファイターズ 王国

「 日ハム」はこの項目へされています。 ファイターズの親会社で食肉加工品の日本の会社については「」をご覧ください。 北海道日本ハムファイターズ 会社名 株式会社北海道日本ハムファイターズ 創設 1945年11月6日 (74年前) ( 1945-11-06) 今シーズン ロゴデザイン 所属リーグ 歴代チーム名 セネタース(1946年) 東急フライヤーズ(1947年) 急映フライヤーズ(1948年) 東急フライヤーズ(1949年 - 1953年) 東映フライヤーズ(1954年 - 1972年) 日拓ホームフライヤーズ(1973年) 日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年) 北海道日本ハムファイターズ(2004年 - 現在) 本拠地 () 収容人員 固定客席:40,476人 フィールドシート:202人 車椅子用席:117人 ファミリーシート:50人 立ち見・VIP席:不明 フランチャイズの遍歴 ( - 2003年) 北海道(2004年 - 現在) 永久欠番 獲得タイトル アジアチャンピオン(1回) 日本一(3回)• リーグ優勝(7回)• セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回) (2015年から2018年までは最高勝率)• 成績(タイトル以外) アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)• 日本シリーズ出場(7回)(太字は勝利した年)• クライマックスシリーズ(9回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 4勝5敗• プレーオフ(2004-2006)(2回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 1勝1敗• プレーオフ(前後期制)(2回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) 1勝1敗• 球団組織 オーナー (代行)川村浩二 運営母体 監督 株式会社北海道日本ハムファイターズ HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS 略称 HNF、日本ハム、日ハム、ファイターズ 本社所在地 〒062-8655 1番地 (内) 設立 8月 事業内容 球団の運営 代表者 () (兼オーナー代行) 資本金 2億円 純利益 4億7200万円(2019年12月31日時点) 純資産 91億8500万円(2019年12月31日時点) 総資産 122億0200万円(2019年12月31日時点) 決算期 主要株主 ほか(を参照。 ) 関係する人物 (取締役オーナー代行) 外部リンク 特記事項:に日本ハム球団株式会社より、プロ野球球団運営権を譲受。 運営母体は事実上「東映興業」へ移譲。 球団の歴史 [ ] 東京時代 [ ] セネタース - 東急時代 [ ] 1945年、戦時中の1943年に解散した(1935年創立)の中心人物だったがセネタース再興を目指し、新規に セネタース( Senators、:セネタース野球協会)を設立。 再発足したに加盟。 1946年度のリーグ戦にと共に新球団として参加した。 、、など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前ののお下がりという状態だった。 旧のをに付け、の経営者でを兼ねていたがになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。 東急・東映社史ではセネタースを 青鞜と表記する場合がある。 の対戦()で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となるとみなされ、0-9で敗戦した。 を可愛がっていた(のち、東急球団代表) がの子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め 、同年、(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。 セネタースと東急との仲介の労をとったのはと、である。 運営法人として、 株式会社東急ベースボール倶楽部を設立。 翌1947年の、球団名を 東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、 Tokyu Flyers)とした。 当時の東急はまだと呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。 大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。 当時の同社取締役経理部長であったがオーナーに就任した。 こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。 、これまでプロ球界入りを画策してにも接近しといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を 急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、 Kyuei Flyers )に改称した。 しかし、同年、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(を参照)。 この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、を創設。 チーム名は 急映チックフライヤーズ( Kyuei Tic Flyers )となる。 チックフライヤーズは、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( Otsuka Athletics )のチックを絡ませた名称だった。 が試験導入され、ホームグラウンド()をのとする(より、正式導入される)。 シーズンオフのでパ・リーグに加盟。 パ・リーグ参戦初年度のシーズンは7球団中6位。 その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。 大下との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中にに移籍。 入れ替わりで西鉄から移籍したが本塁打王となる。 9月、東急沿線のに自前の(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。 奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。 東映時代 [ ] 1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていたに球団運営を委託。 同年2月1日、東映は子会社の 東映興業株式会社 に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。 球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。 この体制は、1964年の東映の離脱後も続いた。 後に3000本安打を達成する「安打製造機」が入団。 に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。 12月、前巨人のが監督就任。 水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、や銀座にバー「おそめ」を開いていたの恋人でもあった(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。 水原とは飲み友達だった俊藤はら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。 この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。 それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。 南海のエースのが離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2. 5ゲーム差の2位に終わる が、他の5球団に勝ち越す。 張本が初のを獲得。 (1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。 試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末にのを学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。 この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。 同年年頭、大川はとのいずれかへの新球場建設の将来構想を語った が、結局は実現しなかった。 水原監督の下でとの両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。 でもを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。 これが東映時代の唯一の優勝となった。 このシリーズのはとの2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。 張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。 - の神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。 後半に入り、張本の他、、、、ら強打者を擁した。 しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。 大川は野球が好きで、当時の東映の新作の広告には「映画は東映 野球も東映」というキャッチコピーも添えてはいたが 、もともと無駄な補強費を使わなかった大川は球団に金を使いたがらなかった。 元巨人の名監督ということで年俸の高かった水原はに監督を解任された。 大下弘が監督に就任。 大川オーナーは「門限なし、罰金なし、サインなし」という球史に残る"三無主義"を打ち出す。 しかし川上巨人のような緻密な野球が主流となりつつあった時代に、大下が現役だった頃のような野武士野球をやっても勝てるわけがなく 、大下はシーズン途中で休養 、球団史上初の最下位に終わる。 が監督に就任。 外野手のが、コーチ兼任で松木を支えた。 また、前年途中まで監督だった大下弘も、監督としての2年契約を結んでいた関係からスコアラーを1シーズン務めた。 投手陣では、この年にから入団した(の実弟)が18勝、2年目のが13勝をマーク。 チームは前半戦をで終えていたが、後半戦は4位に終始した。 「」発生。 エースのが永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。 張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率. 383を記録し4年連続の首位打者、大杉が・の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。 開幕の後期からは、松木の休養に伴って、ヘッドコーチのが監督代行を務めた。 田宮が一軍監督、が東映本社の社長 へ就任する一方で、球団の経営に熱心だったオーナーの大川がシーズン中の8月17日に急逝。 この事態を受けて、大川の長男・毅が球団オーナーに就任した。 投手陣では、が8月11日の対西鉄戦でを達成。 打線は、5月3日の対ロッテ戦()の延長10回表に代打・の満塁本塁打で勝ち越すと、続く大下、、張本、大杉もソロ本塁打を放ったことによって、NPB公式戦新記録の5者連続本塁打を達成した。 もっとも、この試合に大勝するまで9連敗を喫するなど、チームはシーズン序盤から下位に低迷。 結局、5位でシーズンを終えた。 シーズン終了後には、大橋と種茂が、との交換トレードで阪急へ移籍。 この年の春季キャンプ直前にからドラフト外で入団したも、1シーズン在籍しただけで、との交換トレードによって、と共に南海へ移籍した。 高橋善正が7試合連続完投勝利、大杉が8月に月間15本の本塁打を記録するなど活躍。 6月に一時2位へ浮上したが、シーズンの最終順位は4位で、2位・近鉄および3位・南海とわずか1ゲーム差だった。 なお、高橋はシーズン終了後に巨人へ移籍した。 その一方で、球団を所有する東急の(東急社長)と岡田は、大川色の強い球団の体質や、年間で3億円の赤字を出すほどだった球団の採算性を問題視。 五島自身が野球を嫌っていたこと や、東映自体の経営再建が急を要していたこともあって、球団経営権の売却を模索するようになった。 なお、当初はとの間で売却交渉を進めていたが、同社は10月21日に買収の断念を決めた。 日拓ホーム時代 [ ] 1月16日に、球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を、親会社の東京急行電鉄が東映に譲渡。 東映は、岡田・五島共通の知人である の経営する・へ球団を売却した。 売却額は3億円 で、日拓ホームは買収を機に、球団の商号を 日拓ホーム野球株式会社、チーム名を 日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、 Nittaku Home Flyers )に改称。 2月7日のパ・リーグ実行委員会で、球団名の変更が承認された。 岡田・五島・西村はいずれも「亀清会」(主幹の佐藤正忠と社長の前野徹が主宰していた若手実業家の親睦会)のメンバーで、岡田が1972年12月の例会で東映フライヤーズの売却計画を他のメンバーへ打ち明けたことを機に、日拓ホームの知名度と企業イメージの向上を目論んでいた西村と意気投合。 日拓ホームの関連会社・日拓観光の硬式野球部が当時に参加していたことや、社会人野球のチームを保有した経験のある企業の社長(のやの)も「亀清会」のメンバーだったことから、一時は牛田の提案で「輪番制」(会員企業による数年単位の持ち回り)による球団運営も検討されていた。 結局、佐藤や前野が西村を説得した末に、日拓ホームが単独でフライヤーズの受け皿になった。 新オーナーの西村は、「黒い霧事件」の後遺症でセ・リーグとの人気の差が埋めがたいほど大きくなっていたパ・リーグ に活気を取り戻そうと、球団の運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出した。 後期にはホーム・ビジター合わせてをナインに日替わりで着用させたが、後期途中の9月中旬に日本熱学工業によるフライヤーズの買収説が報じられたことをきっかけに、を画策。 10月にはパ・リーグのオーナー懇談会で南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、他の球界関係者からの協力を得られず、合併は調印寸前で破談に至った。 このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。 結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。 日拓ホームフライヤーズとしての最後の試合は、11月11日にで開かれたとのであった。 なお、パ・リーグはこの年から1982年まで、前期・後期から成るを採用。 チームは田宮が引き続き一軍の監督を務めたが、前期を5位で終えたことを機に退任した。 後期には、二軍監督から一軍監督に昇格した土橋がチームを3位にまで引き上げたものの、チームは総合5位でシーズンを終えた。 投手陣では、で東映からのドラフト1位指名を経て入団したが、通算12勝で新人王を獲得。 高橋直樹も、と自身4年振りの2桁勝利を記録した。 高橋善正との交換トレードでこの年に巨人から移籍したも2桁勝利を挙げたが、数年来右肩痛に悩まされてきた尾崎が、この年限りで現役を引退。 東映の新人時代から先発陣の一角を担ってきた金田留広は、この年から長兄の正一がロッテの一軍監督へ就任した縁で、シーズン終了後にとの交換トレードでロッテへ移籍した。 打撃陣では、張本が後期に一軍のヘッドコーチを兼務しながら、シーズン(後期)の終盤まで激しい首位打者争いを展開。 大杉は、6年連続のシーズン30本塁打に加えて、後期終盤の10月にパ・リーグ公式戦新記録の6試合連続本塁打を達成した。 日本ハム(後楽園)時代 [ ] 1973年 11月19日に、日拓ホームが球団の経営権をへ売却。 球団の運営法人名が 日本ハム球団株式会社に変わるとともに、オーナーに、球団社長に、監督にが就任した。 日本ハムでは、球団経営権の取得を機に、チームの新しいニックネームを一般から公募。 選考の結果、12月17日に、球団名を 日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、 Nippon Ham Fighters )に変更することが発表された。 日本ハムはで創業した後に、本社をへ移していたため、かねてから関東地方への進出を模索。 「プロ野球の発展を通じてスポーツを振興し、青少年の育成、そして社会に貢献していきたい」という大社の熱意もあって、関東地方での球団経営に乗り出した。 このような事情から、日拓ホームからの球団買収に際しては、本拠地を日拓時代と同じ後楽園球場に置くことを唯一の条件に挙げた。 前オーナーの西村は土橋の監督続投を日本ハム側と約束していたが 、結果的には球団買収を主導していた三原の義理の息子であり、かつ三原や大社と同じ出身で、西鉄のプレーイングマネジャー()を経験していた中西を新監督となった。 前後期ともに最下位。 総合最下位に終わる。 張本が7度目の首位打者獲得。 三原は東映時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。 同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、がにそれぞれ移籍した。 を日本で初めて開始する。 前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わった。 が17勝、大杉との交換で入団したが首位打者を争うも、太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。 同年オフ、張本が・との交換で巨人に移籍。 中西は解任され 、が監督に就任した。 と新外国人の、巨人から移籍したが打率ベストテン入りするも、前期4位・後期5位の総合5位。 前期4位・後期4位で2年連続の総合5位に終わる。 が本塁打王、南海から移籍のも活躍し、チーム成績は、総合3位。 ファイターズになってから初のAクラス入りとなる。 高橋直樹が20勝を挙げ、が1回3盗塁をはじめ55盗塁を記録するも結果は2年連続の総合3位。 新人のが22勝で獲得、MVP・新人王などタイトル投手部門を独占、打線も柏原、、のが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつけた。 しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦()では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。 結果的には前後期ともに2位、総合3位。 オフには高橋直樹と広島・の交換トレードを行う。 前期は4位に終わるも後期優勝。 で前期優勝のロッテと対戦。 前評判では圧倒的にロッテが有利と言われたが 3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。 は、同じ本拠地を使用する巨人との対戦となったため、全試合が同一球場で行われた。 が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退となった。 打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や、といった小兵選手も活躍した。 投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、が15勝0敗で到達投手として戦後初の無敗投手となったほか、が、高橋一三も14勝を挙げた。 江夏も広島時代から3年連続で となった。 後期に優勝するものの、で前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。 20勝で最多勝を獲得したがシーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていたがプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。 が防御率1位。 パ・リーグの1シーズン制が再開、結果は優勝した西武に大差をつけられたもののAクラスの3位。 が新人王。 江夏が3年連続最多セーブ。 オフに、江夏が西武に移籍。 が監督に就任するも最下位に低迷し6月27日に解任。 終盤は大沢が代行を務めるも10年ぶりの最下位に終わった。 オフにはからを獲得。 が監督就任するが、首位西武と23ゲーム差の5位に終わった。 首位西武と13. 5ゲーム差で2年連続の5位。 新外国人のが. 321の打率をあげる。 新人のが15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。 同年をもって、後楽園球場は閉鎖。 同地(文京区)で建設中のへ巨人とともに移転することとなる。 オフに・が・との交換トレードで中日に移籍。 東京ドーム移転後 [ ] 東京ドーム(1988年から2003年の本拠地。 2004年以後は準本拠地として使用) 1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。 この頃になるとやらが投手王国を形成。 しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。 東京ドーム元年となった88年は投手陣は西崎、が最多勝、が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。 しかし、打撃陣はチームの大砲であったブリューワが腰痛により1年を棒に振り、前年度ベストナインのも試合中に骨折など怪我人が続出、トレードで移籍してきた、急遽獲得したの奮闘があったもののチーム打率、得点数、盗塁数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位となるも62勝65敗3分と負け越す。 観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。 オフにと広島・とのトレードを行い、大洋からを無償トレードで獲得。 高田が監督辞任、後任監督はが就任した。 前年腰痛で1年を棒に振ったブリューワが復活し打率3割を超え、西崎は16勝をあげるも、投手陣の不調で5位に終わった。 シーズン途中に巨人を無償トレードで獲得。 オフに・と中日・とのトレード。 が4月25日の対西武戦でを達成し、新外国人のや、ドラフト1位とベテラン若菜とのバッテリーが活躍する。 66勝63敗1分と勝ち越すが、順位は首位西武と16. 5ゲーム差の4位に終わった。 白井が、がを獲得。 チームは前半戦貯金2で折り返し、7月まで勝率5割を維持したものの、8月に5勝16敗2分けと大失速、貧打線で4位に終わる(閉幕した時点で、ダイエーが残り5試合で1勝すればダイエー4位、日本ハム5位という状況にあったが、ダイエーがロッテ5連戦を1分け4連敗して閉幕〈ロッテ戦前からだと1引き分けを挟む6連敗〉したために4位に浮上した)。 この年のオフに近藤が監督辞任、後任はが1973年後期以来の監督復帰を果たした。 オフにと広島のとの交換トレードを行った。 広島から移籍したがチームトップの14勝、が新人ながらレギュラーで活躍したがエース西崎が不振。 主砲として期待していたが開幕戦でリタイアした。 それでも、7月までは勝率5割を維持していたが、前年同様8月以降に大失速、ベストメンバーが組めず5位に終わり(最下位のロッテが先に閉幕した時点で、残り2試合で1分け1敗以下なら最下位という状況にまで追い込まれたが、西武戦に辛勝し〈最終戦の近鉄戦はサヨナラ負け〉、最下位は免れた、土橋は契約一年残して監督を解任された。 後任はフロント入りし監督招聘を行っていたがその間チームの結果が出なかった責任を取る形で3度目の監督就任。 投手陣では西崎が復活し防御率リーグ2位の2. 20をあげたほか、武田、前年リリーフエースだったが先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。 打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された、ウィンタース・新外国人などが活躍する。 首位西武にわずかの差で及ばずリーグ優勝を逃し、西武と1ゲーム差の2位でシーズンを終えた。 金石とがを受賞している。 46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わった。 5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位となった。 3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。 9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している。 観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。 球団から戦力外通告を受けた大島 と柴田が現役を引退、オフにプラス金銭で広島とのトレードを行った。 大沢は監督を辞任し、後任として元阪急監督のが就任した。 若手の・・・・・らを積極的に起用。 4位に終わる。 西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成、2年目のが最多勝を獲得した。 田中幸雄が獲得。 新外国人のの不振・解雇により、急遽獲得したがわずか56試合の出場ながら21本塁打・50打点という驚異のペースで本塁打と打点を量産。 白井一が開幕3戦目に故障で離脱すると、それまで一軍と二軍の往復生活をしていたプロ14年目のが二塁のレギュラーに抜擢されて話題となった。 オフに武田・とダイエー・のトレード。 田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。 河野がで巨人へ移籍した。 岩本・今関・の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも後半チーム全体で極度の打撃不振に陥り失速。 さらに上田がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)、結果は2位に終わる。 グロスが二年連続で最多勝、島崎が、4年目のが新人王を獲得。 二軍は本拠地をのからのに移転している。 前年オフに巨人を自由契約になったをヤクルトとの競合の末、獲得。 しかし、落合は不振で期待ハズレの結果に終わる。 前年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み怪我や不調で合計20勝に終わった。 新外国人のが本塁打王を獲得。 上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。 結果はリーグ4位。 二軍は移転初年度にしてを制覇。 オフに長年チームのエースだった西崎が西武ととの交換トレードで移籍。 金石が成績不振で解雇された。 開幕投手候補だったグロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントにあうも、グロスに代わり開幕投手を務めた岩本が球団史上初の開幕戦完封勝利を挙げ、・・が台頭した。 今関、芝草も前年の不調を脱出。 ウィルソン、、、片岡、を擁して と呼ばれた。 西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。 開幕直前にヤクルトから移籍のが正捕手として活躍。 前半戦は首位独走で一時は最大貯金23まであったが、後半戦に9連敗を喫するなど大失速。 西武に逆転され優勝を逃した。 ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。 金村が最優秀防御率。 片岡が最高出塁率を獲得、落合が現役を引退した。 初代ホールド王を受賞した島崎が中日へ金銭トレードで移籍した。 前年まで主に代打の切り札だったが捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」として大活躍。 岩本がに並ぶ2年連続開幕戦完封勝利。 しかし、4月のを獲得した金村が4月末に怪我でシーズンの大半をリタイア。 ウィルソンも怪我で離脱。 や途中加入したの奮闘があったものの、前年ブレイクした西浦の不調。 岩本、関根、ルーキーの以外の先発投手陣の不調もありリーグ5位に終わる。 上田は監督を辞任し、後任の監督にが就任した。 小笠原が、野口が捕手ながら最多三塁打を獲得。 前年、怪我でほとんど出場できなかったウィルソンが37本塁打と復活。 投手陣では下柳剛が先発に転向し、2年目のも先発ローテーションに定着しチーム打率、本塁打数、得点数、盗塁数が全てリーグ1位という破壊力抜群の打線で優勝争いに加わるも、エース岩本の不調等があり、首位ダイエーと4. 5ゲーム差、2位西武と2ゲーム差の3位に終わった。 小笠原が最多安打を獲得。 ルーキーが初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位。 首位近鉄と24. 5ゲーム差、5位ロッテと10. 5ゲーム差、53勝84敗3分(勝率. 387)の成績に終わり、観客動員数が137万6000人まで落ち込んだ。 なおこの年、片岡がFAで阪神へ移籍した。 観客の増加を図るためそれまでプロ野球球団がなかったのに本拠地を移す構想が、刊のでトップ記事になった。 同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて 移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。 大島が3月31日のダイエー戦で暴力行為となったため退場で2試合出場停止、小笠原が初の首位打者を獲得、3年目のが球団では金子以来、投手としては1980年以来の新人王を獲得した。 チームは前半戦貯金1で折り返したものの、後半戦失速し5位に終わった。 大島は監督を解任され、後任に球団初の外国人監督のが就任した。 東京ドーム最終年。 翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、の対近鉄戦で3対1で初勝利する。 シーズンでは前年オフに野口とのトレードで阪神から移籍してきたが復活し高打率を記録、小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得した。 投手陣でも先発転向二年目のがリーグ2位の16勝を挙げ金村も二年連続二桁勝利の10勝を挙げたが、前年新人王を獲得した正田がリーグ最多の15敗を記録し、またそれまでチームを支えてた岩本・関根が怪我や不振もありチームは二年連続の5位に終わってしまった。 8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる 株式会社北海道日本ハムファイターズを設立、本拠地をに移転(事務所も東京都六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。 同時に日本ハム球団株式会社は株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、手続きをとった。 二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。 旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、に「首都圏事業グループ」を設置している。 なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。 オフに(登録名「SHINJO」)を獲得した。 この年までに入団した選手で、2020年に現役を続けているのはだけである。 鶴岡は2019年から一軍のバッテリーコーチを兼務しているが、FA権の行使によってソフトバンクへ一時移籍していたため、東京ドーム時代からの生え抜きの選手はいない。 北海道時代 [ ] 札幌ドーム時代(2004年~2022年) ヒルマン監督時代 [ ] 同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場をとシーズン終盤まで争い、の対戦で、プレーオフ進出を決め、最終的に4位ロッテと0. 5ゲーム差であったが、この年のプロ野球は近鉄とオリックスの球団合併によるが取りざたされ、選手会はこの問題で9月18日・19日の2日間、全球団それぞれ2試合ずつ計12試合でを行い試合中止となり、代替試合は行われなかったことも影響した。 第1ステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退した。 が44本塁打で本塁打王。 建山が。 横浜から移籍のが28セーブで最多セーブ。 オフにメジャー移籍を目指していたヤクルトのをで獲得。 球団初のFA選手獲得となる。 では1位指名したのの交渉権を獲得した。 元監督のが球団初の(GM)に就任、、この年に日本ハム球団の初代オーナーであったが死去した。 100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めてになった。 この年から始まったでも11連敗を喫し、5位に終わった。 4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表、セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。 西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。 チーム防御率3. 05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップであった。 西武には7勝13敗と負け越したもののにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスとにはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。 第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し25年ぶり、北海道移転後初のリーグ優勝を決める。 中日とのを4勝1敗で制し、東映時代の1962年以来44年ぶり、日本ハムとしては初の日本一となる。 11月12日、でも優勝を飾り、アジア王者となった。 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王を獲得。 投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録し、が12勝を挙げて新人王に輝いた。 この年のは武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけて Hisashi And Micheal、略して HAM(ハム)と呼ばれた。 が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。 が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。 が39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。 オフには宣言通りSHINJOが引退、小笠原が巨人へ、岡島が・へそれぞれFA移籍した。 ドラフトでのをドラフト指名するも入団を拒否された。 戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。 シーズン当初から敗戦が続き、4月25日の6連敗時点で早くも負け越し数は8、首位からは6. 5ゲーム差をつけられた。 しかし5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。 が5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。 、進出を決め、9月29日に球団史上初のリーグ2連覇を達成した。 借金8からのリーグ優勝は新記録であった。 ロッテとの第2ステージは3勝2敗で制した。 日本シリーズは前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦ではとの継投による もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。 タイトルは絶対的エースに成長したダルビッシュが15勝を上げてMVPを、稲葉が自己最高の打率. 334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。 10月3日、高校生ドラフトでの交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。 11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。 オフには田中幸雄が引退し、セギノールが退団。 フロントではヒルマン監督と高田GMが退団。 ターメル・スレッジが加入。 後任監督にが就任する。 梨田監督時代 [ ] 開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人 であったなど多くの故障者に悩まされた。 ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。 特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。 では第1ステージでオリックスに2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。 この年より、が2代目GMに就任した。 シーズン前に日本ハムの工藤隆人、と巨人の、の交換トレードが成立した。 この年は多くの打者が同時に打撃開眼したことで、チームはリーグトップの打率を記録するなど打撃力が増した。 1番、2番、3番稲葉篤紀の流れは前年終盤と変わらなかったが、4番はこの年8本塁打のが座り、自身初の3割を記録し「つなぐ4番」として機能。 そして溜まったランナーを一発のある5番の(この年27本塁打)が返す流れが定着。 続く6番はほぼ3割の打率(. 296)と82打点を記録。 さらに2006年に投手からに転向したがこの年レギュラーを掴み、いきなり打率3割・2桁本塁打・20をマークし、7番にも関わらずはチームトップの. 901を記録。 8番捕手のを挟み、9番にはが据えられる。 金子は開幕から打撃絶好調で、に日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。 4月終盤まで4割を維持し、最終的に自身初の3割をマークした。 稲葉、高橋、糸井、金子と4人の3割打者が生まれ、うち稲葉以外の3人は自身初の大台のマークだった。 また打席の左右も1番から8番まで全て交互の「ジグザグ打線」を形成し、相手投手の左右の影響を受けにくい打線であった。 投手陣も先発はエースダルビッシュ有(この年15勝)を筆頭に、2006年に新人王に輝いて以降成績を残せていなかったが復活し9勝を挙げ、も初の2桁勝利。 また陣は林昌範、、、らが活躍し、ストッパーに転向した武田久は無敗のままに輝いた。 このように投打共に開幕から好調で、開幕から終盤まで優勝争いを牽引する。 しかし地方開催のためを訪れた、ヘッドコーチ、ターメル・スレッジ、宮西尚生がに感染し球界初の新型インフルエンザ感染者となり、3名の他にも新型の恐れのあるによる発熱で主力選手の欠場、登録抹消が相次いで、この日の楽天戦から6連敗。 その後も9月に再び6連敗、4連敗を記録するなど大きく失速し、2位楽天との差が一気に縮まり首位の座が危うくなる。 それでもの札幌ドームでの西武戦に金子の犠牲フライでサヨナラ勝利し(厳密には試合途中に楽天がロッテに敗れたため、その時点で決定)、2年ぶり5度目のリーグ優勝が決定した。 またシーズン最終盤まで優勝争いがもつれたことでレギュラーシーズンのホームゲーム観客動員数は199万2000人と、北海道移転後最高を記録した。 球団別の対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。 第2ステージでは楽天と対戦し、第1戦では最終回にスレッジが3点差を逆転する 逆転サヨナラ満塁本塁打で劇的勝利をおさめるなどして4勝1敗で下し、2年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。 では巨人と対戦するも、2勝4敗で日本一を逃した。 、札幌市中心部でパ・リーグ優勝記念パレードが行われ約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。 オフには球団史上最多となる7人 がを受賞した。 が巨人へFA移籍。 1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身したがのため57歳で急逝した。 それに伴い1月23日、二軍投手コーチのが一軍投手コーチに就任。 スレッジが退団したが、新たな外国人野手は補強せず、球団としては36年ぶりとなる「純国産打線」となった。 開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥った。 シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。 最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから二桁勝利を挙げ、借金14到達後に限れば貯金21を積み上げる快進撃で貯金7まで盛り返した。 最終戦までロッテとCS争いを繰り広げ、チームの最終戦終了時点では3位であったが、ロッテがその後に行われた最終戦で勝利し僅かに0. 5ゲーム差でCS進出を逃した(そのロッテはそこからCSを勝ち上がり日本一を達成)。 1番の田中賢介がリーグ2位の打率. 335をマーク。 高橋信二に代わり4番に座った小谷野栄一は打率. 311、108打点を挙げ初のを獲得。 ダルビッシュ有が、の二冠を獲得。 武田勝がチーム最多の14勝、新外国人のが1年目にして2桁勝利を挙げた。 、で、高校時代には優勝、大学時代には大学日本一2回と個人として史上6人目の30勝300奪三振を記録したのの交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。 、中継ぎ投手での10勝を挙げたがチームでは4年ぶりの新人王を獲得。 、新人合同入団会見に出席出来なかった斎藤のために、新庄剛志以来球団2人目となる札幌ドームでの単独の入団会見が行われた。 オフにはが大リーグ・へ、がへそれぞれFA移籍した。 プロ入り前から既に全国区の人気を誇っていたルーキー・斎藤を見物・報道するため、選手寮入寮、新人合同自主トレ、とシーズン前から大量のファンと報道陣が詰め掛ける 佑ちゃんフィーバーが巻き起こり、その異常な注目状態のまま開幕を迎えた。 この年はに発生したの影響で当初予定されていたの開幕がに延期となった。 、斎藤がプロ初登板を果たし、新人一番乗りとなる勝利を挙げた。 からにかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細はを参照)。 交流戦は16勝8敗で3位。 、オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成した。 序盤からソフトバンクとの首位争いとなり、3位以下と大きく差をつけての2強状態となり、前半戦を同率首位で折り返す。 、梨田監督が同年の成績如何にかかわらず同年限りでの監督退任の報道が流れ 、には正式に梨田監督の退任が発表された。 9月に11連敗を喫するなど月間6勝16敗1分と大きく負け越し大失速。 最終的には首位から17. 5ゲーム差の2位となったが、2年ぶりにAクラス入りした。 西武とのファーストステージでは2連敗で敗退している。 二軍では2004年以来7年ぶりの制覇を成し遂げている。 エースダルビッシュ有が自己最多の18勝を挙げ、武田勝、ケッペル、と4人の2桁勝利投手が生まれた。 武田久が2年ぶりのセーブ王獲得。 この年から3番を任されたはリーグ2位の打率. 319、31盗塁に加え、. 411で自身初ののタイトルを手にした。 梨田の後任はが就任した。 栗山監督時代 [ ] 1月ダルビッシュがを利用し、メジャーリーグのへ移籍。 、開幕戦の埼玉西武戦(札幌ドーム)に、栗山監督からダルビッシュの後継役を期待された2年目のが先発。 自身初の大役を務めると、プロ入り初の完投勝利をその大舞台で披露しチームは快勝。 その後も斎藤はまでの約2ヶ月間にプロ初を含む5勝を挙げ、チームの好調な滑り出しに大きく貢献した。 の楽天戦()では稲葉がプロ通算2000安打を達成。 前半戦はロッテと首位を争い、に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。 中盤からはが主戦投手として活躍。 前半戦絶不調ながら4番として起用され続けたも徐々に調子を上げる。 後半戦はロッテが失速し、西武との首位争いとなる。 西武に首位に立たれたまま9月に突入してしまうが、にが左脇腹挫傷から復帰すると、打率. 380、15、出塁率. 473、. 660という驚異的な成績でを獲得する猛打を奮い、チームを強く牽引。 チームは9月を16勝7敗2分けと大きく勝ち越す。 には西武から首位を奪い 、の直接対決では吉川の完封、中田の2本塁打で勝利し、優勝への4が点灯。 マジック1とした、2位の西武がロッテに3対5で敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた。 ファイナルステージでは3位のソフトバンクと対戦。 クライマックス・シリーズMVPに輝いた糸井嘉男の第1、2戦の2試合連続本塁打の活躍により4連勝(アドバンテージ含む)で3年ぶりの日本シリーズ進出を決める。 巨人とのでは、2勝4敗で敗退している。 個人としては、3番打者の糸井嘉男が. 404の出塁率を記録し、2年連続となるのタイトルを獲得。 吉川がチームトップの14勝を挙げ、1. 76で自身初タイトルとなるを獲得。 球団としては2009年のダルビッシュ以来3年ぶりのに選出された。 オフにが海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦することを表明し 、に入団。 では、メジャー挑戦を公言していたを1位指名し、長期交渉の末に獲得しに以来3人目の札幌ドームでの単独入団会見を行った。 に糸井、八木とオリックスの、、の2対3のトレードが成立。 中でも糸井は2009年より4年連続で打率3割と受賞を続け、その間2度のリーグ優勝に貢献した主力打者であったため、放出には選手から動揺、不満の声が上がったが 、主力選手や人気選手であっても温情抜きでトレードの対象とする日本ハムの革新的な球団運営を象徴する大型トレードであった。 開幕戦の西武戦には勝利したものの、そこから連敗し借金生活はまで続いた。 のオリックス戦では球団14年ぶりの1試合5失策を記録。 からにかけて9連敗で、借金は2010年以来の10、5月終了時点で19勝28敗1分の勝率. 404で最下位。 、新たに照明がついたにあるで北海道移転後、屋外球場初のナイター主催試合となる戦を開催。 またそれまでは旭川では年2試合の主催試合の開催であったが、この年は北海道移転後、札幌ドームと旧本拠地東京ドーム以外では最多となる4試合の公式戦を開催し(翌年も4試合を開催)、計8万人を動員。 移転当初から掲げる地域密着の姿勢をさらに強く示した。 に開幕日以来の貯金を実現したが、に負け越すとついに勝ち越すことがないままシーズンを終えた。 から守り続けてきた5位もにシーズン前のトレード相手のオリックスに抜かれ最下位に転落。 のオリックス戦(京セラドーム)に0対8で敗れたことで、出場の可能性がなくなり、3年ぶりのBクラスが確定した。 の札幌ドームでの楽天戦に2対11で敗れたことで、この年優勝した楽天には本拠地で1勝も勝てずに終わり、この年24勝無敗というシーズン成績を挙げたに対しても8連敗に終わった。 の西武戦(札幌ドーム)に3対4で敗れ、12年ぶりに北海道移転後では初の最下位が決定、前年リーグ優勝からの最下位は1981年の近鉄以来32年ぶりの記録となった。 64勝78敗2分(勝率. 451)で8年ぶりの負け越し。 チーム防御率は2006年以降全て2位以上であったが同年はリーグ5位、失策はリーグワーストの88を記録した。 が自身そして球団史上初となるを 、が本塁打王を獲得。 先発候補であった吉川、武田勝、木佐貫が序盤から不調に陥るも、2年目の大谷が二刀流を継続しながらローテーションを守り、史上初となる「同一シーズンでの10勝と10本塁打」を記録 した他、大谷以外にも5年目の、3年目の、新人のといった若手がその穴を埋めた。 優勝争いには絡めなかったが、の西武戦(札幌ドーム)に斎藤佑樹が先発し4対1で勝利し、2年ぶりに進出が決定。 シーズンを3位で終え、オリックスとのCSファーストステージでは2勝1敗で勝利し、2年ぶりファイナルステージ進出を決めた。 ソフトバンクと対戦したファイナルステージでは第5戦に勝利して3勝3敗のタイに持ち込んだが、3勝4敗でCS敗退となった。 中田が自身初タイトルとなる打点王を 、が日本人選手では球団初の盗塁王を獲得。 9月に引退宣言を行っていた 、が現役引退。 オフには、がFA宣言し、それぞれオリックス、に移籍。 12月には傘下3Aを自由契約となっていたが2年ぶりに復帰。 大谷翔平が開幕6連勝の球団タイ記録をマーク。 交流戦では最終戦前まで2位・ソフトバンクと0. 5ゲーム差の首位に立つものの、最終戦の阪神戦に大敗しソフトバンクに逆転され2位で終える。 ソフトバンク・西武との首位争いの末、前半戦を首位ソフトバンクと3. 5ゲーム差の2位で終える。 後半戦も、首位・ソフトバンクの後塵を拝す状態が続き、にソフトバンクが優勝を決めV逸が決定した。 の西武戦に勝利しクライマックスシリーズ進出決定。 また翌の西武戦にも勝利し、レギュラーシーズン2位が確定。 のファーストステージはシーズン3位のロッテと対戦した。 1戦目を落とし、2戦目に逆転勝ちを収めるも3戦目に逆転負けを喫し、1勝2敗で敗退した。 この年をもって木佐貫が現役を引退、また現役最年長野手で実働29年のNPBタイ記録を持ち、を経験した最後の現役選手であったも現役を引退した。 この年から、2005年よりGM補佐であったが3代目GMに就任している。 序盤はソフトバンクの独走を許し一時は11. 5ゲーム差まで開いていたが、7月10日、球団タイ記録の14連勝。 本拠地北海道移転後ホーム500勝を達成。 、球団新記録の15連勝を達成。 ソフトバンクとの差を徐々に縮め、8月末には首位に立つ。 終盤にはソフトバンクとの一騎討ちを繰り広げた。 ・の直接対決に連勝し、優勝への6が点灯。 マジック1として迎えたの対西武戦にのソロ本塁打の1点を先発の大谷が西武打線を1安打・15奪三振の完封で守り切り1対0で勝利、4年ぶり7度目のリーグ優勝を達成した。 なお、最大11. 5ゲーム差を逆転しての優勝はパ・リーグ歴代2位の記録となる。 中田が110打点で2年ぶり2度目の打点王、レアードが39本塁打で本塁打王、宮西が42ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手を、それぞれ初受賞。 のファイナルステージでは、リーグ3位のロッテを2連勝で破ったリーグ2位のソフトバンクと対戦。 4勝(アドバンテージ1勝を含む)2敗で、ソフトバンクを下し、4年ぶりの日本シリーズ出場が決定。 そしてはと対戦。 での第1、2戦は連敗するも、での第3戦から第5戦は2つのサヨナラ勝ちを含む3戦全勝で王手をかけ、の広島での第6戦を10対4で勝利し10年ぶり3度目の日本一を果たした。 同時に最大11. 5ゲーム差を逆転しての日本一は日本プロ野球記録となる。 オフに陽がフリーエージェントで、吉川・が巨人との交換トレードで移籍(代わりに・が加入)。 武田勝が引退した。 に6名を輩出。 そうしたチーム事情に加えて開幕直後に大谷が負傷離脱し、先発陣が軒並み不調に苦しむこととなった。 4月に6連敗と10連敗を繰り返し、4月を最下位で終えた。 5月3日にロッテ戦に勝利し5位に、5月下旬に4位に浮上するが 、交流戦初戦でDeNAに敗れて再び5位に転落してからはシーズン終了まで順位を上げることも出来ず、早々にチーム再建へ舵を切る年となった。 得意にしていた交流戦も初めて負け越し、9位に終わる。 交流戦終了後の7月には、3度の5連敗を喫するなど1度も連勝することが出来ずに4勝18敗と大きく負け越した。 それでものロッテ戦で、2004年の北海道移転後からの通算1000勝を達成。 8月に入ってからは、のロッテ戦で約2ヶ月ぶりの2連勝、それ以降チームの調子も上向き、11勝10敗と5月以来の月間勝ち越し、9・10月も16勝13敗と勝ち越してシーズンを終えた。 なお、最終戦ではメジャー移籍を志望していた大谷が4番・投手で出場して10奪三振と2安打を記録し、チームも完封勝利で有終の美を飾った。 西川が39盗塁で3年ぶり2度目の盗塁王を受賞、には、が2287打席目で人生初となる本塁打を放った。 トレード期限となる、これまでセットアッパーとして活躍し、に出場したを中日に放出した。 さらに8月31日にがによるトレードで阪神へ移籍した。 が現役引退し、が選手兼任コーチに就任し退団、オフには移籍を表明した大谷がへと移籍した。 さらにFAでがオリックスへ、が中日へ移籍した。 なお、FA行使が噂された宮西と中田は行使せず残留となった。 ソフトバンクからFA宣言していたが5年ぶりに復帰した。 順位が5位と低迷した一方で、で7球団での競合を制してのの交渉権を獲得したことと、大谷がメジャー移籍を決めたことが注目を集め、同年のに「北」が選ばれる理由の一つともなった。 が守護神に成長するなど、FAで移籍した増井の穴を埋めた。 序盤は、西武と首位を争っていたが、後半戦になると失速し、最終的には3位に終わった。 ルーキー清宮が7本塁打を放ち、シーズン終盤にが二塁のレギュラーに定着するなど若手の活躍も垣間見えた。 は、2位・ソフトバンクに1勝2敗で敗れシーズンを終えた。 が2年連続の盗塁王を獲得。 、が現役を引退した。 ドラフト会議では、夏の甲子園で活躍した将来性のある選手を次々と指名。 準優勝投手の()を1位で、同優勝投手の()を5位で、での4番打者として活躍し同校を優勝に導いたを2位で獲得した。 オフにはレアードがロッテに移籍し、が契約年数を1年残して退団した。 一方で積極的に補強に動き、から、の両外国人投手、で2年連続の打率4割を達成した台湾の好打者、オリックスを退団した を獲得。 またヤクルトから、とのトレードで、の両選手を獲得している。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• 日本一 3回 (1962年、2006年、2016年)• クライマックスシリーズ優勝 4回(2007年、2009年、2012年、2016年)• アジアチャンピオン 1回 (2006年)• セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)• Aクラス 31回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年、2011年 - 2012年、2014年 - 2016年、2018年)• 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年)• 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年)• 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)• レギュラーシーズン優勝 6回 (1982年、2006年 - 2007年、2009年、2012年、2016年)• 最長連勝 15連勝 (2016年)• 最長連敗 14連敗 (1984年、3引き分けを挟む)• 最多勝 87勝 (2016年)• 最多敗 92敗 (1956年)• 最多引分 13分 (1984年)• 最高勝率. 621 (2016年)• 最低勝率. 364 (1955年)• 最小ゲーム差 1. 0(2位:1993年)• 最大ゲーム差 48. 年間最高勝率は西武とのプレーオフで敗退した1982年を含む7回。 その他の記録 [ ] この節のが望まれています。 シーズン最多得点 771点(2000年)• シーズン最多安打 1370本(2009年)• シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録)• シーズン最多三塁打 56本(1961年)• シーズン最多本塁打 178本(2004年)• シーズン最少本塁打 40本(1955年)• シーズン最多打点 735打点(2000年)• シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点)• シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年)• シーズン最多犠打 180犠打(2010年・日本プロ野球記録)• シーズン最多三振 1151三振(2005年)• シーズン最高打率. 281(2004年)• シーズン最低打率. 216(1956年)• シーズン最少失策 55失策(1993年、2009年)• シーズン最高防御率 2. 39(1961年)• シーズン最低防御率 4. 98(1984年)• シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年)• シーズン最多ホールド 131ホールド(2012年・日本プロ野球記録)• ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽)• ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対楽天)• ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対ロッテ、2009年4月19日対西武)• ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター)• ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日、2017年5月12日対ロッテ)• ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武)• ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録)• ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録)• ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録)• ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録)• 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテ10回表・日本プロ野球記録 )• 4者連続二塁打(2009年7月29日対ロッテ1回表・パ・リーグ記録)• 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録)• 5試合連続無失点勝利(2011年5月28日対広島1回戦から6月3日対ヤクルト3回戦まで・日本プロ野球記録 )• 52イニング連続無失点(2011年5月26日対中日2回戦6回裏から6月4日対ヤクルト4回戦2回裏まで・日本プロ野球記録 ) 2000安打達成者 [ ] 在籍時で記録した安打数では、1位は2435安打の張本勲、2位は2012安打の田中幸雄。 入りの基準である通算200勝及び通算250セーブ達成投手はいない。 特記無い場合の安打以外の記録は達成当時のもの。 (1972年8月19日対西鉄 投手)• (1990年8月21日対オリックス 投手)• (2007年5月17日対楽天 投手) 8413打席数での達成は史上最多、2205試合目は2番目に遅い記録• (2012年4月28日対楽天 投手) 無安打無得点試合達成投手 [ ] ( 太字は完全試合)• (1971年8月21日 対西鉄(後楽園球場) スコア 4-0)• (1973年6月16日 対近鉄(後楽園球場) スコア 1-0)• (1985年6月9日 対近鉄(後楽園球場) スコア 12-0)• (1990年4月25日 対近鉄(東京ドーム) スコア 3-0)• (1995年7月5日 対西武(東京ドーム) スコア 1-0) 参考記録• - - (2006年4月15日 対ソフトバンク〈福岡Yahoo! JAPANドーム〉 スコア 1-0) 先発八木が10回まで無安打無得点で抑えるものの、味方打線が点を取れないまま降板、その後11回を武田久、12回に挙げた1点をその裏MICHEALが抑えて勝利している。 1941年以来65年ぶりで64シーズンぶり、戦後かつ2リーグ制以降初めての継投によるノーヒットノーランで、延長戦かつ3人の投手で抑えたのは日本プロ野球史上初めてとなる。 また、八木の「先発投手が安打も得点も許さないまま9回以上を投げて途中降板」と言うのも日本プロ野球史上初めてとなる。 サイクル安打達成打者 [ ]• 1952年4月20日 対近鉄(川崎球場)• 1957年6月23日 対近鉄(駒沢球場)• 1961年5月7日 対近鉄(駒沢球場)• 1980年7月29日 対南海(大阪スタヂアム)• 1989年10月1日 対ダイエー(平和台野球場) 歴代本拠地 [ ]• 1964年 - 1987年 後楽園球場• 1988年 - 2003年• 2004年 - 2022年(予定)• 後楽園球場が本拠地となった1964年から1977年頃まで、後楽園球場で他球団の試合が開催され、かつ神宮球場を本拠地とするの試合が組まれていない場合に限り準本拠地として神宮球場を使用している。 1946年 :• 1947年 - 1948年 :• 1949年 - 1950年: (第1次)• 1951年 :• 1952年 - 1954年 : 井野川利春 (第2次)• 1955年 :• 1956年 - 1960年 :• 1968年 :• 1969年 - 1970年 :• 1971年 - 1973年 :• 1973年 : (第1次)• 1974年 - 1975年 :• 1976年 - 1983年 : (第1次)• 1984年 :• 1984年 : 大沢啓二 (第2次)• 1985年 - 1988年 :• 1989年 - 1991年 :• 1992年 : 土橋正幸 (第2次)• 1993年 - 1994年 : 大沢啓二 (第3次)• 1995年 - 1999年 :• 2000年 - 2002年 :• 2008年 - 2011年 :• 1947年は東急フライヤーズ(第1次)• 1948年は急映フライヤーズ• 1948年は8月16日まで指揮、残り試合はが代理。 ここから東急フライヤーズ(第2次)• ここから東映フライヤーズ• 1960年は7月10日まで指揮、残り試合は保井浩一が代理。 1968年は8月4日まで指揮、残り試合はが代理。 1969年は7月10日から7月17日までをが代理。 1970年は7月29日まで指揮、残り試合は田宮謙次郎が代理。 ここから日拓ホームフライヤーズ• 1973年は7月12日(前期終了)まで指揮。 シーズン後期のみ指揮。 ここから日本ハムファイターズ• 1984年は6月26日まで指揮、6月28日まではが代理。 1996年は9月9日まで指揮、残り試合はが代理。 2002年は4月3日から4日までの2試合をが代理。 ここから北海道日本ハムファイターズ• 2005年は7月18日から28日までの6試合をが代理。 永久欠番 [ ] 2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。 該当者第一号は野球殿堂入りした初代オーナーである。 永久欠番一覧• 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 準永久欠番 [ ]• 41 (2015 - 2017)(元選手、現SCO。 2018年にが着用するまで3年間欠番)• 79 (2010 - 2011)(元コーチ。 2009年に二軍コーチを務め、2010年より一軍コーチを務める予定であったがこの年の1月に急逝。 これに伴い2年間欠番扱いとなった)• 86 (元監督。 球団史上、他者の着用がない) なおこの他に、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として 0と 00の使用をしないことが決定されている。 沢村栄治賞受賞者 [ ]• :1回(2007年) ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) ユニフォーム(一軍) [ ] 東京時代 [ ]• 最初のユニフォームはからのお下がり(1936年創立当時のユニフォーム)で、なす紺地のユニフォームに、左胸の阪急軍の「H」マークに変わり、左袖にセネタースの「S」のマークを付けた。 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。 現在のビジター用にあたるダークグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。 - 大映球団と合併し球団名が急映フライヤーズとなる。 大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。 ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。 1949年 球団名が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T. K」に変更。 胸マークには、熊のマスコットが描かれている。 2リーグ分立を機にロゴを変更。 左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。 - ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。 また、縦縞が初登場。 ビジター用は「TOKYO」と「TOKYU」を併用。 に「TOEI」となるがビジター用のデザインはそのまま。 - 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。 1954年から球団の親会社が東映となり、球団名も「東映フライヤーズ」となる。 ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。 帽子は、こげ茶地にオレンジ色で「F」で菱形風のデザイン。 - 水原茂監督就任に伴い、水原の古巣・をモチーフに、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。 左袖には親会社・東映の(東映マーク)に「TOEI」のロゴが入る。 ホーム用は「 FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。 ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「 TOEI」から「 TOKYO」に変更される。 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。 地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「 TOEI」に戻る。 監督就任に伴い、赤と紺を基調としたユニフォームに変更。 帽子は紺色になり、 Fマークは元の菱形風に戻る。 袖、パンツ、ポケットには赤・紺の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。 左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。 また、 Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。 - 監督就任により、モデルチェンジ。 赤と紺を基調としたものになる。 監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。 前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。 帽子は紺地に金糸でTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。 首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく(ビジター用はラインの模様がホーム用と逆)。 背番号の書体がセリフ体となり、ビジター用のみ背番号の上に選手名が入る。 なお、東映時代6年間のユニフォーム約600枚が、日本ハムになっていた1979年にの屋で売られていた。 全て背番号入りの本物、一律2900円でその後も10年ぐらいの間売り続けていた。 前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来通りだが紺と赤のラインの色が東映時代と逆になっていた。 帽子のマークがNとFの組み合わせとなり(書体は直線状の物と7色ユニフォームと同じ飾り文字の物と2種類あり)、左袖には日拓マーク、さらにビジター用の胸のマークが「 NITTAKU HOME」(2段組で「NITTAKU」が赤、「HOME」が黒。 また胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。 (を参照。 前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。 紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。 帽子のマークと左袖には親会社・日本ハムのブランドマーク()と「ニッポンハム」ロゴ(左袖のみ)。 パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。 ホーム用は紺(縁取り:赤)の「 Fighters」ロゴ。 背番号、胸番号の書体は斜体がかった独特のものになる。 首・袖・腰・パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤で親会社のブランドマークの刺繍が入る。 ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「 Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。 選手名、胸番号は無し。 帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。 1974年後期 - ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。 基本カラーが紺とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。 首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。 途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。 ホーム用は薄いブルーのストライプ、胸ロゴ、背番号、胸番号は紺にオレンジの縁取り。 ビジター用はスカイブルー地の色合いが変り、紺のストライプ、胸ロゴは白にオレンジの縁取りとなり、帽子、ストッキングがホーム、ビジター共通になる。 から首、腰のラインがオレンジ一色となる。 から背中に選手名が付き、これまで背中いっぱいについていた背番号の文字が、大幅に小さくなる。 からベルト式にかわり、シーズン途中のより、ビジター用の「Nippon Ham」のロゴ、背番号の色が逆転し、オレンジ(縁取り:白)に変更。 - のレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。 採用前年のリーグ優勝へのご祝儀と、継ぎ接ぎが目立っていた旧ユニフォームに対する評判を覆すためにモデルチェンジした。 胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。 帽子のマークが白に青の縁取りの「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に青字で「TOKYO」の文字の刺繍が入る。 ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。 左袖の文字は「ニッポンハム」。 ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。 左袖の文字は「Nippon Ham」。 から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなり、ロゴも白からオレンジになる。 スパイクも白地にオレンジラインに変更。 - 監督復帰により、デザインを一新。 濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。 12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴがオレンジに白の縁取りの「 Fs」になる。 ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。 ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。 からは右胸に親会社・日本ハムの広告が入るようになる。 札幌時代 [ ]• - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。 ユニフォームを一新。 帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。 また、プロ野球初のデザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。 ホーム、ビジター共に胸番号が消える。 デザインはなどの(コーポレート・アイデンティティ)を手掛けている米企業のSME社である。 ホーム用は、「FIGHTERS」、右袖ロゴは「NIPPON-HAM」。 ビジター用は、上下グレーで「NIPPON HAM」、右袖ロゴは「HOKKAIDO」。 ヘルメットには、の広告シールが付く。 シーズン後半 前オーナーの死去に伴い、右腕に喪章として黒いラインが入る。 からユニフォームスポンサーののロゴが右肩に入った。 ただし、「ホクレン」ロゴはレギュラーシーズンの着用に限られ、交流戦・オールスター・クライマックスシリーズ・日本シリーズなどの試合では使用できないため、外される。 帽子・アンダーシャツの黒はそのままに、ホーム用は右肩の上部から左肩部を青に変更(新たに左脇下にも青を配色)し、左肩下部以降は以前と同じ黒とした。 また「FIGHTERS」のロゴも下部に七芒星を付けたものに変更された。 ビジター用は大きくモデルチェンジし、両肩が黒で、地色が北海道の「豊穣の実り」を表す「ハーベスト・ゴールド」となった(この他、青も北海道の空を表す「スカイブルー」、ホームの地色となる白も雪を表す「スノー・ホワイト」と命名されている)。 またビジター用は帽子ロゴが「F」から北海道の「H」にし、胸のロゴは二段組で上段に「HOKKAIDO」、下段に「NIPPONHAM」が入る。 さらにパンツ右には新たにスポンサーとなったのロゴが入る。 また、ホーム、ビジターとも帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」で縁取られている。 2011年7月15日 - 17日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。 さらに、同年9月23日 - 25日の試合を「秋の祭典」と銘打ち、こちらも札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。 - 主将・田中賢介のユニフォームの左胸にキャプテンマーク(黒文字で「CAPTAIN」の頭文字である「C」と金色の「七光星」の組み合わせ)のワッペンを導入。 2012年7月6日 - 8日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、昨年同様本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用する。 さらに、「北海道祭り」限定の帽子(帽子は本体が黒、ロゴが北海道の「H」、ロゴの右側に北海道の地図のシルエット、空気抗・帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」でつばの右側に「HOKKAIDO PRIDE」の文字が入る)を着用。 - 右袖に日本ハムグループの新CIが入り、ユニホームスポンサーのホクレンのロゴはその上部に掲示される。 - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、12球団初の事例としてホーム用キャップ左即部にの広告が入る。 - ホーム用キャップ左即部にの広告に変更。 - 本年のみ北海道移転15周年記念企画の一環としてサードユニフォーム「北海道スカイブルーユニフォーム」を着用。 ホームユニフォーム左肩と同一の青色をユニフォームの全面と帽子の額部分にあしらい、胸にWE LOVE HOKKAIDOシリーズで用いられた「HOKKAIDO」ロゴ、金と黒のラインで非対称デザインを踏襲する形となり年30試合で着用。 台湾プロ野球のは札幌移転した当時の 日本ハムのデザインを意識して [ ]、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。 2007年 - 2010年に第1期、2013年以降に第2期実施。 第2期ではその年の「」が就任した道内市町村から抽選で一部の市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出し、北海道との強い絆と地域活性化を目指す事を表す。 2017年からは「北海道シリーズ」として「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズに加え「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズの年間2期に拡大し開催され、HOKKAIDO be AMBITIOUSシリーズでは北海道旗の配色である濃紺・白・赤を用いた「アンビシャス・トリコロール」の配色を施した限定ユニフォームを着用する。 :8月17日 - 19日の千葉ロッテ戦で開催、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。 帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。 :7月22日 - 24日の千葉ロッテ戦・25 - 27日の埼玉西武戦にて開催。 何色にも染まらない意思の強さを表す球団カラーの一つ黒と北海道の海と空を表す青をユニフォームにあしらい、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。 帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。 :で6月10日に行われた対戦を除く道内地方(旭川・函館・帯広)開催の全試合と、9月11日 - 13日に札幌ドームで行われる千葉ロッテ3連戦にて開催。 生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるカラー(薄紫)を採用。 帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。 :7月9日 - 11日のオリックス戦にて開催。 ユニフォームの生地の色は北海道の「豊穣の実り」をイメージした黄金色、左肩が黒。 帽子は本体が青、つばが黄金色。 なお、このユニフォームは「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」の3連戦限定の予定だったが、梨田監督の発案により、帯広・旭川で行われる計4試合でもこのユニフォームを着用することになった。 :7月12日 - 14日の千葉ロッテ3連戦と7月15日の埼玉西武戦において開催。 ユニフォームの上着には北海道旗に描かれ、北海道民の「不屈のエネルギー」を意味する七光星の燃えたぎる「バーニング・レッド」をシンボルカラーに採用。 また、過去の伝統を引き継ぐ意味を込めファイターズ独自の左右非対称デザインを踏襲。 その非対称部分には北海道の美しい雪景色と無心で戦うチームの精神を表す純白(ピュア・ホワイト)で表現する。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークには、「H」のセカンダリーマークを採用し、北海道への普遍的な愛と誇りを込める。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもバーニング・レッドをあしらっている。 2013年度の応援大使18市町村の中から、7つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 :7月11日 - 13日のソフトバンク3連戦にて開催。 「NEXT BLUE ネクスト・ブルー 」をコンセプトカラーに採用。 非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもNEXT BLUE色をあしらう。 シリーズユニフォームは6月27日の楽天戦から7月16日の埼玉西武戦までビジター戦を含めた全16試合で着用、2014年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 また、9月27日のオリックス戦、28日のソフトバンク戦では「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2014〜again〜」として再度NEXT BLUE色ユニフォームが着用された。 :6月12日のDeNA戦から7月15日までのソフトバンク戦まで約1か月間開催、期間中のビジター11試合でも着用。 チームスローガンにちなみ北海道のラベンダーをイメージした薄紫色の「EZOlution ラベンダー エゾリューション・ラベンダー 」をユニフォームのカラーに採用。 ユニホームで非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもコンセプトカラーのEZOlutionラベンダーをあしらう。 北海道の6・7月はラベンダーが咲く時期を迎えることから、勝利で笑顔の花を咲かせたいという思いが込められている。 2015年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から、12の市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 :開業を記念し、の車体と同じ「緑・紫・白」を配色した限定ユニフォームを着用する。 デザインは緑をベースに肩の非対称部は白をメインに紫と黒のラインをあしらう。 キャップおよびヘルメットのロゴマークには、「H」マークを採用。 キャップおよびヘルメットのつば部分にも北海道新幹線の車両と同じ「常盤グリーン」をあしらっている。 北海道新幹線開業日と同じ3月26日のロッテ戦(QVC)より使用され、WE LOVE HOKKAIDOシリーズ期間の5月3日のソフトバンク戦から26日のロッテ戦までビジター6試合を含む19試合でも使用。 2016年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 :この年より企画名が「北海道シリーズ(西暦)『WE LOVE HOKKAIDO』」となる。 4月29日の楽天戦から5月28日のソフトバンク戦までのホーム16試合で「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして限定ユニフォームを着用。 北海道を舞台とした映画「」のシンボルカラーをモチーフに「ハッピーイエロー」をコンセプトに制作。 デザインは太陽を表すイエローと空を表すブルー(水色)をベースとし、非対称部分とキャップつばにブルーをあしらう。 なお、このイベントは「HAPPY プロジェクト」と題し、レプリカユニフォームの収益の一部を「幸福の黄色いハンカチ」の舞台となったに寄付するなどの活動を通じて、今年3月で財政破綻から10年を経た夕張市の地域再生に役立てられる。 2017年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 7月19日楽天戦から8月20日西武戦までのホーム9試合で「北海道シリーズ2017 HOKKAIDO be AMBITIOUS」として限定ユニフォームを着用。 濃紺をメインカラーに肩の非対称部分に赤と白いラインを配したデザインとし、左胸にビジター時やWE LOVE HOKKAIDO時のキャップ・ヘルメットに使われるHエンブレムが大きく配される。 5月2日から20日までのホーム10試合で「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして前述のサードユニフォームを着用し開催。 2018年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 7月20日から28日までのホーム6試合で「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズとしてメインカラーを雲や雪や未来を描くキャンバスをイメージした白、肩の非対称部に紺、左腕を赤としたカラーリングの限定ユニフォームを着用。 4月27日から5月12日までのホーム8試合で「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして新たな時世の芽吹きをイメージした「新時代緑(ニューグリーン)」をコンセプトに、緑色を全面にあしらい金と黒のラインで非対称デザインを踏襲し金色をキャップつばと左袖のラインに用いる。 2019年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 6月28日から7月21日までのホーム9試合で「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズとしてメインカラーを道民の不屈のエネルギーをイメージした赤、肩の非対称部とキャップ鍔を紺としたカラーリングの限定ユニフォームを着用。 「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして民族共生象徴空間「」の開業を記念しホワイトをメインカラーとして肩の非対称部分にグレー地のアイヌ文様、袖部とキャップつばにベージュをあしらう。 その他• 8月17日 - 19日の試合を「サマーフェスタ」と銘打ち、選手が実際に着用したユニフォームなどを再利用して作られたユニフォーム「エコユニ」が発売され、選手も同じデザインのカラーの限定ユニフォームを着用。 復刻ユニフォーム [ ] 2005年の円山球場70周年記念試合の練習時、2013年のパ・リーグ共同企画「」、2014年以降の球団独自のヒストリー企画「レジェンドシリーズ」にて着用。 2005年:円山球場で開催されたデーゲーム時に、試合前の練習で1974年後期 - 1981年モデルのホーム用ユニフォームを上衣のみ着用した。 プルオーバーだった当時の物と異なりボタン式となっていた。 2013年:パ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」で、球団史上初で本試合時に復刻ユニフォームを着用。 復刻されるユニホームは1993年から北海道移転前の2003年まで使用された、本拠地時代のピンストライプのホームユニフォーム(ただし、復刻版ユニホームの左袖には「ホクレン」のワッペンが、ズボンには「ニトリ」のワッペンが付く)。 レジェンドシリーズ(2014年以降)• 2014年:8月21日の楽天戦・8月22日 - 24日の西武戦(札幌ドーム)と8月29日 - 31日のロッテ戦(東京ドーム)で東京時代の1982年 - 1992年のホームユニフォーム(いわゆる「オレンジユニフォーム」)を着用。 なお、当時のユニフォームと異なりユニフォームの右袖に「ホクレン」の広告、ズボンに「ニトリ」の広告、ヘルメットに「北海道新聞」の広告が入る。 帽子・ヘルメットは1988年 - 1992年(帽子の前部が白のもの)のタイプを復刻。 2015年:8月7日からの楽天3連戦(札幌ドーム)、21日からのオリックス3連戦(東京ドーム)で開催。 1981年に日本ハムファイターズとして初優勝した際の1979年 - 1981年の白地に青のストライプ・襟元にオレンジが入ったホームユニホームを着用。 なお、当時のユニフォームと異なりユニフォームの右袖に「ホクレン」の広告、ズボンに「ニトリ」の広告、ヘルメットに「北海道新聞」の広告、ホーム用キャップ左即部に「アインファーマシーズ」の広告が入る。 2016年:8月30日から9月19日までの主催試合において、1974年前期に着用した日本ハムファイターズ初代のホームユニフォームを着用。 また、9月17日は「HOKKAIDO LEGEND MATCH」と題し、北海道移転後7年間にわたって着用した北海道初代ユニフォームを一日限定で着用。 2017年:6月23日から7月4日までの主催試合において、球団創設後初の日本一に輝いた1962年に着用した東映フライヤーズの1961年 - 1967年のホームユニフォームを着用。 ユニフォーム(二軍) [ ]• 二軍用も原則的には一軍と同じものだが、地域密着を目指しチーム・カラーを鎌ヶ谷市の色であるグリーンに。 2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。 帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。 2010年 - 一軍のユニフォームをモチーフに、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。 前述の特別ユニフォームをモデルチェンジ。 緑をベースカラーとし、左肩から左わき・右わきがオレンジ。 両わき腹部分に白のラインが入り、白とオレンジのツートンカラーのラケットラインが入る。 背中のネームは無しで背番号は白文字にオレンジの縁取り。 帽子は緑に左前面にオレンジのラインが入り、マークは「K(ボール・七芒星・文字「K」)」。 左袖に球団ペットマーク、右袖に「NIPPON-HAM(白文字にオレンジ縁)」。 2012年 - 鎌スタ限定ユニフォームを2年ぶりにリニューアル。 白のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 1945年 - 1946年:上から青・白・赤の横線。 青の部分に白字でセネタースの頭文字「S」。 1947年 - 1949年:球団名が「東急フライヤーズ」となる。 上が赤・下が青のセパレート、右端に白の二等辺三角形。 赤の部分に白字で「F」。 球団名が「急映フライヤーズ」となった1948年も使用。 1950年 - 1973年:2リーグ分立を機に球団旗を変更。 右端の白の二等辺三角形はそのままだが、セパレートの色を上下逆に(上が青・下が赤)。 青の部分に白字で「F」。 東急・東映・日拓と親会社が変わっても継続して使用される。 1974年 - 1976年:球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。 橙色地に白のライン。 白の部分には親会社・日本ハムのブランドマーク()と「ニッポンハム」ロゴ。 その下の橙色の部分に白文字で「Fighters」ロゴ。 1977年 - 2003年:大まかのデザインはそのままだが、「ニッポンハム」ロゴと「Fighters」ロゴを縮めたものに変更。 2004年 - :札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。 白地にの。 下の部分は黒地に白文字で「HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS」。 マスコット [ ] 熊のマスコット(正式名称不明) 東急時代の1949年に、ユニフォームの胸マークの右上に入れていた。 帽子をかぶった少年の似顔絵(正式名称不明) 東映時代の1972年から日拓時代の1973年に、上記似顔絵が入ったを採用。 球団発行印刷物に使用されていた。 弓を射る(正式名称不明) 日本ハム球団となってから1981年までペットマークに採用していた。 ユニフォームを着た少年(正式名称不明) 1977年から1987年までペットマークとして使用された。 背番号は「100」。 ギョロタン 1980年、球団のマスコット第1号として登場。 モチーフは太陽でモデルは当時の監督である大沢啓二。 名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から。 自転車が得意だった。 晩年にはスクーターで走ることが多かった。 演者は劇団こぐま座の団員3名が担当。 ちなみにギョロタンは、パ・リーグ初の着ぐるみキャラクターであり、ヤクルトスワローズのヤー坊に続き、日本球界2体目の着ぐるみキャラクターである。 レジェンドシリーズ2014で期間限定で復活、その後もレジェンドシリーズのたびに復活し、フリーダムな振る舞いで再び人気を博した。 ファイトくん 1988年の東京ドームへの移転に合わせて登場。 翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた1頭身の姿。 ペットマークはもちろん、着ぐるみ化もされ、動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。 甲冑の戦士(正式名称不明) 1993年から2003年までのペットマーク。 ユニホームを着た騎士が、剣の代わりにバットを振り上げているポーズ。 ファイティー(100) 1993年に登場した、東京ドーム時代の型のマスコット。 英語表記は「FIGHTY」。 オーナーがモデルといわれており、背番号も同じ100だった。 北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後の2年間は東京ドームでの主催試合限定で登場していた。 2005年8月17日に現役引退。 この日東京ドームでは引退セレモニーが行われた。 ギョロタンと共にレジェンドシリーズ2014で復活。 ユニフォームは、復刻されたオレンジユニホームではなく、移転前に着ていた縦縞。 上記の通り東京限定のため2014年8月21日の試合で札幌ドーム初登場となった。 B・B()(212) 愛称「B・B(ビー・ビー)」。 2004年、球団の北海道移転とともに登場。 2018年から北海道が命名150年を迎えることを記念した「北海道みらい事業」の「みらい大志」に就任するため球場での活動に一区切りをつけ、今後は道内での地域貢献に携わる。 詳しくは当該項目を参照。 カビー() B・Bの年の離れた弟で、2006年から登場している二軍マスコット。 詳しくは当該項目を参照。 ベビービー() B・Bの小学生時代の姿。 2010年デビュー。 ポリー() 北海道移転10年目となる2013年シーズンに向けて2012年オフに登場した、球団初の女の子のマスコット。 詳しくは当該項目を参照。 フレップ()(179) 2016年開幕直前から登場した新マスコット。 北海道を放浪していたでたどり着いた札幌ドームでB・Bに惚れこみマスコット志願。 出口の出待ちに根負けし、「マスコット見習い」として背番号の無いプラクティスユニフォーム着用。 2017年11月26日のファンフェスティバルにて2018年シーズンよりメインマスコットに昇格することが発表され、B・Bから背番号179のホームユニフォームが渡された。 チームの特徴 [ ]• 通算3度の日本一はいずれも初戦を落としてから4連勝で決めている。 東京時代 [ ]• 戦前のとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。 ただし、の節にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。 からに使われた愛称「 フライヤーズ( Flyers )」は「空を飛ぶ者」、「飛行士」、「急行列車」、「跳躍」などの意味がある。 当時の球団オーナーだったが、「新しい出発に飛躍を期する」という意味を込めて命名した。 水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。 「フライヤーズ」のは現在も東映が保有し、2007年までの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。 から使われている「 ファイターズ( Fighters )」は「闘士」の英語から取った。 略号は「F」。 「ファイターズ」の名は公募によるもので、名付け親となったのはの女子高生であり、「同郷(岡山県出身)の選手が、ガッツがあるファイターだから」というのが命名理由である(ファイターズと名付けた人は、後の本拠地となる北海道を含めて多数いたが、女子高生が名付け親になった決め手は、この命名理由が大きいと言われている)。 しかし大杉はわずか1シーズンで交換トレードによりに移籍してチームを去っている。 当時人気のに因む)など愉快な物もあり、またハム会社だけに「ウインナーズ」(。 これに「勝者」を意味する「ウィナー」をかけている)、「」、「トンチャン」()、「エッグス」()などもあった。 にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったがこの時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。 さらに親会社の東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。 1987年までのフランチャイズ球場は巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。 ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。 日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。 同時にパ・リーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「」に匹敵するものだった。 1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。 札幌時代 [ ]• 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロ・のがホームスタジアムとして使っていた(と併用)。 プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で 、コンサドーレが宮の沢に事務所を移転する2014年1月末ごろまでは日本ハム・コンサドーレそれぞれの事務所が札幌ドーム内に併設されていた。 には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で三塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が三塁側からの方が見易いため、ホームチームが三塁側を使う。 ホームチームが三塁側ダグアウトを使うのは日本では二軍を除いて、日本ハムが初である(なお、東京ドームや道内の地方球場で開催される主催試合では一塁側ダグアウトを使用)。 キャンプの調整方法は全体練習より個人練習に重点を置いており「投げ込みをさせずに質の高い投球を重ねる」「ゲームで与えられるであろうシチュエーションを意識して練習に取り組む」方針で長い時間の練習はあまりせず、選手には自主性・積極性を尊重し、選手が課題をあげそれをどうしたら解決するかまず自分で考えさせ、コーチにどういう練習をしたら良いかと自ら相談に行きアドバイスをもらうと言うシステムである。 監督は契約締結時に3年の契約を結び、それ以降は1~2年単位の契約更新と言う形を取っている。 理由としては長期間の契約を結びその監督の考えをチームカラーとして定着させるよりも、定期的に監督を入れ替えて新しい視点、考えを入れた方がメリットがあると考え、初期の契約が2年では考えそのものが選手に浸透しにくいと考えたためである。 情報システム [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年10月) ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり 近年ではや、、など 、その根拠となっているものは「()」という情報システムである。 これは所属選手をを元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正かつ監督・コーチ変更の度に指導方針が変わってしまわないよう次のコーチに引き継がせる、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持、登録選手全員を戦力として活用する事を目標としたものである。 BOSは、 、 、にも採用されているが、北海道移転後初代のGMだった高田繁を同職に招き日本ハムに倣っているDeNA以外は「あくまで選手起用の決定権は監督にある」(BOSを重用しすぎて監督の仕事を奪いかねない)と参考程度である。 過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。 名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。 (山田正雄前GM)」 と大らかでこだわらない方針である。 背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。 また同時に教員経験者を採用して若手の生活面の指導にあたらせるなど一般的な教養・常識面を含めた選手教育にも力を入れており、そのような環境構築の実績・経験があるからこその方針ともいえる。 その一方、コーチについても「選手・コーチ間で上下関係を無駄に構築しない」「自分を手本とした指導ではなく選手の特長を見極め長所を生かした選手作り」、「レポート提出による指導方法の回顧・改善」等コーチ技術の指導もしている。 また、他の11球団が採用している「」を長らく唯一採用しておらず2018年1月時点で育成契約選手は皆無であった。 しかし、2018年度ドラフト会議において、球団史上初の「育成契約選手」としてのよりを指名した。 これにより育成契約を採用しない球団は皆無となった。 生え抜きを重視しないドライな人事は監督人選にも反映されており、日本ハム経営後四十数年の間、完全生え抜き(同球団で選手生活を全うした)の監督は土橋正幸 のみであり、球団に選手として在籍した経験のある監督として大島康徳(26年間中7年間)がいる他は、全員が他球団選手の出身である。 これは前身のセネタース・東急・東映・日拓時代でも選手からの生え抜き監督は東急時代ののみで、プロ選手経験がなくかつ他球団指導者経験がない人物を含めても、同じく東急時代のとの2名のみであり、球団設立以来の傾向ともいえる。 これほど徹底した例は他の11球団には見られない。 球団の観客増加戦略 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年6月) 札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し時代よりも大幅に観客が増加した。 2016年には1993年以来、初めて200万人を突破し、2017年には208万6410人を記録した。 これは、ソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。 なまらチケット 公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常価格の約半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。 これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら! 超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。 チョッQR 2009年には12球団初の、携帯電話のによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」を導入した。 KONKATSUシート、シンデレラシート 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。 初日に28組が、2日目には34組のカップルが成立した。 ちなみに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。 2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。 1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。 シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。 なお、これはでの公式戦でも実施されており(一部異なる場合あり)、の試合では試合開始前の1時間前まで買えないが、東京ドームの試合では当日の午前10時から買える。 2017年からこの年に制定された「」に賛同、「ゴールデンフライデー」と銘打ち札幌ドームでの金曜日開催試合は札幌ドーム貴賓室で観戦できるチケット、ビール飲み放題の席、ビジターユニフォームを着て当日券を購入すれば半額等のサービスを行う。 twitter連動企画 2018年から球団公式twitterでファンから質問を募集する企画を開始した「 ヒーロー質問」と付けてツイートした質問をホーム勝利時のヒーローインタビューで答える。 ドラフト戦略 [ ] 「その年の一番いい選手を取る」という方針のもと、ドラフト1位を決めている。 2012年には花巻東から直接メジャー挑戦を表明していたを強行指名。 2011年にも、巨人以外なら入団拒否して渡米する意向を公にしていたを指名して、周囲を驚かせた。 事実、が廃止された2007年以降のドラフトでは、強行指名した大谷、2008年度指名のを除き、全て複数球団と競合している。 チームスローガン [ ] 東京時代 [ ]• 1993年:「はつらつベースボール」• 1994年:「はつらつベースボール Part2」• 1996年:「更なる挑戦」• 1997年:「大いなる挑戦」• 1998年:「乾坤一擲」• 1999年:「Vへ一丸! 2000年 - 2002年:「Be tough, Stay tough, Win tough」(タフになれ、タフであれ、タフに勝て)• 2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」〜勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義〜 札幌時代 [ ]• 2004年:「New Home, New Identity, New Dreams. 」(新天地、新たな自身、新たな夢)• 2005年:「Faith, Hope, Love The Game」(信じよう、希望しよう、ゲームを愛そう)• 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong! 」(夢は大きく、試合はしっかり、強く生きよう!)• 2007年:「Focus, Advance, Nexus Spirit」• 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」〜F・A・N・S '08〜• 2009年:「Re:Challenge」• 2010年:「Feel it! 2014年:「前進せよ 〜トゥミコ ロク ル(で戦士)〜」• 2015年:「EZOlution」• 2016年:「爆ぜる」(はぜる)• 2017年:「F-AMBITIOUS」(ファンビシャス)• 2018年:「道 -FIGHTERS XV-」(みち ふぁいたーず・ふぃふてぃーん)• 2019年:「驀進」(ばくしん)• 2020年:「羽撃く」(はたたく) 主なキャンプ地 [ ]• 、(1986年・1987年春季キャンプ)• (秋季キャンプ。 2007年から名護に変更)• (一軍春季キャンプ。

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「 日ハム」はこの項目へされています。 ファイターズの親会社で食肉加工品の日本の会社については「」をご覧ください。 北海道日本ハムファイターズ 会社名 株式会社北海道日本ハムファイターズ 創設 1945年11月6日 (74年前) ( 1945-11-06) 今シーズン ロゴデザイン 所属リーグ 歴代チーム名 セネタース(1946年) 東急フライヤーズ(1947年) 急映フライヤーズ(1948年) 東急フライヤーズ(1949年 - 1953年) 東映フライヤーズ(1954年 - 1972年) 日拓ホームフライヤーズ(1973年) 日本ハムファイターズ(1974年 - 2003年) 北海道日本ハムファイターズ(2004年 - 現在) 本拠地 () 収容人員 固定客席:40,476人 フィールドシート:202人 車椅子用席:117人 ファミリーシート:50人 立ち見・VIP席:不明 フランチャイズの遍歴 ( - 2003年) 北海道(2004年 - 現在) 永久欠番 獲得タイトル アジアチャンピオン(1回) 日本一(3回)• リーグ優勝(7回)• セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回) (2015年から2018年までは最高勝率)• 成績(タイトル以外) アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)• 日本シリーズ出場(7回)(太字は勝利した年)• クライマックスシリーズ(9回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 4勝5敗• プレーオフ(2004-2006)(2回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) 1勝1敗• プレーオフ(前後期制)(2回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) 1勝1敗• 球団組織 オーナー (代行)川村浩二 運営母体 監督 株式会社北海道日本ハムファイターズ HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS 略称 HNF、日本ハム、日ハム、ファイターズ 本社所在地 〒062-8655 1番地 (内) 設立 8月 事業内容 球団の運営 代表者 () (兼オーナー代行) 資本金 2億円 純利益 4億7200万円(2019年12月31日時点) 純資産 91億8500万円(2019年12月31日時点) 総資産 122億0200万円(2019年12月31日時点) 決算期 主要株主 ほか(を参照。 ) 関係する人物 (取締役オーナー代行) 外部リンク 特記事項:に日本ハム球団株式会社より、プロ野球球団運営権を譲受。 運営母体は事実上「東映興業」へ移譲。 球団の歴史 [ ] 東京時代 [ ] セネタース - 東急時代 [ ] 1945年、戦時中の1943年に解散した(1935年創立)の中心人物だったがセネタース再興を目指し、新規に セネタース( Senators、:セネタース野球協会)を設立。 再発足したに加盟。 1946年度のリーグ戦にと共に新球団として参加した。 、、など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前ののお下がりという状態だった。 旧のをに付け、の経営者でを兼ねていたがになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。 東急・東映社史ではセネタースを 青鞜と表記する場合がある。 の対戦()で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となるとみなされ、0-9で敗戦した。 を可愛がっていた(のち、東急球団代表) がの子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め 、同年、(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。 セネタースと東急との仲介の労をとったのはと、である。 運営法人として、 株式会社東急ベースボール倶楽部を設立。 翌1947年の、球団名を 東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、 Tokyu Flyers)とした。 当時の東急はまだと呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。 大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。 当時の同社取締役経理部長であったがオーナーに就任した。 こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。 、これまでプロ球界入りを画策してにも接近しといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を 急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、 Kyuei Flyers )に改称した。 しかし、同年、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(を参照)。 この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、を創設。 チーム名は 急映チックフライヤーズ( Kyuei Tic Flyers )となる。 チックフライヤーズは、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( Otsuka Athletics )のチックを絡ませた名称だった。 が試験導入され、ホームグラウンド()をのとする(より、正式導入される)。 シーズンオフのでパ・リーグに加盟。 パ・リーグ参戦初年度のシーズンは7球団中6位。 その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。 大下との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中にに移籍。 入れ替わりで西鉄から移籍したが本塁打王となる。 9月、東急沿線のに自前の(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。 奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。 東映時代 [ ] 1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていたに球団運営を委託。 同年2月1日、東映は子会社の 東映興業株式会社 に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。 球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。 この体制は、1964年の東映の離脱後も続いた。 後に3000本安打を達成する「安打製造機」が入団。 に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。 12月、前巨人のが監督就任。 水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、や銀座にバー「おそめ」を開いていたの恋人でもあった(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。 水原とは飲み友達だった俊藤はら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。 この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。 それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。 南海のエースのが離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2. 5ゲーム差の2位に終わる が、他の5球団に勝ち越す。 張本が初のを獲得。 (1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。 試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末にのを学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。 この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。 同年年頭、大川はとのいずれかへの新球場建設の将来構想を語った が、結局は実現しなかった。 水原監督の下でとの両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。 でもを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。 これが東映時代の唯一の優勝となった。 このシリーズのはとの2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。 張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。 - の神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。 後半に入り、張本の他、、、、ら強打者を擁した。 しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。 大川は野球が好きで、当時の東映の新作の広告には「映画は東映 野球も東映」というキャッチコピーも添えてはいたが 、もともと無駄な補強費を使わなかった大川は球団に金を使いたがらなかった。 元巨人の名監督ということで年俸の高かった水原はに監督を解任された。 大下弘が監督に就任。 大川オーナーは「門限なし、罰金なし、サインなし」という球史に残る"三無主義"を打ち出す。 しかし川上巨人のような緻密な野球が主流となりつつあった時代に、大下が現役だった頃のような野武士野球をやっても勝てるわけがなく 、大下はシーズン途中で休養 、球団史上初の最下位に終わる。 が監督に就任。 外野手のが、コーチ兼任で松木を支えた。 また、前年途中まで監督だった大下弘も、監督としての2年契約を結んでいた関係からスコアラーを1シーズン務めた。 投手陣では、この年にから入団した(の実弟)が18勝、2年目のが13勝をマーク。 チームは前半戦をで終えていたが、後半戦は4位に終始した。 「」発生。 エースのが永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。 張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率. 383を記録し4年連続の首位打者、大杉が・の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。 開幕の後期からは、松木の休養に伴って、ヘッドコーチのが監督代行を務めた。 田宮が一軍監督、が東映本社の社長 へ就任する一方で、球団の経営に熱心だったオーナーの大川がシーズン中の8月17日に急逝。 この事態を受けて、大川の長男・毅が球団オーナーに就任した。 投手陣では、が8月11日の対西鉄戦でを達成。 打線は、5月3日の対ロッテ戦()の延長10回表に代打・の満塁本塁打で勝ち越すと、続く大下、、張本、大杉もソロ本塁打を放ったことによって、NPB公式戦新記録の5者連続本塁打を達成した。 もっとも、この試合に大勝するまで9連敗を喫するなど、チームはシーズン序盤から下位に低迷。 結局、5位でシーズンを終えた。 シーズン終了後には、大橋と種茂が、との交換トレードで阪急へ移籍。 この年の春季キャンプ直前にからドラフト外で入団したも、1シーズン在籍しただけで、との交換トレードによって、と共に南海へ移籍した。 高橋善正が7試合連続完投勝利、大杉が8月に月間15本の本塁打を記録するなど活躍。 6月に一時2位へ浮上したが、シーズンの最終順位は4位で、2位・近鉄および3位・南海とわずか1ゲーム差だった。 なお、高橋はシーズン終了後に巨人へ移籍した。 その一方で、球団を所有する東急の(東急社長)と岡田は、大川色の強い球団の体質や、年間で3億円の赤字を出すほどだった球団の採算性を問題視。 五島自身が野球を嫌っていたこと や、東映自体の経営再建が急を要していたこともあって、球団経営権の売却を模索するようになった。 なお、当初はとの間で売却交渉を進めていたが、同社は10月21日に買収の断念を決めた。 日拓ホーム時代 [ ] 1月16日に、球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を、親会社の東京急行電鉄が東映に譲渡。 東映は、岡田・五島共通の知人である の経営する・へ球団を売却した。 売却額は3億円 で、日拓ホームは買収を機に、球団の商号を 日拓ホーム野球株式会社、チーム名を 日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、 Nittaku Home Flyers )に改称。 2月7日のパ・リーグ実行委員会で、球団名の変更が承認された。 岡田・五島・西村はいずれも「亀清会」(主幹の佐藤正忠と社長の前野徹が主宰していた若手実業家の親睦会)のメンバーで、岡田が1972年12月の例会で東映フライヤーズの売却計画を他のメンバーへ打ち明けたことを機に、日拓ホームの知名度と企業イメージの向上を目論んでいた西村と意気投合。 日拓ホームの関連会社・日拓観光の硬式野球部が当時に参加していたことや、社会人野球のチームを保有した経験のある企業の社長(のやの)も「亀清会」のメンバーだったことから、一時は牛田の提案で「輪番制」(会員企業による数年単位の持ち回り)による球団運営も検討されていた。 結局、佐藤や前野が西村を説得した末に、日拓ホームが単独でフライヤーズの受け皿になった。 新オーナーの西村は、「黒い霧事件」の後遺症でセ・リーグとの人気の差が埋めがたいほど大きくなっていたパ・リーグ に活気を取り戻そうと、球団の運営やファンサービスで新しい試みを次々と打ち出した。 後期にはホーム・ビジター合わせてをナインに日替わりで着用させたが、後期途中の9月中旬に日本熱学工業によるフライヤーズの買収説が報じられたことをきっかけに、を画策。 10月にはパ・リーグのオーナー懇談会で南海・阪急・近鉄が合併を承認したが、他の球界関係者からの協力を得られず、合併は調印寸前で破談に至った。 このような球界の体質に嫌気が差した西村は、球団経営の費用対効果が買収の時点で想定したほど高くなかったこともあって、球団経営を放棄することを決意。 結局、わずか1シーズンで球団の経営権を売却した。 日拓ホームフライヤーズとしての最後の試合は、11月11日にで開かれたとのであった。 なお、パ・リーグはこの年から1982年まで、前期・後期から成るを採用。 チームは田宮が引き続き一軍の監督を務めたが、前期を5位で終えたことを機に退任した。 後期には、二軍監督から一軍監督に昇格した土橋がチームを3位にまで引き上げたものの、チームは総合5位でシーズンを終えた。 投手陣では、で東映からのドラフト1位指名を経て入団したが、通算12勝で新人王を獲得。 高橋直樹も、と自身4年振りの2桁勝利を記録した。 高橋善正との交換トレードでこの年に巨人から移籍したも2桁勝利を挙げたが、数年来右肩痛に悩まされてきた尾崎が、この年限りで現役を引退。 東映の新人時代から先発陣の一角を担ってきた金田留広は、この年から長兄の正一がロッテの一軍監督へ就任した縁で、シーズン終了後にとの交換トレードでロッテへ移籍した。 打撃陣では、張本が後期に一軍のヘッドコーチを兼務しながら、シーズン(後期)の終盤まで激しい首位打者争いを展開。 大杉は、6年連続のシーズン30本塁打に加えて、後期終盤の10月にパ・リーグ公式戦新記録の6試合連続本塁打を達成した。 日本ハム(後楽園)時代 [ ] 1973年 11月19日に、日拓ホームが球団の経営権をへ売却。 球団の運営法人名が 日本ハム球団株式会社に変わるとともに、オーナーに、球団社長に、監督にが就任した。 日本ハムでは、球団経営権の取得を機に、チームの新しいニックネームを一般から公募。 選考の結果、12月17日に、球団名を 日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、 Nippon Ham Fighters )に変更することが発表された。 日本ハムはで創業した後に、本社をへ移していたため、かねてから関東地方への進出を模索。 「プロ野球の発展を通じてスポーツを振興し、青少年の育成、そして社会に貢献していきたい」という大社の熱意もあって、関東地方での球団経営に乗り出した。 このような事情から、日拓ホームからの球団買収に際しては、本拠地を日拓時代と同じ後楽園球場に置くことを唯一の条件に挙げた。 前オーナーの西村は土橋の監督続投を日本ハム側と約束していたが 、結果的には球団買収を主導していた三原の義理の息子であり、かつ三原や大社と同じ出身で、西鉄のプレーイングマネジャー()を経験していた中西を新監督となった。 前後期ともに最下位。 総合最下位に終わる。 張本が7度目の首位打者獲得。 三原は東映時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。 同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、がにそれぞれ移籍した。 を日本で初めて開始する。 前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わった。 が17勝、大杉との交換で入団したが首位打者を争うも、太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。 同年オフ、張本が・との交換で巨人に移籍。 中西は解任され 、が監督に就任した。 と新外国人の、巨人から移籍したが打率ベストテン入りするも、前期4位・後期5位の総合5位。 前期4位・後期4位で2年連続の総合5位に終わる。 が本塁打王、南海から移籍のも活躍し、チーム成績は、総合3位。 ファイターズになってから初のAクラス入りとなる。 高橋直樹が20勝を挙げ、が1回3盗塁をはじめ55盗塁を記録するも結果は2年連続の総合3位。 新人のが22勝で獲得、MVP・新人王などタイトル投手部門を独占、打線も柏原、、のが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつけた。 しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦()では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。 結果的には前後期ともに2位、総合3位。 オフには高橋直樹と広島・の交換トレードを行う。 前期は4位に終わるも後期優勝。 で前期優勝のロッテと対戦。 前評判では圧倒的にロッテが有利と言われたが 3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。 は、同じ本拠地を使用する巨人との対戦となったため、全試合が同一球場で行われた。 が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退となった。 打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や、といった小兵選手も活躍した。 投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、が15勝0敗で到達投手として戦後初の無敗投手となったほか、が、高橋一三も14勝を挙げた。 江夏も広島時代から3年連続で となった。 後期に優勝するものの、で前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。 20勝で最多勝を獲得したがシーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていたがプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。 が防御率1位。 パ・リーグの1シーズン制が再開、結果は優勝した西武に大差をつけられたもののAクラスの3位。 が新人王。 江夏が3年連続最多セーブ。 オフに、江夏が西武に移籍。 が監督に就任するも最下位に低迷し6月27日に解任。 終盤は大沢が代行を務めるも10年ぶりの最下位に終わった。 オフにはからを獲得。 が監督就任するが、首位西武と23ゲーム差の5位に終わった。 首位西武と13. 5ゲーム差で2年連続の5位。 新外国人のが. 321の打率をあげる。 新人のが15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。 同年をもって、後楽園球場は閉鎖。 同地(文京区)で建設中のへ巨人とともに移転することとなる。 オフに・が・との交換トレードで中日に移籍。 東京ドーム移転後 [ ] 東京ドーム(1988年から2003年の本拠地。 2004年以後は準本拠地として使用) 1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。 この頃になるとやらが投手王国を形成。 しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。 東京ドーム元年となった88年は投手陣は西崎、が最多勝、が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。 しかし、打撃陣はチームの大砲であったブリューワが腰痛により1年を棒に振り、前年度ベストナインのも試合中に骨折など怪我人が続出、トレードで移籍してきた、急遽獲得したの奮闘があったもののチーム打率、得点数、盗塁数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位となるも62勝65敗3分と負け越す。 観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。 オフにと広島・とのトレードを行い、大洋からを無償トレードで獲得。 高田が監督辞任、後任監督はが就任した。 前年腰痛で1年を棒に振ったブリューワが復活し打率3割を超え、西崎は16勝をあげるも、投手陣の不調で5位に終わった。 シーズン途中に巨人を無償トレードで獲得。 オフに・と中日・とのトレード。 が4月25日の対西武戦でを達成し、新外国人のや、ドラフト1位とベテラン若菜とのバッテリーが活躍する。 66勝63敗1分と勝ち越すが、順位は首位西武と16. 5ゲーム差の4位に終わった。 白井が、がを獲得。 チームは前半戦貯金2で折り返し、7月まで勝率5割を維持したものの、8月に5勝16敗2分けと大失速、貧打線で4位に終わる(閉幕した時点で、ダイエーが残り5試合で1勝すればダイエー4位、日本ハム5位という状況にあったが、ダイエーがロッテ5連戦を1分け4連敗して閉幕〈ロッテ戦前からだと1引き分けを挟む6連敗〉したために4位に浮上した)。 この年のオフに近藤が監督辞任、後任はが1973年後期以来の監督復帰を果たした。 オフにと広島のとの交換トレードを行った。 広島から移籍したがチームトップの14勝、が新人ながらレギュラーで活躍したがエース西崎が不振。 主砲として期待していたが開幕戦でリタイアした。 それでも、7月までは勝率5割を維持していたが、前年同様8月以降に大失速、ベストメンバーが組めず5位に終わり(最下位のロッテが先に閉幕した時点で、残り2試合で1分け1敗以下なら最下位という状況にまで追い込まれたが、西武戦に辛勝し〈最終戦の近鉄戦はサヨナラ負け〉、最下位は免れた、土橋は契約一年残して監督を解任された。 後任はフロント入りし監督招聘を行っていたがその間チームの結果が出なかった責任を取る形で3度目の監督就任。 投手陣では西崎が復活し防御率リーグ2位の2. 20をあげたほか、武田、前年リリーフエースだったが先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。 打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された、ウィンタース・新外国人などが活躍する。 首位西武にわずかの差で及ばずリーグ優勝を逃し、西武と1ゲーム差の2位でシーズンを終えた。 金石とがを受賞している。 46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わった。 5球団すべてに負け越し、打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位となった。 3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。 9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している。 観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。 球団から戦力外通告を受けた大島 と柴田が現役を引退、オフにプラス金銭で広島とのトレードを行った。 大沢は監督を辞任し、後任として元阪急監督のが就任した。 若手の・・・・・らを積極的に起用。 4位に終わる。 西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成、2年目のが最多勝を獲得した。 田中幸雄が獲得。 新外国人のの不振・解雇により、急遽獲得したがわずか56試合の出場ながら21本塁打・50打点という驚異のペースで本塁打と打点を量産。 白井一が開幕3戦目に故障で離脱すると、それまで一軍と二軍の往復生活をしていたプロ14年目のが二塁のレギュラーに抜擢されて話題となった。 オフに武田・とダイエー・のトレード。 田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。 河野がで巨人へ移籍した。 岩本・今関・の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも後半チーム全体で極度の打撃不振に陥り失速。 さらに上田がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)、結果は2位に終わる。 グロスが二年連続で最多勝、島崎が、4年目のが新人王を獲得。 二軍は本拠地をのからのに移転している。 前年オフに巨人を自由契約になったをヤクルトとの競合の末、獲得。 しかし、落合は不振で期待ハズレの結果に終わる。 前年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み怪我や不調で合計20勝に終わった。 新外国人のが本塁打王を獲得。 上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。 結果はリーグ4位。 二軍は移転初年度にしてを制覇。 オフに長年チームのエースだった西崎が西武ととの交換トレードで移籍。 金石が成績不振で解雇された。 開幕投手候補だったグロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントにあうも、グロスに代わり開幕投手を務めた岩本が球団史上初の開幕戦完封勝利を挙げ、・・が台頭した。 今関、芝草も前年の不調を脱出。 ウィルソン、、、片岡、を擁して と呼ばれた。 西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。 開幕直前にヤクルトから移籍のが正捕手として活躍。 前半戦は首位独走で一時は最大貯金23まであったが、後半戦に9連敗を喫するなど大失速。 西武に逆転され優勝を逃した。 ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。 金村が最優秀防御率。 片岡が最高出塁率を獲得、落合が現役を引退した。 初代ホールド王を受賞した島崎が中日へ金銭トレードで移籍した。 前年まで主に代打の切り札だったが捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」として大活躍。 岩本がに並ぶ2年連続開幕戦完封勝利。 しかし、4月のを獲得した金村が4月末に怪我でシーズンの大半をリタイア。 ウィルソンも怪我で離脱。 や途中加入したの奮闘があったものの、前年ブレイクした西浦の不調。 岩本、関根、ルーキーの以外の先発投手陣の不調もありリーグ5位に終わる。 上田は監督を辞任し、後任の監督にが就任した。 小笠原が、野口が捕手ながら最多三塁打を獲得。 前年、怪我でほとんど出場できなかったウィルソンが37本塁打と復活。 投手陣では下柳剛が先発に転向し、2年目のも先発ローテーションに定着しチーム打率、本塁打数、得点数、盗塁数が全てリーグ1位という破壊力抜群の打線で優勝争いに加わるも、エース岩本の不調等があり、首位ダイエーと4. 5ゲーム差、2位西武と2ゲーム差の3位に終わった。 小笠原が最多安打を獲得。 ルーキーが初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位。 首位近鉄と24. 5ゲーム差、5位ロッテと10. 5ゲーム差、53勝84敗3分(勝率. 387)の成績に終わり、観客動員数が137万6000人まで落ち込んだ。 なおこの年、片岡がFAで阪神へ移籍した。 観客の増加を図るためそれまでプロ野球球団がなかったのに本拠地を移す構想が、刊のでトップ記事になった。 同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて 移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。 大島が3月31日のダイエー戦で暴力行為となったため退場で2試合出場停止、小笠原が初の首位打者を獲得、3年目のが球団では金子以来、投手としては1980年以来の新人王を獲得した。 チームは前半戦貯金1で折り返したものの、後半戦失速し5位に終わった。 大島は監督を解任され、後任に球団初の外国人監督のが就任した。 東京ドーム最終年。 翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、の対近鉄戦で3対1で初勝利する。 シーズンでは前年オフに野口とのトレードで阪神から移籍してきたが復活し高打率を記録、小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得した。 投手陣でも先発転向二年目のがリーグ2位の16勝を挙げ金村も二年連続二桁勝利の10勝を挙げたが、前年新人王を獲得した正田がリーグ最多の15敗を記録し、またそれまでチームを支えてた岩本・関根が怪我や不振もありチームは二年連続の5位に終わってしまった。 8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる 株式会社北海道日本ハムファイターズを設立、本拠地をに移転(事務所も東京都六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。 同時に日本ハム球団株式会社は株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、手続きをとった。 二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。 旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、に「首都圏事業グループ」を設置している。 なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。 オフに(登録名「SHINJO」)を獲得した。 この年までに入団した選手で、2020年に現役を続けているのはだけである。 鶴岡は2019年から一軍のバッテリーコーチを兼務しているが、FA権の行使によってソフトバンクへ一時移籍していたため、東京ドーム時代からの生え抜きの選手はいない。 北海道時代 [ ] 札幌ドーム時代(2004年~2022年) ヒルマン監督時代 [ ] 同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場をとシーズン終盤まで争い、の対戦で、プレーオフ進出を決め、最終的に4位ロッテと0. 5ゲーム差であったが、この年のプロ野球は近鉄とオリックスの球団合併によるが取りざたされ、選手会はこの問題で9月18日・19日の2日間、全球団それぞれ2試合ずつ計12試合でを行い試合中止となり、代替試合は行われなかったことも影響した。 第1ステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退した。 が44本塁打で本塁打王。 建山が。 横浜から移籍のが28セーブで最多セーブ。 オフにメジャー移籍を目指していたヤクルトのをで獲得。 球団初のFA選手獲得となる。 では1位指名したのの交渉権を獲得した。 元監督のが球団初の(GM)に就任、、この年に日本ハム球団の初代オーナーであったが死去した。 100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めてになった。 この年から始まったでも11連敗を喫し、5位に終わった。 4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表、セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。 西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。 チーム防御率3. 05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップであった。 西武には7勝13敗と負け越したもののにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスとにはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。 第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し25年ぶり、北海道移転後初のリーグ優勝を決める。 中日とのを4勝1敗で制し、東映時代の1962年以来44年ぶり、日本ハムとしては初の日本一となる。 11月12日、でも優勝を飾り、アジア王者となった。 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王を獲得。 投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録し、が12勝を挙げて新人王に輝いた。 この年のは武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけて Hisashi And Micheal、略して HAM(ハム)と呼ばれた。 が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。 が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。 が39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。 オフには宣言通りSHINJOが引退、小笠原が巨人へ、岡島が・へそれぞれFA移籍した。 ドラフトでのをドラフト指名するも入団を拒否された。 戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。 シーズン当初から敗戦が続き、4月25日の6連敗時点で早くも負け越し数は8、首位からは6. 5ゲーム差をつけられた。 しかし5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。 が5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。 、進出を決め、9月29日に球団史上初のリーグ2連覇を達成した。 借金8からのリーグ優勝は新記録であった。 ロッテとの第2ステージは3勝2敗で制した。 日本シリーズは前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦ではとの継投による もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。 タイトルは絶対的エースに成長したダルビッシュが15勝を上げてMVPを、稲葉が自己最高の打率. 334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。 10月3日、高校生ドラフトでの交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。 11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。 オフには田中幸雄が引退し、セギノールが退団。 フロントではヒルマン監督と高田GMが退団。 ターメル・スレッジが加入。 後任監督にが就任する。 梨田監督時代 [ ] 開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人 であったなど多くの故障者に悩まされた。 ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。 特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。 では第1ステージでオリックスに2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。 この年より、が2代目GMに就任した。 シーズン前に日本ハムの工藤隆人、と巨人の、の交換トレードが成立した。 この年は多くの打者が同時に打撃開眼したことで、チームはリーグトップの打率を記録するなど打撃力が増した。 1番、2番、3番稲葉篤紀の流れは前年終盤と変わらなかったが、4番はこの年8本塁打のが座り、自身初の3割を記録し「つなぐ4番」として機能。 そして溜まったランナーを一発のある5番の(この年27本塁打)が返す流れが定着。 続く6番はほぼ3割の打率(. 296)と82打点を記録。 さらに2006年に投手からに転向したがこの年レギュラーを掴み、いきなり打率3割・2桁本塁打・20をマークし、7番にも関わらずはチームトップの. 901を記録。 8番捕手のを挟み、9番にはが据えられる。 金子は開幕から打撃絶好調で、に日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。 4月終盤まで4割を維持し、最終的に自身初の3割をマークした。 稲葉、高橋、糸井、金子と4人の3割打者が生まれ、うち稲葉以外の3人は自身初の大台のマークだった。 また打席の左右も1番から8番まで全て交互の「ジグザグ打線」を形成し、相手投手の左右の影響を受けにくい打線であった。 投手陣も先発はエースダルビッシュ有(この年15勝)を筆頭に、2006年に新人王に輝いて以降成績を残せていなかったが復活し9勝を挙げ、も初の2桁勝利。 また陣は林昌範、、、らが活躍し、ストッパーに転向した武田久は無敗のままに輝いた。 このように投打共に開幕から好調で、開幕から終盤まで優勝争いを牽引する。 しかし地方開催のためを訪れた、ヘッドコーチ、ターメル・スレッジ、宮西尚生がに感染し球界初の新型インフルエンザ感染者となり、3名の他にも新型の恐れのあるによる発熱で主力選手の欠場、登録抹消が相次いで、この日の楽天戦から6連敗。 その後も9月に再び6連敗、4連敗を記録するなど大きく失速し、2位楽天との差が一気に縮まり首位の座が危うくなる。 それでもの札幌ドームでの西武戦に金子の犠牲フライでサヨナラ勝利し(厳密には試合途中に楽天がロッテに敗れたため、その時点で決定)、2年ぶり5度目のリーグ優勝が決定した。 またシーズン最終盤まで優勝争いがもつれたことでレギュラーシーズンのホームゲーム観客動員数は199万2000人と、北海道移転後最高を記録した。 球団別の対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。 第2ステージでは楽天と対戦し、第1戦では最終回にスレッジが3点差を逆転する 逆転サヨナラ満塁本塁打で劇的勝利をおさめるなどして4勝1敗で下し、2年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。 では巨人と対戦するも、2勝4敗で日本一を逃した。 、札幌市中心部でパ・リーグ優勝記念パレードが行われ約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。 オフには球団史上最多となる7人 がを受賞した。 が巨人へFA移籍。 1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身したがのため57歳で急逝した。 それに伴い1月23日、二軍投手コーチのが一軍投手コーチに就任。 スレッジが退団したが、新たな外国人野手は補強せず、球団としては36年ぶりとなる「純国産打線」となった。 開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥った。 シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。 最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから二桁勝利を挙げ、借金14到達後に限れば貯金21を積み上げる快進撃で貯金7まで盛り返した。 最終戦までロッテとCS争いを繰り広げ、チームの最終戦終了時点では3位であったが、ロッテがその後に行われた最終戦で勝利し僅かに0. 5ゲーム差でCS進出を逃した(そのロッテはそこからCSを勝ち上がり日本一を達成)。 1番の田中賢介がリーグ2位の打率. 335をマーク。 高橋信二に代わり4番に座った小谷野栄一は打率. 311、108打点を挙げ初のを獲得。 ダルビッシュ有が、の二冠を獲得。 武田勝がチーム最多の14勝、新外国人のが1年目にして2桁勝利を挙げた。 、で、高校時代には優勝、大学時代には大学日本一2回と個人として史上6人目の30勝300奪三振を記録したのの交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。 、中継ぎ投手での10勝を挙げたがチームでは4年ぶりの新人王を獲得。 、新人合同入団会見に出席出来なかった斎藤のために、新庄剛志以来球団2人目となる札幌ドームでの単独の入団会見が行われた。 オフにはが大リーグ・へ、がへそれぞれFA移籍した。 プロ入り前から既に全国区の人気を誇っていたルーキー・斎藤を見物・報道するため、選手寮入寮、新人合同自主トレ、とシーズン前から大量のファンと報道陣が詰め掛ける 佑ちゃんフィーバーが巻き起こり、その異常な注目状態のまま開幕を迎えた。 この年はに発生したの影響で当初予定されていたの開幕がに延期となった。 、斎藤がプロ初登板を果たし、新人一番乗りとなる勝利を挙げた。 からにかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細はを参照)。 交流戦は16勝8敗で3位。 、オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成した。 序盤からソフトバンクとの首位争いとなり、3位以下と大きく差をつけての2強状態となり、前半戦を同率首位で折り返す。 、梨田監督が同年の成績如何にかかわらず同年限りでの監督退任の報道が流れ 、には正式に梨田監督の退任が発表された。 9月に11連敗を喫するなど月間6勝16敗1分と大きく負け越し大失速。 最終的には首位から17. 5ゲーム差の2位となったが、2年ぶりにAクラス入りした。 西武とのファーストステージでは2連敗で敗退している。 二軍では2004年以来7年ぶりの制覇を成し遂げている。 エースダルビッシュ有が自己最多の18勝を挙げ、武田勝、ケッペル、と4人の2桁勝利投手が生まれた。 武田久が2年ぶりのセーブ王獲得。 この年から3番を任されたはリーグ2位の打率. 319、31盗塁に加え、. 411で自身初ののタイトルを手にした。 梨田の後任はが就任した。 栗山監督時代 [ ] 1月ダルビッシュがを利用し、メジャーリーグのへ移籍。 、開幕戦の埼玉西武戦(札幌ドーム)に、栗山監督からダルビッシュの後継役を期待された2年目のが先発。 自身初の大役を務めると、プロ入り初の完投勝利をその大舞台で披露しチームは快勝。 その後も斎藤はまでの約2ヶ月間にプロ初を含む5勝を挙げ、チームの好調な滑り出しに大きく貢献した。 の楽天戦()では稲葉がプロ通算2000安打を達成。 前半戦はロッテと首位を争い、に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。 中盤からはが主戦投手として活躍。 前半戦絶不調ながら4番として起用され続けたも徐々に調子を上げる。 後半戦はロッテが失速し、西武との首位争いとなる。 西武に首位に立たれたまま9月に突入してしまうが、にが左脇腹挫傷から復帰すると、打率. 380、15、出塁率. 473、. 660という驚異的な成績でを獲得する猛打を奮い、チームを強く牽引。 チームは9月を16勝7敗2分けと大きく勝ち越す。 には西武から首位を奪い 、の直接対決では吉川の完封、中田の2本塁打で勝利し、優勝への4が点灯。 マジック1とした、2位の西武がロッテに3対5で敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた。 ファイナルステージでは3位のソフトバンクと対戦。 クライマックス・シリーズMVPに輝いた糸井嘉男の第1、2戦の2試合連続本塁打の活躍により4連勝(アドバンテージ含む)で3年ぶりの日本シリーズ進出を決める。 巨人とのでは、2勝4敗で敗退している。 個人としては、3番打者の糸井嘉男が. 404の出塁率を記録し、2年連続となるのタイトルを獲得。 吉川がチームトップの14勝を挙げ、1. 76で自身初タイトルとなるを獲得。 球団としては2009年のダルビッシュ以来3年ぶりのに選出された。 オフにが海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦することを表明し 、に入団。 では、メジャー挑戦を公言していたを1位指名し、長期交渉の末に獲得しに以来3人目の札幌ドームでの単独入団会見を行った。 に糸井、八木とオリックスの、、の2対3のトレードが成立。 中でも糸井は2009年より4年連続で打率3割と受賞を続け、その間2度のリーグ優勝に貢献した主力打者であったため、放出には選手から動揺、不満の声が上がったが 、主力選手や人気選手であっても温情抜きでトレードの対象とする日本ハムの革新的な球団運営を象徴する大型トレードであった。 開幕戦の西武戦には勝利したものの、そこから連敗し借金生活はまで続いた。 のオリックス戦では球団14年ぶりの1試合5失策を記録。 からにかけて9連敗で、借金は2010年以来の10、5月終了時点で19勝28敗1分の勝率. 404で最下位。 、新たに照明がついたにあるで北海道移転後、屋外球場初のナイター主催試合となる戦を開催。 またそれまでは旭川では年2試合の主催試合の開催であったが、この年は北海道移転後、札幌ドームと旧本拠地東京ドーム以外では最多となる4試合の公式戦を開催し(翌年も4試合を開催)、計8万人を動員。 移転当初から掲げる地域密着の姿勢をさらに強く示した。 に開幕日以来の貯金を実現したが、に負け越すとついに勝ち越すことがないままシーズンを終えた。 から守り続けてきた5位もにシーズン前のトレード相手のオリックスに抜かれ最下位に転落。 のオリックス戦(京セラドーム)に0対8で敗れたことで、出場の可能性がなくなり、3年ぶりのBクラスが確定した。 の札幌ドームでの楽天戦に2対11で敗れたことで、この年優勝した楽天には本拠地で1勝も勝てずに終わり、この年24勝無敗というシーズン成績を挙げたに対しても8連敗に終わった。 の西武戦(札幌ドーム)に3対4で敗れ、12年ぶりに北海道移転後では初の最下位が決定、前年リーグ優勝からの最下位は1981年の近鉄以来32年ぶりの記録となった。 64勝78敗2分(勝率. 451)で8年ぶりの負け越し。 チーム防御率は2006年以降全て2位以上であったが同年はリーグ5位、失策はリーグワーストの88を記録した。 が自身そして球団史上初となるを 、が本塁打王を獲得。 先発候補であった吉川、武田勝、木佐貫が序盤から不調に陥るも、2年目の大谷が二刀流を継続しながらローテーションを守り、史上初となる「同一シーズンでの10勝と10本塁打」を記録 した他、大谷以外にも5年目の、3年目の、新人のといった若手がその穴を埋めた。 優勝争いには絡めなかったが、の西武戦(札幌ドーム)に斎藤佑樹が先発し4対1で勝利し、2年ぶりに進出が決定。 シーズンを3位で終え、オリックスとのCSファーストステージでは2勝1敗で勝利し、2年ぶりファイナルステージ進出を決めた。 ソフトバンクと対戦したファイナルステージでは第5戦に勝利して3勝3敗のタイに持ち込んだが、3勝4敗でCS敗退となった。 中田が自身初タイトルとなる打点王を 、が日本人選手では球団初の盗塁王を獲得。 9月に引退宣言を行っていた 、が現役引退。 オフには、がFA宣言し、それぞれオリックス、に移籍。 12月には傘下3Aを自由契約となっていたが2年ぶりに復帰。 大谷翔平が開幕6連勝の球団タイ記録をマーク。 交流戦では最終戦前まで2位・ソフトバンクと0. 5ゲーム差の首位に立つものの、最終戦の阪神戦に大敗しソフトバンクに逆転され2位で終える。 ソフトバンク・西武との首位争いの末、前半戦を首位ソフトバンクと3. 5ゲーム差の2位で終える。 後半戦も、首位・ソフトバンクの後塵を拝す状態が続き、にソフトバンクが優勝を決めV逸が決定した。 の西武戦に勝利しクライマックスシリーズ進出決定。 また翌の西武戦にも勝利し、レギュラーシーズン2位が確定。 のファーストステージはシーズン3位のロッテと対戦した。 1戦目を落とし、2戦目に逆転勝ちを収めるも3戦目に逆転負けを喫し、1勝2敗で敗退した。 この年をもって木佐貫が現役を引退、また現役最年長野手で実働29年のNPBタイ記録を持ち、を経験した最後の現役選手であったも現役を引退した。 この年から、2005年よりGM補佐であったが3代目GMに就任している。 序盤はソフトバンクの独走を許し一時は11. 5ゲーム差まで開いていたが、7月10日、球団タイ記録の14連勝。 本拠地北海道移転後ホーム500勝を達成。 、球団新記録の15連勝を達成。 ソフトバンクとの差を徐々に縮め、8月末には首位に立つ。 終盤にはソフトバンクとの一騎討ちを繰り広げた。 ・の直接対決に連勝し、優勝への6が点灯。 マジック1として迎えたの対西武戦にのソロ本塁打の1点を先発の大谷が西武打線を1安打・15奪三振の完封で守り切り1対0で勝利、4年ぶり7度目のリーグ優勝を達成した。 なお、最大11. 5ゲーム差を逆転しての優勝はパ・リーグ歴代2位の記録となる。 中田が110打点で2年ぶり2度目の打点王、レアードが39本塁打で本塁打王、宮西が42ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手を、それぞれ初受賞。 のファイナルステージでは、リーグ3位のロッテを2連勝で破ったリーグ2位のソフトバンクと対戦。 4勝(アドバンテージ1勝を含む)2敗で、ソフトバンクを下し、4年ぶりの日本シリーズ出場が決定。 そしてはと対戦。 での第1、2戦は連敗するも、での第3戦から第5戦は2つのサヨナラ勝ちを含む3戦全勝で王手をかけ、の広島での第6戦を10対4で勝利し10年ぶり3度目の日本一を果たした。 同時に最大11. 5ゲーム差を逆転しての日本一は日本プロ野球記録となる。 オフに陽がフリーエージェントで、吉川・が巨人との交換トレードで移籍(代わりに・が加入)。 武田勝が引退した。 に6名を輩出。 そうしたチーム事情に加えて開幕直後に大谷が負傷離脱し、先発陣が軒並み不調に苦しむこととなった。 4月に6連敗と10連敗を繰り返し、4月を最下位で終えた。 5月3日にロッテ戦に勝利し5位に、5月下旬に4位に浮上するが 、交流戦初戦でDeNAに敗れて再び5位に転落してからはシーズン終了まで順位を上げることも出来ず、早々にチーム再建へ舵を切る年となった。 得意にしていた交流戦も初めて負け越し、9位に終わる。 交流戦終了後の7月には、3度の5連敗を喫するなど1度も連勝することが出来ずに4勝18敗と大きく負け越した。 それでものロッテ戦で、2004年の北海道移転後からの通算1000勝を達成。 8月に入ってからは、のロッテ戦で約2ヶ月ぶりの2連勝、それ以降チームの調子も上向き、11勝10敗と5月以来の月間勝ち越し、9・10月も16勝13敗と勝ち越してシーズンを終えた。 なお、最終戦ではメジャー移籍を志望していた大谷が4番・投手で出場して10奪三振と2安打を記録し、チームも完封勝利で有終の美を飾った。 西川が39盗塁で3年ぶり2度目の盗塁王を受賞、には、が2287打席目で人生初となる本塁打を放った。 トレード期限となる、これまでセットアッパーとして活躍し、に出場したを中日に放出した。 さらに8月31日にがによるトレードで阪神へ移籍した。 が現役引退し、が選手兼任コーチに就任し退団、オフには移籍を表明した大谷がへと移籍した。 さらにFAでがオリックスへ、が中日へ移籍した。 なお、FA行使が噂された宮西と中田は行使せず残留となった。 ソフトバンクからFA宣言していたが5年ぶりに復帰した。 順位が5位と低迷した一方で、で7球団での競合を制してのの交渉権を獲得したことと、大谷がメジャー移籍を決めたことが注目を集め、同年のに「北」が選ばれる理由の一つともなった。 が守護神に成長するなど、FAで移籍した増井の穴を埋めた。 序盤は、西武と首位を争っていたが、後半戦になると失速し、最終的には3位に終わった。 ルーキー清宮が7本塁打を放ち、シーズン終盤にが二塁のレギュラーに定着するなど若手の活躍も垣間見えた。 は、2位・ソフトバンクに1勝2敗で敗れシーズンを終えた。 が2年連続の盗塁王を獲得。 、が現役を引退した。 ドラフト会議では、夏の甲子園で活躍した将来性のある選手を次々と指名。 準優勝投手の()を1位で、同優勝投手の()を5位で、での4番打者として活躍し同校を優勝に導いたを2位で獲得した。 オフにはレアードがロッテに移籍し、が契約年数を1年残して退団した。 一方で積極的に補強に動き、から、の両外国人投手、で2年連続の打率4割を達成した台湾の好打者、オリックスを退団した を獲得。 またヤクルトから、とのトレードで、の両選手を獲得している。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• 日本一 3回 (1962年、2006年、2016年)• クライマックスシリーズ優勝 4回(2007年、2009年、2012年、2016年)• アジアチャンピオン 1回 (2006年)• セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)• Aクラス 31回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年、2011年 - 2012年、2014年 - 2016年、2018年)• 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年)• 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年)• 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)• レギュラーシーズン優勝 6回 (1982年、2006年 - 2007年、2009年、2012年、2016年)• 最長連勝 15連勝 (2016年)• 最長連敗 14連敗 (1984年、3引き分けを挟む)• 最多勝 87勝 (2016年)• 最多敗 92敗 (1956年)• 最多引分 13分 (1984年)• 最高勝率. 621 (2016年)• 最低勝率. 364 (1955年)• 最小ゲーム差 1. 0(2位:1993年)• 最大ゲーム差 48. 年間最高勝率は西武とのプレーオフで敗退した1982年を含む7回。 その他の記録 [ ] この節のが望まれています。 シーズン最多得点 771点(2000年)• シーズン最多安打 1370本(2009年)• シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録)• シーズン最多三塁打 56本(1961年)• シーズン最多本塁打 178本(2004年)• シーズン最少本塁打 40本(1955年)• シーズン最多打点 735打点(2000年)• シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点)• シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年)• シーズン最多犠打 180犠打(2010年・日本プロ野球記録)• シーズン最多三振 1151三振(2005年)• シーズン最高打率. 281(2004年)• シーズン最低打率. 216(1956年)• シーズン最少失策 55失策(1993年、2009年)• シーズン最高防御率 2. 39(1961年)• シーズン最低防御率 4. 98(1984年)• シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年)• シーズン最多ホールド 131ホールド(2012年・日本プロ野球記録)• ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽)• ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対楽天)• ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対ロッテ、2009年4月19日対西武)• ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター)• ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日、2017年5月12日対ロッテ)• ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武)• ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録)• ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録)• ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録)• ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録)• 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテ10回表・日本プロ野球記録 )• 4者連続二塁打(2009年7月29日対ロッテ1回表・パ・リーグ記録)• 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録)• 5試合連続無失点勝利(2011年5月28日対広島1回戦から6月3日対ヤクルト3回戦まで・日本プロ野球記録 )• 52イニング連続無失点(2011年5月26日対中日2回戦6回裏から6月4日対ヤクルト4回戦2回裏まで・日本プロ野球記録 ) 2000安打達成者 [ ] 在籍時で記録した安打数では、1位は2435安打の張本勲、2位は2012安打の田中幸雄。 入りの基準である通算200勝及び通算250セーブ達成投手はいない。 特記無い場合の安打以外の記録は達成当時のもの。 (1972年8月19日対西鉄 投手)• (1990年8月21日対オリックス 投手)• (2007年5月17日対楽天 投手) 8413打席数での達成は史上最多、2205試合目は2番目に遅い記録• (2012年4月28日対楽天 投手) 無安打無得点試合達成投手 [ ] ( 太字は完全試合)• (1971年8月21日 対西鉄(後楽園球場) スコア 4-0)• (1973年6月16日 対近鉄(後楽園球場) スコア 1-0)• (1985年6月9日 対近鉄(後楽園球場) スコア 12-0)• (1990年4月25日 対近鉄(東京ドーム) スコア 3-0)• (1995年7月5日 対西武(東京ドーム) スコア 1-0) 参考記録• - - (2006年4月15日 対ソフトバンク〈福岡Yahoo! JAPANドーム〉 スコア 1-0) 先発八木が10回まで無安打無得点で抑えるものの、味方打線が点を取れないまま降板、その後11回を武田久、12回に挙げた1点をその裏MICHEALが抑えて勝利している。 1941年以来65年ぶりで64シーズンぶり、戦後かつ2リーグ制以降初めての継投によるノーヒットノーランで、延長戦かつ3人の投手で抑えたのは日本プロ野球史上初めてとなる。 また、八木の「先発投手が安打も得点も許さないまま9回以上を投げて途中降板」と言うのも日本プロ野球史上初めてとなる。 サイクル安打達成打者 [ ]• 1952年4月20日 対近鉄(川崎球場)• 1957年6月23日 対近鉄(駒沢球場)• 1961年5月7日 対近鉄(駒沢球場)• 1980年7月29日 対南海(大阪スタヂアム)• 1989年10月1日 対ダイエー(平和台野球場) 歴代本拠地 [ ]• 1964年 - 1987年 後楽園球場• 1988年 - 2003年• 2004年 - 2022年(予定)• 後楽園球場が本拠地となった1964年から1977年頃まで、後楽園球場で他球団の試合が開催され、かつ神宮球場を本拠地とするの試合が組まれていない場合に限り準本拠地として神宮球場を使用している。 1946年 :• 1947年 - 1948年 :• 1949年 - 1950年: (第1次)• 1951年 :• 1952年 - 1954年 : 井野川利春 (第2次)• 1955年 :• 1956年 - 1960年 :• 1968年 :• 1969年 - 1970年 :• 1971年 - 1973年 :• 1973年 : (第1次)• 1974年 - 1975年 :• 1976年 - 1983年 : (第1次)• 1984年 :• 1984年 : 大沢啓二 (第2次)• 1985年 - 1988年 :• 1989年 - 1991年 :• 1992年 : 土橋正幸 (第2次)• 1993年 - 1994年 : 大沢啓二 (第3次)• 1995年 - 1999年 :• 2000年 - 2002年 :• 2008年 - 2011年 :• 1947年は東急フライヤーズ(第1次)• 1948年は急映フライヤーズ• 1948年は8月16日まで指揮、残り試合はが代理。 ここから東急フライヤーズ(第2次)• ここから東映フライヤーズ• 1960年は7月10日まで指揮、残り試合は保井浩一が代理。 1968年は8月4日まで指揮、残り試合はが代理。 1969年は7月10日から7月17日までをが代理。 1970年は7月29日まで指揮、残り試合は田宮謙次郎が代理。 ここから日拓ホームフライヤーズ• 1973年は7月12日(前期終了)まで指揮。 シーズン後期のみ指揮。 ここから日本ハムファイターズ• 1984年は6月26日まで指揮、6月28日まではが代理。 1996年は9月9日まで指揮、残り試合はが代理。 2002年は4月3日から4日までの2試合をが代理。 ここから北海道日本ハムファイターズ• 2005年は7月18日から28日までの6試合をが代理。 永久欠番 [ ] 2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。 該当者第一号は野球殿堂入りした初代オーナーである。 永久欠番一覧• 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 準永久欠番 [ ]• 41 (2015 - 2017)(元選手、現SCO。 2018年にが着用するまで3年間欠番)• 79 (2010 - 2011)(元コーチ。 2009年に二軍コーチを務め、2010年より一軍コーチを務める予定であったがこの年の1月に急逝。 これに伴い2年間欠番扱いとなった)• 86 (元監督。 球団史上、他者の着用がない) なおこの他に、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として 0と 00の使用をしないことが決定されている。 沢村栄治賞受賞者 [ ]• :1回(2007年) ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) ユニフォーム(一軍) [ ] 東京時代 [ ]• 最初のユニフォームはからのお下がり(1936年創立当時のユニフォーム)で、なす紺地のユニフォームに、左胸の阪急軍の「H」マークに変わり、左袖にセネタースの「S」のマークを付けた。 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。 現在のビジター用にあたるダークグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。 - 大映球団と合併し球団名が急映フライヤーズとなる。 大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。 ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。 1949年 球団名が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T. K」に変更。 胸マークには、熊のマスコットが描かれている。 2リーグ分立を機にロゴを変更。 左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。 - ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。 また、縦縞が初登場。 ビジター用は「TOKYO」と「TOKYU」を併用。 に「TOEI」となるがビジター用のデザインはそのまま。 - 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。 1954年から球団の親会社が東映となり、球団名も「東映フライヤーズ」となる。 ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。 帽子は、こげ茶地にオレンジ色で「F」で菱形風のデザイン。 - 水原茂監督就任に伴い、水原の古巣・をモチーフに、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。 左袖には親会社・東映の(東映マーク)に「TOEI」のロゴが入る。 ホーム用は「 FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。 ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「 TOEI」から「 TOKYO」に変更される。 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。 地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「 TOEI」に戻る。 監督就任に伴い、赤と紺を基調としたユニフォームに変更。 帽子は紺色になり、 Fマークは元の菱形風に戻る。 袖、パンツ、ポケットには赤・紺の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。 左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。 また、 Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。 - 監督就任により、モデルチェンジ。 赤と紺を基調としたものになる。 監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。 前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。 帽子は紺地に金糸でTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。 首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく(ビジター用はラインの模様がホーム用と逆)。 背番号の書体がセリフ体となり、ビジター用のみ背番号の上に選手名が入る。 なお、東映時代6年間のユニフォーム約600枚が、日本ハムになっていた1979年にの屋で売られていた。 全て背番号入りの本物、一律2900円でその後も10年ぐらいの間売り続けていた。 前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来通りだが紺と赤のラインの色が東映時代と逆になっていた。 帽子のマークがNとFの組み合わせとなり(書体は直線状の物と7色ユニフォームと同じ飾り文字の物と2種類あり)、左袖には日拓マーク、さらにビジター用の胸のマークが「 NITTAKU HOME」(2段組で「NITTAKU」が赤、「HOME」が黒。 また胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。 (を参照。 前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。 紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。 帽子のマークと左袖には親会社・日本ハムのブランドマーク()と「ニッポンハム」ロゴ(左袖のみ)。 パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。 ホーム用は紺(縁取り:赤)の「 Fighters」ロゴ。 背番号、胸番号の書体は斜体がかった独特のものになる。 首・袖・腰・パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤で親会社のブランドマークの刺繍が入る。 ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「 Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。 選手名、胸番号は無し。 帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。 1974年後期 - ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。 基本カラーが紺とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。 首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。 途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。 ホーム用は薄いブルーのストライプ、胸ロゴ、背番号、胸番号は紺にオレンジの縁取り。 ビジター用はスカイブルー地の色合いが変り、紺のストライプ、胸ロゴは白にオレンジの縁取りとなり、帽子、ストッキングがホーム、ビジター共通になる。 から首、腰のラインがオレンジ一色となる。 から背中に選手名が付き、これまで背中いっぱいについていた背番号の文字が、大幅に小さくなる。 からベルト式にかわり、シーズン途中のより、ビジター用の「Nippon Ham」のロゴ、背番号の色が逆転し、オレンジ(縁取り:白)に変更。 - のレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。 採用前年のリーグ優勝へのご祝儀と、継ぎ接ぎが目立っていた旧ユニフォームに対する評判を覆すためにモデルチェンジした。 胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。 帽子のマークが白に青の縁取りの「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に青字で「TOKYO」の文字の刺繍が入る。 ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。 左袖の文字は「ニッポンハム」。 ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。 左袖の文字は「Nippon Ham」。 から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなり、ロゴも白からオレンジになる。 スパイクも白地にオレンジラインに変更。 - 監督復帰により、デザインを一新。 濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。 12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴがオレンジに白の縁取りの「 Fs」になる。 ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。 ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。 からは右胸に親会社・日本ハムの広告が入るようになる。 札幌時代 [ ]• - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。 ユニフォームを一新。 帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。 また、プロ野球初のデザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。 ホーム、ビジター共に胸番号が消える。 デザインはなどの(コーポレート・アイデンティティ)を手掛けている米企業のSME社である。 ホーム用は、「FIGHTERS」、右袖ロゴは「NIPPON-HAM」。 ビジター用は、上下グレーで「NIPPON HAM」、右袖ロゴは「HOKKAIDO」。 ヘルメットには、の広告シールが付く。 シーズン後半 前オーナーの死去に伴い、右腕に喪章として黒いラインが入る。 からユニフォームスポンサーののロゴが右肩に入った。 ただし、「ホクレン」ロゴはレギュラーシーズンの着用に限られ、交流戦・オールスター・クライマックスシリーズ・日本シリーズなどの試合では使用できないため、外される。 帽子・アンダーシャツの黒はそのままに、ホーム用は右肩の上部から左肩部を青に変更(新たに左脇下にも青を配色)し、左肩下部以降は以前と同じ黒とした。 また「FIGHTERS」のロゴも下部に七芒星を付けたものに変更された。 ビジター用は大きくモデルチェンジし、両肩が黒で、地色が北海道の「豊穣の実り」を表す「ハーベスト・ゴールド」となった(この他、青も北海道の空を表す「スカイブルー」、ホームの地色となる白も雪を表す「スノー・ホワイト」と命名されている)。 またビジター用は帽子ロゴが「F」から北海道の「H」にし、胸のロゴは二段組で上段に「HOKKAIDO」、下段に「NIPPONHAM」が入る。 さらにパンツ右には新たにスポンサーとなったのロゴが入る。 また、ホーム、ビジターとも帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」で縁取られている。 2011年7月15日 - 17日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。 さらに、同年9月23日 - 25日の試合を「秋の祭典」と銘打ち、こちらも札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。 - 主将・田中賢介のユニフォームの左胸にキャプテンマーク(黒文字で「CAPTAIN」の頭文字である「C」と金色の「七光星」の組み合わせ)のワッペンを導入。 2012年7月6日 - 8日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、昨年同様本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用する。 さらに、「北海道祭り」限定の帽子(帽子は本体が黒、ロゴが北海道の「H」、ロゴの右側に北海道の地図のシルエット、空気抗・帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」でつばの右側に「HOKKAIDO PRIDE」の文字が入る)を着用。 - 右袖に日本ハムグループの新CIが入り、ユニホームスポンサーのホクレンのロゴはその上部に掲示される。 - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、12球団初の事例としてホーム用キャップ左即部にの広告が入る。 - ホーム用キャップ左即部にの広告に変更。 - 本年のみ北海道移転15周年記念企画の一環としてサードユニフォーム「北海道スカイブルーユニフォーム」を着用。 ホームユニフォーム左肩と同一の青色をユニフォームの全面と帽子の額部分にあしらい、胸にWE LOVE HOKKAIDOシリーズで用いられた「HOKKAIDO」ロゴ、金と黒のラインで非対称デザインを踏襲する形となり年30試合で着用。 台湾プロ野球のは札幌移転した当時の 日本ハムのデザインを意識して [ ]、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。 2007年 - 2010年に第1期、2013年以降に第2期実施。 第2期ではその年の「」が就任した道内市町村から抽選で一部の市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出し、北海道との強い絆と地域活性化を目指す事を表す。 2017年からは「北海道シリーズ」として「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズに加え「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズの年間2期に拡大し開催され、HOKKAIDO be AMBITIOUSシリーズでは北海道旗の配色である濃紺・白・赤を用いた「アンビシャス・トリコロール」の配色を施した限定ユニフォームを着用する。 :8月17日 - 19日の千葉ロッテ戦で開催、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。 帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。 :7月22日 - 24日の千葉ロッテ戦・25 - 27日の埼玉西武戦にて開催。 何色にも染まらない意思の強さを表す球団カラーの一つ黒と北海道の海と空を表す青をユニフォームにあしらい、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。 帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。 :で6月10日に行われた対戦を除く道内地方(旭川・函館・帯広)開催の全試合と、9月11日 - 13日に札幌ドームで行われる千葉ロッテ3連戦にて開催。 生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるカラー(薄紫)を採用。 帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。 :7月9日 - 11日のオリックス戦にて開催。 ユニフォームの生地の色は北海道の「豊穣の実り」をイメージした黄金色、左肩が黒。 帽子は本体が青、つばが黄金色。 なお、このユニフォームは「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」の3連戦限定の予定だったが、梨田監督の発案により、帯広・旭川で行われる計4試合でもこのユニフォームを着用することになった。 :7月12日 - 14日の千葉ロッテ3連戦と7月15日の埼玉西武戦において開催。 ユニフォームの上着には北海道旗に描かれ、北海道民の「不屈のエネルギー」を意味する七光星の燃えたぎる「バーニング・レッド」をシンボルカラーに採用。 また、過去の伝統を引き継ぐ意味を込めファイターズ独自の左右非対称デザインを踏襲。 その非対称部分には北海道の美しい雪景色と無心で戦うチームの精神を表す純白(ピュア・ホワイト)で表現する。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークには、「H」のセカンダリーマークを採用し、北海道への普遍的な愛と誇りを込める。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもバーニング・レッドをあしらっている。 2013年度の応援大使18市町村の中から、7つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 :7月11日 - 13日のソフトバンク3連戦にて開催。 「NEXT BLUE ネクスト・ブルー 」をコンセプトカラーに採用。 非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもNEXT BLUE色をあしらう。 シリーズユニフォームは6月27日の楽天戦から7月16日の埼玉西武戦までビジター戦を含めた全16試合で着用、2014年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 また、9月27日のオリックス戦、28日のソフトバンク戦では「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2014〜again〜」として再度NEXT BLUE色ユニフォームが着用された。 :6月12日のDeNA戦から7月15日までのソフトバンク戦まで約1か月間開催、期間中のビジター11試合でも着用。 チームスローガンにちなみ北海道のラベンダーをイメージした薄紫色の「EZOlution ラベンダー エゾリューション・ラベンダー 」をユニフォームのカラーに採用。 ユニホームで非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。 キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもコンセプトカラーのEZOlutionラベンダーをあしらう。 北海道の6・7月はラベンダーが咲く時期を迎えることから、勝利で笑顔の花を咲かせたいという思いが込められている。 2015年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から、12の市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 :開業を記念し、の車体と同じ「緑・紫・白」を配色した限定ユニフォームを着用する。 デザインは緑をベースに肩の非対称部は白をメインに紫と黒のラインをあしらう。 キャップおよびヘルメットのロゴマークには、「H」マークを採用。 キャップおよびヘルメットのつば部分にも北海道新幹線の車両と同じ「常盤グリーン」をあしらっている。 北海道新幹線開業日と同じ3月26日のロッテ戦(QVC)より使用され、WE LOVE HOKKAIDOシリーズ期間の5月3日のソフトバンク戦から26日のロッテ戦までビジター6試合を含む19試合でも使用。 2016年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 :この年より企画名が「北海道シリーズ(西暦)『WE LOVE HOKKAIDO』」となる。 4月29日の楽天戦から5月28日のソフトバンク戦までのホーム16試合で「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして限定ユニフォームを着用。 北海道を舞台とした映画「」のシンボルカラーをモチーフに「ハッピーイエロー」をコンセプトに制作。 デザインは太陽を表すイエローと空を表すブルー(水色)をベースとし、非対称部分とキャップつばにブルーをあしらう。 なお、このイベントは「HAPPY プロジェクト」と題し、レプリカユニフォームの収益の一部を「幸福の黄色いハンカチ」の舞台となったに寄付するなどの活動を通じて、今年3月で財政破綻から10年を経た夕張市の地域再生に役立てられる。 2017年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 7月19日楽天戦から8月20日西武戦までのホーム9試合で「北海道シリーズ2017 HOKKAIDO be AMBITIOUS」として限定ユニフォームを着用。 濃紺をメインカラーに肩の非対称部分に赤と白いラインを配したデザインとし、左胸にビジター時やWE LOVE HOKKAIDO時のキャップ・ヘルメットに使われるHエンブレムが大きく配される。 5月2日から20日までのホーム10試合で「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして前述のサードユニフォームを着用し開催。 2018年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 7月20日から28日までのホーム6試合で「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズとしてメインカラーを雲や雪や未来を描くキャンバスをイメージした白、肩の非対称部に紺、左腕を赤としたカラーリングの限定ユニフォームを着用。 4月27日から5月12日までのホーム8試合で「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして新たな時世の芽吹きをイメージした「新時代緑(ニューグリーン)」をコンセプトに、緑色を全面にあしらい金と黒のラインで非対称デザインを踏襲し金色をキャップつばと左袖のラインに用いる。 2019年度の北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から9市町村をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。 6月28日から7月21日までのホーム9試合で「HOKKAIDO be AMBITIOUS」シリーズとしてメインカラーを道民の不屈のエネルギーをイメージした赤、肩の非対称部とキャップ鍔を紺としたカラーリングの限定ユニフォームを着用。 「WE LOVE HOKKAIDO」シリーズとして民族共生象徴空間「」の開業を記念しホワイトをメインカラーとして肩の非対称部分にグレー地のアイヌ文様、袖部とキャップつばにベージュをあしらう。 その他• 8月17日 - 19日の試合を「サマーフェスタ」と銘打ち、選手が実際に着用したユニフォームなどを再利用して作られたユニフォーム「エコユニ」が発売され、選手も同じデザインのカラーの限定ユニフォームを着用。 復刻ユニフォーム [ ] 2005年の円山球場70周年記念試合の練習時、2013年のパ・リーグ共同企画「」、2014年以降の球団独自のヒストリー企画「レジェンドシリーズ」にて着用。 2005年:円山球場で開催されたデーゲーム時に、試合前の練習で1974年後期 - 1981年モデルのホーム用ユニフォームを上衣のみ着用した。 プルオーバーだった当時の物と異なりボタン式となっていた。 2013年:パ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」で、球団史上初で本試合時に復刻ユニフォームを着用。 復刻されるユニホームは1993年から北海道移転前の2003年まで使用された、本拠地時代のピンストライプのホームユニフォーム(ただし、復刻版ユニホームの左袖には「ホクレン」のワッペンが、ズボンには「ニトリ」のワッペンが付く)。 レジェンドシリーズ(2014年以降)• 2014年:8月21日の楽天戦・8月22日 - 24日の西武戦(札幌ドーム)と8月29日 - 31日のロッテ戦(東京ドーム)で東京時代の1982年 - 1992年のホームユニフォーム(いわゆる「オレンジユニフォーム」)を着用。 なお、当時のユニフォームと異なりユニフォームの右袖に「ホクレン」の広告、ズボンに「ニトリ」の広告、ヘルメットに「北海道新聞」の広告が入る。 帽子・ヘルメットは1988年 - 1992年(帽子の前部が白のもの)のタイプを復刻。 2015年:8月7日からの楽天3連戦(札幌ドーム)、21日からのオリックス3連戦(東京ドーム)で開催。 1981年に日本ハムファイターズとして初優勝した際の1979年 - 1981年の白地に青のストライプ・襟元にオレンジが入ったホームユニホームを着用。 なお、当時のユニフォームと異なりユニフォームの右袖に「ホクレン」の広告、ズボンに「ニトリ」の広告、ヘルメットに「北海道新聞」の広告、ホーム用キャップ左即部に「アインファーマシーズ」の広告が入る。 2016年:8月30日から9月19日までの主催試合において、1974年前期に着用した日本ハムファイターズ初代のホームユニフォームを着用。 また、9月17日は「HOKKAIDO LEGEND MATCH」と題し、北海道移転後7年間にわたって着用した北海道初代ユニフォームを一日限定で着用。 2017年:6月23日から7月4日までの主催試合において、球団創設後初の日本一に輝いた1962年に着用した東映フライヤーズの1961年 - 1967年のホームユニフォームを着用。 ユニフォーム(二軍) [ ]• 二軍用も原則的には一軍と同じものだが、地域密着を目指しチーム・カラーを鎌ヶ谷市の色であるグリーンに。 2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。 帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。 2010年 - 一軍のユニフォームをモチーフに、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。 前述の特別ユニフォームをモデルチェンジ。 緑をベースカラーとし、左肩から左わき・右わきがオレンジ。 両わき腹部分に白のラインが入り、白とオレンジのツートンカラーのラケットラインが入る。 背中のネームは無しで背番号は白文字にオレンジの縁取り。 帽子は緑に左前面にオレンジのラインが入り、マークは「K(ボール・七芒星・文字「K」)」。 左袖に球団ペットマーク、右袖に「NIPPON-HAM(白文字にオレンジ縁)」。 2012年 - 鎌スタ限定ユニフォームを2年ぶりにリニューアル。 白のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 1945年 - 1946年:上から青・白・赤の横線。 青の部分に白字でセネタースの頭文字「S」。 1947年 - 1949年:球団名が「東急フライヤーズ」となる。 上が赤・下が青のセパレート、右端に白の二等辺三角形。 赤の部分に白字で「F」。 球団名が「急映フライヤーズ」となった1948年も使用。 1950年 - 1973年:2リーグ分立を機に球団旗を変更。 右端の白の二等辺三角形はそのままだが、セパレートの色を上下逆に(上が青・下が赤)。 青の部分に白字で「F」。 東急・東映・日拓と親会社が変わっても継続して使用される。 1974年 - 1976年:球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。 橙色地に白のライン。 白の部分には親会社・日本ハムのブランドマーク()と「ニッポンハム」ロゴ。 その下の橙色の部分に白文字で「Fighters」ロゴ。 1977年 - 2003年:大まかのデザインはそのままだが、「ニッポンハム」ロゴと「Fighters」ロゴを縮めたものに変更。 2004年 - :札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。 白地にの。 下の部分は黒地に白文字で「HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS」。 マスコット [ ] 熊のマスコット(正式名称不明) 東急時代の1949年に、ユニフォームの胸マークの右上に入れていた。 帽子をかぶった少年の似顔絵(正式名称不明) 東映時代の1972年から日拓時代の1973年に、上記似顔絵が入ったを採用。 球団発行印刷物に使用されていた。 弓を射る(正式名称不明) 日本ハム球団となってから1981年までペットマークに採用していた。 ユニフォームを着た少年(正式名称不明) 1977年から1987年までペットマークとして使用された。 背番号は「100」。 ギョロタン 1980年、球団のマスコット第1号として登場。 モチーフは太陽でモデルは当時の監督である大沢啓二。 名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から。 自転車が得意だった。 晩年にはスクーターで走ることが多かった。 演者は劇団こぐま座の団員3名が担当。 ちなみにギョロタンは、パ・リーグ初の着ぐるみキャラクターであり、ヤクルトスワローズのヤー坊に続き、日本球界2体目の着ぐるみキャラクターである。 レジェンドシリーズ2014で期間限定で復活、その後もレジェンドシリーズのたびに復活し、フリーダムな振る舞いで再び人気を博した。 ファイトくん 1988年の東京ドームへの移転に合わせて登場。 翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた1頭身の姿。 ペットマークはもちろん、着ぐるみ化もされ、動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。 甲冑の戦士(正式名称不明) 1993年から2003年までのペットマーク。 ユニホームを着た騎士が、剣の代わりにバットを振り上げているポーズ。 ファイティー(100) 1993年に登場した、東京ドーム時代の型のマスコット。 英語表記は「FIGHTY」。 オーナーがモデルといわれており、背番号も同じ100だった。 北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後の2年間は東京ドームでの主催試合限定で登場していた。 2005年8月17日に現役引退。 この日東京ドームでは引退セレモニーが行われた。 ギョロタンと共にレジェンドシリーズ2014で復活。 ユニフォームは、復刻されたオレンジユニホームではなく、移転前に着ていた縦縞。 上記の通り東京限定のため2014年8月21日の試合で札幌ドーム初登場となった。 B・B()(212) 愛称「B・B(ビー・ビー)」。 2004年、球団の北海道移転とともに登場。 2018年から北海道が命名150年を迎えることを記念した「北海道みらい事業」の「みらい大志」に就任するため球場での活動に一区切りをつけ、今後は道内での地域貢献に携わる。 詳しくは当該項目を参照。 カビー() B・Bの年の離れた弟で、2006年から登場している二軍マスコット。 詳しくは当該項目を参照。 ベビービー() B・Bの小学生時代の姿。 2010年デビュー。 ポリー() 北海道移転10年目となる2013年シーズンに向けて2012年オフに登場した、球団初の女の子のマスコット。 詳しくは当該項目を参照。 フレップ()(179) 2016年開幕直前から登場した新マスコット。 北海道を放浪していたでたどり着いた札幌ドームでB・Bに惚れこみマスコット志願。 出口の出待ちに根負けし、「マスコット見習い」として背番号の無いプラクティスユニフォーム着用。 2017年11月26日のファンフェスティバルにて2018年シーズンよりメインマスコットに昇格することが発表され、B・Bから背番号179のホームユニフォームが渡された。 チームの特徴 [ ]• 通算3度の日本一はいずれも初戦を落としてから4連勝で決めている。 東京時代 [ ]• 戦前のとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。 ただし、の節にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。 からに使われた愛称「 フライヤーズ( Flyers )」は「空を飛ぶ者」、「飛行士」、「急行列車」、「跳躍」などの意味がある。 当時の球団オーナーだったが、「新しい出発に飛躍を期する」という意味を込めて命名した。 水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。 「フライヤーズ」のは現在も東映が保有し、2007年までの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。 から使われている「 ファイターズ( Fighters )」は「闘士」の英語から取った。 略号は「F」。 「ファイターズ」の名は公募によるもので、名付け親となったのはの女子高生であり、「同郷(岡山県出身)の選手が、ガッツがあるファイターだから」というのが命名理由である(ファイターズと名付けた人は、後の本拠地となる北海道を含めて多数いたが、女子高生が名付け親になった決め手は、この命名理由が大きいと言われている)。 しかし大杉はわずか1シーズンで交換トレードによりに移籍してチームを去っている。 当時人気のに因む)など愉快な物もあり、またハム会社だけに「ウインナーズ」(。 これに「勝者」を意味する「ウィナー」をかけている)、「」、「トンチャン」()、「エッグス」()などもあった。 にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったがこの時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。 さらに親会社の東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。 1987年までのフランチャイズ球場は巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。 ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。 日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。 同時にパ・リーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「」に匹敵するものだった。 1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。 札幌時代 [ ]• 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロ・のがホームスタジアムとして使っていた(と併用)。 プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で 、コンサドーレが宮の沢に事務所を移転する2014年1月末ごろまでは日本ハム・コンサドーレそれぞれの事務所が札幌ドーム内に併設されていた。 には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で三塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が三塁側からの方が見易いため、ホームチームが三塁側を使う。 ホームチームが三塁側ダグアウトを使うのは日本では二軍を除いて、日本ハムが初である(なお、東京ドームや道内の地方球場で開催される主催試合では一塁側ダグアウトを使用)。 キャンプの調整方法は全体練習より個人練習に重点を置いており「投げ込みをさせずに質の高い投球を重ねる」「ゲームで与えられるであろうシチュエーションを意識して練習に取り組む」方針で長い時間の練習はあまりせず、選手には自主性・積極性を尊重し、選手が課題をあげそれをどうしたら解決するかまず自分で考えさせ、コーチにどういう練習をしたら良いかと自ら相談に行きアドバイスをもらうと言うシステムである。 監督は契約締結時に3年の契約を結び、それ以降は1~2年単位の契約更新と言う形を取っている。 理由としては長期間の契約を結びその監督の考えをチームカラーとして定着させるよりも、定期的に監督を入れ替えて新しい視点、考えを入れた方がメリットがあると考え、初期の契約が2年では考えそのものが選手に浸透しにくいと考えたためである。 情報システム [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2012年10月) ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり 近年ではや、、など 、その根拠となっているものは「()」という情報システムである。 これは所属選手をを元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正かつ監督・コーチ変更の度に指導方針が変わってしまわないよう次のコーチに引き継がせる、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持、登録選手全員を戦力として活用する事を目標としたものである。 BOSは、 、 、にも採用されているが、北海道移転後初代のGMだった高田繁を同職に招き日本ハムに倣っているDeNA以外は「あくまで選手起用の決定権は監督にある」(BOSを重用しすぎて監督の仕事を奪いかねない)と参考程度である。 過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。 名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。 (山田正雄前GM)」 と大らかでこだわらない方針である。 背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。 また同時に教員経験者を採用して若手の生活面の指導にあたらせるなど一般的な教養・常識面を含めた選手教育にも力を入れており、そのような環境構築の実績・経験があるからこその方針ともいえる。 その一方、コーチについても「選手・コーチ間で上下関係を無駄に構築しない」「自分を手本とした指導ではなく選手の特長を見極め長所を生かした選手作り」、「レポート提出による指導方法の回顧・改善」等コーチ技術の指導もしている。 また、他の11球団が採用している「」を長らく唯一採用しておらず2018年1月時点で育成契約選手は皆無であった。 しかし、2018年度ドラフト会議において、球団史上初の「育成契約選手」としてのよりを指名した。 これにより育成契約を採用しない球団は皆無となった。 生え抜きを重視しないドライな人事は監督人選にも反映されており、日本ハム経営後四十数年の間、完全生え抜き(同球団で選手生活を全うした)の監督は土橋正幸 のみであり、球団に選手として在籍した経験のある監督として大島康徳(26年間中7年間)がいる他は、全員が他球団選手の出身である。 これは前身のセネタース・東急・東映・日拓時代でも選手からの生え抜き監督は東急時代ののみで、プロ選手経験がなくかつ他球団指導者経験がない人物を含めても、同じく東急時代のとの2名のみであり、球団設立以来の傾向ともいえる。 これほど徹底した例は他の11球団には見られない。 球団の観客増加戦略 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年6月) 札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し時代よりも大幅に観客が増加した。 2016年には1993年以来、初めて200万人を突破し、2017年には208万6410人を記録した。 これは、ソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。 なまらチケット 公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常価格の約半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。 これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら! 超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。 チョッQR 2009年には12球団初の、携帯電話のによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」を導入した。 KONKATSUシート、シンデレラシート 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。 初日に28組が、2日目には34組のカップルが成立した。 ちなみに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。 2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。 1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。 シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。 なお、これはでの公式戦でも実施されており(一部異なる場合あり)、の試合では試合開始前の1時間前まで買えないが、東京ドームの試合では当日の午前10時から買える。 2017年からこの年に制定された「」に賛同、「ゴールデンフライデー」と銘打ち札幌ドームでの金曜日開催試合は札幌ドーム貴賓室で観戦できるチケット、ビール飲み放題の席、ビジターユニフォームを着て当日券を購入すれば半額等のサービスを行う。 twitter連動企画 2018年から球団公式twitterでファンから質問を募集する企画を開始した「 ヒーロー質問」と付けてツイートした質問をホーム勝利時のヒーローインタビューで答える。 ドラフト戦略 [ ] 「その年の一番いい選手を取る」という方針のもと、ドラフト1位を決めている。 2012年には花巻東から直接メジャー挑戦を表明していたを強行指名。 2011年にも、巨人以外なら入団拒否して渡米する意向を公にしていたを指名して、周囲を驚かせた。 事実、が廃止された2007年以降のドラフトでは、強行指名した大谷、2008年度指名のを除き、全て複数球団と競合している。 チームスローガン [ ] 東京時代 [ ]• 1993年:「はつらつベースボール」• 1994年:「はつらつベースボール Part2」• 1996年:「更なる挑戦」• 1997年:「大いなる挑戦」• 1998年:「乾坤一擲」• 1999年:「Vへ一丸! 2000年 - 2002年:「Be tough, Stay tough, Win tough」(タフになれ、タフであれ、タフに勝て)• 2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」〜勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義〜 札幌時代 [ ]• 2004年:「New Home, New Identity, New Dreams. 」(新天地、新たな自身、新たな夢)• 2005年:「Faith, Hope, Love The Game」(信じよう、希望しよう、ゲームを愛そう)• 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong! 」(夢は大きく、試合はしっかり、強く生きよう!)• 2007年:「Focus, Advance, Nexus Spirit」• 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」〜F・A・N・S '08〜• 2009年:「Re:Challenge」• 2010年:「Feel it! 2014年:「前進せよ 〜トゥミコ ロク ル(で戦士)〜」• 2015年:「EZOlution」• 2016年:「爆ぜる」(はぜる)• 2017年:「F-AMBITIOUS」(ファンビシャス)• 2018年:「道 -FIGHTERS XV-」(みち ふぁいたーず・ふぃふてぃーん)• 2019年:「驀進」(ばくしん)• 2020年:「羽撃く」(はたたく) 主なキャンプ地 [ ]• 、(1986年・1987年春季キャンプ)• (秋季キャンプ。 2007年から名護に変更)• (一軍春季キャンプ。

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