僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある。 マツコ・デラックスの「死にもの狂いで3年働け」に反発の声 「今の時代は本当に死ぬ」

僕のこと (歌:Mrs. GREEN APPLE 作詞・作曲:大森元貴)

僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある

『毎日新聞』2014年5月14日夕刊掲載 南米エクアドルで一本の映画を観て、40年近くが経った。 1969年の『コンドルの血』というボリビア映画だ。 製作はウカマウ集団、監督はホルヘ・サンヒネス。 アンデスの先住民村に「後進国援助」の目的で診療所を造った米国の医療チームが、現地の若い女性たちに不妊手術を秘密裡に施していたことを暴露した作品だった。 迫りくる食糧危機を前に、避妊をしない貧しい国々の人間には、強制的にでも子どもを産めない体にして人口爆発を防ぐしかないという身勝手な考えが、米国にはあったのだ。 内容の衝撃性もさることながら、スクリーンに飛び交うアンデスの先住民言語=ケチュア語、慣れ親しんだ日本や欧米映画のそれとは違うカメラ・ワーク、過去と現在が複雑に行き交う時制感覚などが、強く印象に残った。 縁あって、監督と知り合った。 白人エリートの出身だが、先住民が人口の60%以上を占めていながら、植民地時代から一貫して深刻なまでの差別構造の下に置かれていることに危機感を持つ人物だった。 白人とメスティソ(混血層)は先住民差別を克服して初めて自己を解放できるし、社会は公平なものとなる、と彼は信じていた。 それは、世界に普遍的な原理だ、と私たちは確認し合った。 帰国時に、フィルムを一本預かった。 『第一の敵』と題された一九七四年の作品だ。 ボリビアの軍事体制下から逃れた監督が、亡命地ペルーで撮った。 地主の圧政に苦しむ先住民貧農とゲリラの出会いを描いた作品だ。 1980年に日本で初公開した。 13年前の、ボリビアにおけるチェ・ゲバラのたたかいと死を彷彿させる内容だ。 評判となり、自主上映は全国各地に広がった。 来場者の反応から、確かな手応えを感じ、旧作品も次々と輸入して上映した。 上映収入を製作集団に送ると、それが次回作の資金になった。 八九年の『地下の民』には、共同製作者として参加した。 この作品はサンセバスティアン映画祭でグランプリを獲得した。 初公開以来34年が経った。 ボリビアでは、軍事体制から民主化の過程を経て、驚くべきことには、2006年に左派の先住民大統領が誕生した。 困難な諸問題を抱えつつも、米国の言いなりにはならず、新自由主義政策が遺したマイナスの要因とたたかい続けている。 私たちの手元にあるウカマウ集団の作品も、12作になった。 半世紀に及ぶ期間に製作されたすべての作品だ。 最新作『叛乱者たち』は、18世紀末の植民地期最大の先住民叛乱から、21世紀初頭の先住民大統領の誕生までをたどった歴史劇だ。 「革命の映画/映画の革命の半世紀」と題して、全作品上映を開始している。 これが、私たちの合言葉だ。 Posted in , , 上映会を前にして、ぜひ観てほしい10数人の作家、詩人、研究者にチラシを送った。 ほとんどは面識もない人たちだ。 私のほうでは、顔を知っているからわかったが、けっこう多くの方が来てくれた。 文化人類学者の、故・山口昌男氏もその一人だった。 氏とは、見終わった後のロビーで言葉を交わした。 読売新聞1980年7月16日付け夕刊文化欄に、氏は「中南米革命映画の広がりと厚み」と題して『第一の敵』評を書いてくれた。 数年前ニューヨークの小劇場でも観た映画だが、東京の方は観客も多く、よかった、という言葉もあれば、アンデスの農民たちのコスモロジーの中軸である大地母神「パチャママ」に、ゲリラたちが酒を供えた時に、「彼らと農民たちが共有する世界は一挙に広がりと厚みを得た。 この点を描くことによって作品は単線的な物語の水平性から派生する垂直構造を獲得する。 知識人が製作する民衆映画で、このような類型的ではない出遭いが描かれたのは稀ではなかろうか」という評言もあった。 総じて、好意的な評だった。 ところが、末尾に次のような文章があった。 「しかしながら、ゲリラが農民達に、世界帝国主義の重圧がアンデスの小さな村にまで直接及ぶような時代であると説明するときに使われる言葉に日本帝国主義というのがあったように記憶しているが、日本語字幕には現われなかったのはどういうわけだったのか。 当否は別としてこの一語は作品の中におけるアンデスの農民と日本の観客の唯一のきずなであったはずなのに」。 山口氏がどのシーンのことを言っているかは、すぐに分かった。 ゲリラと先住民農民が討論するシーンだ。 ゲリラが、imperialismo hatun (強大な帝国主義/第一の帝国主義)という言葉を使って、説明する個所がある。 ケチュア語に「帝国主義」という用語はないからスペイン語から借用し、それにhatun (強大な/第一の)というケチュア語をつけている。 ロビーで言葉も交わしているのだし、氏は私たちに電話の一本でもくれれば、こんな間違いを犯さずに済んだはずなのに。 当時は、私も若かった。 山口氏の仕事を敬愛しているからこそ、上映会の案内も送ったのだが、こともあろうに「語られたはずの日本帝国主義という語が字幕に出なかった」と書かれては、黙ってはいられない。 読売新聞は反論の掲載を認めず、小さな訂正記事だけを出した。 そこで、日本読書新聞という書評紙に山口氏への公開質問状を書いた(1980年8月4日付け)。 だが、「日本帝国主義の語が字幕になかった」とは、私たちにとって、小さな針ではなかった。 すでに触れたように、ホルヘ・サンヒネスの「映像による帝国主義論」の試みへの共感から私たちは出発しているのだから、それは心外で、あまりに重大な、誤った指摘だった。 2000人の観客に対する説明責任もある。 その誤解は解かなければならなかった。 批判の文章は、勢い、厳しい調子を帯びた。 山口氏は翌週の同紙に弁明文を書いた。 私の中で、一件は落着した。 その後も、山口氏の著作は大事に読み続けて、すでに氏が亡くなった現在にまで至る。 したがって、山口氏の言辞をこれ以上云々することはないのだが、『第一の敵』製作時点での日本帝国主義の〈存在感〉については、もう少しふり返っておきたい。 アジアでのそれは、すでに大きい時代であった。 その経済的な進出の規模は拡大の一途をたどり、資源の収奪や労働条件の問題、水俣病などが大きな社会問題となり公害規制が厳しくなった日本を逃れて東南アジア諸国に向けて行なわれるようになった「公害輸出」などをめぐって反対運動が起こり、それは時に「反日暴動」の形を取る事態さえ起こっていた。 だが、ラテンアメリカにおけるそれは、まだまだ影が薄い段階だった。 アンデスの先住民村で、反体制ゲリラが政治・経済状況を説明する際に、日本帝国主義の浸透に触れなければならない状況ではなかった。 一方、北アメリカ帝国主義の、経済的・軍事的・政治的・文化影響力的な〈存在感〉は圧倒的だ。 まさに〈第一の敵〉なのだ。 そこに映画『第一の敵』が、すでに説明したような内容をもって登場する必然性が生まれていたのだ。 他方で、次のことにも触れておかなければならない。 『第一の敵』製作時の74年から数えてわずか4年後の1978年、中米エルサルバドルの反体制ゲリラ「民族抵抗軍」(Fuerzas Armadas de Resistencia Nacional)は、東レ、三井銀行、蝶理、岐染などが出資して同国で企業活動を行なっている日系繊維企業インシンカ社の社長を誘拐し、日本帝国主義が現地の独裁政権と癒着しこれを支援している現実を告発する声明文を公表した。 このコミュニケは、当時、日本経済新聞の紙面2頁全部を埋めて掲載された。 ゲリラが取引の条件として、それを求めたのだ。 だから私はそれを熟読し翻訳もしたが、きわめて透徹した論理で、現地政権と帝国主義の相互癒着関係を分析していたことが印象に残っている。 インシンカ社は、上記の日本企業4社が1967年に50・1%の出資比率をもって(残りの49・9%は現地の公営産業開発公社)設立した繊維織物の合弁会社であった。 合繊の紡績、綿布、染色を行ない、中米各国に製品を輸出する同社は、首都郊外の工場に1200人前後の労働者を擁し、同国でも最大規模の企業であった。 日本経済に占める対エルサルバドル貿易の比率は小さいが、後者のような経済規模の国にとっては、同国最大の2工場が日系であり、主要輸出品である綿花のほとんどを日本が買い付けているという関係は重大である。 これに注目したゲリラは、それが日本に対する過度の経済的従属化を招いている、と分析したのであろう。 ここからは、すでに進出している日本企業が、相手国の経済規模の中で占める比率の多寡によっては、現地の人びとが日本帝国主義の〈存在感〉を感じとる時代状況へと入りつつあったと言えるのだろう。 さらに付け加えるなら、私は当時、ニカラグアとエルサルバドルで高揚する中米解放闘争の行方に大いなる関心を抱いていた。 ニカラグアには闘争に関わっている友人も多く、1979年に同地の解放勢力=サンディニスタ民族解放線戦線は勝利していた。 それに勢いを得て、隣国エルサルバドルにおける解放闘争の高揚が見られた。 解放勢力は当時モラサン州を解放区として維持していたが、そこでの住民の日常生活を描いた『モラサン』(80年)と『勝利への決意』(81年)は、よい出来だった。 ウカマウと同じく「連帯方式」での日本上映を取り決めた。 これらふたつの作品は、ウカマウの『人民の勇気』を初上映した1983年夏に、同時に公開することになる。 エルサルバドルの2本の16ミリ・フィルムもまた、ウカマウのそれと同じように、前の上映場所から戻るとすぐに次の会場に送るという日々が続いた。 未知の土地から届けられた映像作品が持つ力を、私たちはますます実感しつつあった。 (4月30日記) Posted in , , 『第一の敵』を上映した全電通ホールのキャパは490人くらいだったと記憶する。 そこで、全6回の上映を行ない、入場者は2000人に上った。 68%の稼働率だから、以て瞑すべし、というべきだったろう。 私の勝手な思い込みでは、もっと入るものかな、と思っていた。 その道の人が言うには、自主上映でこんなに入るのは「奇跡」に近いことのようだった。 私もその後経験を重ねることで、初回上映時の観客数のすごさを思うようになった。 当時わたしは30歳代後半だったが、来場者の過半は私と同じ世代か、もう少し上の世代の人びとだったと記憶している。 何度も書くように「ボリビアにおけるゲバラの死」の記憶がはっきりと残っている世代である。 アンデスの民俗音楽「フォルクローレ」の愛好者が多かったことも印象的だった。 映画を公開するときには、スタッフとキャストをチラシに明記するのが当たり前のことだが、当時のウカマウはその種のデータにあまり頓着せず、私たちもそれを追求しなかった。 だから、最初のチラシには「製作=ウカマウ集団、監督=ホルヘ・サンヒネス」と記してあるだけだ。 だが、フォルクローレの愛好者は、映画で使われている曲がどの楽団の演奏なのか、すぐに理解できたようだった。 中学生か高校生の制服姿も、ちらほら目についた。 そのうちのひとりは、のちにわかったことからすれば、兒島峰さんだった。 アンデス音楽に関心のあった彼女は当時中学生だったが、『第一の敵』上映の報がうまくアンテナに引っかかったようだ。 その後も上映のたびにウカマウ作品を見続けたという。 東京上映が終わって、いくつかの問題が残った。 まずは、ウカマウとの連絡である。 上映報告を行なうべき80年7月、ボリビアでは凶暴なファシスト体制によるクーデタの時期と重なった。 ウカマウとの連絡は途絶えた。 死者1000人、逮捕者2000人……との報道が続いた。 彼らからの返事がないまま、焦慮の時が半年に及んだ。 私は、メキシコの出版社シグロ・ベインティウノ(21世紀出版社)を主宰するアルナルド・オルフィーラ・レイナルとホルヘが親密な友人であることを思い出し、前者にホルヘたちの安否を尋ねる手紙を送った【横道に逸れるが、チェ・ゲバラは1955年にメキシコで、亡命アルゼンチン人であったオルフィーラに出会っている。 当時はフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカという出版社を主宰していたが、彼はその後前記の新しい出版社を興した。 ラテンアメリカ全体を見渡して見ても、彼の出版事業が果たし得た役割は大きい。 私たちが現地で買い求めた書物には、オルフィーラが時代を違えて関わったこの二つの出版社のものが多い。 オルフィーラが媒介してくれて、ホルヘから手紙が届いたのは80年12月も末日近くだった。 クーデタ後の半年間、彼らは。 逮捕・射殺命令・家宅捜査・検閲の重包囲下で潜行を余儀なくされていたのであった。 彼らが再び国外へ場を移したことで、私たちは連絡網を回復できた。 半年間にわたって蓄積されていた、日本における上映運動の精神的・物質的支援は直ちに彼らに送り届けられた。 日本地図を描き、いつ、どこで上映会が開かれたか、その土地はどんな特徴をもつ町か、来場者数、上映収入などを記した。 「日本の同志たちにこれほど熱心に観てもらって、われわれは、自らの映画をもって、民衆の解放にささやかなりとも寄与する決意を新たにしている」と、彼らは書き送ってきた。 「東京上映以降の半年間」と、ホルヘたちが潜行していたために連絡が取れなかった時期は重なっていた。 その半年間は、私たちにとっても、めまぐるしいほどに忙しかった。 東京上映の「評判」は全国各地に急速に広がった。 名古屋、仙台、札幌、京都、大阪、広島、福岡などの自主上映団体から、上映したいとの申し出があった。 9月、名古屋シネアスト主催の名古屋上映を終えた後の80年秋、私は『第一の敵』のフィルムを背に、1ヵ月間の行脚の旅に出た。 京都と大阪で試写会を行ない、秋以降の本上映の可能性を探った。 アカデミーにラテンアメリカ専門の研究者が多い京都では、試写会でのいくつかの反応が、奇妙なものとして記憶に残っている。 「われわれ専門的な研究者が怠っているから、素人が(と、言いたげだった)こんな動きをしている」という某氏の言葉は、自らの「怠惰」を鞭打つものであったのかもしれないが、「専門家」の防衛意識が感じられた。 その「専門家意識」を打倒するためにこそ1960年代後半のたたかいはあったのだと確信している私には、異様なものに響いた。 あの時代の闘争からまだ10年程度しか経っていないのに、同世代の、しかも自己認識としてはおそらく「左翼」を自認しているであろう人の口から、こんな言葉が出てきたことに私は驚いた。 「僕が知っているアンデスのインディオはこんなおしゃべりじゃないな。 連中は黙りこくっていて、何も喋らんよ。 この映画は作りものだね」と言い放った専門家もいた。 アンデスの先住民の村で、フィールドワークを積み重ねている人のようだった。 しかし、その後の34年間、こうした「専門知」の側からの「排他的な」言葉を聞くことは、幸いにしてきわめて少なかったことには触れておきたい。 上映運動初期における、ごく稀な反応だったのだろう。 大阪試写会を終えて、沖縄へ飛んだ。 那覇市はもちろん、金武湾、沖縄市など各地で上映会を開いた。 その後も長く続くことになる、人との得難い出会いがいくつもあった。 現地の上映スタッフのひとりの娘さんは、当時は5歳と幼かったが、その後彫刻と版画を専攻しスペインで学んでいた。 彼女は2008年、彼の地でやまいを得て急逝した。 32歳だった。 遺作は、彼女の才能が並々ならぬものであることを示していた。 こうして、ウカマウ集団を媒介にして、さまざまな方向へ「補助線」が伸びていくというのが、私たちの実感である。 沖縄から長崎へ飛び、その後、長崎、佐世保、水俣、福岡、小郡などで上映会を開いている。 いずれにせよ、各地の人びとの働きと協力で、『第一の敵』自主上映運動が、半年間で急速に広がりと厚みを獲得し始めていた時に、ウカマウ集団との連絡を再開できたのだった。 途中でのいくつかの作品は「共同制作」となって実現したことも含めて、思いもかけない展開となった、というのが偽らざる実感である。 ウカマウ集団の最高作だと私が考えている『地下の民』に登場する村の長老は、山の神々に供物を捧げながら「われらが過去は現在の内にあり、過去は現在そのものです。 私たちはいつも、過去を生きつつ同時に現在を生きています。 われらが古き神々よ。 イリマニ山の神よ。 古のワイナポトシの神よ。 われらが未来を予見することを許したまえ」と語る。 文学を読んでいても、私はそのような時制の世界に魅力を感じるが、上映運動開始以降の34年間の経緯を綴る以下の文章において、果たして私にそのような記述が可能かどうか、覚束ないままに書き始めてみる。 帰国当初は生活に追われた。 3年半も不在にしていたのだから、生活の基盤作りが必要だった。 部屋の片隅にある『第一の敵』16ミリ・フィルムのことは常に頭にあり、目にも入っていたが、手つかずのままだった。 数年して、ある程度生活の目途がついてくると、やはり何とかしなければ、とあらためて思った。 唐澤秀子が学生時代、オーケストラ部の先輩であった柴田駿氏がフランス映画社を運営していた。 相談してみたが、この映画がもつ「政治性」ゆえに、日本では商業公開に向いていない、「敵」という言葉がタイトルに入るだけでアウトだが、自主上映という道があるよ、と教えてくれた。 昔の仲間20人ほどに集まってもらって、字幕なしのまま『第一の敵』を観てもらった。 1980年のことである。 まず紹介してもらったのは、テトラという名の字幕入れ会社である。 東京の下町にあって、面倒見のよい、個性的な社長、神島きみさんがいた。 私たちのように、配給会社を興す気持ちもなく、素人のまま「小国」の無名監督の作品を自主配給しようとする個人にも信頼を寄せてくれた。 彼女はのちに『字幕仕掛人一代記』(発行=パンドラ、発売=現代書館、1995年)という本を出すが、この世界に関心のある方にはおもしろい本だ。 作業手順を教えられる。 映画フィルムの上に、字幕を書き込んだフィルムを焼き付けること(スーパーインポーズと呼ばれる)で、字幕スーパーは完成する。 まず、フィルムの横に記録されている、光学変調された音声トラック部分、すなわちオプチカルを拠り所に、演技者が話している台詞の秒数を割り出し、日本語字幕に使用できる文字数を決めていく。 この作業は「スポッティング」と呼ばれる。 その際、フィルムには「ここからここまで字幕を入れる」というマーキングを、ターマトグラフを用いて施す。 『第一の敵』の場合、このオプチカルを聞き取ることに高い障壁がある。 ウカマウ集団からはスペイン語の台詞リストが送られてきている。 画面で話されているのがスペイン語の場合は問題ない。 字面と音声は合致する。 ところが、先住民農民はケチュア語を話すが、台本ではその部分もスペイン語訳されている。 字面と音声は合致しないから、その一致点を見出すのが一苦労である。 ここに、アヤクーチョで求めた『アメリカニスモ辞典』やラパスで入手した『ケチュア語・スペイン語辞典』の出番がくる。 たとえば台詞の中に「風」とか「石」とかの名詞が含まれているなら、そのケチュア語を調べ、その音が聞こえる一続きの台詞を特定していくのである。 職人さんが持つ独特の勘に助けられながら、作業を進めた。 ふつうは一日で終わる仕事が、二日も三日もかかったりする。 その点でふり返ると、34年間の時の流れは長い。 『第一の敵』のフィルムは一本しかないままあまりに酷使されたので、20年近く経つと劣化も著しかった。 一番貸し出しの多いフィルムなので、2000年には思い切って新フィルムを輸入した。 その時点では、東京にケチュア語を解する人が生まれていたのである。 ペルー・ケチュア語アカデミー日本支部のマリオ・ホセ・アタパウカル氏とお連れ合いの矢島千恵子さんである。 新しいフィルムの字幕入れの際には、お二人の協力を得た。 マリオさんはクスコ生まれだが、驚いたことには、『第一の敵』に出演している人物をふたりも知っていたのである。 『第一の敵』がクスコ周辺で撮影されたことには、すでに何度も触れたが、そのことに由来する偶然のなせる業である。 最初の長編『ウカマウ』に加えて、1989年の『地下の民』以降はアイマラ語を用いる作品が増えていくが、長いこと、私たちは『第一の敵』の最初の字幕入れと同じ作業を繰り返してきた。 ところが、2014年の『叛乱者たち』の字幕入れの時には、アイマラ語を解する藤田護氏が助けてくれた。 同氏はボリビアでの研究生活が長い。 ケチュア語、アイマラ語などの先住民族言語も研究対象である。 知人であるラパス在住の日本人青年たちが2005年に、在ボリビア日本人・日系人に向けてウカマウ映画の上映会を開いたことがあったが、藤田氏はその時のスタッフでもあった。 私たちにとっての34年という歳月は、遥か彼方のアンデス地域の先住民族言語を解する人びとがこの地にも生まれた、ということを意味していて感慨深い。 さて、定められた字数に基づいて、翻訳する。 推敲を繰り返し、訳稿を完成する。 テトラに字幕は入れてもらった。 続けて、チラシの作成、本上映の会場予約、試写会の開催など一連の準備が続く。 お金がない。 友人たちから100万円を借りた。 会場は御茶ノ水の全電通ホールを予約した。 6月末の2週連続で金曜日夜と土曜日の午後~夜である。 1980年当時はまだ、大労組は自前の会館を一等地にもち、ホールをけっこうな高額で貸し出していた。 試写会は順調に進んだ。 当時大きな影響力を発揮し始めていた『ぴあ』『シティロード』『小型映画』などの情報誌の編集者も、一般紙の映画担当記者も、取り上げてくれた。 イメージフォーラムが四谷三丁目にあったころ、そこも試写会場に使った。 知人の松本昌次氏(当時、未来社編集者、その後影書房主宰)は、試写会場から出てくるなり「ブレヒトだ!」と叫んだ。 演劇好き、ブレヒト好きの松本氏らしい感想だった。 この言葉が意味する的確さについては、あとであらためて触れたい。 朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、東京新聞も、映画欄でそれなりの大きさで取り上げてくれた。 記事の末尾に記された自宅の電話がひっきりなしに鳴り響いた。 前年の1979年、中米のニカラグアでは、サンディニスタ民族解放戦線が、1930年代から続いていたソモサ一族の独裁体制を打倒する革命に勝利していた。 その過程で先住民族が果たした重要な役割に注目した私は、それを『第一の敵』に登場する先住民族像と重ね合せて論じた文章を『日本読書新聞』にペンネームで寄稿した。 このような反応をみているうちに、私は確かな手応えを感じ始めていた。 友人、知人はもとより、観てほしいと思った作家、詩人、文化人類学研究者などにチラシと当日清算券を送る作業を重ねているうちに、上映当日が近づいてきていた。 その観点から見ると興味深いのだが、ウカマウ集団の初期の長編『ウカマウ』と『コンドルの血』に対して先住民が示した反応の形がある。 それは、私たちがメキシコで別れる前の最後の話し合いの中で、ホルヘが教えてくれたものである。 『ウカマウ』は、仲買人のメスティソに妻が暴行・殺害された先住民の青年が、こと切れる直前の妻の言葉から犯人をすぐに突き止めるが、仲買人がひとりになる機会をじっくりと待ち、一年後についに決闘によって復讐を遂げるまでの物語である。 アイマラ文化圏に属する、チチカカ湖上の太陽の島で撮影された。 静かな緊迫感に満ちた映画で、先住民とメスティソの間に横たわる文化的相違や価値観の違いも的確に描かれていて、私は好きな作品だが、アイマラ先住民からの批評は散々なものだったそうだ。 被害者の青年が、あんな風に孤独に、ひとりで引きこもって苦しみ、悩み、その挙句に復讐を遂げるなどということは、私たちの生活様式からは考えられない、と。 「個」と「全体」の問題は繰り返し現われることになるから、あとで詳しく触れる機会があるだろう。 ホルヘは、また、こうも言う。 ぼくが白人だからなのか、先住民の人たちはどうにも打ち解けてくれない。 警戒心を解こうとしない。 * * * メキシコにおけるホルヘ・サンヒネスとの討論の中でもっとも印象に残った言葉は「映像による帝国主義論」をぼくらは試みている、というものだった。 『コンドルの血』は、富める国による「低開発国援助」という「慈善」の事業が、大国の利害計算に基づいた巧妙な意図を秘めている場合もあることを暴露した。 『死の道』は、1950年代後半、鉱山労働者の強力な組合運動の進展を危惧した米国が、地域に住まう二つの民族の一方を扇動し、争いごとを起こさせ、その平定を口実に介入しようとした史実を描いた。 文化人類学的研究を利用しながら或る民族の特徴を捉え、それを政治・軍事の局面に生かすというのは、米国が一貫して行なってきた異世界統治の方法であった。 それを暴いたこの作品は、西ドイツ(当時)の現像所に持ち込まれたネガに細工が施され(技術者が買収され、露出時間が引き延ばされたせいだと、ウカマウ側は考えている)、誰の目にも触れられぬまま、永遠に失われた。 この話を思い出すたびに、ホルヘが「従来の映画からの質的飛躍であり、過去との決別を意味する映画」と自負する作品の喪失が、彼らにとってどれほど悔しいことであろうか、と思う。 もちろん、私たち観客にとっても。 『人民の勇気』は、ボリビアでチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ闘争がたたかわれていたとき、これに連帯しようとした鉱山労働者や都市部の学生の動きが実在したが、それが一段階の飛躍を遂げようとした時点を定めて、これを事前に察知した政府軍が武力によって鎮圧した史実を描いた。 キューバ革命の出現を不覚にも「許して」しまった米国が、「第二のキューバ」の登場を阻止するために、当時ラテンアメリカ各国で行なっていた「軍事顧問」的な動きを見れば、この作戦の背景が浮かび上がろう。 『第一の敵』は、帝国の利害がかかっている地域/国での民衆の闘争が、国内的な秩序をめぐる攻防の段階を越えたときに、帝国の軍事顧問団はより具体的な指示を当該国の政府軍に与えるようになる姿を描いている。 『ここから出ていけ!』は、『コンドルの血』で描かれた「低開発国医療援助」グループが、その犯罪的な行為のせいで追放されてからしばらくのち、今度は宗教布教グループの外皮をまとって潜り込み、一部の住民を精神的に解体して住民間の対立を煽る一方、多国籍企業の尖兵になって、その国の鉱物資源などの探査を行なう姿を描いている。 『ただひとつの拳のごとく』は、1970年代以降、地域全体がほぼ軍事体制によって覆い尽くされることによって世界に先駆けて新自由主義経済秩序に席捲されたラテンアメリカの姿を描いている。 それは、やがて、グローバリゼーションという名の、市場経済原理を唯一神とする現代資本主義の台頭の時代に繋がっていくのである。 それはすべて、他を圧するほどの力を持つ、総合的な支配体制である。 そこへ跳び込んできた「映像による帝国主義論」を志すというホルヘ・サンヒネスの言葉。 そこには、きわめて魅力的な響きがあった。 日本もまた、帝国主義の側に位置している以上、別な視線でこれを対象化する映画作品には、独自の意味があるだろう。 私の手には、ホルヘに託された『第一の敵』の16ミリ・フィルムがあった。 (3月31日記) 追記:これ以降は、1980年、日本における自主上映運動の開始の段階に入ります。 少しの時間をおいて、書き続けます。 Posted in , , 1976年の半ばだったろうか、帰路北上する私たちを、ホルヘとベアトリスはコロンビアで待ち構えていた。 往路もそうだったが、帰路でもまた、コロンビアには私たちに住居を無料で貸し与え、一定額の奨学金を供与してくれる日本人移住者がいた。 経済的な成功を収めたその人は、大学や研究所の後ろ盾もないままに彼の地の旅を続けながら、歴史と文化を学んでいる人間だと私たちのことを捉えて、資金援助を申し出てくれたのだ。 そのために、コロンビアでの滞在は長めにすることが可能だった。 日本出発前に、私はこの本の英語訳を読んでいた。 当時、ペリカン・ブックスが「ラテンアメリカン・スタディーズ」とでもいうようなシリーズを刊行していた。 それはチェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』、ブラジルの都市ゲリラのカルロス・マリゲーラ、コロンビアのカトリック神父で反体制ゲリラに身を投じたカミーロ・トレス、従属理論のガンダー・フランクらの書物を揃えていて、そのラディカルな企画・編集の姿勢から私は多くを学んでいた。 ボニーヤのその本は、20世紀に入ってからの時代になってなお、コロンビア南部の一先住民村落に、徹頭徹尾植民地主義を実践しながら浸透したキリスト教宣教会の姿を描いていて、私は大いなる関心を抱いていた。 日本へ帰国したらこの本を翻訳して出版しようとすら考えていたので、帰路でも原著者に質問すべきことはたくさんあった。 それを行なうためにも、加えて、ウカマウのホルヘたちとの再会を果たすためにも、コロンビア滞在が長引くことは大歓迎だった。 【因みに、ボニーヤの著書は、前記のタイトルに「アマゾニアのカプチン宣教会」というサブタイトルを付して1987年に刊行できた(現代企画室)】。 コロンビアでは、ホルヘたちが懇意にしているこの国の映画作家の作品をいくつか見せてもらった。 マルタ・ロドリゲス監督の『チルカレス13』などが記憶に残っている。 レンガ職人の過酷な労働を描いたものだった。 そのような労働現場を知らない「プチブル」のこころは打つ作品だ。 敢えてそのように言うのは、わけがある。 ホルヘたちの出発点は、『革命』 1962年、10分 と『落盤』 1964年、20分 という短篇2作品だ。 ボリビアの底辺に生活する人びとの現実を描いた作品だが、ほどほど以上の暮らしはできる、「良心的な」人びとのこころは打った。 どうすればよいのかを考えるきっかけが欲しいのだ。 なるほど、言われてみれば、その通りだ。 納得したホルヘたちは、その後作り始める長編作品では、人びとの貧困や貧窮の実態をリアリズム風に撮る方法を遠く離れて、事態が斯く斯く云々になっている原因を問いかける工夫を、物語展開の中に据えていくことになるのだ。 * * * その後数ヵ月して、ホルヘたちと私たちは別々な行路を辿ってメキシコへ着き、そこで再度落ち合った。 『第一の敵』を16ミリフィルムで見せてもらった。 大きく言えば、1960年代のラテンアメリカにおける反帝ゲリラ闘争の総括を試みようとしているような作品であった。 先住民の村の様子、人びとの関係のあり方、都市から来たゲリラと先住民農民の出会い方などが描かれるなどキメの細かい組み立てが工夫されているが、骨格を言えば、そうである。 すでに触れたように、この映画が採用した物語は、1965年ペルーでのゲリラ闘争の経験に基づいていることは、キトで会ったときに聞いた。 今回ホルヘが付け加えて言うには、同じくペルーのクスコ周辺のラ・コンベンシオン村における先住民農民の土地占拠闘争の経験もまた参照している、と。 こうして、この映画の背後には、特定されているわけではないにしても、60年代ラテンアメリカにおける具体的な闘争がさまざまにちりばめられている。 チェ・ゲバラの記憶は、日本でもまだ人びとの心に焼きついている。 ホルヘたちとの別れのときも近づいていて、そろそろ、今後どんな協力体制が可能かを検討する話し合いも始まっていた。 『第一の敵』なら、日本上映のきっかけになり得るかもしれない。 私たちは次第に、そのような気持ちに傾いていた。 メキシコでは、ホルヘを媒介にして、いろいろな出会いがあった。 彼を私たちに紹介するとき、ベアトリスは「世が世なら、大統領になるべき人です」と言った。 最新作『叛乱者たち』には、サバレタ・メルカードの言葉が引かれるシーンがある。 字幕特有の、厳しい字数制限の関係上もあって、日本の観客が知る由もない彼の名前は字幕には登場しない。 ボリビアとパラグアイとの間で戦われたチャコ戦争(1932~35年)は、膨大な死者数と領土喪失という結果で近代ボリビアにとって癒しがたい禍根を残したが、それをサバレタ・メルカードは「その結果、われわれは自分が何者であるかを知ったのだ」と表現した。 こういう文脈で、彼の言葉は出てくるのである。 ホルヘ・サンヒネスは亡命の身ではあっても、制作・撮影・上映などの現場から離れるわけにはいかないという考えから、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビア、メキシコと転々としながら仕事を続けているが、家族はキューバにいた。 メキシコは、久しぶりの合流には格好の場所である。 4人の子どもたちにも会った。 娘ふたり、息子ふたり。 4,5歳から15,16歳。 小さなパーティの場では、キューバの「革命教育」の成果だろう、長女がしっかりとした社会意識に基づいた挨拶をした。 思えば、『コンドルの血』には、もっと幼かったこれら4人の子どもたちがブルジョワ家庭の子ども役で「出演」していたではないか。 この作品の制作・撮影は1969年のボリビアで行なわれたから、それが可能だったのだ。 そう言えば、『第一の敵』終幕近くの、ゲリラと政府軍の銃撃戦の場面では、あそこで銃を撃っているのはぼくだよ、とホルヘは言っていた。 家内制手工業のような仕事ぶりに、思わず笑った。 乏しい資金で賄う映画制作の現場とは、このようなものなのだろう。 (3月26日記) Posted in , , アルゼンチン南部のネウケン経由で国境を超えると、テムコというチリの町に着く。 1976年の2月のことだから、1973年9月11日の軍事クーデタから数えて2年半ほど過ぎたころである。 ブエノスアイレスで親しく付き合った若夫婦の、妻のほうがチリ人だった。 紹介された親戚の家を、テムコで訪ねた。 軍事クーデタから10日後の1973年9月23日、その状況に絶望するかのようにして「憤死」した詩人、パブロ・ネルーダの縁者の家だった。 ネルーダの自宅がそうされたように、この家もクーデタ直後に家宅捜査され、書物はほとんど焼かれてしまったと家人は言った。 焼け残った書物が、わずかにあった。 秦の始皇帝による「焚書抗儒」以来、古今東西、時の権力者が気にくわぬ書物を焼き捨てるという所業のことは数多く聞いてきたが、ヘスス・ララの本のことといい、ここチリでの出来事といい、焼け残った現物を目にすると、いわく言い難い、不快な思いがこみ上げてきた。 加えて言うと、「抗儒」にひとしい所業もまた、軍事政権下のあの時代には、ラテンアメリカのどこでも行なわれていて、ウカマウはのちに『地下の民』において、官憲に逮捕された反体制活動家が、自分が埋められることになる穴を自ら掘るよう強制されるシーンを挿入している。 現実に起こった出来事から採った、痛ましい挿話だったのだろう。 テムコのその家では、夜、縁者がみんな集まってくると、みんなは声を潜めて、抵抗歌を歌った。 「ベンセレーモス」はじめ、ビクトル・ハラなどが歌っていたそれらの歌は、私たちもよく知っていたので、その密かな声に唱和した。 * * * これから書くことは、ホルヘ・サンヒネスたちとのつき合いが深まってから知ったことである。 ホルヘは、ラパスの大学で哲学を学んでいたころ、チリのコンセプシオンという町の大学の夏季講座を受講した。 政治・社会的な意味での進取性と戦闘性においてよく知られた町だという。 1950年代半ばから後半にかけての、いずれかの年のことだったであろう。 講義科目の中に、映画講座があった。 ホルヘと同国人の建築技師、リシマコ・グティエレス(愛称マコ)が、一本の映画も撮ったこともないのに、ただ映画好きだというだけの理由で映画講座を担当していた。 ホルヘのなかでの、映画への関心も、社会的な関心も、このマコとのつき合いによって生まれた、と彼は述懐している。 付き合っている時には知らなかったが、彼は実は、チェ・ゲバラやインティ・ペレードと同じくボリビアのELN(民族解放軍)に属していて、その後ボリビアの官憲に殺害されている、という。 その講座では台本コンクールがあって、一番になるとその台本に基づいた映画を作るという特典が得られる。 ホルヘがそれに当たった。 そこで「たった二分間の映画を作った」。 ホルヘは言う。 映画ではたった一分間でも多くのことが表現できる、とマコは言っていたけれど、実にそのとおりだった。 その二分間で、ひとつの物語を作り上げた。 一人の浮浪児が、禁止の立札だらけの公園を歩き回っている。 「さわるべからず」「踏むべからず」「寝そべるべからず」「すわるべからず」。 その子はしばらく前から何も食べていない。 物乞いをするにも誰もくれはしないから、もう疲れた。 新聞にくるまって門口で寝るのも、もう飽きた。 公園の花を見るが、飾りとか自然の詩としてそれを見ることができない。 彼にとっては、花さえもが、生きるか死ぬかの鍵を握っている。 彼は何本かの花をもぎ取って逃げる。 公園の管理人が追いかける。 逃げおおせて、花を売る。 それで得た金でパンを買い、小路に座って食べようとする。 ところが、一部始終を見ていた二人の乞食がパンを奪って逃げる。 子どもはまた公園へ戻って花を見つめる。 さまざまな角度から撮ったその子の顔、花、立札、見張りの管理人が並置される。 涙あふれる子どもの顔………これでおしまい。 ホルヘ・サンヒネス『革命映画の創造』(太田昌国訳、三一書房、1981年) 8ミリで作ったというこの小品で音楽を担当したのは、当時コンセプシオンに住んでいたビオレッタ・パラだった。 彼女もマコらの仲間で、後年ほど有名ではなかったが、彼女に宿る、歌の天賦の才能は誰もが知るところだった。 「彼女のギターから生まれたその曲を」ホルヘはとても気に入っていたが、事故のためにそのフィルムは失われて、今は存在しない、ということだ。 この本に付した付録に、ホルヘ・サンヒネスは「ビオレッタの思い出」という文章を寄せてくれた。 】 これが、ホルヘの映画的な出発点だった。 チリは、したがって、彼にとって忘れがたい土地だった。 チリはその後も、ホルヘにとって重要な土地となる。 キトで初めて出会ったとき、1971年以後の亡命による「放浪」か「流浪」の旅のことを語った時、彼はペルー、エクアドルの前にはチリにいた、と語った。 アジェンデ社会主義政権の成立は1970年だった。 それ以降、軍事クーデタでそれが倒される73年9月までの3年間、軍事体制から逃れたラテンアメリカ各国の革命家と反体制活動家が、数多くチリに庇護を求めた。 ホルヘもそのひとりであった。 ホルヘだけではない、知り合ったラテンアメリカの知識人、作家、映画人などの証言によると、アジェンデ政権下の文化活動はこれらの亡命者の参加なくしては考えられないくらいに重要な役割を担ったという。 広い意味で考えても、私も従来から強調してきたように、チリ革命の重要な性格のひとつとして、その文化革命的な要素を挙げることができる。 アリエル・ドルフマンらが学生の協力を得て行なった、ディズニー漫画に見られる支配的な表現に対する批判(『ドナルド・ダックを読む』、晶文社、1984年)や、いわゆる女性雑誌が読者に植え付ける常識的な価値観と固定観念(それこそが、読者から批判的な主体性を奪い、支配的な文化に奉仕するものとなる)についての批判的な分析など、見るべき成果があった。 その仕事を囲い込むように、チリに亡命していた大勢の文化活動家たちの働きがあったのだろう。 キトでは多くを語らなかったが、ホルヘはその活動が目立った人物のひとりだったのかもしれない。 73年9月11日のクーデタの直後、実権を握った軍事体制は多数の外国人亡命者の逮捕命令を下した。 ホルヘもそのひとりだった。 彼の場合は「見つけ次第、射殺するも可」との命令が下されたようだ。 クーデタの準備は時間をかけて企てられていて、その間に「要注意人物」リストも出来上がっていたのであろう。 「アンデス越えをした」とホルヘは語った。 あまりに生々しい体験だろうから、その詳細を聞き出す「勇気」が、その時の私たちには、なかった。 「アンデスを越えて」73年末か74年初頭にペルーに行き着いた彼は、その74年にペルーで『第一の敵』を撮影・制作するのである。 Enciclopedia Bolivianaと総称して、ボリビアに関するさまざまなテーマの書物を出版していた。 いくつもの本を束ねて、「ボリビア百科事典」的な叢書になることを目指しているのだろう、と思えた。 ケチュア語やアイマラ語の辞書もあって、当然にもラパスで購入した。 これらも、のちにウカマウ映画の字幕翻訳作業を行なう際には大いに役立つことになる。 その後、コチャバンバという都市へ行く機会があった。 (因みに、永井龍男に「コチャバンバ行き」という短篇がある。 1972年の作品だが、行く前に読んだのか帰国してから読んだのか、今となっては定かではない。 )それはともかく、コチャバンバには「本の友社」の本社がおかれていることを思い出し、寄ってみた。 社長自ら応対してくれた。 Werner Guttentag T. という、ドイツ系移民の末裔だった。 南米各国にはドイツ系移民がけっこう多い。 インティとココのペレード兄弟は、チェ・ゲバラ指揮下のELN(ボリビア民族解放軍)に属していた。 インティは、1967年ゲバラ隊が壊滅されたときにも生き延びて、その後「われわれは山へ帰る」と題する声明を発表したこともあったが、1969年にラパス市内の隠れ家で見つかって、結局は殺されてしまった。 ヘスス・ララはインティの義父に当たるが、コチャバンバに住んでいるという。 グーテンターク氏は、その場で作家に電話して、日本からの旅人が会いたがっているよ、と伝えてくれた。 すぐ訪ねてみた。 ここでも話はずいぶんと弾んだが、作家は、官憲の手入れのあとで焚書された自分の本、『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』の焼け焦がれた残骸写真を見せてくれたうえで、焼増しを一枚贈ってくれた。 その写真は、前回触れたドミティーラの『私にも話させて』を刊行する際、関連する記述があったので収録した(焼かれたのは、他ならぬ「本の友社」版である。 私がメキシコで読んだ版は、メキシコの出版社から出ているものであった)。 その後、帰途ペルーのリマに滞在していた時、ヘスス・ララ原作の演劇『アタワルパ』がリマ郊外で上演されるというニュースを新聞で知った。 アタワルパは、スペイン人征服者によって処刑された、実質的なインカ帝国最後の皇帝である。 その夜、リマ郊外へ出て山あいに入ると、両側のかがり火が迎えてくれる。 野外という雰囲気も手伝ったのだろうが、内容的にもなかなかに感動的な舞台であった。 コチャバンバの作家に、舞台を観た感想を書き送った。 彼も、自作が上演される機会に私たちが偶然にも居合わせたことを心から喜んでくれた。 ホルヘたちに再会した時、このことも話題にした。 彼らも作家とは知り合いのようだが、長引いている亡命生活の中で音信も途絶えていたので、私たちから氏の元気な様子を聞いてうれしいようだった。 こうして、これもまた、どこかでウカマウに繋がっていく物語ではある。 * * * ボリビアの南の端と国境を接する国のひとつはアルゼンチンである。 そこへ移った。 白人国と呼ばれることが多い。 ウカマウ集団の出身国であるボリビアは、2006年のエボ・モラレス大統領誕生を契機に行なわれてきた改革政策のなかで、国名も「ボリビア多民族共和国」と改めた。 それでも、国によって、その民族構成には大きな差が見られるから、人口構成に占める白人の率によっては「白人社会」という呼称が成立してしまうのである。 そうであれば、ウカマウに即して先住民族の存在を重視するという観点から見るなら、アルゼンチンには見るべきことはないのか。 日本を出る前、この地域に関する多くの書物を読んだ。 中でも印象的な1冊は、ダーウィンの『ビーグル号航海記』だった。 チャールズ・ダーウィンは、1831年から5年間、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗って、南米大陸沿岸からガラパゴス島へ、さらに南太平洋地域をめぐりながら、航海記を記録する。 記述されるのは主として地質や動植物の観察記録だが、時代はまさしくラテンアメリカ各国がスペインからの独立を遂げた直後のこと、陸地内部の社会・政治状況に触れる個所もないではない。 独立直後のアルゼンチンが、ローサス将軍の下、先住民族の徹底的な「殲滅作戦」を展開したことは、当時日本でも読める一般的な歴史書でも書かれていたから、まさしくそれと同時代にアルゼンチン沿岸を通ったダーウィンの反応を知りたかったのだ。 記述によれば、ダーウィンはローサス将軍にいちど出会っている。 率いる軍隊が「下等な、強盗のような」本質をもつことに気がつきつつ、将軍の、非凡で熱情あふれる性格を肯定的に述べている。 過酷な運命を強いられる先住民への「同情」を示す記述もあるが、その「掃討戦」は無理からぬことというのが、彼が行き着いている結論である。 ひとつ関心を引くエピソードがある。 先住民「殲滅戦争」に参加したスペイン人から、その戦いぶりを聞いたダーウィンは、その非人道性に抗議する。 答えは、次のようなものだった。 「でも止むを得ません。 どんどん産みますからね」。 これこそ、まさしく、本連載1回目で触れたウカマウ集団の作品『コンドルの血』に登場する、20世紀米国の「後進国開発援助」グループの意識でもあった。 さて、アルゼンチンの先住民人口は、総人口の0. 5%を占めるにすぎないが、そこにも「動き」はあった。 首都ブエノスアイレスにいたとき、新聞で知ったのだろう、先住民の集まりがあるという告知があり、そこへ出かけた。 会場はバスク会館といった。 スペインのバスク地方からの移住者たちが独自に持っている会館なのだろう。 その集まりがどんなものであったかは、もはや覚えてはいない。 それでも、そこでの出会いから始まって、対権力との関係上から公にはできない集まりへも誘われた。 それは、なんと、ウカマウの『コンドルの血』の上映会であった。 どこからともなく現われた50人近くの、主として先住民系の人びとが、スクリーンに見入った。 ボリビアは、米国「平和部隊」の恣意的な「援助計画」に翻弄された当事国だった。 対象とされた先住民人口も総人口の過半を占めており、問題はあまりに深刻で、政府も「平和部隊」の追放まで行なうだけの、社会的・政治的基盤はあった。 翻って、きわめて少数の先住民人口しかいないアルゼンチンにおいては、先住民は、また別な困難さに直面しているのだろうと、私は考えていた。 (2014年3月19日記) Posted in , , キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。 軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。 外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。 だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。 だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。 ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。 とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。 ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。 関心をもって、声をかけた。 ケチュア人であった。 ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。 ここでは最小限のみ言及しておきたい。 ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。 植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。 植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。 だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。 この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。 多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。 私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。 のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。 ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。 私もその意見には同感だった。 ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。 ここに白人は要らない。 マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。 ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。 逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。 その行動のなかで、ひとは変わり得る。 そのことへの確信とでも言えようか。 民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。 どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。 現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。 ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。 征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。 銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。 そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。 これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。 もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。 ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。 だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。 そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。 ボリビアの一作家は次のように表現したという。 「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。 私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。 1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。 これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。 この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。 この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。 彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。 炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。 (3月14日記) Posted in , , エクアドルの次にはペルーへ行った。 ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。 結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。 この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。 だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。 一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。 「アヤクチョ」については、後に触れる。 ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。 リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。 ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。 現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。 このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。 もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。 リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。 1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。 キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。 21歳だった。 日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。 詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。 後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。 当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。 その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。 こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。 40年前に話を戻す。 首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。 初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。 ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。 トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。 のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。 途中にアヤクチョという町があった。 スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。 夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。 宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。 夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。 当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。 翌日、アヤクチョの町を歩いた。 さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。 「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。 Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。 「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。 何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。 それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。 すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。 こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。 この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。 それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。 (3月13日記) Posted in , , 2020年6月 月 火 水 木 金 土 日 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30• アーカイブ•

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ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne 関根秀雄訳 モンテーニュ随想録 ESSAIS DE MONTAIGNE 第一巻

僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある

このエッセーは開巻第一に置かれているけれども、それは決して最初期に属するからではない。 むしろ「人間というものは変化してやまないものだ」という意見が述べられているからであろう。 こういう人間観は、すべての時期を通じてモンテーニュのいだいた主要な思想の一つであって、第二巻の第三十七章、すなわち一五八〇年版『随想録』の最終章にも述べられていること、また第二巻第一章も同じ思想で充満していること、を思いあわせるべきである。 モンテーニュは『随想録』中の各章を特別の方針によらずに漫然とたばねたもの、すなわち fagotage だと言っているけれども、全三巻を注意して読んで見ると、案外各エッセーの排列には著者の細かい考慮が払われているように思う。 この点については第一巻第二十八章冒頭のパラグラフはきわめて暗示的である。 同章の解説と註を参照せられたい。 そこで、『随想録』全体が一貫した一つの目的のために書かれていることがいっそうよく理解される。 (a)かねて我々に怨みをいだいていた者どもが、こんどこそ 復讐 ( ふくしゅう )の思いをとげようと我々を完全に手のうちに握った時、彼らの心を和らげる一番普通の方法は、降参して彼らの憐れみや同情に訴えることである。 けれども反抗や勇気も、それとは全く反対の方法だが、時に同様の結果をもたらした。 ウェールズ公エドワードは、長いことわがギュイエンヌ州を統治された天性きわめて高邁なお方 *であったが、かねてリモージュ 人 ( びと )に対してきわめて深い遺恨をもっておられたので、彼らの都市を攻めとられたときは、いくら人民が泣き叫んでも、屠所にひいてゆかれる老幼婦女がこもごも彼の足下にひれ伏してお慈悲を叫んでも、ひた押しにおして市中に侵入せられたのであったが、ふとそこにただ三人のフランスの貴族が、信じられない程の大胆さで、彼の勝ちほこった大軍をささえているのにおん眼をとめられた。 そしてその顕著な武勇の程に深く感心あそばされて、始めて憤怒のほこさきを和らげられ、その三人をはじめとして市民全体をおゆるしになった。 * 英王エドワード三世の子、黒太子と呼ばれた人。 モンテーニュはこの話をフロワッサールの中で読んだのであろう。 エペイロスの王スカンデルベルグが、部下の一兵士を 亡 ( な )きものにしようとこれをつけねらわれると、その兵士は、はじめ卑下と愁訴の限りをつくして主君の怒りを 鎮 ( しず )めようとしたが、ついにせっぱつまって、剣をとって王を待つ決心をした。 彼のこの決心は主君の怒りをぴたりととめた。 この男にもこのように尊い決意があったのかと思し召されて彼をゆるされたのである。 この実例は別様の解釈をもゆるすかも知れないが、そのような説をたてる者どもは、この王様の驚くべき武勇のほどを読んだことがないにきまっている。 皇帝コンラート三世は、バヴァリア公ゲルフェンを包囲した時、どんなに卑下した条件をもち出されてもなかなかおゆるしにならなかった。 ただやっとのことで、公と共に城中に囲まれていた貴婦人たちがその名誉を犯されることなく、かちはだしで、みずからその身に負いうるものだけをもって、脱出することをお許しになった。 ところが彼女らは、けなげなことにも、その肩の上に、その夫と、その子と、はては公をさえ、にないゆこうと思い定めた。 皇帝は、その勇気のしおらしさをみそなわして深くお喜びになり、感涙をさえ催された。 そして、公に対するそれまでのやる方ない遺恨を和らげられた。 すなわち、それからというものは、公をも、その身内の人々をもやさしくあしらわれた。 (b)これら二つの方法は、いずれも、わたしが好んでとるところである。 まったくわたしは、慈悲にも寛恕にも、どちらに対してもはなはだ気がよわいのである。 だがわたしの考えるところでは、やはり、どちらかといえば、わたしは人に感心するよりはむしろ同情するように、生れついているらしい。 だがこの憐れみの感情は、ストア学者にとっては悪い感情になっている。 彼らは言う。 「悲しんでいる人たちは助けてやらなければならないが、一緒になってくずおれたり嘆いたりしてはならない」と。 (a)さて以上の実例はこの場合に最も適切なものだと思う。 何となれば、今あげた人々は以上二つの方法のいずれをとるかと迫られた時、一方には頑として抵抗しながら、またもう一方にも降参しているからだ。 あるいはこう言えるかも知れない。 「同情の前にその意志をまげるのは、とかく人を信じやすく、お人よしで、柔弱であるせいである。 だから比較的弱い性質の人々、例えば女子供や俗衆などが、そうなりやすい。 ところがそうではなくて、涙や嘆願などには目もくれず、ただ勇気の聖なる姿を尊敬して始めて降参するのこそ、雄々しく粘り強い力を愛し尊ぶ不撓不屈な心のいたすところである」と。 けれどもそれ程に太っ腹でない人々においても、驚嘆の心が同じ結果を産み出すことがある。 例えばテーバイの民がそうだ。 彼らはその大将たちがその任期を越えて職権を行ったからとて、彼らを裁判にかけ死刑にしようとしたが、そういう無礼な抗議の下におめおめと屈伏してただ哀訴嘆願のみをこととしたペロピダスの方は、なかなかゆるさなかった。 かえってエパメイノンダスの方が堂々と自分の行為を説明し、自信満々、 (c)威張って (a)人民の抗議を責めたものだから、人民は投票をする勇気さえなくしてしまった。 そして群衆は大いにこの人の気宇高大なのを賞め 称 ( たた )えながら解散した。 (c)大ディオニュシオスは、長いこと困難に困難を重ねたのち漸くレギオム市を奪取するや、そしてそこに、この都市をかくまで頑強に防衛した義烈の大将フュトンを生捕るや、これを復讐の血祭りにあげて人々への見せしめにしようと思い立った。 彼はまずフュトンに向って、どのようにして前の日に、彼の息子を始め一族の者どもをことごとく溺死させたかを語った。 するとフュトンはただ一言、「彼らはわたしよりも一日だけ幸福であった」と答えた。 次にディオニュシオスは、獄卒に命じて彼の衣服を 剥 ( は )ぎ縄をうたせ、はずかしくもむごたらしくこれを 鞭 ( むち )うたせながら、しかも口汚なくこれを罵り 辱 ( はずか )しめながら、市中を引きずり廻らせた。 それでもフュトンは泰然自若、きっと 面 ( おもて )をふり仰いで、かえって声も高らかに、こうして祖国を暴君の手に委ねないために命を捨てることは名誉であり光栄である、かえってお前たちの方にこそ近く神々の罰があたるであろうと、ディオニュシオスを威嚇した。 ディオニュシオスは部下の多くの者どもの眼の中に、この敗将が彼らの大将と彼らの勝利とを罵る長広舌に憤るどころか、かえってこの人の稀代の豪勇に威圧されて士気ますますおとろえ、まさにフュトンを獄卒の手から奪いかえそうとする気勢さえあるのを見てとったので、あわててこの迫害を中止し、ひそかに彼を海に送って溺死させた。 (a)実に人間くらい驚くほど 空 ( くう )で・まちまちな・そして変りやすい・ものはない *。 その上に一定不変の判断をうちたてることは容易でない。 あのとおりポンペイウスは、マメルティニ 人 ( びと )に対して大変怒っていたのに、一市民ゼノンが公衆の 過 ( あやま )ちを一身に引きうけ独り刑罰をこうむろうと願い出たその勇と義とに感じて、市民全体をゆるした。 ところが、ス ラの客は、ペルシア市において同じような徳を行ったのに、自分自身のためにも、ほかの人々のためにも、何のとくもしなかった。 しばしば引用される有名な句で、第二巻第十章にも ondoyantet divers という語はでてくる。 なおこの「まちまちで変りやすい」という人間の一般的特質を、モンテーニュは自己のうちにもしばしば認めているけれど、彼自らはそう自覚していただけに、人間として可能な限りにおいて、相当よくこの病弊を克服していると思う。 すなわちこの句その他から推して、モンテーニュその人までも無定見でつかまえ所がない人であったと考えるのは浅はかである。 第三巻第二章における彼の告白およびその註参照。 『随想録』の中にはいろいろな矛盾があるが、それはそれぞれに理由動機があってのことで(巻頭所載の解説にも述べるとおりである)、モンテーニュその人は常に彼の主要な幾つかの考え方の下に統一されている。 (b)それどころか、わたしの始めの実例とは全くあべこべの話もある。 最も豪胆で敗者に対してはきわめて寛仁であったあのアレクサンドロスは、多大の困難ののちやっとのことでガザ市に攻め入り、守将ベティスとめぐりあった。 この人の武勇についてはすでにその攻囲最中にもその驚くべき証拠をみせられていたが、その時は、ただ独りで、部下たちには見すてられ、着ている 鎧 ( よろい )はうちちぎられて、全身血汐と傷とにおおわれながら、なおかつ、四方から切ってかかる多くのマケドニア人を相手に奮戦していたのである。 アレクサンドロスは、自分の勝利がこれほどまでに高くつくのかと思うと口惜しくて(まったく数々の損害をこうむったばかりでなく、おのれ自らさえ二つのなまなましい手傷を負わされていたのである)、ベティスに向ってこう呼ばわった。 お前が思うとおりには死なせはせぬぞ、ベティスよ。 捕虜に対して案じ出される限りのあらゆる責苦をくらわせてやるからそう思え と。 すると相手は、ただに平気なばかりでなく、きっとした屈しない顔つきで、この威嚇を黙殺した。 そこでアレクサンドロスは、この不敵で強情な沈黙を見て、 どうしても膝を曲げないか。 どうしても泣き声をあげないか。 よし、お前の無口をたたき破って見せるぞ。 言葉を吐かせることはできなくても、せめて呻き声は吐かせて見せるぞ と叫ぶや、その憤怒を狂暴にかえ、彼の 踵 ( かかと )になわを通し、これを車の後につなぐことを命じ、生きながら彼を引きずりまわし、ついに五体微塵にしたのである。 そもそも彼にとって豪胆はあまりにも普通のことなので、これを賞賛する気がなくこれを尊重もしなかったのであろうか。 (c)それともまた、これを専ら自分だけのものと考えていたので、これがそんなに高度に他人のなかにもあるのを見て、嫉妬の感情から来る不快を禁じえなかったのであろうか。 あるいはまた、彼の生れつきの憤怒の勢いがあまりにつよく、これをさえぎり止めることができなかったのであろうか。 ほんとうにそれが制御できるものであったのなら、あのテーバイ市を奪い取り踏みにじった際にも、あの勇敢な人々が力尽きて国家防衛の手だてを失いむざんにも剣に貫かれるのを見たら、やはり彼の怒りはおさえることができたはずである。 まったく、この時もゆうに六千人の人が殺されたのであるが、ただの一人として逃げたり命乞いをしたりしたものはなかったのである。 否むしろ、町の中のあっちでもこっちでも、かち誇った敵に挑みかかり、ひたすら名誉ある死を得ようと自ら求めたのである。 実際、これ程のいたでをこうむりながら、その最後の息を吐きつくすまで復讐の志をすてなかったものは、かつてなかった。 死にもの狂いの 刃 ( やいば )をふるって自分の死を誰とでもよいから敵と刺しちがえることによって慰めようとしたものは、かつてなかった。 だのに、この彼らの悲愴な武勇は、ついにすこしも憐れみをそそがれなかった。 そして一日の長さも、アレクサンドロスの復讐心を満足させるのに足りなかった。 この虐殺は、血汐の最後の一滴まで続けられた。 そして武器を帯びない老幼婦女の前でやっと止ったが、それだって、実は、彼らの中から三万の奴隷を得ようがためであったのだ *。 なおこの章に述べられている人間観は、奇しくも 老 ( ろうたん )荘周のそれと完全に一致している。 『荘子』在宥篇第十一に「 人 ( ひと )の 心 ( こころ )は 排 ( おさ )うれば 下 ( くだ )り、 進 ( すす )むれば 上 ( のぼ )り、 上下 ( じょうげ )して 囚殺 ( しゅうさつ )す。 …… 其 ( そ )の 熱 ( ねつ )するや 焦火 ( しょうか )、 其 ( そ )の 寒 ( かん )なるや 凝冰 ( ぎょうひょう )、 其 ( そ )の 疾 ( はや )きこと 俛仰 ( ふぎょう )の 間 ( かん )にして 再 ( ふたた )び 四海 ( しかい )の 外 ( そと )を 撫 ( おお )う。 [#改ページ] 本章から第十八章にいたる一連のエッセーは、一五七二年頃にモンテーニュが読んだグイッチャルディーニとかブーシェとかデュ・ベレとかいう人たちの歴史記録の類が動機として生れた「書籍的」随想の部に入る。 この種のエッセーは当時流行したいわゆる le ons すなわち説話集(ほぼ『今昔物語』『古今著聞集』の類)と大同小異で、まだモンテーニュ独特なものをもっていないと言われる。 彼が自己について語っている部分は、 (b) (c)の標識によってわかるように一五八〇年以後に書き加えられたものであるが、それにしてもモンテーニュの心理学的関心、心理解剖の精緻は、これら初期の短篇の中にも十分現われている。 (b)わたしは最もこの感情 *を免れている者の一人である。 (c)そして、これを愛しも尊びもしない。 だが世間の人は、これをまるで品質証明のレッテルみたいに、特別に有難がって珍重している。 人々はこれでもって知恵と徳と良心とを装わせているが、ばかばかしい変なお飾りもあったもんだ。 イタリア人はこれに悪心という名前 **をつけたが、この方がずっと似合っている。 まったくそれは、常に害のある、常に狂った、そしていわば常に卑怯で下賤な、性質なのである。 ストア学者は彼らの賢人にこの感情を禁じている。 ** イタリア語の tristezza は邪悪という意味をももつ。 ところで (a)こんな物語がある。 「エジプト王プサムメニトゥスは、ペルシア王カンビュセスに負けて捕われの身となった時、自分の娘が下女の装いをさせられて水みにやられるのを目の前に見たが、友人たちは皆して彼の周囲で泣き悲しんだのに、彼独りはじっと足もとを見つめたまま一声も漏らさなかった。 それからまもなく彼の息子が死刑の場につれてゆかれるところを見ても、やはり同じ態度で我慢した。 ところが彼の親しい友人の一人が、多くの囚人の間に交って連れてゆかれるところを見ると、そこで始めてわれとわが頭をうち叩き、限りない悲しみを現わした」と。 この事は、人がつい先頃我々の宮様 *のお一人の御身の上に見たところにくらべることができよう。 そのお方はトレントにあって、長兄の宮の・しかも御家の柱石であり栄誉でもある長兄の宮の・ 訃 ( ふ )をきこし召され、やがてまたまもなくその第二の希望であった次兄の宮の訃にあい給うたが、そしてよくこの二つの不幸に人の模範ともしたいほどの忍耐をもって堪えられたが、それから数日ののちに御家臣の一人がふと他界すると、とうとうこの最後の出来事にお負けになった。 そしてそれまでの我慢をわすれて、深い悲嘆と哀悼に沈ませられた。 そこで或る人たちは、彼はこの最後の打撃にあって始めて心を 衝 ( つ )かれたのだと結論した。 けれども本当は、それまでに既に悲哀にみちあふれておられたればこそ、このごくわずかな増量が忍耐の堤をおし切ったのである。 始めの物語も同様に判断することができよう(と、このわたしは思うのであるが)、ただそこにはこうつけ加えられている。 カンビュセスが、プサムメニトゥスに向って、なぜ令息や令嬢の不幸には動かされなかったのに、一人の友のそれにあのように堪えられなかったのか、とたずねたところ、彼は答えて、それは、この最後の悲しみだけがどうやら涙の中に表現できたからで、前の二つに至っては、どんな表現の道をも遙かに越えていたのである と。 * カルディナル・ド・ロレーヌと言われたシャルル・ド・ギュイズをさす。 次に、長兄とあるのは、一五六三年にオルレアンの攻囲の際刺客ポルトロ・ド・メレに暗殺されたフランソワ・ド・ギュイズのこと。 更に次兄とあるのは、それからわずか十日後に死んだ僧院長クリュニーをさしている。 おそらくはこれにちなんで、あの古代の画家の創意が想い起されるだろう。 彼はイフィゲニア犠牲の図の中に、これに臨んだ人たちの悲しみを、彼らの各々がこの純潔な美しい少女の死に寄せた関心の度に応じて表現しなければならなかったのであるが、いよいよ少女の父を描く段になった時は、もうその芸術の奥の手さえも使い尽していたので、やむなくこれを顔を掩った姿に描いたのである。 あたかもどんな顔かたちもこのような極度の悲哀を表現するには足りないかのように。 同じ理由で詩人たちは、先に七人の息子を失い続いてまた七人の娘を失ったあの不幸な母ニオベを、度重なる不幸のために化して岩となった、 (ウェルギリウス) (a)息子がカンナエの負け軍から生きて帰ったのを見て狂喜のあまり死んだローマの婦人、喜びのために落命したソフォクレスおよび烈王ディオニュシオス、ローマの元老院から与えられた名誉の知らせを読んでコルシカで死んだタルナのほかに、我々は、当世紀においても、法王レオ十世が、かねてから熱望していたミラノ奪取の報知をえてひどく喜び、そのために発熱して逝去されたのを知っている。 それから、人間の力弱さの最も顕著な実例として古人に特筆されたところによると、弁証家ディオドロスは、自分の学校で、衆人の前で自分に提出された議論に答えられなかった恥ずかしさのあまりに、その場で頓死したそうだ。 (b)わたしはこのような烈しい感情にはあまり捉えられない。 わたしは生れつき鈍い感受性 *を持っている。 しかもそれを毎日理性のはたらきによって硬く厚くしている。 本章こそ、当時流行の説話集 le ons の域を脱しない平凡なエッセーが、後年の加筆によってだんだん面白いものに変化して行った好い実例とも見られるが、同時にまたそれらの増加のために散漫になり統一を失った場合の標本とも言えよう。 ここに「我々を越えて」au del de nous と言っているのは chez nous, en nous に対して言ったので、「現在の我々を追いこして」という意味であるから、当然現世を越えた「彼岸」「あの世」という意味も含まれている。 (b)人間が常に未来のものごとを追い求めるのを咎め、我々に「現世の幸福をしっかり捉えよ。 そしてその中に安住せよ。 我々には未来のことがらをとらえることはできないのだ。 それは過ぎ去ったことがつかまえられない以上であるぞ」と教える人々は、いかにも人間の誤りの最も普通なものを衝いているが、きっとそういう人たちは、自然がその仕事を続けてゆくために我々に行わせることまでも、あえて誤りと呼びたいのであろう。 (c)自然は我々が知ることよりも活動することの方をいっそう熱望して、わざと我々の心の中に、他のいろいろな思想とともに、こういう誤った思想までも賦与してくれたのに。 (b)我々は決して我々の許にいない。 常にそれを越えている。 心配・欲望・期待は、我々を未来に向って追いやり、我々から現にあるところのものに対する感覚と考察とを奪って、やがてそれがなるであろうところのものに、いや我々がいなくなる後のことにまで、かかずらわせる。 (c) 未来 *を思いわずらう心は不幸なり (セネカ)。 * ここに言う未来は勿論来世のこと、死後の問題を意味している。 モンテーニュの根本的な考えの一つが、この短い引用句の中にそっとほのめかされている。 それは本巻第十一章その他に、これからしばしば述べられることである。 「汝の事を行い、汝自らを知れ」という偉大な 箴言 ( しんげん )は、プラトンの中にしばしば挙げられている。 その二つの部分は、合して我々の義務の全体を包み、それぞれがまた同じようにもう一方の部分を含む。 自分のことを行わなければならない者は、「自己第一の修業は、自分が何であるか、何が自分に適当であるか、を知ることだ」と悟るであろう。 それから、己れ自らを知る者は、もう他人のことと自分のこととを混同しない。 何事よりも先に自分を愛し自分をやしなう。 余計な仕業や無益な考えや企てを捨てる。 愚者は、これにその欲するがままをゆるすもなお満足せざるべし。 されど賢者は、現にあるものに満足し、決して自らに不満をもつことなし (キケロ)。 エピクロスによれば、未来の洞察と用意とがなくても、人は賢者になれるのだ。 (b)死者に関するもろもろの法規のうち、最も動かしえないもののようにわたしに思われるのは、「帝王たちの行為はその死後において審判されなければならない」というそれである。 彼らは法規と同列のものであって、その主人ではない。 正義がさきに彼らの頭上に加え得なかったものを、あとから彼らの評判の上に、彼らの後継者の財宝の上に、すなわち我々がしばしば生命よりもだいじにするそれらのものの上に、加えるのは当然である。 実にこの習慣は、これが守られている国々に非常な便益をもたらすばかりでなく、すべての善王たちがむしろ乞い願うところである。 (c)彼ら善王は、悪王の記憶が彼らのもののように考えられてはやりきれないからだ。 我々は臣従と恭順とを等しくすべての王に負う。 まったくそれらは彼らの官職に属するのである。 けれども、尊敬は、愛慕と共に、ただ彼らの徳に対してだけ捧げればいいのだ。 国家の秩序のために、我慢してふさわしくない王に堪えよう。 彼らの不徳をかくしてやろう。 彼らの権威が我々の支持を必要とする限りは、我々の勧告でもってその心ない一挙一動を助けてやろう。 だが我々の主従関係がひとたび終ったら、正義に対し、また我々の自由に対して、我々のいつわらぬ感情の表出を拒むのは間違っている。 特に主君の欠点をよく知っていながらこれに 恭 ( うやうや )しく忠実に仕えた忠臣の光栄を、その人に与えることを拒むのは間違っている。 そんなことをしては、後世からそういう有益な模範を奪うことになる。 それから、個人的な恩義があるからといって、賞めるべきではない王の記憶を不正に擁護する人々は、自分独りの節義を完うするために天下の正義をそこなうことになる。 次のティトゥス・リウィウスの言葉は真実である。 「王様の庇護の下に養われた者の言葉は、常におびただしい虚飾と空なる証言に満ちている。 皆が見さかいなく自分の王様を 渾徳 ( こんとく )の最上位に押し上げるから *」。 * ここにモンテーニュの政治上の理性主義、ないしその帝王機関説の片鱗がうかがわれる。 後出三の一参照。 人はネロに対して不敵な返答をした、あの二人の兵士の大胆さを非難することもできよう。 一人は、なぜわたしを憎むのかときかれると、「おれはお前を、かつてはそれに値したから、敬愛もした。 だが今は、父殺し・火つけ・大道芸人・馬丁となり下ったから、それなりにお前を憎むのだ」といった。 もう一人は、なぜわたしを殺そうとするのかと問われて、「これよりほかにお前の止めどのない悪逆をおしとどめる方法がないからだ」と言ったのである。 けれども、彼の悪逆無道について彼の死後になされた・そして永遠にくりかえされるであろう・あの全世界の証言にいたっては、健全な悟性を有するかぎり、なんぴともこれを非難することはできないであろう。 わたしが不快に思うのは、あのラケダイモンのような神聖な国にも一つのはなはだしい虚礼があったことである。 王が死ぬと、すべての同盟者及び隣国人、すべての島民は、男も女も、皆入り交じって、その額を切って 喪 ( も )のしるしとし、大声で泣きわめきながら、その王こそ(実際はそれがどんな王であったにしても)、自分たちが戴いた最善の王であった、と言いふらす。 すなわち、功績に捧げるべき賞賛を、王という位にささげ、しかも最高の功績に属すべき賞賛を、最低最下の位にささげたのである。 アリストテレスは、あらゆる問題をあげつらった人であるが、ソロンの「誰でも死なないうちは幸福だと言われるわけにゆかない」という言葉に関して、「では、仕合せに生きそして死んだ者は、あとでその評判が悪くなっても、子孫が困窮しても、それでもなお幸福だと言っていいのか」と尋ねた。 我々はうごめいている間こそ、先回りによってどこへなりともすきなところにゆく。 だがひとたび生を失えば、我々はどんなものとも没交渉になるのだ。 して見れば、ソロンはこう言った方がよかったのではないか。 「絶対に人は幸福になることはない。 人は亡くなった後でなければ幸福ではないのだから」と。 (ルクレティウス) (a)ベルトラン・デュ・ゲクランは、オーヴェルニュのピュイに近いランコンの城を攻囲中に戦死した。 籠城者たちは、後に降伏したとき、この人の遺骸の上に城の鍵をささげさせられた。 ヴェネツィア軍の総大将バルトロメオ・ダルヴィアノがブレシアノ地方の遠征中に戦死し、遺骸が敵地ヴェロナを通ってヴェネツィアに運ばれなければならなかった時、軍中の人々の大部分は、この際ヴェロナ側に向って通過免状を乞うがよいという意見に一致した。 ところが、テオドロ・トリヴォルツィオはこれに反対した。 そしてむしろ、合戦の運にかけても押し破って通る方がましだと主張した。 生前少しも敵を恐れなかった者が、死んでからこれを恐れるような風を見せるのは、似合わしくない と言って。 (b)まことに類似の場合に、ギリシアの法律によると、埋葬のために敵に向って死骸の引渡しを乞うたものは、勝利のほまれを放棄したものと見なされ、戦勝塔を建てることがゆるされないことになっていた。 そしてその乞いを受けた者の方に、かえって戦勝の名目がゆるされた。 そんなわけでニキアスは、そのコリントス勢に対して明白にかちとった勝利を失った。 そしてアゲシラオスの方が、そのボイオティア勢に対してすこぶるあやしげに得た勝利を確実にした。 (a)これらの事柄はめずらしいことのように思われるかも知れないが、事実いかなる時代にも我々が自己に関する心遣いをこの世の向うにまで及ぼすことはもちろん、天寵がきわめてしばしば墓の中まで我々についてゆき、我々の遺骨にまでも及ぶと信ずることさえ、ゆるされていたではないか。 これについては、古代の実例はずいぶんたくさんあるから、我々の間の例を別にしては、特にわたしがこれに言及する必要はないと思う。 イギリス王エドワード一世は、スコットランド王ロバートとの長い戦いの間に、自分の親臨がいかに味方の戦闘によい影響を及ぼすかを経験したので、つまり自ら陣頭に立った場合はいつも勝利をえたものだから、その死に臨むや、太子に向い、「わたしが死んだら、必ずわたしの遺体を煮て骨と肉を分離させ、肉はこれを墓に葬り、骨の方はこれをとっておいて、スコットランドに事あるたびに、お前自ら身に帯びて出陣せよ」とおごそかに遺言された。 あたかも運命が勝利を決定的に彼の手足に結びつけているかのように。 (b)ヨハン・ジシュカは、ウィクリフの邪説をまもるためにボヘミアを乱した人であるが、自分の死後その皮膚を剥ぎ、それで太鼓を作り、敵と戦うにあたってはいつもそれを携えてゆくようにのぞんだ。 彼自ら指揮して得た勝利をそうやって継続できると考えたからだ。 同様に或るインド人たちは、スペイン人との戦いに、彼らの酋長の一人の遺骨を携えてゆき、彼が生きていた時のめでたき武運にあやかろうとした。 また同じ地方のもう一つの民族は、その合戦の際に倒れた勇士たちの死骸を戦場に引きずってゆき、味方の武運と激励とに役立たせた。 (a)始めの例は、いずれもただ彼らの過去の行為によって得られた評判を墓の中に保存するだけであるが、後者はそこに更に積極的な効果を発揮させようとしている。 勇将バイヤールの物語は最もよくできている。 この人は、火縄銃によって胴なかに致命的な傷をうけたことを覚ったが、戦場から退くようにすすめられると、「おれは最期に臨んでも敵に背なかをみせようとは思わない」と答えた。 そして力の限り戦い、いよいよ力がつきて馬に乗っていられなくなってから、始めて家令に命じてその身を或る樹の根もとに横たえさせた。 ただしあくまでも敵におもてを向けて死ねるように。 そして望みどおり敵をにらんで死んだ。 わたしはこの問題のために、さきにあげたいずれにも劣らない著名な事例をもう一つ加えなければならない。 皇帝マクシミリアンは、現在の王フィリップには曽祖父にあたらせられ、偉大な特質を沢山にもっておられたが、わけても玉体まことに美しくいらせられた。 だが、いろいろな御気質の中に、帝王の御気質には全く反するそれを、すなわち、火急のおん大事ある時は便器に跨ったまま御決裁を遊ばされるという帝王がたの常とは、はなはだちがったそれを、持っておられた。 というのは、最もなれた下僕にさえ、その便所における姿をお見せにならなかったのである。 小便をなされるにも隠れてあそばされた。 まるで年頃の娘のように気をつかって、医者にも誰にも、人が通例かくしておく諸器官を見られまいとなさった。 (b)わたしだって、露骨な口はきくけれども、やはり、生来、この恥じらいは知っている。 必要あるいは欲望に大いにけしかけられない限り、我々の習慣が隠せと命じている器官や行為を人前に示しはしない。 わたしは、男としては、特にわたしのような職分 *の男としては、むしろ不似合だと思うほど、その点では窮屈にしている。 だが彼においては、 (a)これが余りに神経質すぎた。 彼はその遺言書の明文によって、自分が死んだら股引をはかせてくれ、とまでお命じになったのである。 それ程に思うなら、追って書きの中に、「それをはかせてくれる者は目隠しをすること」とでもつけ加えればよかったに。 (c)キュロスはその子供たちに、「お前たちにしろ誰にしろ、魂がこれを離れた後は、決してわたしの体にさわることも見ることもならぬ」と言ったが、わたしはこれを彼の何かの信心のせいにする。 なぜなら、彼の伝記を書いた人〔クセノフォン〕も彼自らも、ともに彼らの一生を通じて幾多の偉大な特質を示しているが、始終そこに宗教に対する特別の心遣いと敬意とを交えているから。 * 彼は自ら、王臣 gentilhomme たること武士 soldat たることをもって、本職と心得ているのである。 (b)これはさるやんごとなきお方が、わたしの親類の者で治乱 何 ( いず )れにおいても相当その名を知られた或る男について、わたしにお話しになったことであるが、わたしはそれを伺っていやな気がした。 彼はそのお方の宮廷にお出入りをしていたものだが、老衰の末死に臨むと、結石の激しい痛みに苦しみながら、その最後の時間のすべてを、一方ならぬ心遣いをもって自分の埋葬の儀式を指図することに費やし、自分を見舞に来て下さるすべての高貴な方々に、「必ずお前の葬儀には参列してやる」という約束をおさせしたのである。 わたしにこの話をなさったその宮様に対してさえ、彼がその最期をお見舞い遊ばされた際、「どうか御家中全体を私の葬儀に参列させて下さい」としつこくお願いし、いろいろな先例や理由をあげて、それが自分のようなものには当然なことであると証明したのである。 そして、やっとそのお約束を得てしまうと、そして思うがままに葬礼万端の手筈を命じ終ると、さも満足そうに絶命した。 こんなに執念深い虚栄はあんまり見たことがない。 これとは正反対の執心も(ここにもわたしは身内の実例を欠かないのである)、すなわちその葬礼をある特別な例のないつましさをもって極度に切りつめ、お供一人 提燈 ( ちょうちん )一張りに限ろうとまで心を砕くのも、やはり同じたぐいであると思う。 なるほどこの心持をほめるものがある。 マルクス・アエミリウス・レピドゥスの遺言をほめるものがある。 この人はその相続者に向って、そのような場合に世間でするのを常とする儀礼をわがためには行うに及ばないと言ったのである。 だが、自分に知覚されない浪費と満足とを避けることも、やはり節制質素なのであろうか。 そんなことは楽な・辛くも何ともない・苦行である。 (c)葬式の指図までする必要があるとすれば、わたしはその場合もまた、人生諸般の行事におけると同様に、めいめいがその身分境遇にふさわしいように取りきめるべきだと思う。 哲人リュコンは、賢明にもその友に遺言して、「わたしの死骸は皆がもっともよいと思うところに埋めるがよい。 葬儀に至っては、贅沢にも粗末にもならないようにせよ」と言ったのである。 (b)わたしならもっぱら習慣にこの儀礼を指図してもらう。 そしてその決定はわたしがその時御厄介に相成るであろうどなたになりとよろしくお委せする。 (c) そは自分のためには軽視すべく・残れる家人にとっては大切にすべき・事柄なり (キケロ)。 それから、或る聖人は、いかにも聖人らしく、 葬儀の心遣い、墓場の選択、法事の壮麗は、むしろ生ける者の慰めにかかわることにして、死者のためにはどのようにてもよきことなり (聖アウグスティヌス)と言われた。 だからソクラテスも、その臨終の時に自分に向って「先生はどのように葬られることをお望みですか」ときいたクリトンに、「君たちのよいように」と答えたのである。 (b)でももう少しこのことを大切に考えておくべきだと言うなら、むしろわたしは、生きて息をしているうちから自分のお墓の壮麗を楽しもうと企てる人々、自分の死んだ姿を大理石の中にあらかじめ見て喜ぶ人々の方を、真似ることにしよう。 その方がまだ気がきいている。 幸いなるかな、無感覚によって自己の感覚をよろこばすすべを知る者! 自己の死によって生きるすべを知る者! (c)わたしは、あのアテナイの民の非道を思い起すと、あらゆる民主国家に対してどうにもおさえきれぬ憎悪にかられそうである。 民主主義こそ最も自然で公平な制度だとわたしは思っているのだが *。 彼らはあのアルギヌサ島付近の海戦で(それはギリシア人が全兵力を挙げて海上で戦った最も危険な激しい戦いであったと言われている)ラケダイモン人を打ち破って凱旋したあの勇敢な大将たちを、すでに勝利をえているのにひたすら戦法上の好機を追うばかりで、とどまってその死者を収容し弔慰しなかったと言って、すこしも容赦するところなく、その弁解を聴くことすらしないで、殺してしまったのである。 それにディオメドンの事跡は、この処刑をますます忌わしいものに思わせる。 この人は、その処刑にあった内の一人であるが、将軍としても政治家としても、誠に高徳の人であった。 彼は彼らの宣告文をきき終ると、意見を述べるために進み出て、群衆のようやく静まるのをまって、少しも自分のために弁解することなく、またこの残酷な決議の非道を鳴らすこともなく、ただただ裁判官たちの身の上が心配になると述べ、どうかこの判決が彼らの幸福に転ずるようにと神々に祈った。 そして、さきに自分たちが神々に捧げた誓いを、このような輝かしい武運を得たことを感謝しながら実行しえないことから、神々の怒りが自分たちよりもかえって裁判官の方にふりかからないようにと、その誓いがどんなものであったかを人々にあかした。 そして少しも余事に及ばず、減刑を乞うこともせず、そのままいさぎよく刑場にむかった。 運命は、数年の後、アテナイ人たちの上に、しっぺい返しをくらわした。 まったく、アテナイ軍の水師提督カブリアスは、スパルタの海将ポリスをナクソス島付近でうち破ったが、前例の不幸を再びなめまいとして、その国の興廃にとって最も重大な戦争の確実な成果を失った。 そして、海上にただよう味方の死骸を一つも失うまいとしてみすみす大勢の敵を生きて帰らせ、後に彼らに、この七面倒な迷信を価高く払わせるもとを作った。 (ルカヌス) (a)ゆり動かされた霊魂もまた、そのすがりつく所が与えられないと、ただいたずらに自己の内側を彷徨するばかりのように思われる。 だから必ず何かそれがぶつかり働きかけるものをそれにあてがわなければならない。 プルタルコスは、牝猿や子犬をかわいがる人たちについて、「我々の内にある愛の器官は、正当な目あてがないと、空しくそのままにやまないで、このようにうその・仮の・相手をさがし出す」と言っている。 いや我々はよく知っているではないか。 霊魂は昂奮すると、嘘の・気まぐれの・相手をこね上げ、自分自身の所信に逆らってまでもわれとわが身を欺き、決して何者にも働きかけずに終ることはないということを。 (b)だから怒り狂った動物は、夢中で自分を傷つけた石や刃物にうちかかるのである。 いや、自分の身体を噛みやぶって自分が感じる苦痛の復讐をするのである。 (ルカヌス) (a)我々は、我々にふりかかる不幸について、どんな原因をも造り上げる。 何かに打ってかかりたくて、何にでも見さかいなく食ってかかる。 だが、あなたのいとしいお兄さんをむざんにも鉄砲でうち殺したのは、あなたが掻きむしるそのゆたかな金髪でもなければ、怒ってあなたが乱暴にうちたたくその白い胸でもないのだ。 ほかのものに食ってかかりなさい。 (c)リウィウスは、スペインにおけるローマ軍がその偉大な大将であった二人の兄弟を失った時の有様を語って、 人々は皆涙をながし一斉にその頭をうち叩けり と言った。 これは普通のことなのである。 哲人ビオンは、悲しんでその髪の毛をかきむしった王について、冗談を言ったではないか。 「この人は、毛を抜けば悲しさが軽くなるとでも考えたのかな」と。 (a)お金をなくした腹いせに、カルタを噛んで飲みこんだり、 骰 ( さい )の 鞘 ( さや )を呑み下したりするのを、見たことのない者はあるまい。 クセルクセスは、 (c)ヘレスポントスの (a)海を鞭うち、 (c)これに鉄鎖をつけ、さまざまにこれをこらしめた。 そして (a)アトスの山に決闘状を送った。 それからキュロスは、大軍を用い数日にわたってギュンデス河に復讐した。 これを渡った時にひどくこわかったからである。 またカリグラは、かつて母がそこでなめさせられた辛酸に報いるために、いとも壮麗な宮殿をうちこわした。 (c)わたしは幼い頃、よくこんな話をきいた。 「隣国のさる王様は神の鞭を受けたのに対してひそかにその返報をしようと誓い、『十年のあいだ神を祈ってはならぬ。 神について語ってはならぬ。 またわたしが位にある間は決して神を信じてはならぬ』と布告した」と。 このお話は、その国に特有な愚かさを描いているのではなく、むしろその傲慢さの方を物語っているのであった。 この二つは常に相伴う不徳であるが、今申したような行為は、まったく愚昧よりもむしろ傲慢から発するのである。 (a)アウグストゥス・カエサルは、海上で暴風雨にうたれてから、神ネプトゥヌスをうらむようになった。 そして円形競技場での華やかな競技の最中に、いっしょに並んでいる他の神々の間からネプトゥヌスの像を取り除かせてうっぷんを晴らした。 こんなことをした彼は、前のキュロスよりもカリグラよりもずっとゆるされがたい。 いや後年ドイツにおいて、クインティリウス・ウァルスの指揮の下にある味方が戦争にまけたときき、憤怒と絶望のあまり ウァルスよ、わが兵卒をかえせ と叫びながら、自分の頭を壁にうちつけて歩いたそのときよりも、いっそうゆるされがたい。 まったく、神や運命にまで、あたかもそれが自分たちの攻撃をきく耳を持っているかのように食ってかかる人々は、どんな狂気をも越えていると言わなければならない。 そこには不敬さえ加わっているのだから。 (c)それは、トラキア 人 ( びと )が雷がなったり稲光りがしたりする間、ティタンの復讐にならって天に向って弓を引き、矢によって神々に言うことをきかせようとしたのに似ている。 (a)要するに、プルタルコスの中でかの古代の詩人が言っているように、 (a)ローマ軍の副将ルキウス・マルキウスがマケドニア王ペルセウスと戦った時、味方の軍勢をたて直すための暇を得ようとして 和睦 ( わぼく )の申し入れをしたところ、マケドニア王の方はうっかりのせられて数日にわたる休戦をうけ入れ、まんまと敵に兵力を補充する機会と日時とを与えてしまった。 結局、そのために、王はあえなき最期をとげるに至ったのである。 ところが元老院の老人たちは、父祖の心事を想い起し、このやり口を古来の国風にもとるものだと非難した。 (c)つまりそれによれば、戦うには武勇をもってすべきで、 詭計 ( きけい )をもってしてはならなかったのである。 不意討も夜討もいけなかった。 逃げるふりを見せて不意に返り打つこともいけなかった。 戦争は布告してからでなければ行わず、しばしば戦場と時刻とを予告してからしたのである。 こうした良心から、彼らはピュロスに彼を毒殺せよとすすめる不忠な医者を引きわたし、ファリスキ人にはそのよこしまな学校教師をわたしたのであった。 これこそ真にローマ的な態度であって、力によって勝つことをまやかしによる勝ちよりもほこるに足らぬとする、あのギリシア的狡知やカルタゴ的狡猾とは違うところなのである。 詐欺もその時は役に立つ。 けれども、詭計によらず時の運によらず、正々堂々たる戦いにおいて互いに隊と隊と相まみえ、武勇によって打ち負かされたと思う者こそ、本当に参ったと思うのである。 (a)これらの正直な人々の言葉を見ると、彼らはまだ (エンニウス) テルナト王国では(それは我々が口をきわめて野蛮国ときめつける国々の一つだが)、「戦争はまずもってこれを布告してからでなければやらぬこと。 しかもその布告には、それに用いようとする手段、すなわち、いかなる兵士を幾人・またいかなる軍用品・いかなる攻防の具・を用いるかについて、十分な説明を付け加えること」が習慣になっている。 だが、それだけの事をしても、なお相手が譲歩もせず和解をも乞わない場合には、最悪の方法に訴えることをあえてする。 そうなったら裏切りだろうが詭計だろうが、勝つためにはどんな手段を用いても咎められるわけはないと考える。 昔のフィレンツェ 人 ( びと )は、奇襲によって敵に勝ちたいなどとは少しも思わなかったから、いよいよ兵隊をくり出す一カ月も前から、マルチネラと呼ぶ鐘を絶えずうち鳴らして敵に予告した。 (a)我々にいたってはそれ程までに潔癖ではなく、戦争から得をえる者をもって勝利の名誉をになう者だと考え、リュサンドロスにならって、「獅子の皮だけで足りない所には狐の皮をはぎ合せろ」と言っているが、奇襲はたいていの場合、この言葉を実践したものである。 そして、我々のよく言うことであるが、講和談判の時くらい大将が注意の眼を見張らねばならぬ時はないのである。 そこで、そうした理由から、「包囲された城の大将は講和のために自ら城を出てはならない」ということが、現今のすべての軍人がひとしく唱える 掟 ( おきて )となっている。 我々の父たちの時代に、ナッソー伯に対してムーゾンの城を守ったモンモール及びラッシニ両侯は、この点で非難された。 だが、それにしても、安全と利益とがなお味方にとどまるようにうまくやるぶんには、城を出ることも許されるべきであろう。 まったく、彼はごくわずかにその城を離れただけであったから、その談判の最中に 小競合 ( こぜりあい )が起った時には、かえってレスキュット殿およびその護衛隊の方がかなわなくなり、アレクサンドロ・トリウルツィオまでがそこであえなく討たれたばかりでなく、レスキュット殿自らさえ、自分の命が助かるために伯の後に従い、その証言を信じて敵の城中に入り、辛うじて難をまぬかれるというような始末だったのである。 (b)ノラの城中にいたエウメネスは自分を包囲したアンティゴノスから、しきりに講和のために出て来いとうながされた。 アンティゴノスが、さまざまな条件をもち出した末、「おれの方が位も高く力も強いのであるから、お前の方から出て来るのが当然だ」と言いはると、エウメネスの方では、「おれにこの剣のある限り、おれに優るものがあろうとは思わぬ」と立派な返答をして、要求どおりアンティゴノスの方からその甥のプトレマイオスを人質として送ってよこすまでは、頑として城を出なかった。 (a)けれどもまた、攻囲者からすすめられるままに城を出て、かえって得をした者もある。 例えばかのシャンパーニュの騎士アンリ・ド・ヴォがそれであった。 彼はコメルシの城においてイギリス兵に包囲されていたが、包囲軍の大将バルテルミ・ド・ボンヌは、城外から坑道を掘りすすめてすでに城の下の大部分を侵し、今はただこれに火を点じさえすれば籠城の士卒を微塵になしうるまでになったので、今言ったアンリにいよいよ四度目の使を出し、出て来て和を講ぜられる方がおためであろうと申し入れた。 そのようにして彼の明白な破滅が目の前に示されたので、アンリは深く敵の深切に感じた。 実にその情誼によって、彼がその兵とともに降った後に、はじめて火が坑道内に点ぜられ、支えの柱が吹っとんで、城はとうとう 木端微塵 ( こっぱみじん )になったのである。 (b)わたしは容易に他人の誠意を信ずる。 けれども、「あれはむしろ絶望のあまり勇気がなくなってやったのだ。 率直さによってでも、こちらの真心を信頼してでもない」などと判断されそうな場合には、そうやすやすと人のいうなりにはならないであろう *。 (a)けれどもわたしは、この頃近くのミュシダンで、わが軍のためにここを撃退された者どもが、彼らの党派の誰彼とともどもに、「和睦の交渉中、しかも談判がなお継続中だというのに、いきなり自分たちを急襲し全滅させたのは裏切りだ」と非難しているのに会った。 なるほど世が世ならば、おそらくそれももっともと言わなければなるまい。 だが、今し方わたしが述べたとおり、我々の習わしはそういう掟からは全くかけ離れているのである。 すなわち、約束の最後の調印がすむまでは、お互いに気をゆるしてはならないのである。 それまではまだ事終っていないのである。 (c)だから、やさしい有利な話しあいによってたった今自分たちの都市の降伏が容れられたからといって、早くもその約束が本当にまもられるものと思いこみ、勝ちほこった敵の欲するがままに、その士気が最もあがっている最中に、敵兵の自由入城をゆるすなどは、やはり危険千万なことであった。 ローマの執政官L・アエミリウス・レギルスは、フォカエアの城を奪い取ろうと努めたが、住民のたぐい稀な勇敢さのために空しく時日を失ったので、「是非自分たちを連合国の都市に入るように入城させよ。 今後は君たちをローマ人の友と見なすから」と約束して、彼らに敵対行為に対するすべての心配をすてさせた。 けれども、彼がその威武を示すために軍を従えてそこに入城した時には、いかに努力しても、部下の昂奮を抑えることができなかった。 そして目の前にそのフォカエアの町の大部分が、軍靴に踏みにじられるのを見なければならなかった。 つまり、欲望と復讐の力が、ついに彼の権威および軍規の力を踏み越えたのである。 (a)クレオメネスは言った。 「戦争中は敵にどんな危害を加えても是非を問われない。 それは神々の眼から見ても、人々の眼から見ても、正義に反しない」と。 そしてアルゴス人と七日の休戦を約しておきながら、三日目の晩に寝こみを襲ってこれを破り、「自分の休戦条約の中には夜のことは何とも言ってない」と言訳をした。 だが、神々はこの不信と狡知をお罰しになった。 (c)談判のあいだに人々が心をゆるめたひまに、カシリヌムの都は奇襲によって奪われた。 しかもそれは、最も正義を重んずる軍士と最も軍規厳正なローマ民軍時代のことである。 まったく、「もって来いの時と場所でも、敵の卑怯につけ入るようにその愚かさを利用することはゆるされない」などとは、どこにも言われてないのである。 いや本当に、戦争というものは、本来理屈にもとりながらしかも理屈の立つ特権を、たくさんに持っている。 そこには、 何人 ( なんぴと )も他人の愚かさにつけ入りて利得すべからず (キケロ)という規則はないのである。 だがわたしはクセノフォンが、彼が戴いていた完全な皇帝 *の御言葉により、またそのさまざまの御勲功によって、こうした諸特権にえらく広い幅をもたせているのには驚く。 彼は大将としても、ソクラテス門下の高足の中に数えられる哲学者としても、この種の問題にかけてはすこぶる重きをなす作者であるのに。 わたしは、どんな場合にも、あんな広範な許容には賛成できない。 * クセノフォンがその著『キュロペディア』の中に描いている理想の皇帝キュロスを指す。 (a)ドビニ殿がカプアの町を包囲しこれにはげしい攻撃を加えた時のこと、お城の大将のファブリツィオ・コロンナ殿が 稜堡 ( りょうほ )の上から和睦を申し出て、部下のものどもがいささか手をゆるめたすきに、我が方の強者どもは 忽 ( たちま )ちに城を奪い取りこれを微塵にしてしまった。 いや、もっと記憶に新たなところでは、イヴォアにおいてユリアノ・ロメロ殿が 粗忽 ( そこつ )にもモンモランシー元帥殿と講和しようとしてその城を出たところ、帰って見ると城はすでにとられていた。 しかし彼らもまた仇を取られずにはすまなかった。 ペスカラ侯が彼らの庇護の下にオクタヴィアノ・フレゴサ公の司令していたジェノヴァを包囲した時のこと、講和談判が両方の間で大いに進み、人々はみなそれがすでに成立したものと信じていたところ、いよいよそれが締結されようとする瞬間に、スペインの軍勢が 雪崩 ( なだれ )のように押し込んで来て、まるで勝利者のような顔をした。 またそれから後には、ブリエンヌが司令していたバロア州リニ市で、皇帝おん自らこれを取り囲み、ブリエンヌ伯の副将ベルトゥーユが講和のために城を出たところ、その協議の最中に城はもう奪われていた。 (アリオスト) と彼らは言う。 けれども哲人クリュシッポスは意見を異にした。 わたしだって余り賛成ではない。 まったくクリュシッポスが言っているとおりである。 競走をするものは、もちろん早さのために全力をつくさなければならないが、手をさし伸べて相手をさえぎったり脚をのべてこれを倒すようなことは、とうてい許されるわけがないのである。 (b)いや、更に高潔なのはあのアレクサンドロス大王で、夜にまぎれてダレイオスを撃つことが得策だと勧めたポリュペルコンに対して、「いけない」と彼は言ったのである。 「勝利をかすめ取るのは、わたしがすることではない。 恥ずべき勝利をえんよりは、むしろわれ運つたなきを嘆かんのみ (クイントゥス・クルティウス)」と。 (a)死はあらゆる義務から我々を解放すると言われる。 わたしはこれをさまざまに解釈した人々を知っている。 英国王ヘンリー七世は、あのマクシミリアン皇帝の御子ドン・フィリップ、もっと尊げに並べて呼び奉るならばカルル五世皇帝の御父ドン・フィリップと仲直りされたが、その時そのドン・フィリップは、ヘンリーの敵でオランダに逃れて隠居していた白ばら家のサフォーク公を、決してその命を害しないならばという約束でヘンリーの手に委ねた。 ところがそのヘンリー七世は、死に臨むと、王子に遺言して、自分が死んだら直ちに彼の命を絶て、と命ぜられた。 近くはアルバ公がブリュッセルにおいてホルン侯とエグモント侯のおん身の上に関して我々に見させたあの悲劇の中にはいろいろと注目すべき事柄が沢山にあったが、中でもかのエグモント侯は(この人の言葉を信じてホルン侯はアルバ公に降ったのだったから)、どうか自分をさきに死なしてくれと嘆願せられた。 彼は死んでそのホルン公に対する義理から解かれようと思ったのだ。 だが死はヘンリー七世をその約束から決して解除しなかったし、エグモント侯の方は死ななくてもその責めをゆるされていると思う。 我々は我々の力と手段とを越えて、責任を負うことはできないのである。 だから、行為と実践はとうてい我々の力ではどうにもならないのであるし、本当に我々の力で動かせるのはただ意志だけであるから、その意志なるものの中にこそ、人間の義務に関するすべての規則は、必然的にその礎を置かれおし立てられなければならないのだ。 こう考えるとエグモント侯は、その霊魂と意志とに約束の責任を負わせているから、これを実行するだけの力をもたなかったとはいえ、そしてホルン侯よりあとに生き残ったとしても、確かにその義務から解かれている。 ところがイギリス王の方は、その意図によってその約に背いたのであるから、この不信の実行を死後までのばしたからといって、到底ゆるされるわけにはゆかない。 それはヘロドトスの石工と同じことである、そいつは、自分の仕えていたエジプト王の宝の秘密を生きている間こそ忠実に守ったが、死にのぞんでそれを子供たちにあかしたといわれる。 (c)わたしは当世の多くの者どもが、ちゃんと他人の物をかすめ取っていることを意識していながら、遺言によって自分が死んだ後にそれを弁償すればいいと思っているのに出あった *。 早速にもなすべきことをそんなにおくらせたり、そればかりの悔恨と賠償とをもって悪事を償おうとするなんて、まったく彼らのするところには一文の値打もありはしない。 彼らはそれ以上に、自分自身のものまで吐き出さなければいけないのだ。 いや、つらい苦しい思いをして支払えばこそ、彼らの賠償もそれだけ正しくそれだけ値打のあるものとなるのである。 後悔は重荷であることを要する。 * 第三巻第二章「後悔について」にこの泥棒の話が詳しく語られる。 他人に対する何かの遺恨を、生きている間は隠しておいて、それを洩らすことを遺言の時まで取っておく人々と来てはますます悪い。 いや、それは余りにも己れ自らの名誉をおろそかにしている証拠である。 そうやって心を傷つけられた者は、彼らを思い出すたび毎に憤慨させられるのだから。 また、むしろ、自らの良心を大切にしていない証拠でもある。 というのは、彼らは、厳粛な死のまえでさえ自分の遺恨をすてきれなかったばかりか、その執念を自分の命以上に延ばしているのだから。 ことの真相が認識できなくなるまでその判決を延ばす裁判官もまた不正である。 わたしはできるものなら、わたしの死が、わたしの生がかつて言ったことよりほかには何も言わないようにと、心がけよう。 [#改ページ] モンテーニュはここに漠然と簡単ながら、どうして自分が随筆など書くようになったかを述べている。 だからここには、最後のパラグラフに何となくわが『徒然草』の書き出しの句を思わせるようなことが書かれているのを見るだけである。 第一巻第五十章、第二巻第八章のはじめにおかれた解説をあわせ読まれたい。 モンテーニュが何時頃から読書家から文筆家に転じたかは、資料によって確立しがたいが、やはりラ・ボエシを失って、心中悶々の情を聞いてもらうすべを失ってから、いよいよ紙に向って独り、t te t te avec lui-m me をするより仕方がなくなったからであろう。 (a)ちょうどただの空地は、よしそれが肥えていても、種々さまざまの役に立たない雑草がもさもさしていて、これを役に立てるためには、我々の役に立つような何かの種子をそこに蒔かねばならないように、また婦人たちはたった独りでもなるほど形のない肉の塊やかけらを産み出しはするが、善い自然の世継が得たいならば、なおもう一つの種子をそこに加えなければならないように、精神もまた同じことである。 人がもし何事かでそれをみたし、それを抑制することがなければ、精神もだだっぴろい想像の野原をただ無茶苦茶に駈けめぐるばかりであろう。 この章もまた初期の随想の一つであるが、後に自らを描こうとする意図が加わって始めて興味津々たるものとなった。 モンテーニュはその序文のなかで第一に約束したように、常に率直正直である。 だからしたくなれば自慢もするが、欠点といえどもあえて少しもかくそうとはしない。 世の学者先生や著者たちが、いかにも自分は頭がよく、道徳的にも潔白であるような顔ばかりするのとは、まさに反対である。 そこにモンテーニュの魅力の一つがあろう。 ここでも彼は、自分の記憶力の不足を告白する。 ただそれだけでも物おぼえの悪いのをひそかに嘆いている読者は慰められるが、さらに彼はそういう欠陥にもまたなにかの取り柄があること、そしていわゆる長所だって場合によっては自他を困らせることなどを教える。 ここにも無為無学をたたえ、無用の用あることを説く老荘道家の発想と相通ずるものがある。 とかくものごとをただ一方からばかり眺め、因習的な判断にばかりとらわれていた人たちは、なるほどそういう見方もあるのかと、始めて気がつく。 そしてその眼界をもその思想をも広くゆるやかにしてもらう。 むしろそんな小さなことを悲しんだり 羨 ( うらや )んだりするよりも、自己の真実に徹することの方が、人間にとっては肝心なのだということを教えられる。 この一章の主意はおそらくそうしたところにあるであろう。 (a)およそわたしくらい記憶の話をするのがふさわしくない男はない。 だってわたしはわたしの内に、ほとんどその痕跡すら認めないからである。 いや、わたしの記憶ほど恐ろしく不完全な 記憶 ( やつ )が他にあろうとは思われないからである。 他の性能はみな尋常普通なのをわたしはもっている。 だが記憶ということにかけては、わたしはふしぎな珍しい男、正にこれによって評判をかちえるに足りると思う。 (b)わたしはそういう生れつきに当惑するばかりではない。 まるでわたしが自分の無分別を責めてでもいるようにとるのである。 つまり彼らは記憶と分別との間にけじめをつけないのである。 これはわたしの立場を著しく不利にする。 いやそれどころか、それはわたしを傷つけることになる。 だって経験に照らして見ると、むしろあべこべに、優れた記憶こそとかくひ弱な判断に伴いがちではないか。 彼らはまた、つぎの点でもわたしを傷つけている。 だって、わたしは人の友であることより大事なことはないと思っているのに、わたしの物覚えのわるいことを咎めるその言葉でもって、わたしの忘恩をせめ立てるのだから。 人はわたしの愛に浴しようとわたしの記憶にすがりつく。 そして生れつきの欠陥と意識の欠陥とをごっちゃにしている。 そして言う。 「あいつはこれこれの頼みや約束を忘れた。 あいつは少しもその友達を思い出さない。 あいつはおれのために、かくかくのことを言うべきなのを、なすべきなのを、いや黙っているべきであるのを、少しも思い出さなかった」と。 なるほどわたしはじきに忘れるかもしれない。 だが友人からたのまれた用事をおろそかにするなんて、そんなことは決してない。 どうかこれをわたしの欠陥のせいだと思ってがまんしてほしい。 悪意だとは思わないでほしい。 悪意くらいわたしの気質の敵であるものはないんだから。 わたしは或る程度こう思って自ら慰めている。 第一に、 (c)わたしはもっぱらこの病のおかげで、ともすれば心の中に生じそうであった、もの忘れよりも更に悪い病すなわち野心を、やっつけることができたから。 まったく、えらい人たちとの交際に心を砕く者にとっては、これこそやりきれない欠陥なのである。 それに、自然の推移の同じような沢山の実例が教えているとおり、いつも自然は、わたしにおいても、この性能が衰えるに従って、それだけ他の幾多の性能を強くしてくれたのである。 まったく、記憶のおかげでひと様の創意や意見が始終わたしのうちに頑張っているならば、自分もまた皆さんと同様に、わが精神と判断とにそれら自らの力を行使させないで、容易にそれらをして他人のあとをよろよろおめおめと追いかけさせることであろう。 (b)またおかげでわたしの話が手短かであるのも仕合せだ。 まったく記憶の倉庫は創意の倉庫よりも常に多くのものを蔵しているのである。 (c)もし記憶がわたしに忠実であったなら、さまざまな主題が、わたしの多少は賦与されているおしゃべりの性能を呼びさまし、ますますわたしの談話をあおりたてて、わたしはおしゃべりをもってわがすべての友だちを聾にしたことであろう。 (b)そうなったらみじめだ。 わたしはそれを親しい友達のたれかれの実例によって経験する。 すなわち、記憶が彼らに物事を完全にありありと想い出させるに従って、彼らはますますおしゃべりを昔に引きもどし、それをくだらない事柄で一杯にするから、お話そのものは面白くても折角の面白さがおかげで押しつぶされてしまうのだ。 もしそのお話が面白くなかった日には、諸君は彼らの記憶の幸運をのろうか、あるいは彼らの判断の不運をのろわずにはいられまい。 (c)いや興に乗って来ると、話を閉じたり中止したりすることはむつかしい。 馬の力量にしても、楽々と鮮やかなストップをするかどうかで、一番よく知られるのである。 節度ある人々の間にさえ、わたしはそのおしゃべりを止めようとして止められないでいる人たちを見受ける。 彼らはもうおしまいにしようと切っかけを捜しながら、だらだらとしゃべりつづける。 まるで衰え疲れた人のように引きずってゆく。 殊に老人が危険である。 いろいろ古い事柄はおぼえているくせに、近頃幾度もそれらを繰りかえしたことは忘れている。 わたしはすこぶる面白いお話が、或る殿様のお口にかかるとはなはだ退屈なものになるのを経験した。 傍のものどもはそれぞれそれを百万べんも聞かされていたからである。 (b)第二にわたしは、ある古人がいっているとおり、受けた侮りをいつまでも覚えていないだけでもしあわせである。 (c)わたしには一人の囁き手が入り用であろう。 例えばあのダレイオスがアテナイ人からこうむった侮辱を忘れないために、そのお小姓に、彼がテーブルにつく度毎に、「陛下よ、アテナイ人を想い出し給え」と三度ずつ言わせたように。 (b)それからまた、たびたび見る場所、たびたび読む書物が、常にみずみずしい新しさをもってわたしにほほえみかけることもしあわせだと思う。 (a)「物覚えにかけて十分な確信がない者はうっかり嘘をつきなさるな」といわれるのは、理由のないことではない。 わたしは文法家が「嘘を言う」(dire mensonge)と「嘘をつく」(mentir)との間に区別を設けているのを知っている。 すなわち「嘘を言う」とは、嘘のことを本当のことだと思って嘘とは知らずに言うことであるが、ラテン語における「嘘をつく」という語の意味は(わがフランス語はそれから来たのであるが)、結局己れの良心に逆らうことを言い、従って、「嘘つき」と言えば、今わたしが取り上げているような、自分の知っていることのあべこべを言う人にかぎる、というわけだ。 ところでこの「嘘つき」たちだが、かれらは何から何まで全部作り上げることもあれば、何かの真実をいつわったり変えたりすることもある。 この変えいつわる場合は、自分ではそれを同じ形の話にしばしば繰り返しているつもりでも、いつの間にか矛盾におちいっている。 なぜかといえば、物事はまずそれがあるとおりに、認識や知識の道を通って、記憶の中にはいって来てそこに刻みつけられるのだから、それはもともと堅固な根拠を持たない嘘の事柄を押しのけて、幾たびとなく考えの中に現われて来ないはずはなく、そのつど最初に認識された様々な事情は、心の中に深く浸みこんで、後から加えられた・うその・でっち上げの・部分に関する記憶を消滅させずにはおかないからである。 彼らが徹頭徹尾作り上げた事柄においては、彼らの嘘に衝突する反対の印象が一つもないだけに、それだけどじをふむおそれはないように思われる。 だがそれにしても、それはとらえどころのない空のことであるから、当人の記憶がよっぽどしっかりしたものでない限りとかく記憶から逃げ去りがちである。 (b)そういう例をわたしはたびたび実際に見聞した。 だが、笑止千万にも、ただ自分の調停する事件をうまくまとめ、ひたすら相手のお歴々の御意にかなうことばかり考えている口先上手の方が失敗している。 まったく、彼らがその信念をも良心をもあえてその奴隷にしよう従わせようとするそれらの事情は、色々な変化をこうむらなければならないから、その都度彼らの言葉も変らなければならないのである。 そこで彼らは同じ物事を、時には黒いと言い、時には黄色いと言い、甲に向ってはああ、乙に向ってはこう、と言うことになる。 だがふとそれらの甲乙丙丁が、それぞれ聞いたところのまるで食いちがった事柄を持ち寄りでもしたら、一体どうなるか。 さしもの口達者も台なしじゃないか。 それに、彼ら自らうっかり自縄自縛に陥ることもきわめてしばしばである。 まったく、同じ主題について捏ねあげたあれほどさまざまな形態を一つ一つ覚えているには、どれほどの記憶力があったらば足りるであろうか。 わたしは当世の多くの人々が、そういう用意周到のすばらしい評判をきいてうらやましがるのを見たが、それはただ評判だけのもので、実際の効果はないものだということを、彼らは知らないのである。 (c)本当に、嘘つきは呪うべき不徳である。 我々は言葉によってはじめて人なのである。 いや、それによってはじめてお互いに心が通うのである。 我々が真にその恐ろしさ、その重大さを知るならば、他の犯罪以上に火刑をもってそれを罰するのが当然であろう。 火あぶりの刑はこの嘘つきという罪に対してこそ適用されるべきだろう。 人はいつもはなはだ不適当に子供たちの罪のない過失を罰する。 何らの痕跡も何らの結果も残さないような無心の行為のために彼らを折檻する。 だが、ただ嘘をつくことだけ、それからその少し下位に、強情を張ること、ただそれらだけが、人があくまでその発芽と増長とを阻止しなければならない事柄のように思われる。 この二つは彼らの成長とともに増長する。 いや、一度舌にこの悪い癖をつけると、それをあらため直すことがどんなにむつかしいかは、想像以上である。 それで身はれっきとした紳士でありながら、この悪癖にかかってどうしても脱けきれない者も出てくるのである。 わたしの仕立屋はまことに良い男であるが、ついぞ一ぺんも彼が真実を言ったのを聞いたことがない。 真実を言う方が彼に有利な時でさえも。 もし真実のように虚偽もただ一つの顔だけしか持たないならば、我々はもうちっと仕合せだろう。 我々は嘘つきの言うことの正反対を確かな事と見なすことができようから。 ところが真実の裏面は種々様々な顔をしており、そこには無限の広さがある。 ピュタゴラスのともがらは、善を確実で限界があるものとし、悪を限界がなく不確実なるものとしている。 千の路が的をはずし、ただ一すじだけが的中するのだ。 実際わたしもせっぱつまれば、はっきりした恐ろしい危険を避けるために、ずうずうしい・勿体ぶった・嘘をつかないとも限らない。 或る昔の教父は言った。 「言葉の通じない人間とともにいるよりは、見知りごしの犬とともにいる方がましだ」と。 異邦人は人にとりて人間にあらざるがごとし (プリニウス)。 まったく、嘘の言葉は沈黙よりどれほど親しみにくいかわからない。 (a)王フランソワ一世は、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの使臣で雄弁学において非常に有名であったあのフランチェスコ・タヴェルナを、こんな風にしてとっちめてやったと御自慢になった。 この者は、ある重大な事件についてその主君の申し開きをするために陛下の許に遣わされたのだが、それは次のような次第である。 王は、自分が前に追い出されたイタリアに、特にミラノ公領に、なお多少の気脈を通じていたかったので、そのミラノ公の側近に、味方の貴族の一人を、ほんとうは使臣としてであるが表面はただの私人として、しかもただその人の私用のためにそこにいるかのようによそおわせて、駐在させようと考えつかれた。 なぜなら、ミラノ公はむしろローマ皇帝 *の方に深い関係があり、特に皇帝の姪御で現在はロレーヌ公の未亡人となっておられる、あのデンマーク王の御息女と御婚約中でもあったから、我々と少しでも交際があるように見られては大変御都合が悪かったのである。 こういう任務には、ミラノの貴族で王の主馬寮に仕えるメルヴェーユが最も適していた。 そこでこの者は、数通の秘密な訓令と使臣としての信任状とを与えられた上、更に表面を 糊塗 ( こと )するために、彼の私用に関して便宜を与えられたい旨の公宛ての紹介状までも与えられてやって来たのであったが、余り長く公のお側に留ったものだから、とうとう皇帝に感づかれるに至り、それがやがて、我々の察しどおり、後でおこる事件の原因となった。 つまり公は、彼に刺客の疑いがあるという言いがかりをつけて、ある闇の晩に彼の首をはねさせ、しかもただの二日で万事を片づけてしまったのである。 そこで、自分の側に都合がよいように、いかにももっともらしい理由を沢山ならべ立て、「公はあの者を、ただ一介の貴族、自己の臣下が、ただその私用をもってミラノに来たもの、その他には何の資格もないものと思っておられました。 決して王家に仕えるものとも、王の知遇を得ているものとも、いわんやその使臣であろうなどとは、思っておられませんでした」と言うや、王は様々の反駁と詰問とをもって彼を糺明し、四方八方から彼を攻め立てたあげく、「なぜそれならば夜陰ひそかに彼を殺したのか」とつめよられた。 ここにおいて、可哀そうに、絶体絶命、とうとうフランチェスコ殿はいかにも朝臣らしくこう答えてしまった。 「公は陛下を尊敬し給う余り、そのような処刑が白昼行われることを悲しまれたからでございます」と。 思ってもわかるであろう。 いかに彼が二の句がつげず生き恥をさらしたか。 しかもあのフランソワ王の名だたるお鼻のおん前で! * 皇帝というのは、この頃はカルル五世をさす。 法王ユリウス二世がイギリス王の許に使臣をつかわしてフランス王〔ルイ十二世〕に対する 謀叛 ( むほん )をすすめた時のこと、その使臣が御前にまかり出て使命を述べ終るや、イギリス王はこれに向って、そのように強力な敵に対しては万端の準備を整えることがはなはだ困難であることを強調し、それに関して幾つかの理由をあげられたので、使臣もついうっかりと、「実は私もそう考えまして重々法王を 諫 ( いさ )めたのでございますが」とまずい返答をしてしまった。 イギリス王は、自分をすぐにも戦に引き入れようとするその提言とは非常にかけ離れたこの告白をもって、後にそのとおりに見出された事実の、すなわち、この使臣が彼一個の考えではむしろフランス側に傾いていたということの、第一の根拠とせられた。 この事はやがて法王の知る所となり、その使臣は財産を没収せられ、あやうく一命をも失うところであった。 [#改ページ] (ラ・ボエシ) だから雄弁の天賦においても、或る者が容易と迅速、いわゆる当意即妙の才をうけて、いかなる局に面するも驚かないのに、或る者はのろくさくて、あらかじめ練り考えておいた事でなくては何一つしゃべれないのである。 人が婦人がたに向って、それぞれ持前の美しさがどこにあるかに従って遊戯や運動をするようにとすすめているように、わたしもまた以上の二種類の雄弁の得失について勧告をしなければならないとすれば、当今は説教家と代言人とが専ら弁舌を職とするもののようであるから、のろいのは説教家に似つかわしく、早い方は代言人に適するとでも申そうか。 なぜなら、説教家は職掌がら準備のために欲するだけの時を費やすことが許されるし、その進行は始めから終りまで邪魔されずに続けられるが、代言人の方は職掌がらしじゅう討論にはいりがちだし、相手方の意外な答弁のために脇道にそれることも多く、そうなれば自らも即座に陣容を立てなおさねばならないからである。 けれども、法王クレメンスとフランソワ王とのマルセーユにおける会見 *の際には、まるであべこべの事になった。 ポワイエ殿は、一生を代言人席で送った評判の高い人で、法王を 称 ( たた )える演説をするよう命令をうけ、久しくその想を練っていたのであるが、いや伝えるところによると、パリからすっかり準備された草稿を持って来ていたのであるが、いよいよそれが述べられる当日になってから、法王はその周囲にある他の諸侯方の御機嫌を損ずるような事でもいわれてはと、急に王に対してその時と場所柄に最も適当していると思われる別の論拠によるようにと要求された。 ところが運悪く、それはポワイエ殿があらかじめ研究してあったこととは全く違ったことだったので、彼の演説は役に立たなくなり、早速別のものを作り直さなければならなくなった。 けれども彼は自分にその力がないことを覚ったので、枢機官デュ・ベレ殿に役を代ってもらわなければならなかった。 * 一五三三年のこと。 フランス王と法王とがスペイン王カルル五世に対して同盟を結ぶための会見である。 (b)代言人の役は説教家のそれよりもむつかしい。 けれどもわたしの考えでは、どうやら及第する者は、説教家よりも代言人の方に多いと思う。 少なくともフランスでは。 (a)どうも一瞬の間に事をしてのけるのは機知が得意とするところ、ゆっくりと落ちついてやるのはむしろ判断のよくするところであるらしい。 けれども準備の暇がないと全然言葉が出ない人、それから暇があっても特にうまく言えない人は、いずれも同じ程度に異例に属するものだ。 言い伝えによると、セウェルス・カッシウスは不用意な時ほど雄弁であり、勉強のおかげよりも運のおかげを 蒙 ( こうむ )ることの方が多く、話中に 遮 ( さえぎ )られることがあれば 忽 ( たちま )ちにこれを利用するものだから、相手の方では憤りが彼の雄弁をますます倍加することを恐れ、できるだけ彼を刺激することをさし控えたくらいだったという。 わたしは実際に、生れつき辛抱強い熱心な腹案工夫なんかしてはおられない性質の人を知っている。 そういう人は、愉快自由に進まないときはまるで一文の価値もない。 我々はよく或る種の著作について、「燈油の匂いがする」という。 それはその大部分が努力だけで出来ているような著作にはどことなくごつごつした解りにくいところがあるからだが、なおそのほかに、ひたすら立派なものを作り上げようとする 執心 ( しゅうしん )、その企てに対する余りにも緊張した心の努力が、かえってその企てを窮屈にし妨害するからでもある。 あたかも水があまりに激しくあまりに豊かにひしめき合うと、ほそい一つの口から流れ出ることができないようなものである *。 * これと同じことが、『荘子』「田子方篇」に、宋の名君が「真の画人」を見出した説話を通じて述べられている。 わたしが今お話しているこうした性分の人には、また同時にこんなところがある。 すなわち、カッシウスの怒りのような、ああいう強烈な感情に動揺刺激されることは求めないが(この勢いはあまりに激しすぎよう)、つまり、ゆすぶられようとまでは欲しないが、うごかされることは欲している。 その時の、偶然の、外部からの機会によって煽られ呼びさまされることは欲している。 この種の人は、もし彼がたった独りでゆくならば、ただただよろめき衰えるのみである。 昂奮こそ彼の生命であり魅力なのである。 (b)わたしは、自分で自分を把握し処理することが得意でない。 偶然の方がその場合わたし自身よりも多くの力をふるう。 むしろ機会とか、仲間とか、自分の声の抑揚までが、わたしの精神からより多くのものを引き出す。 かえってわたしが自分独りでそれを探りそれを用いる時に見出す以上に。 (a)それで、わたしにあっては、話の方が文章よりもいくらかうまい。 いずれにしても大したものではなかろうが、どちらかといえば。 (c)またこんなこともある。 つまりわたしは、わたしのさがすところに自分を見出さないこともある。 いやわたしはわたしの判断の捜索によってよりも、むしろふとした偶然によって自分を見出すのである。 わたしも筆のはずみではいくらかうがった文句を吐いたかもしれない(勿論それは人から見たらつまらない・自分にとってだけ鋭い・言葉にすぎないが、まあそんな謙遜はやめにしよう。 誰だって、その力に相応したことしか言えるものではないのだから)。 だがわたしはそれをすっかり見失ってしまったから、その時自分が何を言おうとしたのか、今では自分にもわからない。 かえって、ときには、ひと様からそれを教えていただく始末である。 もしわたしがそういう場所毎に 剃刀 ( かみそり )をあてるなら、何もかも全くなくなってしまうだろう。 偶然が、いつかまたその上に、真昼の光よりも明らかな光を投じてくれもしよう。 そしてわたしは、自分が迷ったことにびっくりさせられることであろう *。 (a)確かに託宣の方は、キリスト出現のずっと前から、すでに世の信用を失い始めていた。 現に我々は、キケロがそれがすたれた原因を見出すことに努めているのを見るからである。 (c)次の言葉は彼が言ったものである。 何故に今日のみならず、すでに久しく、デルフォイに昔のごとき神託が行われざるや。 それが今日これ程までに軽蔑さるるは何ゆえなるや と。 (a)けれどもその他の占いにいたっては、すなわち犠牲の獣の開腹にもとづくものや (c)(これだってプラトンによれば、半分はこれらの獣の内臓の自然の構成に基づくのである)、 (a)雛鳥の足の踏み方や・鳥の飛び方や (c) 或る種の鳥類は、ただもっぱらこの易断のためのみに存するがごとし (キケロ)・ (a)稲光りや川の渦・などに基づくもの、 (c) 鳥卜師はさまざまの事を占い、解腸師もまた多くのことを予言す。 大抵の事柄は、或いは神託により或いは占いにより、或いは夢により或いは天地の不思議によって告げ知らさる (キケロ)、 (a)その他人々が公の事といわず私ごとといわず、常にその企てを支持したところのもろもろの占いに至っては、みな我々の宗教が始めて廃棄したのである。 * このあたりは前出一の三の延長線上にあり、最終章三の十三の結論につながる。 であるから、サリュス侯フランソワの実例は、わたしには珍しく思われた。 どんな星占いがあったにせよ、それは彼にとって非常に損なことであったのに、彼はさまざまな感情に攻められ迫られて、夢中でこの挙に出たのであった。 まったく諸城をも軍兵をもその手の中に握っていたのだし、アントニオ・デ・レヴィアのひきいるスペイン軍も彼から三歩ばかりの所にいたし、我々の方では少しも彼の心事を疑う者はなかったのだから、彼はもっと悪いこともすればできたのである。 まったく、我々は彼の反逆のおかげで兵隊をも城をも全然失わずにすんだのである。 我々はただフォッサンの城を一つ失っただけで、それすら、さんざん敵をてこずらせた末のことであった。 (パクウィウス) あの名だかいトスカナ 人 ( びと )の占術は、こんなにして生れたのである。 「或る農夫が土中深くその 鋤 ( すき )を入れたところ、子供のような顔でいながら老人の知恵を備えた半神タゲスがひょっこりと現われ出た。 皆はそこに駈けつけた。 そして占いの原理及び方法を含む彼の呪文と秘法とがそこで伝授され、数世紀の後までも保存された」。 いかにもその後の流行にふさわしいたわいのない起源ではないか。 (b)わたしは、こんな夢にたよるくらいなら、むしろ 骰 ( さい )でもころがして自分の問題を決定する方がいい。 (c)いやほんとうに、いずれの国でも、たいていのことはいつも運の決定に 委 ( まか )せられた。 プラトンも、その思いのままにでっち上げた国家において、もろもろの重大事件の決定を骰に 委 ( ゆだ )ねている。 そして特に、結婚が善き市民たちの間でくじによってきめられることを望んでいる。 そしてこの偶然の選抜にはなはだ重きをおき、これから産れた子供たちだけを国内において教育し、悪しき結婚から産れた子供たちは国外に放逐するよう命じている。 ただし、その放逐された子供たちの或る者が、万一長ずるに従って末頼もしげに見えるようなことがあれば、これを召還することができるとともに、始めは国内にとめおかれた子供たちも、将来の望みがなさそうに見えれば、これまた追放してよろしいと、規定している。 (b)世間には暦を研究したり註釈したりして、何でもかでもそれに準拠してきめるものがある。 あれ程に言ったなら当ることも当らないこともあるに相違ない。 (c) ひねもす的を射る時は、時には当らざるをえざるべし (キケロ)。 (b)何かの拍子に当てたからといって、わたしは少しも感心はしない。 いつも嘘をつくことにきまっている方が、かえってあてになるくらいのものだ。 (c)それに彼らの思惑はずれを、一々帳面につける者はない。 当らない方があたりまえでその方は無数にあるからだ。 当れば、それこそ稀な・信じられない・驚くべきことであるから、人がはやし立てる。 同じように無神論者と言われたディアゴラスも答えた。 サモトラキア島に行った時、海難をのがれたものが奉納したおびただしい絵馬や献納物が神殿にかかっているのをさし示して、「どうですか。 神々は人間のことにかかわり給わぬとあなたはおっしゃるが、こんなに多数の人々が神様の恵みによって救われているではありませんか」と言った者に対し、「それはね。 溺れちゃった者には奉納もできないからさ。 だがその方がずっと数は多いんだよ」と答えた。 キケロの言うところによると、コロフォンのクセノファネスただ一人が、神々の存在を肯定するすべての哲学者の間にあって、あらゆる占いの根絶に努めたのだということだ。 して見れば、 (b)我々の王侯方の間にさえ、彼らのためには残念なことだが、往々にしてこのようなくだらない事にかかり合っているものがあるのも、さして不思議なことではない。 (c)わたしは是非この眼でもって、あの二つの不思議の真偽を見きわめてやりたいものだ。 すなわち未来の法王様たちの御名前とお姿とを一つ一つ予言したラ・カラブレの僧ジョアシャンの書の不思議と、ギリシアのすべての皇帝と族長とを予言したレオ皇帝の書の不思議とを。 ところがわたしが、この眼でたしかに見きわめることができたのは、乱世においては人々が自分たちの運命の転変にうち驚く結果、すっかり迷信家になって、ますますその不幸の原因と前兆とを天に向って尋ねたがるということだけである。 いや、人々がそのお蔭でわたしの若い頃には不思議にもあんなに幸福であったことを思うと、いわばそれは頭の鋭いひまな人たちの娯楽みたいなものなのであるから、ひとたびこの緻密な方術に熟し、これを組み合せたり解いたりすることになれると、どんな書き物の中にでも、その欲するものを何でも見出すことができるのではないか、というふうに思われる。 しかし殊に彼らの 手品 ( ぺてん )を都合よくするのは、予言の文句が曖昧ではっきりせず、とりとめがないということである。 それらの作者は、そこに少しも明瞭な意義を与えていないから、後世の人々はこれに勝手な意味をこじつけることができるのである。 (b)ソクラテスのデーモン〔ギリシア語ではダイモン。 本来超人的、神的存在であるが、後には人間と神との中間的存在と考えられた。 哲学では人間に内在する超人的偉力のこと〕というのは、おそらく彼の理性の勧告を待たないで彼に現われた、一種の意志の衝動であったろう。 彼の霊魂のように非常に清められた霊魂、徳と知恵との不断の錬磨によって鍛えられた霊魂においては、この種の傾向も、たとえそれが唐突で練れていなかったにせよ、とにかく服従するに足りる重大な意味のあるものであったことは本当らしい。 人は誰でも、それぞれ心のうちに何かそのように立ちさわぐ影のようなものを感じる。 (c)それは偶然迅速猛烈に浮かびでる一想念の余響である。 だがわたしはむしろこの方にいくらかの権威をみとめ、われわれ人間の知恵の方はあんまり信用しない。 (b)わたしもたまにはそういった霊感を持つことがある。 (c)その理由は問われれば弱く、そのくせわたしを勧告したり諫止したりする点ではなかなか強いことにおいてソクラテスの場合と同様だが、ただ彼においてはそういうことがよりしばしば起ったのである。 (b)わたしもこれに従ってはなはだ得もしたし幸福でもあったから、やはりそれは一種神来の霊感と見てよいのではないかと思う。 [#改ページ] (a)勇敢勇気の掟は、「我々はできる限り、我々にふりかかる不幸災難をかわしてはならない」などと言ってはいないし、「それらが我々を襲うのを恐れてはならない」とも言ってはいない。 かえって、不幸を免れる公明な方法はすべて許されているだけでなく、それはほめていいのである。 そして勇気の働きは、主として癒す道のない不幸に我慢して堪えるところに発揮されるのである。 だから、どう身をひねろうと、どう手にもつ武器を振りまわそうと、我々はそれを悪いとは思わない。 もしもそれが凶刃から我々をまもるに役立つものなら。 (c)はなはだ好戦的な幾多の国民は、数々の戦争に際して逃走を利用し、かえって大きな得をした。 背中を見せながらかえって正面を見せる以上に敵からおそれられた。 トルコ人の間には今でも多少この方法がのこっている。 いやプラトンの語るところによると、ソクラテスは勇敢を「敵に対して一歩も譲らないこと」だと定義したラケスをわらって、「では数歩を譲って敵を討つのは卑怯だとでもいうのかね」と言った。 そしてアエネアスの退却の巧妙さを 称 ( たた )えているホメロスを引合いに出した。 そこでラケスがその説をかえて、この戦法がスキュティア人の間で行われていること、そして終いには一般に騎馬武者の間でも採用されていることを承認したので、ソクラテスは更に、どこの国民よりも頑強に戦うように仕込まれているラケダイモンの歩兵の実例をあげた。 彼らはプラタイアイの戦いにおいて、ペルシア軍の隊列を突破することができなかったので、断然意を決して後方に引退き、一度敗走したように思わせておいてから、反撃して敵の大軍を潰走させ、ついに最後の勝利をえたのである。 スキュティア人についてはこんな話がある。 ダレイオスが彼らを討伐に向った時のこと、彼は彼らの王に向って、絶えず戦いを避けて退却ばかりしていることを大いに難詰した。 これに対してイダンテュルソスは(これがその王の名であった)こう答えた。 「これはあなたを恐れるのでも生きとし生ける誰を恐れるのでもない。 むしろこれがわが国の戦法なので、我々には守るべき耕地もなければ都市も家もないからである。 敵にとられて困るようなものは何一つないからである。 あなたがそんなに喧嘩をしたいのなら、試しに我々の祖先の墓地に近づいて見られよ。 はばかりながら御相手を致すであろう」と。 (a)けれども砲戦の場合に敵に銃先をむけられてから、戦争ではしばしばそういうことが起るが、弾丸にあたるのをこわがってそわそわするのは見苦しい。 それは激烈迅速なものでとうてい避けられるものではないからだ。 ところが手を挙げたり首を縮めたりして、いたずらに戦友の物笑いのたねとなった者が実に沢山ある。 それはともあれ、カルル五世がプロヴァンスの我々に向って進軍して来た時のこと、グヮスト侯がアルルの城の偵察に出かけ、始めそれに身をかくして近寄って行った風車小屋の蔭からひょいと飛び出すと、忽ちに闘技場の上を散歩していたボンヌヴァル殿や法官アジュノワに見付けられてしまった。 人々はそれっと、砲兵司令ヴィリエ殿に告げたので、彼はぴたりと長銃のねらいをつけた。 もしこの時に、侯が発火を見ると同時に横っ飛びにとばなかったら、胴体のまんまん中を射ぬかれたにちがいなかった。 それからまた同様に、数年前のこと、わが王のおん母カトリーヌ大妃には父上にあたらせられるウルバノ公ロレンツォ・デ・メディチは、いわゆる司祭領の内にあるイタリアの要塞モンドルフォを囲まれたが、御自分の方にむけられた砲門に火が 閃 ( ひらめ )くよと見るや、ひょいとお首をちぢめて助かられた。 まったく、そうでもなされなかったら、弾丸はおつむをお剃り申すだけにとどまらず、きっとお胸のまっただ中を射ぬいたことであろう。 本当を言えば、わたしはそういう運動が意識をもって行われたとは信じない。 まったく、そういう火急の場合に、ねらいが上か下かをどうして判定することができよう。 いやむしろ、「運命が彼らの恐怖を憐れんだのだ。 もう一遍やったら、それは弾丸をよけることにはならないで、あたることになるかもしれない」と考える方が容易である。 (b)わたしは、もしも思いもかけぬ場所で不意に火縄銃の爆音に耳をうたれるならば、びっくりして飛び上らずにはいられまい。 これは、見るところ、わたしなどよりもずっと豪胆な人たちにおいてさえおこることなのである。 (c)ストア派の人たちも、彼らの賢者の霊魂が、ふと彼らの前に現われるどんな幻影妄想にも対抗しうるようにとは要求しない。 むしろ、持って生れた癖に従うのと同じように、雷電の響や建物の崩れ落ちる音には降参して、青くなっても縮み上ってもよいとしている。 そればかりでなくもろもろの感情に動かされてもよいとしている。 ただその人の判断がつつがなく完全に保たれており、その理性の状態がそのために侵されたり変えられたりしていなければ、そしてその人が自分の恐怖と苦痛とに少しも同意しなければ、それでいいとする。 賢者でない人々も第一段においては全然同じことで、ただ第二段に至って全然ちがって来るのだ。 まったく凡人においては、もろもろの感情の印象が表面にとどまらず、深くその理性の座にまで侵入し、これを 蝕 ( むしば )みこれを腐らすのである。 彼はその腐った理性によって判断し、その命令に従う。 見なさい、ここにストア派の賢者の有様が遺憾なく言い現わされているのを。 (a)いくらつまらない問題でも、まったくこの雑録の中に席を占めるに足りないということはあるまい。 われわれの普通の規則から言っても、訪問の知らせを受けていながら家で待っていないのは、目上に対してはもちろん同輩に対してさえ明らかに失礼であろう。 ナヴァールの女王マルグリットも、こう言いそえておられるくらいだ。 「来られるお方がとんなに偉いお方であろうと、これをお迎えするために、よく見られるところではあるけれど、主人がお迎えに出るということは、礼儀しらずである。 むしろ家にいてお客様を待つ方が、行き違うまいとの心遣いからだけでも、ずっと丁寧である。 ただそのお立ちの時にお送り申上げれば十分である」と。 (b)わたしはといえば、こうしたつまらぬお勤めは、しばしば両方とも忘れてしまう。 うちでは礼儀というやつは一切おやめにしているもんだから。 人によっては気をわるくなさるが、いたし方がない。 一ぺんだけ人の機嫌を 損 ( そこな )う方が、毎日毎日自分が気づまりな思いをするよりましである。 しょっちゅうかしこまっているなんて真平だ。 宮仕えをやめたからって、自分の 洞穴 ( ほらあな )にまで同じ気苦労を引きずって来るのでは何にもなるまい。 (a)身分の低い者ほど先に定めの場所に参集せよというのが、どんな集りの場合にも共通した規則である。 待たせることはおえら方の特権なのだから。 けれども、法王クレメンスと仏王フランソワとの間のマルセーユにおける御会見の際には、王は万端の用意をお命じになってからしばらく当市をお離れになり、法王が到着後二、三日の休養をとってから御前に伺候できるようにとりはからわれた。 同様に、法王とカルル皇帝とがボローニアに御入城の際にも、皇帝は法王が先に到着するようとりはからわれ、御自分はおくれてお出でになった。 人々の言うところによると、こういう王様同士の会見においては、身分の高いお方の方が先に定めの場所にゆくこと、つまりその会見が行われる国の王様よりも先にそこにつくことが、普通の礼儀だそうだが、人々はそれをこんな風に解釈している。 すなわちこういう形式によって、位の低い者の方から位の高い者のところに出かけてゆき、そのお目どおりを願うのが当り前で、えらい人の方から出てゆくべきではないというのである。 (c)それぞれの国ばかりではなく、それぞれの都市が、いや、それぞれの職業が、みな特有の礼儀をもっている。 わたしは子供の時代からそれに対してかなりやかましくしつけられ、かなり礼儀正しい人たちの中に暮して来たから、わがフランスの礼法を知らないではない。 いや、その先生だってできるくらいだ。 わたしはそれに従うことが好きだけれど、余りにそれにしばられて自分の生活を窮屈にするのはごめんだ。 中には苦しい作法が幾らもある。 そんなのは誤って忘れるのでなく分別して忘れるのであれば、ちっとも失礼にはならない。 わたしは、余りに礼儀正しくてかえって礼を失する者、ご丁寧すぎてうるさい者に、あったことがしばしばある *。 要するに礼儀作法は、はなはだ有用な修業である。 それは愛嬌や美貌と同様に、やがて我々を親しい交際へと導く最初の案内者である。 従ってそれは、我々が他人を模範として自己を教育する道を開いてくれるし、また我々の方に何か他人が学んでためになるようなものがある場合には、それがその人の役にたつように手伝ってくれる **。 この章は、第一巻第二十章などと同様に一五七二年ごろに書かれたモンテーニュ初期の随想で、哲学的ストア的随想と呼ばれるものの一つである。 引用や借用の語句実例が多く、やがて個性を豊かにたたえる後年のエッセーにくらべるとすこぶる書籍的で、のちに彼自らをして「外国(人)のにおいがする」(三の五)と言わしめたものの一つであるが、そのかわり、この頃のモンテーニュの哲学的態度、換言すれば理性や緊張した意志の力を信頼し、人生のもろもろの出来事、苦痛や死などを克服するために、たえず思索し瞑想している彼の姿を、よくあらわしている。 だがこのストア主義は深刻なものではなく、相当茫漠としているし、加筆 (b)の部分には、彼みずからの経験がながながと述べられているし、更に加筆 (c)においては、本章の主意をまったく否定してはいないが、もはや意志の緊張や困難な徳に訴えるよりも良識の指示するところに従って、自然の命令におとなしく服従しようという、自然哲学が述べられる。 しかもそれは初期の態度の鮮明なテキストとはなはだしい矛盾を示さないように、控え目に述べられている。 この死ならびに苦痛に対する後年の心境は、やがて「気分の転換について」(三の四)や「人相について」(三の十二)の章において、いよいよ力強く言い現わされる。 富裕に関する考察にいたっては、これこそほかからの借りものではなくて彼自らの経験がもとになっているだけに、本章のなかで最も興味が深い部分であろう。 しかしこの 恬淡 ( てんたん )ぶりは決して彼生来のものではなく、やはり後得のものであろう。 「旅日記」を見てもモンテーニュは案外金銭に関して几帳面である。 これらの点については拙著『モンテーニュとその時代』第四部第五部や白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のところどころを参照せられたい。 (a)人間は(古代ギリシアの格言が言っているとおり)、物事それ自体によってではなく、彼らがこれに関していだいているところの考えによって苦しめられている。 もしこの説をどんな場合にも真実であると証明することができるならば、それは我々人間本来の悲惨な境遇を慰める上で立派な根拠となるだろう。 まったく、もし不幸がただ我々の判断をとおして始めて我々の中に入って来るのだとすれば、それを無視することも幸いに転ずることも我々の思いのままになるはずだと思う。 もし物事が我々の思いのままになるのならば、どうして我々はそれらを支配しないのか。 どうして我々のとくになるようにそれらを 按排 ( あんばい )しないのか。 もし我々が不幸とか苦痛とか呼びなすものが、それ自体不幸でも苦痛でもなく、ただ我々の想像がそういう性質をそれにあたえているのだとすれば、その性質を変えることは我々にできる。 そうして我々に自由な選択ができ、何者にも拘束されないというならば、自分に最もつらい側に立って頑張るなんて、いかにも愚かな話である。 病気や貧困や侮りに、すっぱい・いやな・味を与えるのも、我々がそれらに善い味を与えようとすれば与えることもできるのだとすれば、そして、運命は我々に素材を提供するだけでこれに形を与えるのは我々なのだとすれば、これまたいかにも愚かな話である。 ところで、この我々が悪と呼ぶものは本来悪でないということ、また少なくとも、それはそのようなものであるにもせよ、それに別様の味わいや顔つきを与えることもできるのだということは(まったくこれは一つことになるが)、果してほんとうに証明できるものだろうか。 もし我々が恐れるそれらの事柄の根源であるその本質が、それ自体の権威をもって我々の中に宿るというのなら、それはすべての人において同様な形で宿るだろう。 まったく、人間はすべて一つの種に属しており、多少の差こそあれ、思惟し判断するために同じ道具器官を持っているのである。 しかるに我々のそれらの物事に対していだく考えがまちまちであるということは、明らかに、それらが我々の同意をえて始めて我々の中に入って来るのだということを示している。 或る人はおそらく、それらをその真の本質のままに自分の内に宿すであろう。 けれども他の幾千の人たちは、それらに実際とはちがった・あべこべの・本質を与えている。 我々は死と貧と苦とを、我々のおもな相手・かたき・と思っている。 ところで、或る人たちが「恐ろしいものの中で最も恐ろしいもの」と呼んでいるこの死を、他の人たちが「この世の苦労を免れる唯一の港だ」とか、「自然の至上善だ」とか、「我々の自由の唯一のささえだ」とか、「あらゆる不幸に対し誰にもたちまちにきく薬方だ」とか呼んでいるのを、知らない者はないじゃないか。 いや、一方がおののき恐れつつこれを待つかと思えば、もう一方は生よりもやすやすとこれに堪えているのだ。 (b)これなる人は、 (ルカヌス) と、死が誰に向っても優しいことを嘆いている。 (c)ところで次のような輝かしい勇気はしばらくおこう。 例えば、テオドロスが自分を殺そうと脅かしたリュシマコスに向って、「 斑猫 ( はんみょう )〔体内に猛毒をもつ昆虫〕の毒力にもまけない程の一大打撃を食らわせてくれい!」と答えたとか、大部分の哲学者たちが、わざと自らの死を進んで取ったり、あるいはそれを催促したり援助したりしたとかいう話は、やめておこう。 (a)庶民の間にも、死の前につれてゆかれて、しかもただの死ではなく時には恥とつらい責苦さえもまじっている死の前につれ出されて、あるいは強情我慢により、あるいは天性の単純さによって、まことに泰然自若、少しも平生の有様を変えなかった者どもがたくさんいる! 彼らは、家事を始末し、あとの事を友に委ね、歌をうたい、説教をし、群衆に向って話しかけ、いや時には冗談をさえそれに交え、あるいは知人のために乾杯するなど、ソクラテスにもなかなか劣りはしなかった。 或る男は首吊り場に引かれてゆく道々、「これこれの町は通らないでくれ。 そこには古い借りがあるから、商人に首根っこを押えられる危険がある」と言った。 もう一人の奴は首斬役人に向って、「どうか俺の 喉 ( のど )にさわらないでくれ。 笑いたくなるといけない。 それほど俺はくすぐったがり屋なんだ」と言った。 またもう一人は、「今夜お前は主と共に晩餐をするだろう」と彼に約束した教誨師にむかって、「じゃあ、おめえが行くといい。 俺の方は目下精進のまっ最中だからな」と答えた。 もう一人は、水をくれと言ってから、首斬りが先に一口飲んだのを見ると、「その後はご免じゃ、かさ〔ばい毒〕がうつるわい」と言った。 あのピカルディ人の話は誰でも知っている。 彼が首吊台の段に足をかけた時、人が女をつれて来て彼にすすめ、これと結婚する気なら命は助けてやろうと言ったところ(わが国の法律はときどきこんなことを許したのである)、しばらくじっと女を眺めていたが、彼女がびっこなのを見て、「吊ってくれ、吊ってくれ、女はびっこじゃ」と言った。 またこんな話もある。 デンマークでのことだが、或る打ち首になるべき男は、いよいよ断頭台に登ったとき、今のと同じ条件を持ちかけられると、娘のほっぺたがたるんでおり鼻がいやにとんがっていると言って、これをことわったという。 またトゥールーズの或る下僕は、異端の故に訴えられると、自分の信仰の正当なことを主張するために、自分の主人すなわち自分と一緒に囚われた若い大学生と同じ信仰を披瀝した。 そして、主人だってまちがうことがあると信じさせられるよりは死ぬ方がましだと言った。 アラスの町の人々について我々が読むところによると、仏王ルイ十一世がこの町を奪い取った時、人民の間には、国王万歳を唱えるよりも首を吊られる方を好んだものが、おびただしくあったということである。 (c)ナルシンガ王国では、今でも僧侶の妻は、その死んだ夫と共に生き埋めにされる。 その他の女たちは、夫の葬礼に際して、生きながら焼かれる。 いずれもこわがることなく、むしろうれしそうに。 それから、御他界になった王様のお体が焼かれる時には、その妻妾寵童から官人使丁の末にいたるまで、すべて、上下こぞって、いかにも喜ばしげにその身を同じ火中に投じ、その君に殉ずる。 あたかも主君の死の道づれになるのを光栄とでも考えているかのように。 (a)それから道化という心卑しいともがらの間にも、そのおどけを死に臨んでさえ捨てようとしなかった者がある。 執行人からいよいよ踏台をはらわれようとしたその男は、十八番の「あとは野となれ山となれ!」を絶叫した。 またもう一人は、いよいよ臨終という時、煖炉の前の藁床の上にねかされていたが、「どこがお苦しいか」と医者がたずねると、「椅子と煖炉との間が苦しゅうござる」と答えた。 また坊さんが最後の抹油を施そうと、病気のために曲げちぢこめた彼の足をさぐると、「それは 脛 ( すね )のはしっこにござります」と言った。 「さあ御許に参られるのじゃ。 支度をさっしゃれ」と勧めると、「一体誰がゆくのさ」ととぼける。 「そなたこそ、やがてゆかれるのじゃ。 御召しがあり次第に」と答えると、「それは明日の晩にお願いしたいものじゃ」と答える。 「余計なことを言わずと、ただ神様におすがり申せ。 もう間もなくじゃ」と言うと、「そんなことなら俺が独りでお願いするわい。 その方がましじゃわ」と言い返した。 先頃の我々のミラノの戦いでは、あまりにも奪取と奪還が繰り返されたので、人民はそのような運命の転変のあわただしさに堪えきれず、深く決死の覚悟をかためた。 わたしが父から聞いたところによると、一週間に自分からその身を殺した家長たちが、ゆうに二十五人を数えたほどであったという。 これにつけて思い出されるのは、クサントスの町に起った出来事である。 ブルートゥスに攻囲されたこの町の人々は、男も女も、また子供たちも、こぞって狂ったように死を願った。 彼らは我々が死を避けようと努めるのと同じいきおいで生を避けようと努めたので、まったく手の施しようがなく、ブルートゥスも、そのごく少数を救いえたにすぎなかった。 (c)どんな思想もたやすくこれをまげることはできない。 人は命にかけてそれをまもる。 ペルシア戦争の時にギリシアが誓いかつ守った、あの堂々たる誓約の第一箇条は、「我々の法をペルシアの法にかえるくらいならば、むしろ生を死にかえよう」ということだった。 いかに多くの人々が、あのギリシアとトルコとの戦いの時、割礼をうけて邪教に従うことを拒み、いかに苛酷な死を甘受したか。 だがこのくらいのことはどんな宗教も平気でやってのける事柄である。 カスティリャの王たちがユダヤ人をその領土から放逐するや、ポルトガル王ジョアンは一人あて八エキュで彼らが自分の領内に避難することをゆるした。 「約束の日が来たらすぐに退去すること」という条件で。 だがその代り王の方でも、その時は彼らのためにアフリカ行の船を仕立ててやる約束をした。 その日が来た。 「その日がすぎても命令に従わないものは永く奴隷とする」とは、かねて布告されていたことであったが、彼らに提供された船の数はごく少なかった。 しかもこれに乗り込むことができたものも、船子どものために散々に虐待された。 彼らはいろいろな侮辱を加えられたばかりか、海の上を前に後にと散々に漕ぎまわされたために、しまいにはもって来た食料もたべつくし、高い金で、長いこと、船子どもから食料を買わねばならないというわけで、やっと岸におろされた時は、何れも皆シャツ一枚というひどい有様だった。 やがてこういう顛末が風のたよりにとりのこされた人たちに伝わると、その大部分は奴隷に落ちる決心をした。 或る者どもは改宗をした風を装った。 やがてエマヌエルが王位につくと、始めは彼らを解放したが、後にその考えを変え、特に彼らの渡航のために三つの港を指定し、或る期間内に国外に退去するよう布告した。 つまりこの王は(と現代における最も優れたローマ史の専門家オゾリオ司教が言っている)、始め彼らに自由をゆるしてやったにもかかわらず、結局彼らをキリスト教に改宗させることができなかったので、今はただ、さきの同胞と同様に船子どもの掠奪に身を委せるつらさや、今まで大きな富をいだいて住みなれた土地を去って見も知らぬ異郷におもむかねばならぬつらさを思いしらせて、何とか彼らを改宗させようと、望んだのであった。 ところがこの希望は見ごとにはずれ、彼らがみな渡航の決心をしたのを見ると、王は始めに約束した三つの港の中の二つを閉鎖した。 そうすれば、渡航の永びくことやこれに伴ういろいろな不便を考えて、少なくとも彼らの幾人かはその決心を飜すであろう、いやむしろ、こうして彼らをすべて一カ所にまとめておけば、予定の事柄を実行するのにもすこぶる便利であろう、と考えたからである。 その予定というのはほかでもない。 王は、十四歳未満の幼な子を父母の手から奪い、親たちの眼も言葉も届かないところに連れてゆき、そこで我々の宗教を教え込んでやろうと思ったのであった。 伝えられるところによると、その結果は恐ろしい光景となって現われたそうである。 親子の間の自然の情愛や、旧来の信仰に対する熱情が、この乱暴な命令に抵抗したからだ。 いたるところに、われとわが命を絶つ父と母とを見た。 いや、もっと恐ろしかったのは、わが子可愛さいとしさの余りにこれを井戸に投げ入れ、そうやってまで命令を免れさせたことである。 でも、あらかじめ約束された期限がきれると、やはり彼らはやむなくもとの奴隷にかえった。 或る者はとうとうキリスト教徒になることはなったが、これらの人たちの・いや彼らユダヤ人の・信仰を、それから百年もたった今日といえども、心から本気にするポルトガル人はほとんどないのである。 長い月日と習慣とは他のいかなる強制にもまして力ある勧告者であるとはいえ。 キケロは言った。 我が大将達のみならず、雑兵の末にいたるまで、こぞって確実なる死におもむきしこと、そも幾度なりしぞや と *。 * ユダヤ人の信仰うすきを責めているのではない。 人は他人の信仰をかえようとして強請しても無駄であるというのである。 自分の信仰だけを守っていればよい、というのが、このパラグラフの真意である。 モンテーニュは、ルーテル派、カルヴァン派の折伏精神を非とし、自分はあくまでカトリックだと言いたいのである。 (b)わたしはわたしの親しい友人の一人が、まこと愛慕の情をもって、ひたすらに死に赴くのを見た。 その情は、わたしの力ではとうてい打ち倒すことのできないさまざまな論拠につちかわれて、彼の心の底に深くその根をおろしていた。 だから栄光を帯びた死がひとたび彼の前に立ち現われると、すぐさま、別に何という理由もないのに、激しく切に死に餓えていたかのごとく、その前に身を投じた。 (a)我々の時代にも、人々が、いやこどもさえもが、ごくささいな不快を苦にして自殺した例はいくらもある。 古人はこれについて、こう言っている。 「卑怯者がその隠れ家として選んだものまでこわがるなら、われわれにとってこわくないものは一つもあるまい」と。 こんにちよりも人々がもっと幸福だった時代に、平然として死んだとか死を待ったとか、または、ただこの世の苦しみを免れたいためばかりでなく、或いは単に生きるのに飽きあきしたとか、或いはより良い境遇をよそに得ようとか望んで、自ら進んで死を求めたとかいうような、貴賤男女あらゆる宗派の人々の名前を、ここによみ上げるような愚をわたしは決してしないだろう。 まったく、そういう人たちは数限りないのだから、死を恐れた者を数え上げる方がずっと気がきいていよう。 ただ一つだけ申すことにしよう。 哲人ピュロンは、或る大嵐の日にたまたま舟に乗り合せたが、自分の周囲で最も恐れ騒いでいる人々に向って、同じく船の中にあって少しもこの暴風雨に気をとられていない一頭の豚を指し示して、人々をはげました。 ということは結局、こう我々は言わねばならないことになるのではあるまいか。 すなわち「我々があんなに珍重するところの・そして我々が万物の霊長たるゆえんのものとして有難がるところの・その理性という特権は、 畢竟 ( ひっきょう )我々が自ら苦しむために授かったのか。 物事の知識が一体何の役にたとう? もしこれがあるためにかえってこれがなければ 享 ( う )けられる平静を失うのだとすれば。 そして、もしそれが我々をピュロンの豚よりもみじめなものにするのだとすれば。 せっかく我々は最大の幸福のために知性を授けられたのに、どうしてこれを自己を滅ぼすために用いるのか。 何だって、人は、おのれの道具方便をそれぞれの利益安楽のために用いるようにとのぞんでいる自然の意図・宇宙万物の秩序・に逆らうのか *」と。 * モンテーニュは、ここではまだピュロン説を支持していない。 むしろそれを疑っている。 彼はこのとき、なお純然たるストア学者であって、哲学が死を蔑視する上に有効であることを確信している。 次のパラグラフはこのストア主義に対するピュロン説の反駁である。 「なるほどね」と人はわたしに言うであろう。 「なるほど君の掟 *も死については役立つかもしれない。 だが貧乏についてはどういうことになるかね? 苦痛についてはどういうことになるのかね? (c)アリスティッポスやヒエロニュモスや (a)大部分の賢人たちは、これを最大の悪と見なしたではないか。 それを口先では否定していた人たちも、行為の上ではこれを肯定したではないか」と。 ポセイドニオスが激烈な病に苦しみ悶えているところにポンペイウスが訪ねて来て、「これは悪い時に哲学の教えを聞きに参りました」と詫びたところ、「いやとんでもない。 わしはそれほど苦痛に参ってはおらんよ。 いつものとおり哲学を講ずることができるよ」とポセイドニオスは答えるや、早速苦痛の蔑視という問題について 滔々 ( とうとう )とやり出した。 けれども、その間も苦痛はその役目を演じており、絶えず彼を折檻していた。 それで彼はこう叫んだ。 「なかなかやるな、苦痛よ。 だが苦痛は悪なりとは、どうあっても言わないぞ」と。 この話は人々がよく引合いに出すものであるが、果してそれは、彼が苦痛を蔑視したことの証拠となっているか。 それはただ言葉の上の論議にすぎない。 もしこの時これらの刺激が全く彼を動かしていないとすれば、なぜ彼は講演をとぎらせたのか。 なぜ苦痛を悪と呼ばないと、さもえらそうに言っているのか **。 (オウィディウス) 百千の動物、百千の人間は、あなやと思う間もなく死んでしまう。 いやまったく、我々が死において、もっぱら恐ろしいと言っているのは、いつもその前ぶれをする苦痛なのだ。 (c)だがある教父の言ったことが本当だとすれば、 死はその後に来るものによってのみ不幸なり (聖アウグスティヌス)なのだが、それよりか、「先にゆくものも後に来るものも、共に死の属性ではない」と言う方が真に近いように思われる。 我々の弁解 *は嘘である。 いや、わたしの経験では、やっぱり死を想うことが堪えがたいからこそ、いっそう苦痛が堪えがたいものになるのだ。 苦痛が死をもっておどかすからこそ、我々は苦痛を二倍にもつらく感ずるのだ。 けれども理性がかくも唐突な、かくも不可避な、かくも非感覚的なものを恐れるのは卑怯だとあまりにくさすものだから、やむをえず我々は、もう一方の幾分か許してもらえそうな口実 *をとることになるのである。 * 「死を恐れるのは、これに伴う苦痛のせいだ」「死がこわいのではなくて苦痛がいやなのだ」という弁解は嘘であり口実にすぎぬ。 ただ苦しいだけで他に危険のないすべての病気を、我々は危険のない病気と呼ぶ。 歯の痛みや足腰の痛みは、どんなに痛くても命取りではないから、誰もこれを病気の中に数えないではないか。 だが、まあよい。 ここでは一応、我々は死の中に主として苦痛を見るのであるということにしておこう。 (a)例えば貧乏にしても、ただそれが飢えや渇きや暑さや寒さや不眠などによって我々を苦痛の腕のうちに投ずればこそ恐れられるので、その他には、何もこわいところはないのである。 そこで、ただ苦痛だけを問題にしよう。 わたしもまた、それが人生最悪の不幸であるとすることに賛成する。 喜んで賛成する。 まったくわたしは、今までのところは、有難いことに、あまり苦痛とは御縁がなくているけれども、それを最も忌み嫌い、それを最も避けたがる男なのである。 だが、我々は、これを絶滅することはできなくても、これを忍耐によって軽減することができる。 肉体はこれによってかき乱されても、霊魂と理性とは良い状態のうちに保つことができる。 いや、そうでなかったら、誰が我々の間で、徳や勇気や我慢や太っ腹や覚悟を、重んじたであろうか。 もし 挑 ( いど )むべき苦痛がなくなってしまったら、それらは一体どこにその役目を演ずるであろうか。 徳は危険に飢えつつあり (セネカ)。 もし堅い地上に寝たり、物の具に身をかためて南の国の暑さに堪えたり、馬や驢馬を殺して飢えをしのいだり、その身を切り開かれ骨の間の 弾丸 ( たま )を抜かれたり、さらに縫ったり焼いたり消息子を入れられたりするのに堪える必要がないならば、いったい何によって我々は凡俗にまさろうとしてまさることができるか。 苦痛を避けるどころの話ではない。 賢人たちはこう言っている。 「同じように立派な行為のうちもっとも苦痛を多く蔵するものこそ、特にしたいと願われる行為である」と。 (c) 我々の幸福は軽佻の伴侶たる歓楽嬉戯の中にあらず、むしろ悲痛の中にいながら我慢してそれに堪えるにあり (キケロ)。 (a)だからこそ、我々の父たちは、「戦争の危険の中に武力によってえた征服は、狡知によって安全の中になされるそれに及ばない」などということを、ついに承服することができなかったのである。 (ルカヌス) それに次のことは我々を慰めるにちがいない。 すなわち、本来苦痛は、激しければ短く長ければ軽いのだ。 (c) それ激しければすなわち短く、長ければすなわち軽し (キケロ)。 (a)君がそれをひどく感ずる時は、そう長くそれを感ずることはあるまい。 それは自己を終らせるか君を終らせるだろう。 どっちにしても同じことになる。 (c)君にそれが背負い切れなければ、それが君を背負ってゆくだろう。 思いおこせ。 死は大いなる苦痛を終らせることを。 小さき苦痛ははなはだ 間歇 ( かんけつ )的なることを。 しかして我らは、大きくも小さくもなき苦痛にはよく勝つことを。 されば軽ければ我らはそれを負うにたえん。 堪え難ければ、劇場を出てゆくがごとく人生を退出し、その苦しみを免れうべし (キケロ)。 (a)我々が苦痛をそのように堪えがたく思うのは、我々が我々のおもなる満足を霊魂のうちに求めるのに慣れていないからである。 (c)霊魂に十分に頼らないからである。 霊魂こそ、我々の境遇や行為の唯一至上の主人であるのに。 肉体は、程度の差こそあれ、一つの歩み方、一つのありようしか持たない。 霊魂の方はいろいろな形にかわり得る。 そして自分に、それがどんなものにしろ、とにかく自分の支配に、肉体の感覚やその他外界の出来事を従わせる。 だから、まず霊魂を研究し調査し、そこにその全能な弾力をよびさまさなければならない。 理屈も命令も暴力も、霊魂の傾向選択には、とうてい抵抗しえないのである。 霊魂が思いのままになしうるところの幾千のあり方の中から、我々の安静と存続とに最も適する一つをそれに許すならば、我々はたちどころにあらゆる危害からまもられるばかりでなく、ときには危害や災難からも愛撫されたりへつらわれたりする。 霊魂はどんなものをも無差別に利用する。 まちがった思想も夢のような考えも、彼にはりっぱに役に立つ。 いずれも、我々をまもり我々を満足させる忠実な素材となるのである。 我々の苦楽を鋭くするのは我々の精神の鋭利さであるということは見やすいことだ。 畜類は、その精神を鼻輪の下につながせておき、その自由自然な諸感覚の方は肉体に委せきっている。 したがって、それらの感覚はどの獣においてもほとんど一様である。 それは同じような彼らの動作によってもわかる。 もし我々も我々の諸器官において、当然それらに属している権能を妨害しないならば、我々はもっと幸福であろうと信ぜられるし、自然はそれらの器官に、快楽に対しても苦痛に対してもそれぞれ最も中正な度合いを与えたとも信ぜられる。 いや、自然は中正ならざるを得ないのである。 それは平等一般なのであるから。 けれども我々はすでにこの自然の掟をふり切って、我儘勝手な我々の空想に身をまかせてしまっているのだから、せめてそうした空想を最も愉快な方向に向けるように努めようではないか。 プラトンは我々が苦痛と快楽とに余りにとらわれすぎていることを心配している。 それではあまりにも霊魂を肉体に縛りつけることになると言うのである。 だがわたしはむしろ反対だ。 両方をひき離すことこそ心配なのである。 (a)ちょうど敵が我々の逃げるのを見るとますますたけり立つように、苦痛もまた我々がその前に震えるのを見るといよいよ威張る。 苦痛は、それに抵抗する者の前には、案外やさしい条件で降伏するであろう。 是非ともそれに対して対抗し威張らなければならない。 退 ( ひ )けば退くほど、恐ろしい破滅をわが身の上に招きよせることになる。 (c)肉体は力を籠めて立ち向う場合はそれだけ堅固であるが、霊魂もそれと同じである。 (a)だが実例に移ろう。 この方が、わたしのように脚の弱い人間が追いかけるのにふさわしい獲物 *である。 そうした実例を見れば、我々にも、苦痛はちょうどそのはめられる台のいかんによって光ったり光らなかったりする宝石みたいなものであるということや、それはわれわれがこれに与えるだけの場所しか取らないものだということが、わかるであろう。 苦しと思えば思う程、彼らの苦しみはいやまさりき と聖アウグスティヌスは言っている。 我々は外科医のメスの一突きを、戦いたけなわな時の十太刀以上にも感じる。 分娩 ( ぶんべん )の苦しみは、医者にも神様にさえも大きな苦しみと見なされており、また我々がああいう物々しさをもってやっとすますものであるが、それを上下を通じて一向に気にとめない国民がある。 ラケダイモンの婦人たちのことはしばらくおく。 だが、わが歩兵どもの間に立ちまじるスイスの女たちをごらん。 ラケダイモンの婦人たちとどれ程のちがいがあるか。 ただその夫の後を小走りについてゆく彼女たちは、つい昨日までその腹にかかえていた赤ん坊を、今日はもうその胸に抱いているというだけのことだ。 それから、我々の間にちょいちょい見受けられるあの醜い 形 ( なり )のジプシーの女たちは、もよりの河に行って産んだばかりの赤ん坊を自分で洗い、自分もそこで水浴をする。 * 獲物というと獲たものという風に日本語の慣用は解釈させるが、フランス語の慣用では狩猟の目的物という意味にとられる。 すなわちここでは、「虎や猪などのような大物」でなく、「自分のような弱虫の手にもおえる獲物、せいぜい兎か鴨ぐらいのもの」を想像させる。 推理論証はむつかしくて手におえないから、自分は哲学者ではないのだから、これから実例をならべようというのである。 (c)毎日こっそりと子供を身ごもったりおろしたりするあのいたずら娘ばかりではない。 ローマの貴族サビヌスの貞淑な夫人なども、他人に迷惑をかけまいとして、じぶん独りで、人手を借りずに、いや声も立てなければ 呻 ( うめ )き声ももらさないで、立派にふた児を産みおとした。 (a)ラケダイモンの名もない一少年は、狐を一匹ごまかしたが、それをマントの下におし隠して、発見されまいと、腹を噛まれても我慢した(まったく彼らが盗みそこねて恥をかくのを恐れることは、我々が刑を恐れる以上であった)。 またもう一人の少年は、 犠牲 ( いけにえ )の前に香をたいたとき火がその袖の中に落ちたが、儀式をさわがすまいとしてそのままその身を骨まで焼かせた。 いやたくさんの少年たちが、ただその国の教育が課する徳の試しのために、やっと七歳になるかならずで、少しも顔色を変えることなく、死に到るまで鞭うたれるのに堪えたのである。 (c)またキケロは彼らが敵味方にわかれて相戦うのを見たが、打ったり蹴ったり噛んだりしながら、気を失って倒れても、いっかな参ったとは言わなかったといっている。 習慣はとうてい自然に勝ちえざるべし。 けだし、自然は無敵なればなり。 されど我々は、軟弱・享楽・無為・怠惰・放縦等によりて我々の気魄を腐らせたり。 我々はあやまれる考えと悪しき習慣とによりてそれを軟化させおわれり (キケロ)。 (a)人はみなあのスカエウォラの物語を知っている。 彼は、敵の大将を殺そうと思ってその陣屋に忍び込んだが、惜しくもこれを討ちもらしたので、もっと変った 謀 ( はかりごと )を用い、もう一遍やり直しをして祖国を救おうと思い、目ざす敵王ポルセナに向って、ただ自分の計画を明かしたばかりでなく、味方には自分と同じような・自分と志を同じくする・ローマ人がたくさんいる旨を言いそえた。 そして、自分がどのような者であるかを示すためにまっかな炭火を持って来させ、そこに自分の腕が焦げ焼けるのを平気で眺めていたので、とうとう敵の方がこわくなり、命じてその炭火を除かせた。 何と言ったらよかろうか、その身を切り開かれながら書見をやめようともしなかったあの人のことを。 それからまた、いくら拷問を加えられても頑固にそれをあざ笑って譲らず、彼を引きすえていた刑吏のいら立った残酷の方が、また、あとからあとからと加えられた責苦の工夫の方が、とうとう 兜 ( かぶと )をぬいだというあの人 *のことを。 だがそれは哲学者であったと申されるか。 では次の例はどうか。 カエサルの一剣優がその傷をさぐられ、切り開かれながら、依然として笑いながら堪えたことを何と見られるか。 (c) 単なる一介の剣優といえども、呻き声をあげ顔色を変えることなきにあらずや。 向き合える時は勿論倒れんとする時にさえ、卑怯の振舞いを見せしことなきにあらずや。 そのとどめを刺されんずる時にさえ、その喉をそむくるを見しことありや (キケロ)。 (ティブルス) (a)わたしは、砂や灰を飲み、ほどよく胃を害することにつとめ、わざと青白い顔色になろうとするものを見たことがある。 すっかりスペイン風の姿になるためには、大きな 緊 ( し )め木を肉に食い入らんばかりに脇腹にあてがい、緊めたり膨らませたり、どんな苦しさに彼女らは堪えないか。 堪えるとも! そのために死ぬことさえもあるというのに! (c)わざとおのれの身に傷をつけて自分の言葉に偽りのないことを信じさせるのは、現代の多くの国民の間で至極普通なことである。 我々の王〔アンリ三世〕は、その著しい実例をいくつか物語っていられる。 かつてポーランドにおいて、彼おん自らのためにそのようなことが行われたのを御覧になったのであるから。 けれどもわたしは、それがフランスでもたれかれに真似されたのを知っているばかりでなく、一人の少女 *が、その熱烈な約束とその変らぬ心の証しとして、髪にさしていたピンを引き抜き、これをしっかりと、五度も六度も、その腕に突きさし、そのためにほんとうに皮膚がやぶれて血潮のほとばしるのを見たことがある。 トルコ人はその女のために、わが身に大きな 疵 ( きず )をつける。 そして、その痕が残るようにと、すぐその上に火をのせ、信じられないほど長い間それを消さずにおく。 やがて血が止って瘢痕が残るように。 これを実見した人たちは、わたしにその話を書いてよこし、かつそれをほんとうのことだと断言した。 しかし、十アスペルも出せば、その腕や股にずいぶん深い疵をつけるものが、彼らの仲間にはいつでも見つかるのである。 * 一五九五年版には「ピカルディの一少女」となっている。 そうすると、これはグルネ嬢のことではないかと推測される。 拙著『モンテーニュとその時代』第七部第四章五九一頁参照。 (a)うれしいことに、証人は、それを必要とする時には、いくらでも出て来る。 まったくキリスト教徒はそういう実例をふんだんにわれわれに提供しているのである。 実に我々の聖なる指導者〔キリスト〕にならい奉って、信心から十字架を負おうとした者は 夥 ( おびただ )しくあった。 我々は、大いに信ずるに足りる実見者 *の伝えるところによって知っている。 聖ルイ王が、年老いてその懺悔僧からゆるしをえられるまで、苦行用の毛襦袢をお脱ぎにならなかったことを。 また金曜日ごとに、とくにそのために箱に入れて帯びていられた五条の鉄鎖をもって、その牧師をしておん肩をうたしめられたことを。 我々の最後のギュイエンヌ公、この公領 **をとうとう英仏両王家にお譲りになったあのエレオノールの父君ギヨームも、その晩年の十年ないし十二年の間、苦行のためとて僧衣の下に始終鉄の鎧を着ておられた。 アンジュー侯フールクは、はるばるとエルサレムまでおいでになり、おん首に縄をまとい、主の御墓の前に 跪 ( ひざまず )き、下僕の二人をして御身を鞭うたしめられた。 けれどもそれは昔だけの話ではない。 今でも聖金曜日には、所々方々で多くの善男善女が、肉がやぶれて骨の現われるまで、その身を鞭うたせているではないか。 わたしもそれはしばしば見たけれども、ちっとも感動はしなかった。 きくところによれば(まったく彼らは覆面をしてゆくのである)、中にはお金を貰って、それで他人の信心を請け負う者もいるということだけれど、苦痛の蔑視もここまで来ると、信心の欲求の方が金銭の欲求よりもずっと強いものだと知っているだけに、ほとほと感心させられる ***。 *** 信心のためならまだわかる。 信心の刺激は貪欲のそれよりも一層つよいものだから。 ただ、金ほしさにこれ程の苦痛をしのぶということは、モンテーニュをほとほと感心させたのである。 前出の女たちが美のために歯を抜かせたりする話と同様に。 なお白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の中にこの種の苦行者の行列を見た記事がある。 「旅日記」索引「苦行会員」の項参照。 (c)クイントゥス・マクシムスは執政であるその息子を、マルクス・カトーは奉行に任命されたその息子を、またルキウス・パウルスは二、三日の間に二人の息子を、いずれも少しも悲しみの色を帯びない平気な顔付で埋葬した。 わたしはこのあいだ或る人について、「あの人は神の裁きを失敗におわらしたよ」と冗談を言った。 だって、三人の立派な息子の急死がただ一日の内に、どうやら恐ろしい鞭の一撃として、彼の許に知らされたらしいのに、もうすこしで彼は、それを神様の恵みのように受けとろうとしたのである *。 いやわたしも、それは里子の頃のことではあるが、子供を二人か三人失ったことがある **。 惜しいと思わないではなかったが、少なくとも嘆き悲しむことはしなかった。 でも、これくらい人間の心を深くつくものも、そう滅多にないのである。 なおこの他にも、世の人がひとしく悲しむことであって、しかもそれがこの身に降りかかろうとも、ほとんど平気でいられるであろうと思う事柄がある。 実際わたしは、そのあるものがわたしの許に到来した時、とうとうそれを無視してしまったが、それは世間の人たちがはなはだこわがるものなんで、そのことだけはさすがのわたしも、赤面せずに威張って皆に披露する気にはなれないのである ***。 之 ( これ )をもって之を見れば、悲哀は物の本性より来るにあらずして、人々の考え方より来るものなりと知らざるべからず (キケロ)。 *** この句はモンテーニュ夫妻の間柄について或る種の想像をゆるす。 年表一五六九年の項参照。 また『モンテーニュとその時代』第四部第二章参照。 (b)人間の考えというものは大胆で限りのない、一つの強力な 性能 ( ちから )である。 かつて誰が、アレクサンドロスやカエサルが心配や困難を求めた時ほどの飢え渇きをもって、安穏と安泰とを願ったことがあるか。 シタルケスの父テレスはよく言ったものである。 「戦争をしていない時は、自分と馬丁との間に何の相違もないと思う」と。 (c)執政のカトーがスペインの或る都市の治安を確保しようとして、住民たちに武器を帯びることを禁じたところ、ただそれだけのために大勢のものが自殺した。 それは 武器なくしては生きるも甲斐なしと考える勇猛なる民 (キケロ)であったから。 (b)我々は知っている。 いかに多くの人々が、自分の家でその近親にとりまかれながら営む静穏な生活のたのしさを避けて、わざわざ人住まぬ広野の恐ろしさを追い求めているかを。 また、自ら卑賤に身をおとし世を捨て、かえってそういう生活を心から請い求めているものさえ随分たくさんあることを。 つい先頃ミラノでみまかられた枢機官ボロメオは、その爵位やその巨万の富や、またイタリアの天地やその若さなどから考えれば、いかにも享楽の巷へ誘われがちであったかと思われるが、彼はそういう境遇にありながらも己れを持することがきわめて厳格で、夏冬その衣をかえなかったし、寝るにもただ藁屑を敷くばかり、公務の余暇にはただ跪いて勉強ばかりしていられた。 ごく僅かの水とパンとが書物の傍におかれるだけ。 実際、食べるものといえばただそればかりで、暇という暇はみな勉強のために用いられたのである。 それからまた、噂をたてられるだけでも多くの人々がぞっとするコキュ *に、わざと自分からなり果て、金を巻上げたり立身のたよりをえたりした男も、わたしは知っている。 視覚は我々の感覚の中で最も必要なものではないにしても、少なくとも最も楽しいものである。 だが、我々の器官の中で最も快適で有用なものといえば、生殖に役立つところのそれであろうと思う。 ところが多くの人たちは、それを、ただあまりにも快適だという理由だけで、非常に忌み嫌った。 そしてその価値のためにかえってそれを排斥した。 自分で自分の眼をえぐった者は、眼に対して同様の考えを抱いたのである。 * 細君に不行跡をされて知らずにいる二本棒の亭主のことをコキュという。 ここでは、わざと細君を 囮 ( おとり )にして間男から金をまきあげる亭主のことを言っている。 (c)大多数の最も健康な人たちは、子だくさんであることを大きな幸福と考えているが、わたしはほかの幾人かの人々とともに、それがないことを、同じく幸福だと考えている。 いや、誰かがタレスに向って「なぜ結婚しないのか」と聞いたとき、彼は「子孫をのこすことを好まないから」と答えている。 我々の考え方が物事に価値をつけるのだということは、われわれが多くの場合それらのものそれ自体を評価しようとして見るのではなく、むしろそれらを我々との関係において見ようとしていることによってわかる。 いや我々は、それらの性質をも効用をも考えてはいない。 ただそれらを得るためにはどれ程の犠牲費用を要するかということばかり考えている。 あたかもそれがそれらの物の本質の一部ででもあるかのように。 そしてそれらの物において、それらが我々にもたらすものではなしに、かえって我々がそれに投ずるところのものを、価値と呼んでいる。 そこでわたしは、我々が出費にかけて甚だけちであるわけを理解する。 出費はそれが辛ければつらい程、役に立たねばならぬと思っている。 我々の考えは、決してその出費がそれだけの役に立たずに終ることを黙ってはいない。 買値が金剛石に折紙をつける。 困難が徳行に、苦行が信心に、苦さが薬に、値うちをつける。 (b)誰かが清貧になろうと思ってお金を海に投げ入れる。 かと思うとたくさんの人々がその同じ海を、その中からお宝を釣りあげようとかきまわしている。 エピクロスは言っている。 「富むということは重荷をおろすことではなくて、それを取りかえることである」と。 真実、 吝嗇 ( りんしょく )を生むのは赤貧ではなく、むしろ富裕である。 わたしはこの事をめぐって、自分の経験を語ろうと思う。 わたしは、少年時代を終えてから、三とおりの境遇のうちに生きて来た。 第一期はほぼ二十年ばかり続いたが、わたしはその間を、元手といえば不時の収入の外にはなく、ひたすら他人の指導と援助とに頼って過した。 きちんとした勘定もしなければ予算も立てなかった。 すべてを運命のなすがままにまかせていたから、わたしはそれだけ愉快に、それだけ心配せずにお金を使った。 その頃くらいよい時代はなかった。 友人たちの財布の紐が締まるのを見るようなことは、一度もなかった。 わたしは他のどんな義務よりも、返済の時をたがえない義務をきびしく自分に課していたからだ。 皆はその期日を幾度となく延ばしてくれた。 わたしが一所懸命に彼らを満足させようと努めていることがわかるからだった。 つまりわたしは、ちびちびと、いわばけち臭く、どうやら義務を果したというわけである。 わたしは生れつき支払うことにいくらかの快味を感ずる。 ちょうど自分の肩からいやな重荷をおろすような・また奴隷の衣を脱ぐような・気がするからである。 いや、正しいことをして人を満足させるというところに、わたしの心をくすぐる若干の満足があるからである。 だが、値切ったり駈け引きをしたりしなければならないような支払いだけは別である。 まったく、そういう役目を任せる人が見つからないと、恥ずかしいこと、ふとどきなことだが、わたしはそれをできるだけ延ばすことにしているのである。 わたしの性格といい弁舌といい、全然相容れないあのいがみ合いがいやだからだ。

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僕ら は 知っ て いる 奇跡 は 死ん で いる 努力 も 孤独 も 報 われ ない こと が ある

マザー・テレサの生涯 1910年8月26日、マザー・テレサ(アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ)はオスマン帝国ユスキュプ(現在の北マケドニア共和国スコピエ)に3人兄弟の末っ子として生まれる。 母はルーマニア人、父はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった。 父は手広く事業を営む地元の名士であり、アルバニア独立運動家でもあった。 またカトリック教徒であった父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。 父はアグネスが9歳のときに急死している。 アグネスは聡明な子で12歳のころには将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたという。 18歳のときにアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドで女子教育に力を入れているロレト修道女会に入る。 1931年、21歳のアグネスは修練女としてインドのダージリンに赴いた。 初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。 テレサは1947年までカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で地理と歴史を教える。 34歳のときには校長に任命されている。 上流階級の子女の教育にあたりながらも、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。 1946年9月、36歳のテレサは休暇のためダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。 1948年、ローマ教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られ、テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。 テレサは学校に行けないホームレスの子どもたちを集めて街頭での無料授業を行うようになる。 やがて教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになった。 1950年、テレサは40歳のときに「神の愛の宣教者会」を設立。 同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。 テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。 インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設。 以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。 1969年、アメリカ人が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神さまのために』や同名の書籍によって、テレサの活動は全世界で知られるようになった。 その活動は高く評価され、多くの賞がテレサに与えられた。 1979年にはノーベル平和賞を受賞している。 1997年9月5日、マザー・テレサはカルカッタにて87年の生涯を閉じた。 宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として荘厳に行われた。 2016年9月4日、ローマ教皇フランシスコはテレサを列聖し、聖人であると宣言した。 それでも許しなさい。 人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。 それでも人にやさしくしなさい。 成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。 それでも成功しなさい。 正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。 それでも正直に誠実でいなさい。 歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。 それでも作り続けなさい。 心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。 それでも幸福でいなさい。 今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。 それでも善を行いを続けなさい。 持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。 それでも一番いいものを分け与えなさい。

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