源氏物語 須磨の秋 品詞分解。 源氏物語『須磨の秋・心づくしの秋風(須磨には、いとど心づくしの〜)』の品詞分解(助動詞など) / 古文 by 走るメロス

源氏物語「須磨には、いとど心づくしの秋風に~」品詞分解のみ

源氏物語 須磨の秋 品詞分解

「源氏物語:須磨の秋・心づくしの秋風〜後編〜」の現代語訳(口語訳) 須磨にわび住まいする光源氏は、昼は書や画 えをかいたり、お供の者と雑談したりして過ごしていた。 前栽 せんざいの花いろいろ咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出 いで給ひて、たたずみ給ふ御 おほんさまのゆゆしう清らなること、所がらはましてこの世のものと見え給はず。 庭先の花が色とりどりに咲き乱れて、趣のある夕暮れに、海が見渡される廊にお出ましになって、たたずんでいらっしゃる(光源氏の)お姿が不吉なまでにお美しいことは、(須磨という)場所柄いっそうこの世のものとはお見えにならない。 白き綾 あやのなよよかなる、紫苑 しをん色など奉りて、こまやかなる御直衣 なほし、帯しどけなくうち乱れ給へる御さまにて、 白い綾織物の単で柔らかなものに、紫苑色の指貫などをお召しになって、濃い縹色の御直衣に、帯を無造作にしてくつろぎなさっているお姿で、 「釈迦牟尼仏弟子 さかむにぶつのでし」と名のりてゆるるかに誦 よみ給へる、また世に知らず聞こゆ。 「釈迦牟尼仏弟子」と名のってゆっくりと(お経を)お読みになっているお声が、同様にこの世のものとも思われないほど(尊く)聞こえる。 沖より舟どものうたひののしりて漕 こぎ行くなども聞こゆ。 沖を通っていくつもの舟が(舟歌を)大声で歌って漕いでいく声なども聞こえる。 ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも心細げなるに、雁 かりの連ねて鳴く声楫 かぢの音 おとにまがへるを、 (舟の影が)かすかに、ただ小さい鳥が浮かんでいるかのように(遠く)見えるのも心細い感じであるうえに、雁が列をなして鳴く声が(舟を漕ぐ)楫の音によく似ているのを、 うちながめ給ひて、涙のこぼるるをかき払ひ給へる御手つき、黒き御数珠 ずずに映え給へるは、ふるさとの女恋しき人々の、心みな慰みにけり。 物思いにふけってぼんやりとご覧になって、涙がこぼれるのをお払いになっているお手つきが、黒い御数珠に(ひとしお)引き立っていらっしゃるそのご様子には、故郷(都)の女を恋しく思う供人たちは、心もすっかり慰められたのであった。 光源氏 初雁 はつかりは恋しき人の列 つらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき 初雁は都にいる恋しい人の仲間なのだろうか、旅の空を飛ぶ声が悲しく聞こえてくるよ。 とのたまへば、良清 よしきよ、 と(光源氏が)おっしゃると、良清は、 かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はその世のともならねども (あの声を聞いていると、)次々と昔のことが思い出されます。 雁は都にいたその当事の友ではありませんが。 民部大輔 みんぶのたいふ、 民部大輔(惟光)は、 心から常世 とこよを捨ててなく雁を雲のよそにも思ひけるかな 自分の意思で(故郷の)常世の国を捨てて鳴いている雁を、(今までは)雲のかなたのよそごとと思っていたことでした。 前右近将監 さきのうこんのぞう、 前右近将監は、 「常世出でて旅の空なるかりがねも列におくれぬほどぞなぐさむ 「(故郷の)常世の国を出て旅の空にいる雁も、仲間に後れないで(いっしょに)いる間は心が慰みます。 友惑はしては、いかに侍 はべらまし。 」と言ふ。 友を見失っては、どんなでございましょうか。 (みんなといっしょにいられるから慰められるのです。 )」と言う。 親の常陸 ひたちになりて下りしにも誘はれで、参れるなりけり。 (この人は)父が常陸介になって(任国に)下っていったのにもついていかないで、(光源氏のお供をして須磨に)参っているのであった。 下には思ひくだくべかめれど、誇りかにもてなして、つれなきさまにし歩 ありく。 内心では思い悩んでいるようであるが、(表面では)得意げに振る舞って、平気な様子で日々を過ごしている。 月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵 こよひは十五夜なりけりと思 おぼし出でて、殿上 てんじやうの御遊び恋しく、ところどころながめ給ふらむかしと、思ひやり給ふにつけても、月の顔のみまもられ給ふ。 月がとても美しく輝いて出てきたので、(光源氏は)今宵は(八月)十五夜だったのだとお思い出しになって、殿上の管絃の御遊びが恋しくなり、都にいる、光源氏と交渉の深かった女性方も(今頃この月を)眺めて物思いにふけっていらっしゃることであろうよと、思いをはせなさるにつけても、月の面ばかりをお見つめになってしまう。 「二千里外故人心 じせんりぐわいこじんのこころ」と誦 ずじ給へる、例の涙もとどめられず。 「二千里外故人の心」と(白居易の詩の一節を)吟誦なさると、(それを聞く供人たちは)いつものように涙を抑えることもできない。 入道の宮の、「霧やへだつる」とのたまはせしほどいはむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出で給ふに、よよと泣かれ給ふ。 藤壺の宮が、「霧やへだつる」とお詠みになった折のことが言いようもなく恋しく、その折あの折のことをお思い出しになると、思わず声をあげて泣いてしまわれる。 「夜更け侍りぬ。 」と聞こゆれど、なほ入り給はず。 「夜が更けてしまいました。 」と(供人が)申し上げるけれど、やはり奥にお入りにならない。 光源氏 見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはむ月の都は遥 はるかなれども 月を見ている間だけは、しばらく心が慰められる。 月の都がはるかかなたにあるように、恋しい人々のいる京の都は遠く、再び巡り会える日は、はるかに先のことであるけれども。 その夜、上 うへのいとなつかしう昔物語などし給ひし御さまの、院に似奉り給へりしも、恋しく思ひ出で聞こえ給ひて、「恩賜の御衣 ぎよいは今此 ここに在り」と誦じつつ入り給ひぬ。 (藤壺の宮から「霧やへだつる」の歌を贈られた)その夜、帝(兄の朱雀帝)がとても親しみ深く昔の思い出話などをしなさったお姿が、院(故桐壺の院)に似申していらっしゃったことも、恋しく思い出し申し上げなさって、「恩賜の御衣は今ここに在り」と吟誦しながら奥にお入りになった。 御衣 おほんぞはまことに身はなたず、傍らに置き給へり。 (帝からいただいた)御衣は(道真の詩にあるとおり)本当に身辺から離さず、おそばにお置きになっていらっしゃる。 光源氏 憂しとのみひとへにものは思ほえでひだりみぎにもぬるる袖かな 帝をいちずに恨めしいとばかりも思うことができず、(帝の恩寵を懐かしくしのぶ気持ちもあって、)左でも右でもそれぞれの涙で濡れる袖であることよ。 【須磨】 光源氏は須磨から明石 あかしへと移り、そこで明石の君と契り、やがて明石の姫君と呼ばれる子をもうけることになる。 須磨への退居から二年半後、光源氏は都に呼び戻され、政界に復帰する。 白き綾 白い綾織物の単 ひとえ。 紫苑色 表は薄紫、裏は青の指貫 さしぬき(袴 はかまの一種)のことか。 こまやかなる御直衣 ここは濃い縹 はなだ色の御直衣。 「直衣」は、貴族の平常服。 釈迦牟尼仏弟子 経文 きょうもんを読み上げる時などに、最初に「釈迦牟尼仏弟子なにがし」と名のるのが習慣であった。 良清 播磨守 はりまのかみの子。 光源氏の腹心。 民部大輔 光源氏の乳母 めのと子、惟光 これみつのこと。 「民部大輔」は民部省の次官。 前右近将監 光源氏の従者。 「前右近将監」は右近衛府 うこんえふの第三等官を務めた者。 入道の宮 出家している藤壺の宮を指す。 上 帝(後の朱雀院)を指す。 光源氏の兄。 院 故桐壺の院。 御衣 帝から拝領した御衣。 恩賜の御衣。 出典 須磨 すまの秋 参考 「精選古典B(古文編)」東京書籍 「教科書ガイド精選古典B(古文編)東京書籍版 2部」あすとろ出版.

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源氏物語「須磨には、いとど心づくしの秋風に~」品詞分解のみ

源氏物語 須磨の秋 品詞分解

初めよりわれはと思ひ上がりたまへる御方々、めざましきものにおとしめそねみたまふ。 同じほど、それより下臈 (げらふ)の更衣たちは、まして安からず。 朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし恨みを負ふ積もりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。 上達部 (かんだちめ)・上人 (うへびと)なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。 唐土 (もろこし)にも、かかることの起こりにこそ、世も乱れ悪 (あ)しかりけれと、やうやう天 (あめ)の下にもあぢきなう、人のもて悩みぐさになりて、楊貴妃 (やうきひ)の例 (ためし)も引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心 (みこころ)ばへのたぐひなきを頼みにて交じらひたまふ。 父の大納言は亡くなりて、母北の方なむ、いにしへの人の由 (よし)あるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえ華やかなる御方々にもいたう劣らず、何事の儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき後見 (うしろみ)しなければ、事ある時は、なほよりどころなく心細げなり。 【現代語訳】 いずれの帝の御世であったろうか、女御や更衣が大勢お仕えされていた中に、それほど高貴な身分ではないものの、格別に帝のご寵愛を受けていらっしゃる方がいた。 入内した初めから、私こそはと自負なさっていた女御の方々は、気に食わない者として軽蔑したりねたんだりなさった。 同じ身分またはそれより下位の更衣たちは、いっそう心安くない。 朝晩のお勤めにつけても、周りの人々の気ばかりもませ、恨みを買うことが積もりに積もったからだろうか、ひどく病気がちになり、何とも心細いようすで実家に下がりがちになってしまった。 そのため、帝はますます物足りなくいとおしくお思いになり、人がそしるのも気兼ねなさることもできず、後の世の例にもなってしまいそうなお取り扱いだ。 公卿や殿上人なども、感心できないと目をそらし、まさに見ていられないほどのご寵愛ぶりだった。 中国でも、こういうことが発端で世の中が乱れ、まことに不都合だったのにと、しだいに世間でも苦々しく思われ、人々の心配に種となった。 楊貴妃の例も引き合いに出されそうになり、たいへん辛い立場になってしまったが、畏れ多い帝の愛情が他に並びないのをひたすら頼みとして、他の人々と交際していらっしゃった。 公卿や殿上人なども、感心できないと目をそらし、まさに見ていられないほどのご寵愛ぶりだった。 中国でも、こういうことが発端で世の中が乱れ、まことに不都合だったのにと、しだいに世間でも苦々しく思われ、人々の心配に種となった。 楊貴妃の例も引き合いに出されそうになり、たいへん辛い立場になってしまったが、畏れ多い帝の愛情が他に並びないのをひたすら頼みとして、他の人々と交際していらっしゃった。 (注)女御・更衣・・・いずれも天皇の夫人。 女御は皇后・中宮に次ぎ、更衣は女御に次ぐ地位。 (注)上達部・・・公卿。 三位以上の人。 (注)上人・・・殿上人。 四位・五位の人。 いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児 (ちご)の御かたちなり。 一の御子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづき聞こゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物 (わたくしもの)に思ほしかしづきたまふこと限りなし。 母君、初めよりおしなべての上宮仕へしたまふべき際 (きは)にはあらざりき。 覚えいとやむごとなく、上衆 (じやうず)めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、さるべき御遊びの折々、何事にも、ゆゑある事のふしぶしには、まづ参 (ま)う上らせたまひ、ある時には大殿籠 (おほとのごも)り過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前 (おまへ)去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽 (かろ)き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほし掟 (おき)てたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の御子の女御は思し疑へり。 人より先に参りたまひて、やむごとなき御思ひ、なべてならず、御子たちなどもおはしませば、この御方の御いさめをのみぞ、なほわづらはしく心苦しう思ひ聞こえさせたまひける。 【現代語訳】 帝と更衣は、前世でも御宿縁が深かったのであろうか、世にたぐいのない美しい玉のような皇子までがお生まれになった。 帝は、早く早くとじれったくおぼし召されて、急いで参内させて御覧になると、たぐいまれな若宮のお顔だちである。 第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになったので、後見が確かで、まちがいなく皇太子になられる君だと、世間でも大切に思い申し上げているが、この若宮の輝く美しさにはお並びになりようもなかったので、第一皇子に対しては並みひととおりのご寵愛ぶりであって、この若宮の方をご自分の思いのままにお可愛がりあそばされることこの上ない。 母の更衣は、元来、ふつうの宮仕えをなさるような軽い身分ではなかった。 世間の評判もとても高く、貴婦人の風格があったが、帝がむやみにお側近くにお召しあそばされ過ぎて、しかるべき管弦のお遊びの折々や、どのような催事でも趣ある催しがあるたびごとに、真っ先に参上おさせになった。 ある時には、いっしょに寝過ごしなさって、そのままお側におおきになるなど、むやみに御前から離さずに御待遇あそばされるうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたが、この若宮がお生まれになって後は、更衣のことを格別にお考え定めあそばされるようになっていたので、「皇太子にも、ひょっとすると、この若宮がおなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになっていた。 このお方は誰よりも先に御入内なされて、帝の大切にお考えあそばされることはひと通りでなく、ほかの御子たちもおいでになるので、このお方のご苦情だけは、さすがにやはり、うるさいが無視できないことだと、お思いあそばされた。 (二) かしこき御蔭 (みかげ)をば頼み聞こえながら、落としめ疵 (きず)を求めたまふ人は多く、わが身はか弱く、ものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。 御局 (みつぼね)は桐壺なり。 あまたの御方々を過ぎさせたまひつつ、ひまなき御前 (おまへ)渡りに、人の御心 (みこころ)を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。 参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋 (うちはし)・渡殿 (わたどの)のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣 (きぬ)の裾 (すそ)堪へがたう、まさなきことどももあり。 またある時は、え避らぬ馬道 (ねだう)の戸をさしこめ、こなたかなた心を合はせて、はしたなめ、わづらはせたまふ時も多かり。 事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿 (こうらうでん)にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司 (ざうし)を他に移させたまひて、上局 (うへつぼね)に賜 (たま)はす。 その恨み、ましてやらむかたなし。 【現代語訳】 もったいない帝の御庇護をお頼り申しあげてはいるものの、更衣を軽蔑したり落度を探したりなさる方々は多く、ご自身はか弱く何となく頼りない状態で、なまじ御寵愛が厚いばかりかえってひどい気苦労をなさっていた。 更衣のお部屋は桐壺である。 帝が、多くの方々のお部屋の前を素通りなさってひっきりなしに桐壺へ行かれるので、その方々がお気をもまれるのもなるほど無理からぬことと思われた。 更衣が参上なさるときも、あまり度重なる折々には、打橋や渡殿のあちこちの通路にけしからぬことをたびたびして、送り迎えの女房の着物の裾が汚れてがまんできないような、とんでもないことがあった。 またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を閉じて中に閉じこめて、こちら側とあちら側とで示し合わせて、進むも退くもできないように困らせることも多かった。 何かにつけて数え切れないほど辛いことばかりが増えていったので、たいそうひどく思い悩んでいるのを、帝はますますお気の毒におぼし召されて、後凉殿に以前から住んでおられた別の更衣のお部屋を他にお移しになって、桐壺更衣に上局としてお与えになった。 その方(後涼殿更衣)の恨みはまして晴らしようがない。 年ごろ、常の篤 (あつ)しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほ、しばしこころみよ」とのたまはするに、日々に重 (おも)りたまひて、ただ五六日 (いつかむゆか)のほどにいと弱うなれば、母君、泣く泣く奏して、まかでさせ奉りたまふ。 かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留 (とど)め奉りて、忍びてぞ出でたまふ。 限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。 いと匂 (にほ)ひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩 (おもや)せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言 (こと)に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来 (き)し方行く末思し召されず、よろずのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色 (けしき)にて臥 (ふ)したれば、いかさまにと思し召しまどはる。 手車 (てぐるま)の宣旨 (せんじ)などのたまはせても、また入らせたまひては、さらにえ許させたまはず。 「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、契らせたまひけるを。 さりとも、うち捨ててはえ行きやらじ」とのたまはするを、女もいといみじと見奉りて、 「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり いとかく思ひたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、「かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむ」と思し召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人々うけたまはれる、今宵 (こよい)より」と、聞こえ、急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。 【現代語訳】 その年の夏、御息所(桐壺更衣)は、弱々しい感じにおちいってしまい、里に引き下がろうとなさったが、帝はお暇を少しもお与えにならない。 ここ数年来の、いつもの病状だとお見慣れになって、「やはりこのまま、しばらく様子を見よ」と仰られているうちに、日に日に重くなられて、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、更衣の母君が涙ながらに奏上して、やっと退出なさった。 このようなときにも、あってはならない恥を受けでもしてはと心配して、若宮を宮中にお残しして、人目につかないように退出なさった。 もう限界だったので、お気持ちのままにお引きとめすることもできず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく無念におぼし召された。 たいそうみずみずしく美しくかわいらしい人なのに、ひどく顔がやつれて、たいそうしみじみと物思うことがありながらも、帝に言葉に出して申し上げることもできずに、生き死にも分からないほどにたびたび意識が薄れていかれるのを御覧になると、帝はあとさきもお考えにならず、いろいろなことを泣きながらお約束なさるが、更衣はお返事を申し上げることもできず、まなざしなどもとてもだるそうで、いよいよ弱々しく、意識もないような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかと途方にくれていらっしゃった。 更衣のために手車の宣旨などを仰せ出されても、いよいよとなると再び更衣のお部屋に入られ、どうしても退出をお許しになる気になれない。 「死出の旅路にも、後れたり先立ったりするまいと約束したものを、いくら病気が重くても、私をおいてけぼりにしては行ききれまい」と仰ったのを、女もたいそう悲しくお顔を拝して、 「人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しく思われるにつけても、私が本当に行きたいと思う路は、生きるほうの路でございます。 ほんとうにこれほど悲しい思いをいたしますのでしたら」と、息も絶えだえに、申し上げたそうなことはありそうな様子ながら、たいそう苦しげにだるそうなので、このまま最期となってしまうのも見届けたいとお考えになるが、「今日から始める予定の祈祷などを、しかるべき僧たちの承っておりますのが、今宵から始めます」と言って、母君の使者がせきたてるので、帝はやむを得ず退出させなさった。 (注)御息所・・・帝から寵愛を受けている女性の尊称。 (二) 御胸のみ、つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。 御使 (みつか)ひの行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使も、いとあへなくて帰り参りぬ。 聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召し分かれず、籠 (こも)りおはします。 御子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、例 (れい)なきことなれば、まかでたまひなむとす。 何事かあらむとも思ほしたらず、さぶらふ人々の泣き惑ひ、上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見奉りたまへるを、よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれに言ふかひなし。 【現代語訳】 帝は、お胸がひしと塞がって、少しもうとうとなされず、夜を明かしかねていらっしゃった。 勅使が行って戻ってくる間もないうちから、しきりに気がかりなお気持ちを仰り続けていらしたが、「夜半少し過ぎたころに、お亡くなりになりました」と言って更衣の里の人たちが泣き騒いでおり、勅使もたいそうがっかりして宮中に帰参した。 更衣の死をお聞きになる帝の御心は動転し、どのような御分別をも失われて、引き籠もってしまわれた。 若宮は、それでも御覧になっていたかったが、このような折に宮中に伺候していらっしゃるのは先例のないことだったため、更衣の里へ退出なさろうとした。 何事があったのかもお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上も涙が絶えず流れていらっしゃるのを、変だなあと御覧になっているのを、普通の場合でさえ、このような別れが悲しくないはずもないのに、ましていっそう悲しく、何とも言いようがない。 夕月夜 (ゆふづくよ)のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。 かやうの折は、御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音をかき鳴らし、はかなく聞こえ出づる言 (こと)の葉も、人よりはことなりしけはひ・かたちの、面影につと添ひて思さるるにも、闇の現 (うつつ)にはなほ劣りけり。 命婦、かしこに参 (まか)で着きて、門 (かど)引き入るるより、けはひあはれなり。 やもめ住 (ず)みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目安きほどにて過ぐしたまひつるを、闇に暮れて臥したまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎 (やへむぐら)にもさはらず、差し入りたる。 南面 (みなみおもて)に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。 「今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使ひの蓬生 (よもぎふ)の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」とて、げに、え堪ふまじく泣いたまふ。 「『参りてはいとど心苦しう、心・肝も尽くるやうになむ』と、典侍 (ないしのすけ)の奏したまひしを、もの思ひたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」とて、ややためらひて、仰せ言 (こと)伝へきこゆ。 「『しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき人だになきを、忍びては参りたまひなむや。 若宮の、いとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、心苦しう思さるるを、とく参りたまへ』など、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは、人も心弱く見奉るらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色 (みけしき)の心苦しさに、承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」とて、御文奉る。 【現代語訳】 野分めいて、急に肌寒くなった夕暮どき、帝はいつもよりも亡き更衣をお思い出しになることが多くて、靫負命婦という者を更衣の里にお遣わしになった。 夕月夜の美しい時刻に出立させ、そのまま物思いに沈んでいらっしゃった。 このような折には、よく管弦のお遊びなどをお催されたが、更衣がとりわけ美しい音色で琴を掻き鳴らし、何気なく歌われた歌も、ほかの人とは格別だった雰囲気や顔だちが、面影となってひたとわが身に添うように思われ、古歌にある「闇の中の現実」にはやはり及ばないのであった。 命婦が更衣の里に参着して、車を門に引き入れると、しみじみと哀れ深い。 母君は未亡人暮らしだったが、娘一人の養育のために、あれこれと手入れをきちんとして、見苦しくないようにしてお暮らしになっていたが、亡き娘を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃったうちに、雑草も高くなり、野分によっていっそう荒れた感じで、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。 寝殿の南正面で命婦を車から下ろしたが、母君もすぐにはご挨拶できないでいる。 「今まで生き長らえておりますのがとても辛いのに、このようなお勅使が草深い宿の露を分けてお入り下さるのは、とても恥ずかしうございます」と言って、いかにも身を持ちこらえられないほどにお泣きになる。 「『お屋敷に伺うと、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え失せるようでした』と、先日の典侍が奏上していましたが、物の情趣をわきまえない私の心にも、なるほどまことに忍びがたいことです」と言って、少し気持ちを落ち着かせてから、仰せ言をお伝え申し上げた。 「『しばらくの間は夢かとばかり思い続けていましたが、しだいに心が静まるにつれて、夢ではないので覚めるはずもなく、堪えがたい気持ちをどのようにしたらよいものかとも、相談できる相手さえいないので、人目につかないように参内なさらぬか。 若宮がとても気がかりで、湿っぽい所で過ごすのもいたわしく思うので、早く参内なさい』などと、帝ははきはきとは最後まで仰りきれず、涙に咽ばされながら、また一方では、人びともお気弱なと思うだろうとお憚りにならないわけではないご様子がおいたわしく、最後までお聞き申し上げないようなありさまで、退出して参りました」と言って、お手紙を差し上げた。 (注)闇の現・・・古今集の「ぬばたまの闇のうつつは定かなる夢にもいくらもまさらざりけり」(詠み人知らず)の歌をふまえ、帝の目の前に現れる幻は、はっきり見えない暗闇での現実(生身の更衣)より劣っているということ。 「慰むや」と、さるべき人びと参らせたまへど、「なずらひに思さるるだに、いとかたき世かな」と、疎 (うと)ましうのみよろづに思しなりぬるに、先帝 (せんだい)の四の宮の、御容貌 (かたち)すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后 (ははぎさき)世になくかしづき聞こえたまふを、上にさぶらふ典侍 (ないしのすけ)は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴 (な)れたりければ、いはけなくおはしましし時より見奉り、今もほの見奉りて、「亡 (う)せたまひにしに御息所の御容貌に似たまへる人を、三代の宮仕へに伝はりぬるに、え見奉りつけぬを、后 (きさい)の宮の姫宮こそ、いとよう覚えて生 (お)ひ出でさせたまへりけれ。 ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「まことにや」と御心とまりて、ねむごろに聞こえさせたまひけり。 母后、「あな恐ろしや。 春宮 (とうぐう)の女御の、いとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例 (ためし)もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。 心細きさまにておはしますに、「ただ、わが女御子 (をんなみこ)たちの同じ列 (つら)に思ひ聞こえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。 さぶらふ人びと、御後見(うしろみ)たち、御兄 (せうと)の兵部卿 (ひやうぶきやう)の親王 (みこ)など、「とかく心細くておはしまさむよりは、内裏住(うちず)みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせ奉りたまへり。 藤壺と聞こゆ。 げに、御容貌ありさま、あやしきまでぞ覚えたまへる。 これは、人の際 (きは)まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞こえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。 かれは、人の許し聞こえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし。 思し紛 (まぎ)るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなく思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。 【現代語訳】 年月がたつにつれても、帝は桐壺御息所のことをお忘れになる折とてない。 「心慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「せめて御息所に準ずるほどに思える人さえめったにいない世の中だ」と、万事いとわしいばかりに思うようになってしまわれた。 そうしたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れていらっしゃるという評判が高い方で母后がまたとなく大切に育てられた方を、帝にお仕えする典侍が先帝の御代からの人で、あちらの宮にも親しく参って馴染んでいたので、その四の宮がご幼少の時分から拝見し、今でも時おり拝見して、「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、三代の帝にわたって宮仕えを続けておりまして一人も拝見できませんでしたが、先帝の后の宮の姫宮さまこそ、たいそうよく似てご成長あそばされました。 世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「ほんとうにか」と、お心が引かれて、丁重に礼を尽くして四の宮の入内をお申し入れになった。 母后は、「まあ恐ろしいこと。 東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が露骨に亡きものにされてしまった例も忌まわしい」と、おためらいになり、すらすらとご決心もつかないうちに、その母后もお亡くなりになってしまった。 四の宮が心細いようすでいらっしゃったので、帝は、「ただ、わが皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くしてお申し上げなさった。 お仕えする女房たちや、御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしになって、お心も晴らすように」などとお考えになって、入内させなさった。 藤壺と申し上げる。 なるほど、ご容貌や姿は不思議なほど亡き更衣によく似ていらっしゃった。 この方は、ご身分も一段と高いので、人の思うところも申し分なく、誰も悪口を申すこともできないので、帝は誰に憚ることなく何も不足ない。 あの方の場合は、周囲の人がお許しにならなかったところに、御寵愛が憎らしいと思われるほど深かまったのである。 ご愛情が紛れて亡き更衣のことをお忘れになるというのではないが、自然とお心が移っていかれて、この上もなくお慰めになるようなのも、人情の性というものであった。 いづれの御方も、「我、人に劣らむ」と思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人びたまへるに、いと若ううつくしげにて、切 (せち)に隠れたまへど、おのづから漏 (も)り見奉る。 母御息所は、影だに覚えたまはぬを、「いとよう似たまへり」と、典侍の聞こえけるを、若き御心地 (みここち)にいとあはれと思ひ聞こえたまひて、「常に参らまほしく、なづさひ見奉らばや」と覚えたまふ。 上も、限りなき御思ひどちにて、「な疎 (うと)みたまひそ。 あやしくよそへ聞こえつべき心地なむする。 なめしと思さで、らうたくしたまへ。 つらつき・まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、通ひて見えたまふも、似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花・紅葉 (もみぢ)につけても心ざしを見え奉る。 こよなう心寄せ聞こえたまへれば、弘徽殿 (こきでん)の女御、またこの宮とも、御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。 世にたぐひなしと見奉りたまひ、名高うおはする宮の御容貌にも、なほ匂はしさはたとへむ方なくうつくしげなるを、世の人、「光る君」と聞こゆ。 藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「かかやく日の宮」と聞こゆ。 【現代語訳】 源氏の君は、帝のお側をお離れにならないので、まして帝が頻繁にお渡りあそばす藤壺宮は、源氏の君に恥ずかしがってばかりいらっしゃれない。 どのお妃方も「自分が人より劣っている」と思っていらっしゃるはずもなく、それぞれに皆お美しいがややお年を召しているのに対して、藤壺宮はとても若く可憐で、つとめてお姿をお隠しなさるが、源氏の君は自然と物のすき間からお顔を拝見する。 源氏の君は、母御息所の顔かたちすらご記憶にないのだが、「藤壺宮は母君にとてもよく似ていらっしゃる」と、典侍が申し上げるので、幼心に藤壺宮をとても慕わしいとお思いになり、「いつもお側に参りたく、親しくお顔を拝見したい」とお思いになった。 帝もこの上なくおかわいがりのお二方なので、「どうかこの子をお疎みなさいますな。 不思議とあなたを若君の母君となぞらえ申してもよいような気持ちがする。 ですから失礼だとお思いにならず、可愛がってやってください。 顔だちや目もとなど大変よく似ているため、母君のようにお見えになるのも、母子として不似合いではないのですよ」などと、お頼みになるので、源氏は幼心にも、ちょっとした花や紅葉などことつけても、藤壺宮に対する好意をお見せになる。 それがこの上ないようすだったので、弘徽殿の女御は、またこの藤壺宮とも仲がよろしくないので、それに加えて、もとからの憎しみもよみがえってきて、源氏を不愉快だとお思いになっていた。 世の中にまたとないお方だと評判高くおいでになる一の宮のご容貌よりも、やはり源氏の照り映える美しさにはたとえようもなく、世間の人は、「光る君」とお呼び申し上げる。 藤壺宮も源氏の君とお並びになって、帝の御寵愛がそれぞれに厚いので、「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。 (注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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源氏物語 源氏物語を読む 原文対訳 目次

源氏物語 須磨の秋 品詞分解

須磨の秋の品詞分解がわかりません。 至急教えてください。 須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。 御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。 琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、 「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は 思ふ方より風や吹くらむ」 と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。 「げに、いかに思ふらむ。 我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに、いみじくて、「いとかく思ひ沈むさまを、心細しと思ふらむ」と思せば、昼は何くれとうちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、色々の紙を継ぎつつ、手習ひをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざまの絵どもを描きすさびたまへる屏風の面どもなど、いとめでたく見所あり。 人びとの語り聞こえし海山のありさまを、遥かに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく描き集めたまへり。 「このころの上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵仕うまつらせばや」 と、心もとながりあへり。 なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う馴れ仕うまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞ、つとさぶらひける。 なぜ古文をすべて品詞分解しようとするのでしょう? それより、まずは信頼のおける現代語訳を手元において、古文を照らし合わせてみるほうが、よっぽどスマートだろうと思います。 学校の授業で『須磨の秋』をやっているなら、その先生に頼めばいいだろうと思うのですが、源氏物語は有名作品ですから、ネットや図書館・本屋さんでも現代語訳をたやすく手に入れることができますよ。 ネットで見られるものとしては、これなどがあります。 sainet. html 自然な訳文にするために少しばかりの意訳はあるようですが、まずまず信頼のおけるものだろうと思います。 知恵袋の規制の都合でURLのアルファベットは全角ですので半角に戻してアクセスしてください。 学校の図書室や地元の図書館・本屋さんでは、古文と現代語訳が両方掲載されている書物を置いていることもあるでしょう。 どうしてそういう訳になるのか納得のいくところは、品詞分解をしないで、そのままドンドン読み進めてしまって構いませんが、なかには、どうしてそういう訳になるのか納得いかない箇所や、理解できない箇所が出てくるだろうと思います。 そこでいったん立ち止まって、知らない単語を辞書で引いたり、当時の社会の様子や習慣などを調べたり、注釈を参照したり、教師の助言を仰いだりするなかで、必要があれば、品詞分解するなど文法の考え方を当てはめてみるのもいいでしょう。 古文のなかから、うまく読めないところを抜き出して、必要があるときにだけ文法で分析すれば良いのです。 全文を品詞分解することはありません。 至急教えて欲しいと慌てることもありません。 古文というのは、落ち着いた気持ちでじっくり読んで味わうためのものであって、あわただしく文法のトレーニングをするためのものではありませんからね。 なお、snowbird4037という回答者は、古文で書かれた文学作品を読んで味わうのではなくて、道楽で文法の理屈を言いたいだけの「文法ヲタク」という生き物になります。 手頃な文法の質問がありさえすれば、手当たり次第に回答していく習性があるようですから、いつでも便利に使えることでしょう。

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