サピア ウォーフ の 仮説。 【ことばをめぐる】(020527)サピア=ウォーフ仮説,アリーmyラブ,本貫,脳死,カステラ

サピア・ウォーフの仮説とは?

サピア ウォーフ の 仮説

一昨日が「風」、昨日が「水」だからというわけではないが、今日は「雪」の話と、「虹」の話をしよう。 「でも、黒い水はセクシーではない」 昨日、老子の「水の思想」とロニの「水の詩想」を比べ見た。 彼らの水は果たして、同じ実在であったか。 ロニはいう。 「水はセクシーだ」。 ロニの注には、実は続きがある。 「でも、黒い水はセクシーではない」。 「黒い水」(black water)?ロニは例によって、光の加減で影のさす「水」に注を付す。 「これが黒い水である」。 ロニは写真家であり、そして詩人である。 詩人は詩人の言葉をもつ。 そして、詩人の言葉は詩人の世界に対する理解の仕方を規定している。 彼女はテムズの流れに「水」と「黒い水」をはっきり見分けた。 「言語」と「世界理解」の関係は神秘的ですらある。 サピア=ウォーフ仮説 「その人の話す言語が、その人の世界に対する理解の仕方を決める」。 この命題はその唱導者2人の名前をとって、「サピア=ウォーフ仮説」と呼ばれる。 ウォーフはこの仮説を証明する例として、イヌイットの雪に対する語彙を取り上げた。 ウォーフによれば、イヌイットは雪に該当する単語を数十種類もっているという。 いうまでもなく、シベリア、アラスカなどの北極圏近くに住むイヌイットにとって、雪は生活の一部である。 彼らは自然と雪に敏感となり、雪にまつわる語彙も豊富になった。 その結果、彼らの世界理解が言語によって規定されるに至る。 「言語が世界理解を規定するのか。 はたまた、世界理解が言語を規定するのか」。 この両者は互いに影響を与え合う。 いわば、鶏と卵の関係にあると見るのが自然である。 イヌイットの部族に生まれた子どもは、雪の語彙を豊富に持つイヌイット語を通じて世界を認識する。 ここで、言語が世界理解に先立っていることは明らかである。 ところが、直感や感情移入といった非言語コミュニケーションによって獲得された世界理解によって、これに対応する言語に変化がもたらされることもあるだろう。 そこでは、世界理解が言語に先立つのである。 要するに、どちらが先であるのかを議論することはあまり意味がない。 むしろウォーフの眼目は、言語と世界理解の相互依存性にこそある。 我々は、言語なしに世界を理解することができないのである。 この種の研究の常として、その後、「サピア=ウォーフ仮説」は、その研究成果の一部に反駁が加えられている。 しかし、現在では、世界理解に際しての言語の重要性を否定する者はいないと言っても過言ではない。 他にも、あるアフリカの部族は、岩肌に降り注ぐ夕日を表す言葉が幾種類もあるという研究がある。 雪といい、夕日といい、サピア=ウォーフは美しい仮説である。 「虹は何色だろう?」 次は「虹」の話である。 子どもの頃、誰しも雨上りの空を見上げて、空に消え入る虹の色の数を数えた経験があるだろう。 現実の虹はあまりにはかなく、子どもの心に鮮やかな色の残像を残す。 「虹は何色なのか?」科学的にいえば、虹はスペクトルであり、何色なのかは決めがたい。 それは全くもって、文化・習慣という人の主観に委ねられている。 「7色に決まっているでしょう」。 現代の日本人は、虹は7色だと信じ込んでいる。 しかし、日本では古来5色と言った。 7色というのは、むしろ西洋から渡ってきた新知識だった。 日本人には有名ではないが、アメリカの小学生であれば誰でも知っている「人名」に、Roy G. Bivという人物がいる。 実は、これ、red、orange、yellow、green、blue、indigo、violetの7色を暗記するための、架空の「人名」である。 では、虹は7色であると決めたのは誰なのか。 それはニュートンであると言われている。 ニュートンはプリズムを使って光を分散させる実験を行い、そこに現れた色の帯にスペクトルという名前を与えた。 彼はスペクトルが色のレンジ(連続体)であることを理解した。 にもかかわらず、これを人為的に7つの色にわけた「世界認識」をした。 それは彼が熱心なキリスト教徒であったことと関係するのではないかと、私は想像している。 キリスト教においては、7は「完全」の象徴である。 創世記によれば、神は6日で世界を創造した後、7日目に休息し、その日を祝福し「聖なる日」とした。 ヨハネの黙示録では、7つの手紙、7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢、そして7つの幻が現れる。 周知のように、7という数字は西洋音階にも採用され、1週間は7曜日からなる。 そのいずれが根なのか、葉なのか、私は知らない。 しかし、不思議な符号である。 「虹は無残にほつれゆく」 虹の話に戻ろう。 ニュートンは虹が光学的な現象であることを看破し、光の帯を「スペクトル」と名づけた。 今日の話の関連ではそこに「名づけ」があったことが重要である。 「名づけ」とは「世界理解」の変革のことである。 大げさに言えば、ニュートンが虹にスペクトルという名を与えたその瞬間から、世界は変わった。 それはどういう意味か。 ここに、ジョン・キーツという詩人がいる。 ニュートンより150年後世の人物である。 この詩人にLamia(ラミア)という詩がある。 昔人がそこに神を見たとしても、何の不思議もない。 古来、詩人たちが虹を見上げ、崇め、称え、そこに幾多の詩を編んだことも、何の不思議でもない。 もし、万が一、虹が単なる自然現象であったとすれば、神は、詩は、どこに行くのだろう。 あなたの見る虹と私の見る虹は本当に同じものなのか、誰も知らない。

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言語は認知や思考を規定するのか─「言語相対論」「言語決定論」の歴史と議論の行く末

サピア ウォーフ の 仮説

よく、「サピア・ウォーフ」という名前の人が考えた説だと思っている人があるけれど、そうではありません。 アメリカの言語学者エドワード・サピアと、その弟子にあたるベンジャミン・L・ウォーフが唱えた説です。 これを知れば、今日から世界観が変わってしまうほどの卓越した説です。 ウォーフという人は面白い経歴の人で、学者になる前には火災保険会社の仕事をしていたそうです。 そのため、いろいろな火災の原因を調査する機会がありました。 彼は、ガソリンの貯蔵所の火災を調べて、ガソリン缶の置かれている場所より、「空の」ガソリン缶の置かれている場所のほうが、火災が起こりやすいことに気づきました。 不思議なことです。 「空の」ガソリン缶ならば、火事の原因になるはずはないでしょう。 ところが、ここにことばの落とし穴があります。 「空の」ガソリン缶とは、たしかにガソリンは空っぽに近いかもしれませんが、その代わり、起爆性の気体が充満しているのです。 人はそれに気づかず、近くでたばこを吸ったりします。 ですから、火災を避けようとすれば、「 空のガソリン缶」ではなく、「 起爆性の気体が充満した缶」と表現すべきだということになります。 この話を学生にすると、「なるほど。 そういうことではありません。 「『空の』ガソリン缶」は、間違った言い方ではありません。 用済みのガソリン缶を集めておく場所に「『空の』ガソリン缶」と書いておくのは正しいことです。 空の缶を回収する人にとっては、「起爆性の気体が充満した缶」と書いてあっては、かえって分かりにくくなってしまいます。 「『空の』ガソリン缶」ということばと、「起爆性の気体が充満した缶」ということばは、切り取り方が違うのです。 しかも、 ある切り取り方によって作られたことばは、逆に人の物の見方を支配してしまうのです。 少し抽象的な言い方になりました。 では、身近な例をいくつか観察して、「ことばの支配力」のおそろしさをはっきりと実感してみることにしましょう。 02 NHK放送)。 アリーの焦燥する気持ちがよくあらわれている場面だと思います。 彼女と同じように、多くの人は、自分が19歳から20歳になったり、29歳から30歳になったり、はたまた40歳になったりというように、年齢のあらたな大台を迎えたとき、急に年をとったような気がするのではないでしょうか。 しかし、よく考えてみると、29歳の人が30歳になるのも、28歳の人が29歳になるのも、経過した時間は同じはずです。 べつに、アリーのように、30歳になった日に、突然シワが増えるというわけではないでしょう。 では、31歳を迎えたときは、30歳を迎えたときよりもさらにショックかというと、そんなことはなく、かえってショックは弱くなるのではないでしょうか。 時間は、本来区切りがないものです。 その時間の中に、人は 「20代」「30代」ということばによる区分を設けました。 物理的にはありえないはずの区分が、人にショックを与えたり悩ませたりしているのです。 別に、ことばで口げんかをして別れてしまう、ということではありません。 韓国では、同じ名字の人が結婚することはできないというのが伝統的な考え方です。 たとえば、キムさんという男性は、キムさんという女性とは結婚できません。 もっとも、先祖の出身地(ルーツ、 本貫)が違えばかまわないらしく、それぞれの家に伝わる系図を調べて、出自がまったく別であれば、問題なく結婚できるといいます。 ルーツが慶州のキムさんは、ルーツが光山のキムさんとは結婚できますが、自分と同じ慶州のキムさんとは、どんなに愛し合っていても結婚が許されないのです。 日本にたとえるならば、大阪がルーツの木村一郎さんは、京都がルーツの木村花子さんとならば結婚できますが、同じく大阪がルーツの木村春子さんとは結婚できない、ということです。 姓の種類の多い日本ならともかく、同姓の多い韓国では結婚に関する問題が多発するのではないかと心配になります。 「名字」もことばの一種です。 日本では、もともと庶民には名字がなかったし、明治維新のときに勝手な名字をつくったりもしたようです。 ところが、韓国では、昔からの名字を大事に守ってきた。 昔の人間が決めた名字(ことば)の区分が、現代にまで影響し、人の一生を大きく左右することもあるわけです。 1997年6月、臓器移植法が成立しました。 この法案に関して、「 脳死は人の死か」という判断のむずかしい問題が議論されました。 重態で、脳が機能を停止した患者Aさんがいたとして、もう助からない状態だが、Aさんの肝臓はまだ活動を続けていたとします。 もし、Aさんの肝臓を取り出して、肝臓の病気を持つBさんに移植すれば、Bさんは助かるかもしれません。 でも、「Aさんはまだ生きているのではないか? 生きている患者から臓器を取り出すことが許されるのか?」という考え方が出されました。 これに対し、「いや、脳が機能を停止(脳死)していれば、その人は死んでいるのだ、臓器を摘出することはゆるされる」という意見も上がりました。 「脳死」が「人の死」とみなされるならば、臓器摘出はできる。 しかし、「人の死」とみなされないならば、摘出はできない。 脳死を人の死と認めるかどうかは、法律成立後も議論が続いていますが、この問題は、本人の意思や家族の心情をどう尊重するかを含めて、 倫理的な問題であるという点では多くの人が一致すると思います。 僕はこれに加えて、 ことばの問題でもあると考えます。 「ことばの問題」というと、「たかがことば」という意味だと思われがちですが、そのようなことを言おうとしているのではありません。 「脳が機能を停止した患者から臓器を取り出す」という行為はまったく同じであるのに、その「脳の機能停止」という状態に「死」という名前(ことば)を与えた場合と、「生」という名前(ことば)を与えた場合とで、患者や家族、そして移植を待つ別の患者などの運命が決定的に変わってしまうということが言いたいのです。 作家の筒井康隆氏は、会社員時代、お金がなくて困っていたのだそうです。 そんなとき、会社の隣りのパン屋で、 カステラを裁断した切れっぱしを売っているのを見つけました。 おれはカステラの切れっぱしと牛乳一本を買い、社に戻って食べはじめた。 〔略〕カステラの味は懐しく、おれは夢中で食べた。 いや、おそらく夢中で食べていたのであろうと思う。 ふと気がつくと向かい側の机の同僚がにやにや笑いながらそんなおれを眺めていた。 〔略〕あっ、と思っておれは食うのをやめた。 なんということだ。 おれはいったいなんというものを食べていたのか。 これはカステラと同じ味、同じ栄養価のあるものでありながら実はカステラではない。 食いものでさえない。 屑なのだ。 おれの誇りはどこへ行ったのであろう。 (筒井康隆『玄笑地帯』p. 99) 筒井氏が食べていたのは「カステラの切れっぱし」ですから、カステラには違いないはずです。 でも、見方を変えれば、「食いものでさえない。 屑なのだ」という言い方も当たっているでしょう。 そのもの自体は何も変わらないのに、「カステラ」ということばで表現すれば食べ物になり、「屑」と表現すれば食べることができないものとみなされてしまいます。 食べ物のことから結婚、死生観まで、われわれはなんと強くことばに支配された人生を送っていることでしょうか。 (2003. 23一部改稿) 注 B. ウォーフ「習慣的な思考および行動と言語との関係」(池上嘉彦訳『言語・思考・現実』講談社学術文庫による) 信太一郎氏よりご教示いただきました。 「という文章の中で、「実際には江戸時代の庶民も苗字を持っていた可能性のほうがはるかに高い」と書いていらっしゃいます。 また、「」という考察もあります。 また、僕の教える学生のひとり(韓国からの留学生)が次のような証言をしてくれました。 「韓国では同じ名字の人が結婚することはできないという話ですが、実際そのような例は珍しいのです。 同じキムでもその種類が多いし、もし同じルーツのキムだとしてもその寸数(親等?)が近すぎなければ結婚できると私は知っています。 そういうわけで、結婚に関するトラブルの多発が社会問題になるような心配はあまりないと私は思います」 なるほど、大きな社会問題とまでは言えないのでしょう。 しかし、トラブルに関する話を耳にすることはあります。 (2002. 04) ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。 email: JavaScriptがないとアドレスが表示されません。 C Yeemar 2002. All rights reserved.

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「サピア=ウォーフ仮説」が教えること。

サピア ウォーフ の 仮説

・既存のSFと言語学、物語上のトリックが超融合したストーリーが神がかり ・意味がわかればどんでん返しの連続に圧倒される ・演技など、実写映画ならでは要素は平凡 映画「メッセージ」の作品情報 公開日 2016年11月11日(米国) 2017年5月19日(日本 監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ 脚本 エリック・ハイセラー 原作 テッド・チャン 出演者 ルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス) イアン・ドネリー(ジェレミー・レナー) ウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー) シャン上将(ツィ・マー) 映画「メッセージ」のあらすじ・内容 ある日、全世界12カ所に謎の巨大宇宙船が現れます。 市民たちがパニックに陥る中、合衆国に現れたものに対し、言語学者のバンクスや物理学者のドネリーらが軍に連れられてコミュニケーションを図ります。 地球人とはまったく異なる言語文化に苦戦しつつも、必死の努力によって徐々に宇宙人の文字を理解していきますが、そうこうしている内に各都市では暴動が多発し、耐えかねた中国が宇宙船に対する武力行使の意向を表明してしまいます。 宇宙人との戦争が目前に迫る中、バンクスの脳裏には娘の死の記憶が表れて……。 SNSなどで映画方面のコミュニティに属している方には、覚えがあるかもしれません。 配給側がネタに乗っかる形で、監督が「デザインは『ばかうけ』に影響を受けた」という動画をYoutubeにアップしたこともあって、悪ノリのような雰囲気を持った映画というイメージすらありうるでしょう。 しかし本作は、そのような軽薄なものではありません。 複数の分野を掛け合わせた、非常に精巧な映画なんです。 未知の地球外生命体が、われわれ地球人とコンタクトを取るという骨格をもったストーリーは既にいくつもあります。 本作がそれらと違うのは、言語学や数学的な見地から、人類とはまったく異なる思考回路を持った宇宙人の言語を、理解していく過程を丁寧に描いたことにあります。 宇宙人が地球よりもはるかに優れた技術力を持って私たちの言葉を理解したり、逆に一切理解できないながらも心の交流を図ったりといった既存の展開とは一線を画します。 さらに、その言語を学んでいった人間がどうなるかまでも丁寧に描いたところまで含めて、非常に高く評価できます。 作風としては、よくクリストファー・ノーラン監督『』が引き合いに出されます。 どちらも学術性をうまく利用したという点で共通点があり、どちらかが好きならまずハズれない一本になるでしょう。 個人的にはアレックス・ガーランド監督『』『アナイアレイション -全滅領域-』にも近いものがあるかなと思います。 あるいはふだん洋画を観ないという人でも、『STEINS;GATE』あたりが好きな方にはマッチするのではないでしょうか。 それらが理解できないと、途中からの展開に置いて行かれることになってしまいます。 レビューサイトを見てみると、そのせいで評価を下げていることがよくわかります。 この項では、その中でも特に難解だと思われる語を解説してみます。 ただし筆者としては、鑑賞前に予習をしてしまうのはあまりオススメしません。 なぜなら、視聴者が本作の中で突然出会った新たな概念を探ることは、登場人物らが宇宙人らの思考を解析するのによく似た行為だからです。 あえて事前に勉強せずに構えておくことで、主人公らの研究をなぞるような気分が味わえるでしょう。 そのため、新たな概念をその場で理解する自信がないか、鑑賞済みでない限り、これ以上読み進めない方が良いかと思います。 (この項より下にはネタバレを含みます。 willがついたら未来形、Vpは過去形……といったふうに、中学校で習いましたよね。 同様に、現在形、現在進行形、現在完了形、過去完了形、過去進行形なんてものもありました。 それぞれ、be動詞にV-ingだとか、haveにVppだとかいうルールを持っていると教わったことでしょう。 その一方で、「じゃあ現在完了と過去完了って何が違うの?」とか「じゃあ過去と過去進行って何が違うの?」という問いに、正確に答えられる方は少ないのではないでしょうか。 まして自分が話したり書いたりする際、時制をネイティブスピーカーと同じように使い分けられる人となれば、さらに少数になるはずです。 なぜ、知識があっても使いこなせないのでしょうか?理由は日本語にあります。 日本語が文法的に持つ時制が、非常に曖昧で貧弱なんです。 純日本人の会話は、おおよそ現在形と現在進行形、過去形で済んでしまいます。 それ以外の時制を使い分ける風潮がなく、文法の中に取り込まれていないんですね。 なので、ネイティブのように英語の時制を使いこなすためには、日本語の感覚から脱却して、英語的な時間の概念を染み込ませる必要があります。 でもこれって逆に言えば、英語に比べると「日本語で話す上では時制が曖昧でも問題ない」ってことでもあります。 「日本語で現在完了の言い回しするのくどい!」と嘆く人なんていませんよね?それは現在完了がなくたって困らないからです。 日本語になくても困りませんが、英語になかったら困ります。 日本語的には時間を細かく分ける必要を感じない一方で、英語的にはより細かく分けないと不便だと思われているということです。 このように、英語と日本語の間でも時間の捉え方が違うために、時間を表す文法も違っています。 では宇宙人の言葉の時制はどうなっているのでしょうか?そこから、彼らにとっての時間の捉え方を知ることが可能になります。 これを、さらに別の視点から解釈してみましょう。 すると、「英語が上達すればするほど、英語話者と同じような時間の感覚を持つようになる」ということになります。 ネイティブと同じように時制を使いこなすには、時間についてネイティブと同じように理解している必要があるからです。 英語がペラペラであるということは、単に単語や文法を覚えていたり、発音が良いということだけではなく、時間などについて日本人とは違う世界観を得ているということでもあるんです。 言語の造りそのものが、人の理解・世界観に大きく影響しているという考えを「サピア=ウォーフの仮説」と呼びます。 名前の由来はそのまま、サピアさんとウォーフさんが提唱した仮説というだけです。 操る言語次第で、(時間を含む)世界の主観的な見え方が変わるんじゃないかということですね。 別の例を出しましょう。 日本語には、多様な一人称が存在しています。 私、僕、俺、などなど。 そしてそれぞれに、発話者の情報が含まれます。 ワシだったらおじいさん、拙者だったらサムライっぽいと瞬時に理解できますよね。 さらには、わたしよりもアタシの方が活発っぽいとか、ぼくよりオレの方が生意気だとかの、細かな違いまで染みついています。 性別を始め、性格の一部まで見えてくるわけですね。 一人称でキャラクター性を表すというのは、日本語にしかないような概念です。 それよりも、『君の名は。 』を外国語訳したときにオレとワタシの違いが問題となったという話の方が適確でしょう。 一人称の違いについては、外国人が日本語と共に学ぶこともできます。 とはいえ、それをマスターするのは一筋縄ではいかないでしょう。 日本人が英語の時制を学ぶ時のような、認知のズレを痛感させられるはずです。 一人称の他にも、漢字・平仮名・カタカナのニュアンスの違い、受け身の使い方、敬語、擬音語など、日本語独特の特徴は多くありますが、それらを使いこなすのもまた同様のはずです。 そして、日本語の独自性の極致のひとつが俳句・和歌にあります。 日本人なら「古池や蛙飛び込む水の音」という句から、静と動の融合、その際に立つ自然の水音に感銘を受けることができます。 俳句・和歌を理解するには、日本語の根底にある日本人的な自然の見方が必要になるということです。 それ以外だと、スペイン語などでは何気ない名詞に男性・女性の区別があったりします。 単にそう言われても意味不明ですが、サピア=ウォーフの仮説が正しいとすれば、スペイン語話者たちは物の男性らしさ・女性らしさに対する共通認識を持っていることになります。 もし日本人がスペイン語をマスターできたなら、スペイン人的な性差の見分け方もまたマスターできることでしょう。 ただし、サピア=ウォーフの仮説は、提唱から半世紀以上経った今でも、いまだ仮説のままです。 正しいかどうかはわかりません。 あるバイリンガルが、英語で話すときは非常に乱暴な考え方をするのに、日本語だと発想さえ大人しいなんて話もありはします。 一方で、人間の思考回路はもっと普遍的だと主張する人や、母語にしか影響されないとか言う人もいます。 真相はまだわかりません。 ただこれが正しいとすれば、宇宙人の言葉をマスターできたなら、宇宙人の世界観もマスターできるということになります。 果たして地球外生命体は、どのように他者を認識しているのか?それが、『メッセージ』における一つのカギになっています。 バンクスとドネリーは持てる知能のすべてを駆使して言語を習得していくものの、進展を焦る大衆・軍・中国がある出来事から暴走してしまいます。 前半の手探り感も決して悪い出来ではないのですが、ここから謎が解かれていく感覚がたまりません。 とはいえそれぞれの説明は最低限しかなされないため、展開の速さについていけなくなってしまった人もいるかもしれません。 ここで軽くまとめてみましょう。 世界が暴走した出来事とは、バンクスらの質問に対する宇宙人の回答でした。 「地球に来た目的は?」という問いに、「武器を提供」と答えたのです。 これにより、「宇宙人は地球人を仲たがいさせる気でいる」という疑いが持たれた上、一般に情報がリークするうちに「武器を使用」へと尾ヒレが付いて世界がヒステリーに陥りました。 事態を打開すべく、バンクスとドネリーは軍を無視して宇宙人との会話に臨みます。 その中で二人は謎の行為をされた後、大量の文字を見せられますが、意味がわからないうちに軍人の手で宇宙船内部でダイナマイトが爆発します。 宇宙人の力で二人は無事に離脱しますが、その日の夜、宇宙人に対し中国が宣戦布告します。 米国側が困惑する中、ドネリーが大量の文字の解読に成功します。 それは超光速移動の理論でした。 ただし12分割されたうちの1ピースにすぎず、米国のものだけでは意味を成しません。 なぜ単体では無意味なものを渡してきたのか、米国軍を交えて議論が交わされますが、「12の地域を団結させるため」という仮説しか出ません。 しかし軍人たちは、それはナンセンスだと一蹴します。 宇宙人にとって敵かもしれない地球人が団結することに、戦略的意義がないからです。 対してバンクスは、宇宙人と地球人双方が得をする(非ゼロ和ゲーム、non zero sum game)からではないか、という気付きを得ます。 戦争は片方が得をし、片方が損するもの(ゼロ和ゲーム)なので、軍人たちは馴染めなかったんですね。 バンクスは単身で宇宙人に接触し、他地域での戦争を止めるようお願いします。 すると宇宙人は、バンクスにはすでに止める手段があること、自分たちには未来が読めることを伝えます。 その際バンクスはすでに宇宙人の言葉をマスターしており、その論理構造によって彼女にも未来が見えるようになっていることが判明します。 時制がなく、すべての時間軸が平坦でも実用可能な言葉の構造を浸透できれば、サピア=ウォーフの仮説から現在と未来を同一視できるということですね。 加えて、何度か挟まれていた娘との回想のようなシーンが、過去ではなく未来の出来事であることも明かされます(開幕直後から差し込むことで、まるで前日譚であるかように見せかけていたんですね)。 未来視が可能になったバンクスは、未来で獲得する中国軍トップの電話番号と説得方法を利用して、その武力行使を停止させます。 意味のない戦闘を回避したバンクスは、ドネリーと抱き合います。 このまま結ばれればいつか必ず破局し、生まれた娘も失うということが確定していると知っているにも関わらず、彼女は愛を受け入れるのでした。 ただそれは、テッド・チャンによる原作小説『あなたのための物語』から引き継いだものであり、この映画のために書き下ろされたものではありません。 じゃあ映画ならではの魅力があるか?というと、個人的には劇伴(音楽)以外はそこまででもないかなと思えてなりませんでした。 宇宙人や宇宙船のデザインだけで惹かれるような魅力には乏しいですし、ロケーションもシンプルな軍の基地と宇宙船の中ばかりで、ヴィジュアル的な訴求力は低かったように感じました。 宇宙人の文字も、ハッキリと見せつけられると「えっ、これで未来予知ができるようになるの?」といぶかしんでしまいます。 これなら文字のデザインを見せずに済む小説の方が、想像の余地があって良かったんじゃないかなあというところです。 出演者の演技も、特に問題はないけど見どころもないかな……と思います。 それこそ『インターステラー』と同様、SFっぽいといえばSFっぽいのかもしれませんが。 別にマイナスにはなりませんが、プラスとも言えない印象です。 【評価】多層的なストーリーが最高に面白い.

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