宮沢 えま。 宮澤エマがポロリ画像流出に悩み薄毛に!でもチラリ腋毛は濃かった!

宮澤エマがフライデー!熱愛彼氏の詳細&父・母など家族情報まとめ

宮沢 えま

来歴、人物 [ ] 出生から学生時代まで [ ] ・こと夫妻の長男としてに生まれた。 母・ことは、等を歴任したの二女。 後、母方の祖父小川平吉の別荘である平塚の「花水庵」で過ごす。 父のは当時に勤務していたが、すでに政界を志し、から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた。 東京高師附属小学校(現・)、を経て東京帝国大学(現・)卒業。 在学中の(14年)、第6回に参加のため渡米した。 日本からは、宮澤喜一、、、ら各大学から男女合わせて48名の大学生が参加、のちの夫人とも知り合ったきっかけとなり、日米首脳会談後のスピーチでも日米学生会議で妻と出会ったことを披露した。 宮澤三兄弟の幼少の頃を知る従姉妹の和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。 住まいは東京でしたが、夏になると伯父()の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。 お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。 とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。 高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という。 学生時代のことを、宮澤は次のように語っている。 「私達の学生時代はご承知のような時代だったから、あんまり思い出というほどのものもないが、よく能をみて歩いた。 ただ、家があまり裕福でなかったのに能の切符はその頃一円ぐらいして非常に高かったので、それを買うのが大変だった。 能が好きになったのは両親の影響もあったのだろう。 母がをやっていて、私も中学から大学まで謡をならった。 若いときにやったから一応はちゃんとうたえるようになった。 能のほかには当時の学生と同じようによく映画をみ、を買ってきいた。 に中古のレコード屋があって、よく買いにいったものだ…」。 大蔵官僚として [ ] (昭和17年)1月、に入省した。 沼津長などを経て、終戦時には本省でを担当していた。 (昭和20年)8月、が発足すると、と共に蔵相となる。 (昭和24年)には蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わっていた。 (昭和26年)9月、では全権随員として参加した。 政界入り [ ] (昭和27年)に池田通産大臣がいわゆるで不信任されたのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官した。 本人はすぐに政界にというつもりではなかったと語るが、池田の強い勧めで翌(昭和28年)、にから出馬し当選した。 参院議院運営委員長などを経て、(昭和37年)のではとして初入閣、池田首相のブレーンの一人としての一翼を担う。 テレビの政治討論会などに積極的に出演し、のニュー・ライト()を代表する若手政治家として注目される。 衆議院への鞍替えを要請され、参院議員の任期満了をもってしばらく非議員の立場になるが、で非議員のままで入閣する。 (昭和42年)衆議院に鞍替え出馬してに当選。 以後、外相、などの要職を歴任していった。 「ニューリーダー」 [ ] 党内では池田派()に所属し、1973年には派閥横断グループ「平河会」を結成し座長となる。 早くから候補と目され、ポスト(1974年)で総裁に推す声が一部で上がった他、会長らの周旋による政財界団体「自由社会研究会」の結成(1977年)が宮澤を総裁に推すためのものと取沙汰されたり 、(1979年)収拾策の一つとして宮澤擁立が取沙汰されたりもする。 大平急死(1980年)後の後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会で田中と近かったが総裁に就任。 (および)では内閣官房長官を務め、次代の期まで、・らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人はと呼ばれた。 官房長官としては、鈴木首相の度々の失言の後始末をこなし、宮澤の実務能力が改めて政界内外に印象付けられた。 退陣表明後の鈴木に、反主流派の中心人物であるが宮澤への後継指名を提案したが、鈴木は断っている。 派内では、宮澤に対抗意識を燃やすと「」と呼ばれる後継争いを繰り広げ、その過熱が懸念を呼んだことから平河会座長を退いている。 田中が持病の糖尿病を悪化させ病没後の(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承、名実共に総裁候補となった。 総務会長時代の1986年には、中曽根が提唱するに当初は反対したが、最終的に受け入れた。 とその後の急激な円高を巡り、中曽根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曽根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。 大幅な介入や財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、円高は加速した。 (昭和62年)秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根のにより竹下が総裁に就任する。 宮澤はに副総理兼蔵相として入閣し、導入に尽力するが、(昭和63年)、が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。 総理大臣就任 [ ] 「」および「」も参照 (平成3年)、首相の退陣に伴うで勝利、72歳にしてに就任した。 参議院議員経験者としては初めての内閣総理大臣である。 また現在、官僚出身の最後の総理である。 宮澤はの終結を「二、三百年に一度の歴史的変動」ととらえていた。 経済に関して「は高度成長の終焉であり、それに替わるものの出発」と受け止め、バブル景気の果実は国民の生活基盤を整える内需の振興に使うべきなのに、資金がどんどん流出している状況を問題視し、資産倍増論から発展した生活大国構想の実現を考えていた。 のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、の支配下にあって思い通りの運営はままならなかった。 在任中の施策としてはの成立と、それに伴うがある。 その過程で派遣された文民とボランティアが殺害された際に撤退論が支配する世論に流されず自衛隊の引き揚げはしなかったが、「要員の殺害は止むを得ない。 」と発言し批判を浴びた。 にで起きた政府によるでの民衆殺戮に対しが行っていた多岐のを覆すため、は宮澤にの訪中を要請し、らの後押しもあって実現した。 宮澤の前任であるの時に円借款の再開で日本からの制裁は真っ先に解除されていたが、天皇の訪中は日本に続いた欧米の制裁解除に大きく貢献したとされる。 首相退任直前に問題についてのを発表し謝罪の意向を表明したが、一部の派論壇から非難された。 (平成4年)6月には、(ODA)に関する基本理念や重点事項などを集大成し、ODA大綱を決定。 また崩壊後の金融不安を巡って、側近であったの進言を容れて、8月中旬に日銀総裁であったと歩調を合わせて東証閉鎖・による投入というシナリオを密かに模索したが、大蔵省の反対により一旦断念、なおも30日の自民党の軽井沢セミナーでへの公的援助発言をする。 地価や株価等の資産価格の大幅な下落から、今までのとは質が違うとし、公的資金を投入してもを早期に処理する必要性があると発言したものであった。 しかし「金融機関への公的資金投入」構想は官庁、マスコミ、経済団体、そして当の金融機関自身からの強い反対に遭い、実行に至らなかった。 その結果、宮澤はその決定を取り下げなければいけなくなり、これにより銀行への公的資金投入による不良債権処理はタブーとなり、その後は何年にもわたり日本の政治家は誰一人としてこのことを言えなくなった。 宮澤がこの発言をした背景には、前述の通り側近の浜田らの政策集団「自由社会フォーラム」で同種の議論が進んでいたことがあるが、そのような危機意識を国内で共有していた有力者は、三重野など限られた人物以外に存在しなかったという。 また宮澤は「海外からの情報で気が付いた。 でも(自民党内の)皆ついてこないんだよね。 」と漏らしていたことがあったという。 は「公的資金を投入してでも金融機関の不良債権の処理をすべきと一番先に提唱したのも宮澤氏でした。 仮に宮澤政権下で不良債権処理が進んでいれば平成9年のの破錠はなかったもしれません。 」と述べている。 折からなどを巡って高まっていたの機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが、自身は必ずしも小選挙区制導入をはじめとする政治改革に積極的ではなかった。 竹下派から分かれた小沢・羽田グループ()は宮澤のそのような姿勢に反発を強め、(平成5年)6月にが提出されると賛成にまわり、同案は可決された。 自民党は大量の離党者を出したままを行うことを余儀なくされる。 なお、宮澤は日本にとって3度目の自国開催となったを主催しているが、これは公示から3日目という慌ただしさの中で行われた。 選挙では、自民党は結果的にほぼ現有議席を維持したものの、、など自民党から離れた議席を回復することができず過半数を大きく割り込み、を中心とした勢力が結集して政権が誕生、宮澤は自民党長期支配38年、及びの最後の首相となった。 宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡したになぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。 再び大蔵大臣に [ ] 1999年4月26日、のと その後は、で外相在任中のから駐米大使を打診されたが固辞、1996年(平成8年)初めてで実施されたではしていない公認との現職対決に圧勝で再選、1998年(平成10年)にが発足すると、未曾有の経済危機に対処するため首相は宮澤に大蔵大臣就任を要請した。 宮澤は当初難色を示したものの、小渕の強い熱意の下就任を受諾した。 に活躍した以来となる、異例の総理経験者の蔵相就任となったため、「平成の高橋是清」といわれた。 総理経験者の閣僚就任はの・復員庁総裁以来51年ぶりのことだった。 折からのに対処するため、金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、またにあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。 続く森内閣でも蔵相に留任し、初代となる。 小渕・森内閣両期を通じて、巨額の恒久的減税の一方で財源として一貫して大量のを発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。 こうした極端なを主導したことも、高橋是清になぞらえて呼ばれるようになった理由の一つである。 金融危機を脱した後は経済はおおむね好調だったが、2000年に入るとITバブルの崩壊とともに不良債権問題が再燃した。 森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。 政界引退後 [ ] の際、自民党総裁は、衆院比例候補・定年73歳の徹底と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曽根、宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した(宮澤はので自らの福山の地盤を甥のに譲って比例単独候補に転身していた)。 当初難色を示した宮澤は、「総理に恥をかかせちゃいかん」と発言し積極的に引退を受諾、最後まで抵抗した中曽根とは対照的な形となった。 参院在職12年3ヶ月、衆院在職36年9ヶ月で国会議員在職合計は49年0ヶ月であった。 宮澤自身は政界引退後も元首相、政治の証言者として経済やのご意見番となり、様々な形で活躍した。 政治家である一方、自民党内とも以前に比べ関係が良く、人当たりも温和になっていた。 (平成17年)夏に体調を崩し、入院をした。 退院後は容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けた。 (平成18年)7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えた。 翌2007年(平成19年)2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加、スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。 2007年(平成19年)6月28日午後1時16分、のため神宮前の私邸で死去した。 87歳。 在任期間が1年を超える首相経験者はを受勲することが慣例となっているが、遺族は本人の意向により勲章等は辞退した。 に、首相を葬儀委員長として、・自由民主党合同葬がで行われた。 エピソード [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2019年8月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2019年8月) 池田勇人との関わり [ ] 宮澤の前半生は抜きに語ることはできない。 広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)も望月と親交があった。 一方、池田家は広島における望月の有力な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の最初の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。 もともとか内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省、以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。 政界入りにも池田の意向が大きく働いた。 池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は参議院選挙への出馬を勧めた。 この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。 であった占領時代に、通訳や渉外担当としてなど米国各機関との折衝に関わって、基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田・会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会ったため、「戦後政治の生き字引」 などといわれる。 政治スタンス [ ] 的な政治家とされることが多く、の海外での武力行使は自衛の場合に限るべきという見解を基本的には維持していた(「が禁じているのは海外での武力行使であり、それ以外は何でも出来る」という逆説的な言い方ではあるが)。 それは戦争を知る世代としての思いが背景にある。 しかし一貫した派・論者でもあり、には既にの限定的行使は合憲であると東大を卒業しながらも述べ、違憲論を「学者バカ」の議論だと批判していた。 国連の常任理事国入り問題に関しては、本人は慎重派と思われるが、推進派の外務事務次官が従兄弟のだったこともあり、特に意見を言わなかったという。 の有力者として期待され続け、42歳での経済企画庁長官就任を皮切りに早くから閣僚を歴任していったが、政府経験の豊富さとは裏腹に党務にかかわることは少なく(中曽根総裁の下で、2年間を務めたのみ)、以前の吉田派以来の党人派や、池田・大平と同世代の政治家にもっぱら党務は委ねていた。 中曽根内閣において、派としてしばしば宮澤の幹事長就任を要求したにもかかわらず、中曽根が一本釣りでを入りさせるなどした背景には、中曽根の宮澤嫌いに加え、そうした仕事が向かないと判断されたこともある。 また派内掌握については、・に加えといった有力な政治家がしのぎを削る中、積極的に行動を起こすことは少なく、同世代で早くから派閥を継承したや中曽根には大きく遅れをとることになった。 宏池会内では、と比較的親しく、大平とは微妙な関係であった。 、など大平側近とは、世代間対立もあり総じて関係は悪く、また、田中六助とはと呼ばれる抗争を巻き起こしている。 伊東らとは後年和解しているが、これは田中角栄や中曾根に対する大平側近の反抗意識の結果、宮澤が担がれたという消極的理由に発する所が大きい。 は大平側近として知られ、個人としての宮澤は加藤よりも河野を後継に望んだとされるが、いわゆるにおける宮澤の煮え切らない態度は、河野洋平の離脱による派閥分裂を招いた。 では、田中六助直系のと結ぶ形で、加藤を失脚させている。 加藤の乱では、大平女婿のは加藤に就いており、宏池会内抗争の系譜が現代まで影響を及ぼした側面もある。 総理退陣直前、の仲介で次期総理となるとで8月17日に会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。 のみならず、2009年に田中が明らかにしたところによると、細川は頻繁に宮澤と会って政権運営について指南を受けており、細川政権は実質的に宮澤との共同運営だった。 の内実に関する重要な証言である。 田中秀征は師事した宮沢喜一元首相の冷静で俯瞰的な判断力を高く評価している。 の『宰相の器』によると、は「彼(=宮澤)は秘書官だ。 秘書官としては一流だった。 しかし、それだけだ。 政治家ではない」と評したという。 は政治家として宮澤を敬遠しており、著書『国家なる幻影 わが政治への反回想』(上・下、文藝春秋のち)で批判している。 そのため者としての政治家の顔を覗かせていたといえる。 気性 [ ] 穏和そうな外見もあり、大人しめの印象を与えるが、それとは裏腹に負けず嫌いで毒舌家な一面も知られている。 車中で池田蔵相と宮澤秘書官の議論が感情的になり、外は土砂降りなのに池田が宮澤に「降りろ!」と怒鳴り、宮澤も「降りません!」と最後まで食い下がったこともあった。 池田の通夜において、宏池会事務局長で後にのアドバイザーを務めるが、宏池会会長のに対して「宏池会から総理総裁候補を群生して出すようにしてほしい」と述べたとき、宮澤が「それはおかしい。 池田の後は複数ではなく単数だ」(あくまで前尾中心の派であるべきとの意)と口をはさんだことから、宮澤と伊藤の応酬が取っ組み合い寸前まで至り、前尾が仲裁して収まったこともある。 1970年代の外務大臣在任時、の古強者外相との交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(『』でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。 また1984年3月、当時64歳だった宮澤はの会長秘書を騙る自称「ジャーナリスト」の男(当時54歳)とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、灰皿で殴られるなど全治3週間の負傷をしながらも、一人でその男を取り押さえたという事件がある。 一部のが部落外に転出して出世するや否や、自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家による「宮澤喜一の父親()は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒した。 『芸備人権新報』(1999年9月10日号)には、「(小森)……ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだという べきでしょうね……宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね……」とある。 によると宮澤は頭が良過ぎて他者を見下したような態度を取るため慕う人があまりにも少なかったという。 数々の放言 [ ] の政治家として酒豪ないし酒乱の逸話が存在する。 宮澤の死後、長女・啓子は、文藝春秋に掲載された随筆の中で、「皆さんご存知のとおり、父は酒乱でした」と書いている。 大平正芳が総理に就任した頃、宮澤は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮澤と口を利かなくなった。 2人は元同僚で池田勇人の秘書官時代からの仲だったが、宮澤は池田の盟友で東大の先輩であるやに近く、大平が前尾が継承した宏池会を実力で奪い取った経緯があることから、微妙な関係にあった。 秘書官時代も大平が渉外を担当し、政策を宮沢が主に担当していたことや、東大卒の宮沢が、苦学して(現・)を卒業後に大蔵官僚となっていた大平を軽視していたという説もある。 大平の方が宮澤よりも9歳年上で、派内の人望も大平が勝り、池田も宮澤以上に大平を好んだといわれる。 宮澤が大平に時折みせた屈折した優越感は、そうした政界における劣等感の裏返しでもあった。 が首相在任中には、「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と発言し、この発言を伝え聞いた海部はいたく立腹したという。 には「酒を飲んだ時の宮澤なら十年早く政権取れていた」と言われたことがある。 「人に会うと学歴を聞く」などと言われ、出身大学にまつわる放言も多かった。 (の前身)出身のについて「偉い方ですよ。 大学を出ているんですね。 知ってました?」と皮肉を言い、については「あの方、県議出身でしょう。 あのころ早稲田は無試験でした。 僕の義父(伊地知純正)が商学部の部長でしたから嘘ではありません」などと酒席で語ったのをが伝えている。 また、金丸に対しては、を控え、の支持が死活的に重要だった時期にも関わらず、面会すると第一声、「金丸先生は農大を出ていらっしゃる。 そいつはお出来になりますなあ」と言い放ったという。 金丸がいい気分であったはずがないが、「まあ表門から入って裏門から出たようなもんですがね」ととぼけ、悩んだ末に「国民の声」を考え、総裁選では宮沢を支持した。 竹下もまた、無試験のネタを直接宮澤に言われたこともあり、「あれは許せない」と怒っていたという。 番記者にも出身大学を訊き、東京大学卒でも法学部卒ではない場合、「ほう、近頃じゃあ法学部じゃなくても東大って言うんですか」などと嫌味を言い、その後、マス・メディア各社の間で、宮澤の番記者を東京大学法学部の卒業者にする動きが見られた。 日韓W杯招致に尽力 [ ] 時代に経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。 このため(平成6年)12月に発足した超党派の招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、、、)。 超党派というのはこれ以前、1992年(平成4年)3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの、主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。 1994年(平成6年)の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し、大きな運動となっていった。 世界中を駈けずり回ったのは会長(当時)らだったが、国際的にも顔が広い宮澤も多くの国を訪問し、実現に向けて協力を行った。 また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的にを決断した鳩首会談に長沼、、、、、と参加し、共催を後押した。 英語屋の面目 [ ] 「政界随一」と謳われた宮澤の英語力だったが、海外留学やの専門教育を受けた経験などはない。 本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。 から中にかけて、英語が「」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。 戦後の占領が始まると、との交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、毎日のように英語を使う日々が続いたという。 議員になってからも、の食堂やロビーではや英字誌を読んでいるのが常だった。 あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、の新聞を読みなさい!」と叱咤されたことがある。 宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だったが眉を吊り上げていた。 しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて、今度は浜田の方が大いに慌てた。 そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。 浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子のをアメリカの大学に留学させることにしたという。 外国首脳や大臣との会談の席では、上は必ず通訳を同席させることが決まりごとになっているが、宮澤はそれでも・・・などの首脳とは、いちいち通訳の言うことを待たずに一対一で会話を主導した。 あるとき大臣として外遊した際、同行した別の閣僚に付いていた通訳に不安を感じた宮澤は、その一言一句をしっかりと横耳で聞いていて、誤訳があると間髪入れずに訂正を入れたという逸話もある。 そうした完璧主義が災いしてか、宮澤の英語力を煙たがる官僚や代議士がには少なくなく、特に宮澤嫌いだった田中角栄からは「英語屋」と呼ばれて通訳並みに見下されていた。 宮澤が総理在任時の1992年1月、アメリカの大統領が来日した。 2日目のでの晩餐会の席上、ブッシュが突然隣に座っていた宮澤の膝の上に嘔吐した上、椅子から崩れるように倒れるという椿事が起こり、しかもその映像が全世界に配信されたため、各方面に衝撃が走った。 翌朝、官邸に詰めかけた内外の報道関係者を相手に、宮澤は一人で記者会見に臨み、30分近い状況発表と質疑応答のほとんどを英語で行った。 宮澤の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からで体調不良だったこと、日中に皇居内でとを相手にテニスをしたことで体力を消耗していたこと、そして晩餐会席上の様子やの内容に至るまで、極めて詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は沈着冷静でいかにも堂に入った様子だった。 前代未聞の大統領の醜態に蜂の巣を突いたような状態になったアメリカのメディアも、膝に吐かれた当の総理本人が淡々と説明しているの見て、これなら心配はないだろうとすぐに落ち着きを取り戻している。 次の大統領は宮澤と一度だけ会談しているが、その際この時の宮澤の対応ぶりを賞賛している。 国際会議や交渉の場を重ねるうちに宮澤はの必要性を痛感して、中年を過ぎてからその勉強を始めている。 本人は「志半ばで終わった」としているが、官僚、国会議員、閣僚、そして総理と、長年にわたって多忙な日々を送っていたにもかかわらず、常日頃から仕事の合間には勉強を怠らなかったことは多くが認める宮澤の徳目の一つである。 皇室 [ ] 宮中における内閣のの際、明仁天皇を前にした宮澤は極度に緊張していたという。 他人に対して時に尊大な態度を取ることもあった宮澤だったが、尊重の念は人一倍強かったものとされる。 漢詩 [ ] 英語通とされるが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んでを引用する。 宮澤は「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。 その漢学にというのがあるんです。 つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。 人を押しのけてまでというのは、わたしの性にあいませんね」と述べている。 また、総理退陣の時の心境として、の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げた。 揮毫 [ ] 「財務省」の銘板 で大蔵省がと名称変更されることになると、当時蔵相だった宮澤は「コンピュータの楷書体の文字の中からいろいろと注文をつけながら」(当時の事務次官の談)書体を選定 した。 それまで門前にかかっていた「大蔵省」のは、新憲法下で初の蔵相を務め宮澤の師でもあったの筆によるものだった。 宮澤が選定した銘板は、その後(平成28年)に財務大臣のが自ら揮毫するまで掲げられた。 ある時、達筆で知られる宮澤が「政界で一番書く字が上手なのはさんでしょう」と述べると、政治部の記者が「氏や(赳夫)氏や氏の書く字はどう思われますか」と質問した。 すると宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返したというエピソードがある。 小説 [ ] 宮澤はの2つの小説のモデルになっている。 学生時代の宮澤をモデルにしたのが『友情力あり』、大臣時代をモデルとしたのが『』に登場する「矢沢経済企画庁長官」である。 やる [ ] 総理時代、『』に出演し、から政治改革法案問題に関して「今の国会(1993年通常国会)でやるのか」と訊かれ、「私はやるんです。 この法案(政治改革関連法案のこと)を何としても成立させたいんです」と冷静な宮澤にしては珍しく気色ばんで答えた。 これがきっかけとなって自民党内が混乱し、1993年の政界再編の引金となったといわれる(参照:)。 感想 [ ] 森内閣でのが作業服の地味さに苦言を呈し、もっと見栄えの良いものにするよう部下に指示した。 その後、新しい作業服を扇自らが着用してマスコミに披露したが、その件について感想を求められた宮澤は「あの方は何を着ても似合うから」と答え、その場を沸かせた。 一方、2000年5月の「」のときは、やはりで首相の発言に対するコメントを求められた際に、「神様は大蔵省の管轄外だから」と返答して記者団の笑いを誘った。 略歴 [ ]• (大正8年)10月:に生まれる 地は金江町金見• (昭和3年):附属小学校入学• (昭和7年):旧制武蔵高等学校尋常科入学(入試の成績は81人中27番)• (昭和11年):旧制武蔵高等学校高等科文科甲類(文系英語クラス)入学• (昭和14年):旧制武蔵高等学校高等科文科首席卒業、入学• (昭和16年)12月:東京帝国大学法学部政治学科卒業• (昭和17年)1月:入省• (昭和18年)11月:伊地知庸子(父・純正は教授)と結婚• (昭和20年)8月:蔵相秘書官事務取扱(同時にが秘書官を務めている)• (昭和24年)1月:蔵相秘書官• (昭和26年)8月:に全権随員として出席• (昭和28年)4月:退官し広島地方区より参議院議員選挙に出馬、当選 (〜7月)• (昭和37年)7月:で (〜7月)• (昭和41年)12月:で経済企画庁長官 (〜1967年11月)• (昭和42年):衆議院議員選挙で初当選 (〜10月)• (昭和45年)1月:で (〜7月)• (昭和49年)12月:で (〜9月)• (昭和52年)11月:で経済企画庁長官• (昭和55年)7月:で• (昭和59年)10月:自民党総務会長• (昭和61年)• 7月:で• 8月:(宮澤派)第5代会長に就任• (昭和62年)11月:で兼大蔵大臣• (昭和63年)12月:副総理・大蔵大臣を辞任• (平成3年)11月:自民党総裁、• (平成5年)• 4月:訪米時、内閣総理大臣として初めてを使用。 8月:内閣不信任案可決により衆議院を解散()するも総選挙に敗れ• (平成10年)• 7月:で大蔵大臣• 12月:宏池会会長の座をに譲って名誉会長に就任。 (平成12年)4月:で大蔵大臣(留任)• (平成13年)1月:省庁再編により最後の大蔵大臣から初代に就任(〜4月)• (平成15年)11月:政界引退。 (平成19年)• 6月:私邸で死去。 8月:内閣・自民党合同葬。 父・ (山下汽船社員、政治家) (17年)1月生〜(昭和38年)5月没 父・は金江村(現・金江町)の小さな農家に生まれた。 宮澤によると「父は小さな百姓の長男でね、いまでもその生家が残っていますが、山の中の本当の一軒家です。 とにかく私が参議院に出てから(昭和28年)はじめて電灯を引いてもらったようなところなんですよ」という。 祖父の宮澤鹿吉の時代は、生活は楽でなかった。 裕は苦学して政治学科を卒業、勤めを経て、実業界に入り海運王の山下汽船(現・)に入社。 亀三郎の盟友だったに見込まれ、その女婿になった。 昭和3年()郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。 以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任した。 弟・ (・自治官僚、政治家・広島県知事、参議院議員、法務大臣) (10年)9月生〜(平成24年)5月没• 同妻・ 玲子(広島県、実業家・政治家の長女、通産官僚・政治家の妹、政治家の叔母)• 同長男・ (官僚、政治家)• 同妻(実業家(元日本航空社長)の孫• 娘2人(大蔵官僚の妻、通産官僚 中澤佐市の妻) 加藤の祖父は、元労相の、父はその長女鎮子の婿養子になった社長の加藤達雄 小川家の人々 (前列左より三平、せき(平吉夫人)、平吉、悦子、。 後列左よりせい、宮澤の母 こと、てい、かつ、、、)• おじ 小川一平(実業家、政治家) (政治家) 小川平四郎(外交官) 堤平五(実業家)など 堤平五は養子に行ったため堤姓を名乗っているが、宮沢の母方の祖父の五男である。 の上では叔父になるが、宮沢の母のことは祖父平吉が27歳のときの子供である。 平五は50歳のときの子供で、兄姉といっても20歳以上の差があり、甥の宮澤と同年齢である。 2人は子供のときから祖父(宮澤にとっての)平吉の家に、同年のいとこ同士に近い関係で一緒に育った。 平五の娘婿・は、元首相のの長男。 俊一の姉・千賀子の夫は元首相の。 別に意識してそうなったわけでなく、強いていえば環境でしょう。 親族のなどで全員が集うと、まるで官僚あるいは官僚OBの集まりといった具合です。 」という。 作家のによると、「いまや宮沢家は超名門エリートと思われているが、もとから宮澤家が名門であったわけではない。 、がで酒造業、醤油製造業を営んでいたのに対して、宮沢の場合はぐっと落ちて小農の出である。 宮沢は生まれであるが、父は広島県金江村(現在の)に生まれた。 取材当時その実家を訪れてみたが、福山市とは名ばかりの山の中にそれはあった。 」、「宮沢一族の閨閥は、系図でもわかるように、ただただ華麗としかいいようがない。 麻生家を遠縁とする見解について、系図を全体観察すれば 遠縁が疎遠を意味しないことは明白である。 主な著書 [ ] 単著 [ ]• Secret Talks between Tokyo and Washington: the Memoirs of Miyazawa Kiichi, 1949-1954, translated and annotated by Robert D. Eldridge. Lexington Books, 2007. 『戦後政治の証言』(、1991年) 月刊誌「This is 読売」の連載をまとめたもの• 『21世紀への委任状』( ブックレット、1995年) の連載をまとめたもの• 『新・護憲宣言 21世紀の日本と世界』(、1995年)• 『ハト派の伝言 宮澤喜一元首相が語る』(、2005年) での連載回想 共著 [ ]• ()『将来経済の構想』(、1969年)• ()『美しい日本への挑戦』(、1984年、新版1991年)• ()『対論改憲・護憲』(、1997年/「憲法大論争 改憲vs. 護憲」、2000年)• 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(聞き手・、、2005年)• 『宮澤喜一 保守本流の軌跡 90年代の証言』(・・編、、2006年) 参考文献 [ ]• 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』、 鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート(153-157頁) 1983年• 『友情力あり』 講談社文庫、1993年• 『』 1993年• 『私物国家 日本の黒幕の系図』 2000年 157、173、340頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 446-448、463頁• 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』、第10章 宮沢家-高級官僚・政治家を輩出する華麗なる一族(197-211頁) 2002年• 『自民党本流と保守本流』- 第6章「保守本流の申し子・宮沢喜一」講談社 2018年• 田中秀征、聞き手吉田貴文『平成史への証言』 2018年• 清宮龍『宮澤喜一・全人像』行研出版局 1981年、改訂版1992年 演じた人物 [ ] テレビ・映画 [ ]• (『』、)• (『』、)• (『』、) 舞台 [ ]• 前者は本公演のキャスト、後者は新人公演のキャスト。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『集団的自衛権』(PHP新書)参照。 また2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それをの21世紀への遺言であるとした。 この時、誘致の「顔」を宮澤に譲るよう小沢に頭を下げに行ったのが、当時の中堅だっただった(、2009年2月22日、4頁)。 浜田がテレビや雑誌の、著作などでたびたび紹介しているエピソード。 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店、2005年)でも、への尊敬の念を語っている。 田原はこの件について「結果として宮澤さんに迷惑を掛ける事になってしまった」と宮澤の死後、雑誌『』で語っていた。 出典 [ ]• 著『宮沢喜一・全人像』48頁• 著『友情力あり』• 著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 206頁• 著『宮沢喜一・全人像』69頁• 『』、のへの説明として記述• 『自民党戦国史』中巻 朝日文庫 pp. 242-248 、記者から著者への確認取材による(1985年、原著1982年)• 『自民党戦国史』下巻 朝日文庫 p. 85 (1985年)• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P25• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P35• 銭其琛著濱本良一訳『銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』3,p129、東洋書院、2006• 朝日新聞. 2007年6月29日. 2020年1月21日閲覧。 [ ]• 田中秀征「自民党本流と保守本流」P123• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P117• 田中秀征「自民党本流と保守本流」P118から119• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P115~116• 田中秀征「判断力と決断力」まえがき• 『池田勇人とその時代』 朝日文庫 (1985年)p. 284• 伊藤昌哉『自民党戦国史・上』 朝日文庫(1985年)pp. 14-17• 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(、2010年)• 「宮沢さんの無愛想の魅力」『FACTA』2007年8月号• 岡崎守恭『自民党秘史』(2018年、講談社現代新書)• 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』(文春文庫)• 『新時代へのキックオフ』仮野忠男著、、2001年9月。 『』長沼健回顧録、32号、33号、34号、、2006年-2007年。 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 204頁• 産経新聞2016年6月6日• 『豊かな国の貧しい政治』• 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』49頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 445頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 442頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 446-447頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 447頁• 有限会社クラブサー• からを経て建築家 『文藝春秋』(2010年10月号)• 著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』』 209頁• 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 209頁• 『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、362頁) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (2004年2月16日アーカイブ分)• 議会 先代: 第20代 : 1961年 - 1962年 次代: 公職 先代: 第78代:1991年 - 1993年 次代: 先代: () 1987年 - 1988年 次代: 先代: 創設 初代:2001年 次代: 先代: 第88・89代:1986年 - 1988年 第105・106・107代:1998年 - 2001年 次代: に再編 先代: 第44代:1980年 - 1982年 次代: 先代: (事務取扱) (事務取扱) 第12・13代:1962年 - 1964年 第17・18代:1966年 - 1968年 第29代:1977年 - 1978年 次代: 先代: 第103代:1974年 - 1976年 次代: 先代: 第32代:1970年 - 1971年 次代: 先代: 第18代:1993年(兼任) 次代: 先代: 第56代:1993年(兼任) 次代: 党職 先代: 第15代:1991年 - 1993年 次代: 先代: 第28代:1984年 - 1986年 次代: 先代: 第5代:1986年 - 1998年 次代: 外交職 先代: ドイツ 議長 1993年 次代: イタリア 名誉職 先代: 最年少参議院議員 1953年5月 - 1956年7月 次代: - - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - - - - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - - 全私学連合会 - - - - - 社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 日本保育推進連盟 - - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - - - - - - 日本自動車整備振興連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - - 社団法人日本土木工業協会 - 社団法人建築業協会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会 - 社団法人日本郷友連盟.

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宮澤喜一

宮沢 えま

来歴、人物 [ ] 出生から学生時代まで [ ] ・こと夫妻の長男としてに生まれた。 母・ことは、等を歴任したの二女。 後、母方の祖父小川平吉の別荘である平塚の「花水庵」で過ごす。 父のは当時に勤務していたが、すでに政界を志し、から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた。 東京高師附属小学校(現・)、を経て東京帝国大学(現・)卒業。 在学中の(14年)、第6回に参加のため渡米した。 日本からは、宮澤喜一、、、ら各大学から男女合わせて48名の大学生が参加、のちの夫人とも知り合ったきっかけとなり、日米首脳会談後のスピーチでも日米学生会議で妻と出会ったことを披露した。 宮澤三兄弟の幼少の頃を知る従姉妹の和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。 住まいは東京でしたが、夏になると伯父()の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。 お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。 とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。 高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という。 学生時代のことを、宮澤は次のように語っている。 「私達の学生時代はご承知のような時代だったから、あんまり思い出というほどのものもないが、よく能をみて歩いた。 ただ、家があまり裕福でなかったのに能の切符はその頃一円ぐらいして非常に高かったので、それを買うのが大変だった。 能が好きになったのは両親の影響もあったのだろう。 母がをやっていて、私も中学から大学まで謡をならった。 若いときにやったから一応はちゃんとうたえるようになった。 能のほかには当時の学生と同じようによく映画をみ、を買ってきいた。 に中古のレコード屋があって、よく買いにいったものだ…」。 大蔵官僚として [ ] (昭和17年)1月、に入省した。 沼津長などを経て、終戦時には本省でを担当していた。 (昭和20年)8月、が発足すると、と共に蔵相となる。 (昭和24年)には蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わっていた。 (昭和26年)9月、では全権随員として参加した。 政界入り [ ] (昭和27年)に池田通産大臣がいわゆるで不信任されたのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官した。 本人はすぐに政界にというつもりではなかったと語るが、池田の強い勧めで翌(昭和28年)、にから出馬し当選した。 参院議院運営委員長などを経て、(昭和37年)のではとして初入閣、池田首相のブレーンの一人としての一翼を担う。 テレビの政治討論会などに積極的に出演し、のニュー・ライト()を代表する若手政治家として注目される。 衆議院への鞍替えを要請され、参院議員の任期満了をもってしばらく非議員の立場になるが、で非議員のままで入閣する。 (昭和42年)衆議院に鞍替え出馬してに当選。 以後、外相、などの要職を歴任していった。 「ニューリーダー」 [ ] 党内では池田派()に所属し、1973年には派閥横断グループ「平河会」を結成し座長となる。 早くから候補と目され、ポスト(1974年)で総裁に推す声が一部で上がった他、会長らの周旋による政財界団体「自由社会研究会」の結成(1977年)が宮澤を総裁に推すためのものと取沙汰されたり 、(1979年)収拾策の一つとして宮澤擁立が取沙汰されたりもする。 大平急死(1980年)後の後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会で田中と近かったが総裁に就任。 (および)では内閣官房長官を務め、次代の期まで、・らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人はと呼ばれた。 官房長官としては、鈴木首相の度々の失言の後始末をこなし、宮澤の実務能力が改めて政界内外に印象付けられた。 退陣表明後の鈴木に、反主流派の中心人物であるが宮澤への後継指名を提案したが、鈴木は断っている。 派内では、宮澤に対抗意識を燃やすと「」と呼ばれる後継争いを繰り広げ、その過熱が懸念を呼んだことから平河会座長を退いている。 田中が持病の糖尿病を悪化させ病没後の(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承、名実共に総裁候補となった。 総務会長時代の1986年には、中曽根が提唱するに当初は反対したが、最終的に受け入れた。 とその後の急激な円高を巡り、中曽根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曽根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。 大幅な介入や財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、円高は加速した。 (昭和62年)秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根のにより竹下が総裁に就任する。 宮澤はに副総理兼蔵相として入閣し、導入に尽力するが、(昭和63年)、が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。 総理大臣就任 [ ] 「」および「」も参照 (平成3年)、首相の退陣に伴うで勝利、72歳にしてに就任した。 参議院議員経験者としては初めての内閣総理大臣である。 また現在、官僚出身の最後の総理である。 宮澤はの終結を「二、三百年に一度の歴史的変動」ととらえていた。 経済に関して「は高度成長の終焉であり、それに替わるものの出発」と受け止め、バブル景気の果実は国民の生活基盤を整える内需の振興に使うべきなのに、資金がどんどん流出している状況を問題視し、資産倍増論から発展した生活大国構想の実現を考えていた。 のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかったが、の支配下にあって思い通りの運営はままならなかった。 在任中の施策としてはの成立と、それに伴うがある。 その過程で派遣された文民とボランティアが殺害された際に撤退論が支配する世論に流されず自衛隊の引き揚げはしなかったが、「要員の殺害は止むを得ない。 」と発言し批判を浴びた。 にで起きた政府によるでの民衆殺戮に対しが行っていた多岐のを覆すため、は宮澤にの訪中を要請し、らの後押しもあって実現した。 宮澤の前任であるの時に円借款の再開で日本からの制裁は真っ先に解除されていたが、天皇の訪中は日本に続いた欧米の制裁解除に大きく貢献したとされる。 首相退任直前に問題についてのを発表し謝罪の意向を表明したが、一部の派論壇から非難された。 (平成4年)6月には、(ODA)に関する基本理念や重点事項などを集大成し、ODA大綱を決定。 また崩壊後の金融不安を巡って、側近であったの進言を容れて、8月中旬に日銀総裁であったと歩調を合わせて東証閉鎖・による投入というシナリオを密かに模索したが、大蔵省の反対により一旦断念、なおも30日の自民党の軽井沢セミナーでへの公的援助発言をする。 地価や株価等の資産価格の大幅な下落から、今までのとは質が違うとし、公的資金を投入してもを早期に処理する必要性があると発言したものであった。 しかし「金融機関への公的資金投入」構想は官庁、マスコミ、経済団体、そして当の金融機関自身からの強い反対に遭い、実行に至らなかった。 その結果、宮澤はその決定を取り下げなければいけなくなり、これにより銀行への公的資金投入による不良債権処理はタブーとなり、その後は何年にもわたり日本の政治家は誰一人としてこのことを言えなくなった。 宮澤がこの発言をした背景には、前述の通り側近の浜田らの政策集団「自由社会フォーラム」で同種の議論が進んでいたことがあるが、そのような危機意識を国内で共有していた有力者は、三重野など限られた人物以外に存在しなかったという。 また宮澤は「海外からの情報で気が付いた。 でも(自民党内の)皆ついてこないんだよね。 」と漏らしていたことがあったという。 は「公的資金を投入してでも金融機関の不良債権の処理をすべきと一番先に提唱したのも宮澤氏でした。 仮に宮澤政権下で不良債権処理が進んでいれば平成9年のの破錠はなかったもしれません。 」と述べている。 折からなどを巡って高まっていたの機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが、自身は必ずしも小選挙区制導入をはじめとする政治改革に積極的ではなかった。 竹下派から分かれた小沢・羽田グループ()は宮澤のそのような姿勢に反発を強め、(平成5年)6月にが提出されると賛成にまわり、同案は可決された。 自民党は大量の離党者を出したままを行うことを余儀なくされる。 なお、宮澤は日本にとって3度目の自国開催となったを主催しているが、これは公示から3日目という慌ただしさの中で行われた。 選挙では、自民党は結果的にほぼ現有議席を維持したものの、、など自民党から離れた議席を回復することができず過半数を大きく割り込み、を中心とした勢力が結集して政権が誕生、宮澤は自民党長期支配38年、及びの最後の首相となった。 宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡したになぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。 再び大蔵大臣に [ ] 1999年4月26日、のと その後は、で外相在任中のから駐米大使を打診されたが固辞、1996年(平成8年)初めてで実施されたではしていない公認との現職対決に圧勝で再選、1998年(平成10年)にが発足すると、未曾有の経済危機に対処するため首相は宮澤に大蔵大臣就任を要請した。 宮澤は当初難色を示したものの、小渕の強い熱意の下就任を受諾した。 に活躍した以来となる、異例の総理経験者の蔵相就任となったため、「平成の高橋是清」といわれた。 総理経験者の閣僚就任はの・復員庁総裁以来51年ぶりのことだった。 折からのに対処するため、金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、またにあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。 続く森内閣でも蔵相に留任し、初代となる。 小渕・森内閣両期を通じて、巨額の恒久的減税の一方で財源として一貫して大量のを発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。 こうした極端なを主導したことも、高橋是清になぞらえて呼ばれるようになった理由の一つである。 金融危機を脱した後は経済はおおむね好調だったが、2000年に入るとITバブルの崩壊とともに不良債権問題が再燃した。 森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。 政界引退後 [ ] の際、自民党総裁は、衆院比例候補・定年73歳の徹底と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曽根、宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した(宮澤はので自らの福山の地盤を甥のに譲って比例単独候補に転身していた)。 当初難色を示した宮澤は、「総理に恥をかかせちゃいかん」と発言し積極的に引退を受諾、最後まで抵抗した中曽根とは対照的な形となった。 参院在職12年3ヶ月、衆院在職36年9ヶ月で国会議員在職合計は49年0ヶ月であった。 宮澤自身は政界引退後も元首相、政治の証言者として経済やのご意見番となり、様々な形で活躍した。 政治家である一方、自民党内とも以前に比べ関係が良く、人当たりも温和になっていた。 (平成17年)夏に体調を崩し、入院をした。 退院後は容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けた。 (平成18年)7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えた。 翌2007年(平成19年)2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加、スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。 2007年(平成19年)6月28日午後1時16分、のため神宮前の私邸で死去した。 87歳。 在任期間が1年を超える首相経験者はを受勲することが慣例となっているが、遺族は本人の意向により勲章等は辞退した。 に、首相を葬儀委員長として、・自由民主党合同葬がで行われた。 エピソード [ ] この節には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2019年8月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2019年8月) 池田勇人との関わり [ ] 宮澤の前半生は抜きに語ることはできない。 広島県出身の父・裕は同郷で政友会の重要な政治家の秘書官を務めたことがあり、また裕の義父(つまり喜一の祖父)も望月と親交があった。 一方、池田家は広島における望月の有力な支援者であり、望月を介する形で池田家と宮澤家は縁を深め、裕が池田勇人の最初の結婚の世話をするなど、彼らは単に郷里の友人以上の関係となっていった。 もともとか内務省を志望していた裕の長男・喜一は、父を通じた池田の強い勧めで大蔵省に入省、以来二十余年に及ぶ池田との縁の始まりであり、とくに池田の秘書官となって以後はその死まで常に側近として仕えた。 政界入りにも池田の意向が大きく働いた。 池田通産大臣の不信任に殉じるように大蔵省を退職した宮澤に対して、池田は参議院選挙への出馬を勧めた。 この時池田が「2区の俺の地盤と3区の君のお父さんの地盤をあわせれば参議院広島選挙区で当選できるよ」と言ったという逸話が残っている。 であった占領時代に、通訳や渉外担当としてなど米国各機関との折衝に関わって、基地提供を提案したことで知られる池田蔵相の訪米(1950年)やサンフランシスコ講和会議(1951年)、また参議院議員となった後も、再軍備問題を巡る(1953年)や、池田の総理大臣就任後の池田・会談(1961年)など、戦後日本の針路を決定付ける重要な局面にいずれも池田側近として立ち会ったため、「戦後政治の生き字引」 などといわれる。 政治スタンス [ ] 的な政治家とされることが多く、の海外での武力行使は自衛の場合に限るべきという見解を基本的には維持していた(「が禁じているのは海外での武力行使であり、それ以外は何でも出来る」という逆説的な言い方ではあるが)。 それは戦争を知る世代としての思いが背景にある。 しかし一貫した派・論者でもあり、には既にの限定的行使は合憲であると東大を卒業しながらも述べ、違憲論を「学者バカ」の議論だと批判していた。 国連の常任理事国入り問題に関しては、本人は慎重派と思われるが、推進派の外務事務次官が従兄弟のだったこともあり、特に意見を言わなかったという。 の有力者として期待され続け、42歳での経済企画庁長官就任を皮切りに早くから閣僚を歴任していったが、政府経験の豊富さとは裏腹に党務にかかわることは少なく(中曽根総裁の下で、2年間を務めたのみ)、以前の吉田派以来の党人派や、池田・大平と同世代の政治家にもっぱら党務は委ねていた。 中曽根内閣において、派としてしばしば宮澤の幹事長就任を要求したにもかかわらず、中曽根が一本釣りでを入りさせるなどした背景には、中曽根の宮澤嫌いに加え、そうした仕事が向かないと判断されたこともある。 また派内掌握については、・に加えといった有力な政治家がしのぎを削る中、積極的に行動を起こすことは少なく、同世代で早くから派閥を継承したや中曽根には大きく遅れをとることになった。 宏池会内では、と比較的親しく、大平とは微妙な関係であった。 、など大平側近とは、世代間対立もあり総じて関係は悪く、また、田中六助とはと呼ばれる抗争を巻き起こしている。 伊東らとは後年和解しているが、これは田中角栄や中曾根に対する大平側近の反抗意識の結果、宮澤が担がれたという消極的理由に発する所が大きい。 は大平側近として知られ、個人としての宮澤は加藤よりも河野を後継に望んだとされるが、いわゆるにおける宮澤の煮え切らない態度は、河野洋平の離脱による派閥分裂を招いた。 では、田中六助直系のと結ぶ形で、加藤を失脚させている。 加藤の乱では、大平女婿のは加藤に就いており、宏池会内抗争の系譜が現代まで影響を及ぼした側面もある。 総理退陣直前、の仲介で次期総理となるとで8月17日に会談して、政権政党の交代に伴う国政の混乱回避を図った。 のみならず、2009年に田中が明らかにしたところによると、細川は頻繁に宮澤と会って政権運営について指南を受けており、細川政権は実質的に宮澤との共同運営だった。 の内実に関する重要な証言である。 田中秀征は師事した宮沢喜一元首相の冷静で俯瞰的な判断力を高く評価している。 の『宰相の器』によると、は「彼(=宮澤)は秘書官だ。 秘書官としては一流だった。 しかし、それだけだ。 政治家ではない」と評したという。 は政治家として宮澤を敬遠しており、著書『国家なる幻影 わが政治への反回想』(上・下、文藝春秋のち)で批判している。 そのため者としての政治家の顔を覗かせていたといえる。 気性 [ ] 穏和そうな外見もあり、大人しめの印象を与えるが、それとは裏腹に負けず嫌いで毒舌家な一面も知られている。 車中で池田蔵相と宮澤秘書官の議論が感情的になり、外は土砂降りなのに池田が宮澤に「降りろ!」と怒鳴り、宮澤も「降りません!」と最後まで食い下がったこともあった。 池田の通夜において、宏池会事務局長で後にのアドバイザーを務めるが、宏池会会長のに対して「宏池会から総理総裁候補を群生して出すようにしてほしい」と述べたとき、宮澤が「それはおかしい。 池田の後は複数ではなく単数だ」(あくまで前尾中心の派であるべきとの意)と口をはさんだことから、宮澤と伊藤の応酬が取っ組み合い寸前まで至り、前尾が仲裁して収まったこともある。 1970年代の外務大臣在任時、の古強者外相との交渉では、のらりくらりと話をはぐらかそうとするグロムイコを恫喝して席につかせたという伝説がある(『』でグロムイコが「なんと頑固か」と述べた)。 また1984年3月、当時64歳だった宮澤はの会長秘書を騙る自称「ジャーナリスト」の男(当時54歳)とホテルで面会、ナイフを突きつけられた上、30分にもわたる取っ組み合いをし、灰皿で殴られるなど全治3週間の負傷をしながらも、一人でその男を取り押さえたという事件がある。 一部のが部落外に転出して出世するや否や、自己の生まれを隠蔽し始める風潮があることを苦々しく思っていた部落解放運動家による「宮澤喜一の父親()は被差別階級の出だ」との発言に対し、宮澤は激怒した。 『芸備人権新報』(1999年9月10日号)には、「(小森)……ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだという べきでしょうね……宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね……」とある。 によると宮澤は頭が良過ぎて他者を見下したような態度を取るため慕う人があまりにも少なかったという。 数々の放言 [ ] の政治家として酒豪ないし酒乱の逸話が存在する。 宮澤の死後、長女・啓子は、文藝春秋に掲載された随筆の中で、「皆さんご存知のとおり、父は酒乱でした」と書いている。 大平正芳が総理に就任した頃、宮澤は酔った勢いで「大平君が総理・総裁とは滑稽だ」と言い放ち、これを伝え聞いた大平は宮澤と口を利かなくなった。 2人は元同僚で池田勇人の秘書官時代からの仲だったが、宮澤は池田の盟友で東大の先輩であるやに近く、大平が前尾が継承した宏池会を実力で奪い取った経緯があることから、微妙な関係にあった。 秘書官時代も大平が渉外を担当し、政策を宮沢が主に担当していたことや、東大卒の宮沢が、苦学して(現・)を卒業後に大蔵官僚となっていた大平を軽視していたという説もある。 大平の方が宮澤よりも9歳年上で、派内の人望も大平が勝り、池田も宮澤以上に大平を好んだといわれる。 宮澤が大平に時折みせた屈折した優越感は、そうした政界における劣等感の裏返しでもあった。 が首相在任中には、「海部さんは一所懸命おやりになっておられるけど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」と発言し、この発言を伝え聞いた海部はいたく立腹したという。 には「酒を飲んだ時の宮澤なら十年早く政権取れていた」と言われたことがある。 「人に会うと学歴を聞く」などと言われ、出身大学にまつわる放言も多かった。 (の前身)出身のについて「偉い方ですよ。 大学を出ているんですね。 知ってました?」と皮肉を言い、については「あの方、県議出身でしょう。 あのころ早稲田は無試験でした。 僕の義父(伊地知純正)が商学部の部長でしたから嘘ではありません」などと酒席で語ったのをが伝えている。 また、金丸に対しては、を控え、の支持が死活的に重要だった時期にも関わらず、面会すると第一声、「金丸先生は農大を出ていらっしゃる。 そいつはお出来になりますなあ」と言い放ったという。 金丸がいい気分であったはずがないが、「まあ表門から入って裏門から出たようなもんですがね」ととぼけ、悩んだ末に「国民の声」を考え、総裁選では宮沢を支持した。 竹下もまた、無試験のネタを直接宮澤に言われたこともあり、「あれは許せない」と怒っていたという。 番記者にも出身大学を訊き、東京大学卒でも法学部卒ではない場合、「ほう、近頃じゃあ法学部じゃなくても東大って言うんですか」などと嫌味を言い、その後、マス・メディア各社の間で、宮澤の番記者を東京大学法学部の卒業者にする動きが見られた。 日韓W杯招致に尽力 [ ] 時代に経験があり、サッカー好きで国内である大きな試合にはよく顔を出していた。 このため(平成6年)12月に発足した超党派の招致国会議員連盟の議員会長に就任した(副会長、、、)。 超党派というのはこれ以前、1992年(平成4年)3月に小沢らを中心に国会議員招致委員会が、これに先んじて発足したものの、主導で運動が始まったことで自民党が反発、運動は盛り上がらなかったため。 1994年(平成6年)の超党派招致連盟の発足で政界も一致団結し、大きな運動となっていった。 世界中を駈けずり回ったのは会長(当時)らだったが、国際的にも顔が広い宮澤も多くの国を訪問し、実現に向けて協力を行った。 また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的にを決断した鳩首会談に長沼、、、、、と参加し、共催を後押した。 英語屋の面目 [ ] 「政界随一」と謳われた宮澤の英語力だったが、海外留学やの専門教育を受けた経験などはない。 本人によると、東大時代に日米学生会議の日本代表の一人に選ばれて渡米したところ、それまで勉強してきた英語がほとんど使い物にならないことが分かり、一念発起して本格的に英語の勉強を独学で始めることにしたのだという。 から中にかけて、英語が「」として一般には排斥されていた時代にも、手に入る洋書や英字誌は片っ端から読むようにした。 戦後の占領が始まると、との交渉ができる大蔵官僚として引っ張りだこになり、毎日のように英語を使う日々が続いたという。 議員になってからも、の食堂やロビーではや英字誌を読んでいるのが常だった。 あるとき背後から、いきなり強い口調で「日本の国会議員なら、の新聞を読みなさい!」と叱咤されたことがある。 宮澤が振り向くと、そこには当時まだ新人議員だったが眉を吊り上げていた。 しかしいちゃもんを付けた相手が宮澤と気づいて、今度は浜田の方が大いに慌てた。 そんな浜田に向かって宮澤は、「国会議員なんだから、浜田さんも英字新聞ぐらいはお読みなさい」とやり返している。 浜田はこれに感化されて、しかし自分は英語はまるでダメなので、代わりに息子のをアメリカの大学に留学させることにしたという。 外国首脳や大臣との会談の席では、上は必ず通訳を同席させることが決まりごとになっているが、宮澤はそれでも・・・などの首脳とは、いちいち通訳の言うことを待たずに一対一で会話を主導した。 あるとき大臣として外遊した際、同行した別の閣僚に付いていた通訳に不安を感じた宮澤は、その一言一句をしっかりと横耳で聞いていて、誤訳があると間髪入れずに訂正を入れたという逸話もある。 そうした完璧主義が災いしてか、宮澤の英語力を煙たがる官僚や代議士がには少なくなく、特に宮澤嫌いだった田中角栄からは「英語屋」と呼ばれて通訳並みに見下されていた。 宮澤が総理在任時の1992年1月、アメリカの大統領が来日した。 2日目のでの晩餐会の席上、ブッシュが突然隣に座っていた宮澤の膝の上に嘔吐した上、椅子から崩れるように倒れるという椿事が起こり、しかもその映像が全世界に配信されたため、各方面に衝撃が走った。 翌朝、官邸に詰めかけた内外の報道関係者を相手に、宮澤は一人で記者会見に臨み、30分近い状況発表と質疑応答のほとんどを英語で行った。 宮澤の説明は、現在の大統領の容体から、来日前からで体調不良だったこと、日中に皇居内でとを相手にテニスをしたことで体力を消耗していたこと、そして晩餐会席上の様子やの内容に至るまで、極めて詳細かつ専門的なものだったが、その語り口は沈着冷静でいかにも堂に入った様子だった。 前代未聞の大統領の醜態に蜂の巣を突いたような状態になったアメリカのメディアも、膝に吐かれた当の総理本人が淡々と説明しているの見て、これなら心配はないだろうとすぐに落ち着きを取り戻している。 次の大統領は宮澤と一度だけ会談しているが、その際この時の宮澤の対応ぶりを賞賛している。 国際会議や交渉の場を重ねるうちに宮澤はの必要性を痛感して、中年を過ぎてからその勉強を始めている。 本人は「志半ばで終わった」としているが、官僚、国会議員、閣僚、そして総理と、長年にわたって多忙な日々を送っていたにもかかわらず、常日頃から仕事の合間には勉強を怠らなかったことは多くが認める宮澤の徳目の一つである。 皇室 [ ] 宮中における内閣のの際、明仁天皇を前にした宮澤は極度に緊張していたという。 他人に対して時に尊大な態度を取ることもあった宮澤だったが、尊重の念は人一倍強かったものとされる。 漢詩 [ ] 英語通とされるが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んでを引用する。 宮澤は「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。 その漢学にというのがあるんです。 つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。 人を押しのけてまでというのは、わたしの性にあいませんね」と述べている。 また、総理退陣の時の心境として、の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げた。 揮毫 [ ] 「財務省」の銘板 で大蔵省がと名称変更されることになると、当時蔵相だった宮澤は「コンピュータの楷書体の文字の中からいろいろと注文をつけながら」(当時の事務次官の談)書体を選定 した。 それまで門前にかかっていた「大蔵省」のは、新憲法下で初の蔵相を務め宮澤の師でもあったの筆によるものだった。 宮澤が選定した銘板は、その後(平成28年)に財務大臣のが自ら揮毫するまで掲げられた。 ある時、達筆で知られる宮澤が「政界で一番書く字が上手なのはさんでしょう」と述べると、政治部の記者が「氏や(赳夫)氏や氏の書く字はどう思われますか」と質問した。 すると宮澤は小首をかしげて「あなたは、あれが字だと仰るんですか?」と切り返したというエピソードがある。 小説 [ ] 宮澤はの2つの小説のモデルになっている。 学生時代の宮澤をモデルにしたのが『友情力あり』、大臣時代をモデルとしたのが『』に登場する「矢沢経済企画庁長官」である。 やる [ ] 総理時代、『』に出演し、から政治改革法案問題に関して「今の国会(1993年通常国会)でやるのか」と訊かれ、「私はやるんです。 この法案(政治改革関連法案のこと)を何としても成立させたいんです」と冷静な宮澤にしては珍しく気色ばんで答えた。 これがきっかけとなって自民党内が混乱し、1993年の政界再編の引金となったといわれる(参照:)。 感想 [ ] 森内閣でのが作業服の地味さに苦言を呈し、もっと見栄えの良いものにするよう部下に指示した。 その後、新しい作業服を扇自らが着用してマスコミに披露したが、その件について感想を求められた宮澤は「あの方は何を着ても似合うから」と答え、その場を沸かせた。 一方、2000年5月の「」のときは、やはりで首相の発言に対するコメントを求められた際に、「神様は大蔵省の管轄外だから」と返答して記者団の笑いを誘った。 略歴 [ ]• (大正8年)10月:に生まれる 地は金江町金見• (昭和3年):附属小学校入学• (昭和7年):旧制武蔵高等学校尋常科入学(入試の成績は81人中27番)• (昭和11年):旧制武蔵高等学校高等科文科甲類(文系英語クラス)入学• (昭和14年):旧制武蔵高等学校高等科文科首席卒業、入学• (昭和16年)12月:東京帝国大学法学部政治学科卒業• (昭和17年)1月:入省• (昭和18年)11月:伊地知庸子(父・純正は教授)と結婚• (昭和20年)8月:蔵相秘書官事務取扱(同時にが秘書官を務めている)• (昭和24年)1月:蔵相秘書官• (昭和26年)8月:に全権随員として出席• (昭和28年)4月:退官し広島地方区より参議院議員選挙に出馬、当選 (〜7月)• (昭和37年)7月:で (〜7月)• (昭和41年)12月:で経済企画庁長官 (〜1967年11月)• (昭和42年):衆議院議員選挙で初当選 (〜10月)• (昭和45年)1月:で (〜7月)• (昭和49年)12月:で (〜9月)• (昭和52年)11月:で経済企画庁長官• (昭和55年)7月:で• (昭和59年)10月:自民党総務会長• (昭和61年)• 7月:で• 8月:(宮澤派)第5代会長に就任• (昭和62年)11月:で兼大蔵大臣• (昭和63年)12月:副総理・大蔵大臣を辞任• (平成3年)11月:自民党総裁、• (平成5年)• 4月:訪米時、内閣総理大臣として初めてを使用。 8月:内閣不信任案可決により衆議院を解散()するも総選挙に敗れ• (平成10年)• 7月:で大蔵大臣• 12月:宏池会会長の座をに譲って名誉会長に就任。 (平成12年)4月:で大蔵大臣(留任)• (平成13年)1月:省庁再編により最後の大蔵大臣から初代に就任(〜4月)• (平成15年)11月:政界引退。 (平成19年)• 6月:私邸で死去。 8月:内閣・自民党合同葬。 父・ (山下汽船社員、政治家) (17年)1月生〜(昭和38年)5月没 父・は金江村(現・金江町)の小さな農家に生まれた。 宮澤によると「父は小さな百姓の長男でね、いまでもその生家が残っていますが、山の中の本当の一軒家です。 とにかく私が参議院に出てから(昭和28年)はじめて電灯を引いてもらったようなところなんですよ」という。 祖父の宮澤鹿吉の時代は、生活は楽でなかった。 裕は苦学して政治学科を卒業、勤めを経て、実業界に入り海運王の山下汽船(現・)に入社。 亀三郎の盟友だったに見込まれ、その女婿になった。 昭和3年()郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。 以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任した。 弟・ (・自治官僚、政治家・広島県知事、参議院議員、法務大臣) (10年)9月生〜(平成24年)5月没• 同妻・ 玲子(広島県、実業家・政治家の長女、通産官僚・政治家の妹、政治家の叔母)• 同長男・ (官僚、政治家)• 同妻(実業家(元日本航空社長)の孫• 娘2人(大蔵官僚の妻、通産官僚 中澤佐市の妻) 加藤の祖父は、元労相の、父はその長女鎮子の婿養子になった社長の加藤達雄 小川家の人々 (前列左より三平、せき(平吉夫人)、平吉、悦子、。 後列左よりせい、宮澤の母 こと、てい、かつ、、、)• おじ 小川一平(実業家、政治家) (政治家) 小川平四郎(外交官) 堤平五(実業家)など 堤平五は養子に行ったため堤姓を名乗っているが、宮沢の母方の祖父の五男である。 の上では叔父になるが、宮沢の母のことは祖父平吉が27歳のときの子供である。 平五は50歳のときの子供で、兄姉といっても20歳以上の差があり、甥の宮澤と同年齢である。 2人は子供のときから祖父(宮澤にとっての)平吉の家に、同年のいとこ同士に近い関係で一緒に育った。 平五の娘婿・は、元首相のの長男。 俊一の姉・千賀子の夫は元首相の。 別に意識してそうなったわけでなく、強いていえば環境でしょう。 親族のなどで全員が集うと、まるで官僚あるいは官僚OBの集まりといった具合です。 」という。 作家のによると、「いまや宮沢家は超名門エリートと思われているが、もとから宮澤家が名門であったわけではない。 、がで酒造業、醤油製造業を営んでいたのに対して、宮沢の場合はぐっと落ちて小農の出である。 宮沢は生まれであるが、父は広島県金江村(現在の)に生まれた。 取材当時その実家を訪れてみたが、福山市とは名ばかりの山の中にそれはあった。 」、「宮沢一族の閨閥は、系図でもわかるように、ただただ華麗としかいいようがない。 麻生家を遠縁とする見解について、系図を全体観察すれば 遠縁が疎遠を意味しないことは明白である。 主な著書 [ ] 単著 [ ]• Secret Talks between Tokyo and Washington: the Memoirs of Miyazawa Kiichi, 1949-1954, translated and annotated by Robert D. Eldridge. Lexington Books, 2007. 『戦後政治の証言』(、1991年) 月刊誌「This is 読売」の連載をまとめたもの• 『21世紀への委任状』( ブックレット、1995年) の連載をまとめたもの• 『新・護憲宣言 21世紀の日本と世界』(、1995年)• 『ハト派の伝言 宮澤喜一元首相が語る』(、2005年) での連載回想 共著 [ ]• ()『将来経済の構想』(、1969年)• ()『美しい日本への挑戦』(、1984年、新版1991年)• ()『対論改憲・護憲』(、1997年/「憲法大論争 改憲vs. 護憲」、2000年)• 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(聞き手・、、2005年)• 『宮澤喜一 保守本流の軌跡 90年代の証言』(・・編、、2006年) 参考文献 [ ]• 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』、 鈴木・小川・宮沢家 門閥ゼロからのスタート(153-157頁) 1983年• 『友情力あり』 講談社文庫、1993年• 『』 1993年• 『私物国家 日本の黒幕の系図』 2000年 157、173、340頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 446-448、463頁• 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』、第10章 宮沢家-高級官僚・政治家を輩出する華麗なる一族(197-211頁) 2002年• 『自民党本流と保守本流』- 第6章「保守本流の申し子・宮沢喜一」講談社 2018年• 田中秀征、聞き手吉田貴文『平成史への証言』 2018年• 清宮龍『宮澤喜一・全人像』行研出版局 1981年、改訂版1992年 演じた人物 [ ] テレビ・映画 [ ]• (『』、)• (『』、)• (『』、) 舞台 [ ]• 前者は本公演のキャスト、後者は新人公演のキャスト。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『集団的自衛権』(PHP新書)参照。 また2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それをの21世紀への遺言であるとした。 この時、誘致の「顔」を宮澤に譲るよう小沢に頭を下げに行ったのが、当時の中堅だっただった(、2009年2月22日、4頁)。 浜田がテレビや雑誌の、著作などでたびたび紹介しているエピソード。 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店、2005年)でも、への尊敬の念を語っている。 田原はこの件について「結果として宮澤さんに迷惑を掛ける事になってしまった」と宮澤の死後、雑誌『』で語っていた。 出典 [ ]• 著『宮沢喜一・全人像』48頁• 著『友情力あり』• 著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 206頁• 著『宮沢喜一・全人像』69頁• 『』、のへの説明として記述• 『自民党戦国史』中巻 朝日文庫 pp. 242-248 、記者から著者への確認取材による(1985年、原著1982年)• 『自民党戦国史』下巻 朝日文庫 p. 85 (1985年)• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P25• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P35• 銭其琛著濱本良一訳『銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』3,p129、東洋書院、2006• 朝日新聞. 2007年6月29日. 2020年1月21日閲覧。 [ ]• 田中秀征「自民党本流と保守本流」P123• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P117• 田中秀征「自民党本流と保守本流」P118から119• 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P115~116• 田中秀征「判断力と決断力」まえがき• 『池田勇人とその時代』 朝日文庫 (1985年)p. 284• 伊藤昌哉『自民党戦国史・上』 朝日文庫(1985年)pp. 14-17• 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(、2010年)• 「宮沢さんの無愛想の魅力」『FACTA』2007年8月号• 岡崎守恭『自民党秘史』(2018年、講談社現代新書)• 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』(文春文庫)• 『新時代へのキックオフ』仮野忠男著、、2001年9月。 『』長沼健回顧録、32号、33号、34号、、2006年-2007年。 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 204頁• 産経新聞2016年6月6日• 『豊かな国の貧しい政治』• 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』49頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 445頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 442頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 446-447頁• 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 447頁• 有限会社クラブサー• からを経て建築家 『文藝春秋』(2010年10月号)• 著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』』 209頁• 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 209頁• 『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、362頁) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - (2004年2月16日アーカイブ分)• 議会 先代: 第20代 : 1961年 - 1962年 次代: 公職 先代: 第78代:1991年 - 1993年 次代: 先代: () 1987年 - 1988年 次代: 先代: 創設 初代:2001年 次代: 先代: 第88・89代:1986年 - 1988年 第105・106・107代:1998年 - 2001年 次代: に再編 先代: 第44代:1980年 - 1982年 次代: 先代: (事務取扱) (事務取扱) 第12・13代:1962年 - 1964年 第17・18代:1966年 - 1968年 第29代:1977年 - 1978年 次代: 先代: 第103代:1974年 - 1976年 次代: 先代: 第32代:1970年 - 1971年 次代: 先代: 第18代:1993年(兼任) 次代: 先代: 第56代:1993年(兼任) 次代: 党職 先代: 第15代:1991年 - 1993年 次代: 先代: 第28代:1984年 - 1986年 次代: 先代: 第5代:1986年 - 1998年 次代: 外交職 先代: ドイツ 議長 1993年 次代: イタリア 名誉職 先代: 最年少参議院議員 1953年5月 - 1956年7月 次代: - - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - - - - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - - 全私学連合会 - - - - - 社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 日本保育推進連盟 - - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - - - - - - 日本自動車整備振興連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - - 社団法人日本土木工業協会 - 社団法人建築業協会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会 - 社団法人日本郷友連盟.

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宮澤エマ

宮沢 えま

略歴 母方の祖父は第78代の。 母は宮澤喜一の長女で、父はアメリカ人で元駐日代理大使。 幼稚園の年少から年長まで父親の仕事の関係でで暮らす。 その後帰国し、初等部、を卒業した後、ので宗教学を専攻。 大学3年の時にはへ留学している。 子供の頃から歌や芝居が大好きで、歌手に憧れてボイストレーニングなど10年以上勉強を続けていたが 、大学入学後に一旦距離を置く。 しかしケンブリッジ大学留学中にビッグバンドのボーカルで歌ったり、音楽に触れる機会が多くあったことで自分を表現する仕事に就きたいと改めて強く思い 、オクシデンタル大学卒業後の春に芸能界入りする。 初めてのテレビ出演は『』に「孫タレ」枠で出演。 その後、『』『』など様々なバラエティ番組に多数出演。 総理の孫という立場での出演は嫌ではなかったが、これだけでは芸能界では生き残れないと思っていた頃 、宮澤が高校時代に所属していたグリー(合唱)クラブにの弟が所属しており 、歌う宮澤の映像を目にしたことがあった宮本亜門から 、「ミュージカルのオーディションを受けませんか?」と声をかけられる。 結局その作品『』 の役には合っていないと不合格だったが、『メリリー・ウィー・ロール・アロング〜それでも僕らは前へ進む〜』のメアリー役に抜擢された。 その後は舞台作品への出演を重ねている。 2015年11月16日、自身のブログで「ラフルアー宮澤エマ」から「宮澤エマ」に改名を公表した。 出演 テレビ番組• (2012年10月 - 2014年3月、)バーディ• (2014年4月 - 9月、TOKYO MX)バーディ• (2014年8月17日 - 、)コメンテーターとして不定期出演• EX (2015年5月16日 - 、)パネリストとして不定期出演• (2015年11月12日 - 、フジテレビ)コメンテーターとして出演• (2016年10月28日 - 2017年9月29日、フジテレビ) - 準レギュラー• Wake Your Dreams〜英語で開く夢への扉〜(2017年6月3日 - 、) - MC• (2018年4月2日 - ) - 火曜日コーナー「リーダーの栞」聞き手• ザ!モノシリスト(2018年10月7日、10月14日、) ネット配信• (2016年4月13日 - 2020年3月25日、)水曜日MC 携帯配信• 稲川淳二の怖い話 本家本元7夜連続SP(2013年8月12日 - 8月18日、)• 冬も稲川! 恐怖の現場 7夜連続SP(2014年2月1日 - 2月6日、NOTTV) ラジオ• (2012年4月5日 - 2016年3月31日 、)パーソナリティー• (2014年11月15日、) - のピンチヒッターとして出演• (2016年4月3日 - 、ベイエフエム)パーソナリティー ミュージカル• ミュージカル『』(2014年6月 - 8月、ほか) - メアリー・ロバート 役• ミュージカル『シスター・アクト〜天使にラブ・ソングを〜』(2016年5月 - 6月、帝国劇場) - メアリー・ロバート 役• ミュージカル『bare』(2014年12月、中野ポケット)• ミュージカル『』(2015年2月3日 - 3月31日、帝国劇場) - リカ 役• ミュージカル『』(2015年9月 - 10月、、、帝国劇場) - アントニア 役• ミュージカル『ドッグファイト』(2015年12月、、、東海市芸術劇場) - ローズ 役• ミュージカル『 ()』(2017年4月、日生劇場) - フィービー 役• (2018年8月 - 9月、) - 天竺芽衣 役• (2020年度後期 - 、NHK) - 竹井栗子 役 ウェブドラマ• (2020年秋配信予定、) - 曽我そと子 役 映画• (2019年9月13日、) - ジェット・和田 役 CM• 「リングルアイビーシリーズ」(2015年11月 - ) 関連項目• (歌手) - 宮澤とは森村学園初等部時代の同級生。 2012年11月2日. 2015年11月5日閲覧。 2015年11月5日閲覧。 インタビュアー:松島まり乃. 2015年12月11日閲覧。 宮澤エマ 2017年5月1日. インタビュアー:田中亜紀子. 2017年12月17日閲覧。 インタビュー. 2017年12月17日閲覧。 インタビュアー:. 2015年11月5日閲覧。 インタビュアー:中村裕一. 2015年11月6日閲覧。 2013年6月11日. 2015年11月5日閲覧。 宮澤エマ 2015年11月16日. ラフルアー宮澤エマオフィシャルブログ. 2015年12月11日閲覧。 2016年10月19日. 2016年10月20日閲覧。 2017年. 2017年12月17日閲覧。 2018年2月26日. 2018年4月3日閲覧。 飯塚友子 2013年10月26日. 2015年2月7日閲覧。 chiaki 2014年6月. おけぴ. 2015年2月7日閲覧。 シアターガイド 2015年2月6日. 2015年2月7日時点のよりアーカイブ。 2015年2月7日閲覧。 2015年4月12日. 2015年11月5日閲覧。 2015年12月7日閲覧。 宮澤エマ 2017年12月6日. インタビュアー:高橋晴代. 2017年12月17日閲覧。 2016年7月1日時点の [ ]よりアーカイブ。 2016年5月25日閲覧。 宮澤エマ 2018年1月6日. インタビュアー:米満ゆうこ. WEBRONZA(). 2018年2月7日閲覧。 SPICE. 2019年10月2日. 2019年11月3日閲覧。 Muscat. フジテレビ 2018年9月14日. 2020年3月13日閲覧。 2020年2月28日. 2020年3月13日閲覧。 2020年6月12日. 2020年6月21日閲覧。 映画『記憶にございません!』公式Twiter、 2019年11月3日閲覧。 プレスリリース , , 2015年11月 , の2015年12月31日時点におけるアーカイブ。 , 2017年12月17日閲覧。 2016年5月9日. の2016年6月9日時点におけるアーカイブ。 2016年5月11日閲覧。 外部リンク• Powered by Ameba• emmamiyazawa -•

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