雪国 あらすじ。 伊豆の踊子のあらすじ「無邪気な踊り子の笑顔」

川端康成の名作『雪国』を映画で。映像化を誘う魅力とは?

雪国 あらすじ

解説 川端康成の原作を「「廓」より 無法一代」の八住利雄が脚色、「猫と庄造と二人のをんな」の豊田四郎が監督した文芸篇。 撮影は「殉愛」の安本淳。 主な出演者は「あなた買います」の岸恵子、「忘却の花びら」の池部良、「世にも面白い男の一生 桂春団治」の八千草薫、「雨情」の久保明、森繁久彌。 ほかに加東大介、東野英治郎、狼花千栄子、多々良純など。 1957年製作/133分/日本 原題:Snow Country 配給:東宝 ストーリー 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった--その雪に深く埋れた名もなき温泉場に日本画家の島村は、昨年知り合った駒子が忘れられずに訪れた。 駒子は養母とその息子行男の治療費を稼ぐため芸者になっていた。 彼女の義妹葉子は島村と駒子の仲を憎しみの眼で瞶めた。 だが、二人の胸には激しい愛の炎が燃え立っていた。 二人とも、とうてい結ばれぬ恋だとは覚っていたが、年に一度の逢う瀬が、いつしか二人にこの上ない生きがいとなってしまった。 島村には東京に妻子がいた。 駒子には養うべき人々と、そのための旦那をもっていた。 駒子は島村と一緒に浮き浮きして楽しそうだった。 しかし、夜、島村と二人きりになると、駒子はままならぬ二人の運命の切なさに身もだえするのであった。 その冬島村が帰京する日駒子は駅に見送りに来ていると、葉子が行男の急変を知らせに来たが、人の死ぬのを見るのはいやと、家とは逆の方向に歩いていった。 次の年、約束より遅く島村は来た。 すでに養母も行男も死んでいなかった。 駒子は旦那とも手を切っていた。 そんな彼女に島村は、妻にも話したから一緒に東京へ行こうといった。 駒子はその彼を呆然と見つめていたが、あんたは年に一度来る人……といって突伏した。 翌晩、酔った駒子が島村の部屋に入って来た。 抱き寄せる島村に駒子は悲しく無抵抗であった。 翌朝、島村は駒子に、この雪国に来ないことがせめても君への謝罪だといった。 愛の激しさ、厳しさ、哀しさを噛みしめながら二人は別れた。 その夜、映画会をやっていた繭倉が火事になって、葉子は顔中大火傷を負った。 --島村は次の年も、その次の年も姿を見せなかった。 駒子は葉子を一生の荷物として、山袴にゴムの長靴をはいて雪の中を今日もお座敷へ急いでいた。

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5分でわかる『雪国』!あらすじから結末、作者などから魅力をネタバレ解説!

雪国 あらすじ

『雪国』の表現方法 『雪国』には、結局何が起きたのかよくわからない、と言う場面が沢山あります。 例えば島村と駒子が出会った夜、ひどく酔っ払った駒子が島村の部屋を訪ねたとき、島村と駒子は二人は男女の仲になったと先ほど書きました。 実はこれは推察にすぎません。 文章ではそういったことは一言も書かれていないのです。 文章を読んでいるだけでは、駒子がよっぱらって苦しんだり、とりとめもないおしゃべりをしたり、島村の肘にかみついたり、しているだけに見えます。 二人が抱き合う場面があったり(といってもこれもはっきりと抱き合ったと書かれているわけではなく、前後の分から想像するだけです)、駒子の島村への態度が親しすぎるのでそうではないかな? と思うだけなのです。 他にも具体的には何を意味しているのかわからない、しかしなんとなくはわかる、そんな文章が続きます。 駒子と葉子、行雄、駒子の師匠の間には複雑な人間関係があったことは、間違いありません。 しかし具体的にどうして駒子が行雄の危篤に帰ろうとしないのか? 行雄と師匠の墓参りをしないのか、については具体的には書かれていません。 また葉子がどういう立場の女性だったかについても、はっきりと書かれていず想像するしかありません。 『雪国』の登場人物 島村 東京に住む無職(高等遊民)の男、色が白くて小太り。 西洋舞踏についての著作がある。 妻帯者。 駒子 温泉街に住む若い芸者。 踊り三味線の師匠(女性)の内弟子、養女? 師匠の息子行雄の治療費を稼ぐために芸者となる。 島村に出会う前におめかけさんをやっていたことがあるようで、その「旦那」は亡くなったそうです。 それ以外にも長い付き合いの「旦那」あるいは「恋人」がいるらしいが、ぼんやりとした関係で、彼女がつらくなるほど熱く恋をしているのは島村ただ一人のようです。 行雄 駒子の踊り、三味線の師匠の息子。 葉子の恋人。 東京で勤労学生だったが、腸結核のため田舎に戻り、そのまま亡くなる。 葉子 行雄の恋人。 行雄とともに東京に行っていた。 悲しいほど美しい声の持ち主。 彼女はどういう立場の女性かは不明。 駒子とは表面的には親しげ。 さんによるからのイラスト.

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雪国のあらすじ「長いトンネルを抜けると」

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雪国の感想・考察!(ネタバレ有) 島村の言う「徒労」は、完成に時間をかけた作者の心情とリンクしている? 本文中で、島村は「徒労」という言葉をしきりに使います。 「駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島村の頭にはまた徒労という言葉が浮かんで来た。 駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落としてまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。 」 彼は駒子や葉子に対してだけでなく、自分のしていることにも「徒労」であると呟きます。 しかし、この「徒労」とは何でしょうか。 字義通り取るならば、「結果をともなわない、むなしい苦労」ということになります。 例えば、あなたがしたことが、何の結果も出さず、誰からも評価されないとしたら。 その時、「何かをしなければならない、しかしその報いは受けられない」と思うのではないでしょうか。 何も、その手の中に残らない。 言い方を変えれば、「何も完成しない」という意味とも考えられます。 完成しないものを、作り続けなければいけない。 このあたりに、『雪国』という一冊が完成するまで、試行錯誤を繰り返していた作者の姿を見るのはうがちすぎでしょうか。 島村の「徒労」と『雪国』が完成するまでの長い時間は、どこかで響き合う部分があったとしておかしくないと思います。 夢を見るには「徒労」が必要 話は変わりますが、人はなぜ「徒労」を重ねるのでしょうか。 「愛のため」などという虚しい説明は、それこそ徒労です。 本作中で島村と果てもないような逢瀬を繰り返す駒子は、それでいて許嫁への気持ちを抱えたままです。 そこに「愛」を見るのはたやすいことかもしれません。 けれども、この作品に描かれているのは「愛」という言葉では言い表せない、もっと別の何かでしょう。 その別の何か、とは 「人には徒労が必要」という主張なのかもしれません。 そうはいっても「徒労をしたいなあ」と思う方はいないでしょう。 先にも説明したように、徒労とは「結果をともなわない、むなしい苦労」ですので。 しかし、もし徒労に終わったとしても、それが「いやなこと」ではなかったとしたらどうでしょうか? 人は、つねに自分という枠組みから逸脱したいと考えるものです。 そのとき、自分のなかに、自分だけの世界を作るのではないでしょうか。 あるときは「物語」を通じて、またあるときは「ゲーム」を通じて。 場合によっては、空想上の「国」を作り上げることもあるでしょう。 しかしそれは「今、ここで生きている自分」ではないわけですから、結果として「徒労」と言ってしまうこともできます。 自分がどんなに素晴らしい物語を生きたとしても、ゲームの主人公として世界を魔王から救ったとしても、今を生きる私は変わらないわけです。 それでも、人は「徒労」を重ねます。 東京でだらだらと暮らす島村にとって、〈雪国〉は、夢のような〈国〉でした。 しかし、夢の中で世界を作り上げたとしても、自分は変わりません。 ならば、 島村にとっての〈雪国〉は、「徒労」の国だとも言えるのではないでしょうか。 彼と同様に、その国の住人である駒子や葉子は、常に「徒労」を抱えていなければならなくなります。 「理想郷なのに徒労がある」のではありません。 「理想郷だからこそ徒労がある」のだと言えます。 夢を見る徒労。 その意味で、「雪国」は「夢の国」でもあるのです。 葉子と駒子の鏡写しぶりは、「小説」の本質を突いている? 島村が葉子を目に留めるのは、雪国へ向かう列車のなか。 汽車の窓に映る娘と男を彼は見ています。 「それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。 不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。 鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。 」 汽車の窓は「鏡」という形で表現されます。 (「実際に車窓がこのように反射するのか」という点から「この箇所の情景は現実で再現可能なのか」という議論もありますが) 川端はこのシーンを何度も書き直すなど力を入れて描写しましたが、ここで重要なのは 「鏡をモチーフに使っていた」ということ。 葉子だけでなく、駒子もまた、作中で鏡に写った姿が強く描写されています。 それも「景色」と同化するようにして。 この作品において、「鏡」は私たちがイメージするような「モノをありのままに写すもの」ではなく、「モノを二重写しにするもの」として役割づけられています。 少しイメージしにくいかもしれませんが、鏡に写ったものは「そのもの自体」ではありません。 「わたし」が鏡に写るとして、写った顔が「わたし」そのものではないと、「わたし」自身が一番よく知っています。 言うまでもなく、「わたし」は鏡の前にいるのであり、鏡に写った姿そのものではないのですから。 その意味で、鏡とは「これは、わたしではない」と思い知らせてくれる装置とも言えましょう。 「〜ではない」と言うことによって、「わたし」とは何かを知ってゆくのです。 したがって、鏡に写る葉子は葉子ではないし、駒子は駒子ではありません。 …という点を踏まえれば、 「駒子は葉子でもあり、葉子は駒子でもある」と言うことは可能でしょうか。 駒子と葉子は言うまでもなく別人ですが、鏡写しの関係にあれば話は別です。 事実、小説の人物構造を読み解いていくと、駒子と葉子は向かい合う関係にあると考えられます。 行男という一人の男を挟んで 「どうやら駒子と葉子とで三角関係にあったらしい」とほのめかされているから。 加えて、「ほのめかす」という手法で表現されていることが、より一層駒子と葉子の鏡写しっぷりを表現しているともいえます。 鏡とは、「鏡そのものを写す」ものではありません。 その特質が、この小説のしくみそのものと言えるでしょう。 鏡は、「何かを写すこと」によってしか鏡でありえない。 何も写されていない鏡は、何も二重写しにすることはできません。 同時に、本作そのものである「小説」も、何かを写すことによってしか小説にはなり得ません。 ゼロから物語を作ることはできませんからね。 駒子と葉子は、鏡に写りあう関係です。 その両者は、ある意味で 「小説」というジャンルの本質を突いているのかもしれません。 川端が執筆にこれほど時間をかけたのも、本作が「小説そのもの」をえぐる小説であったからかも、と考えることもできます。 しかし、駒子ー葉子の鏡写しの関係にヒビを入れるのは、島村という 「異物」です。 小説が物語として動き始めるのは、「鏡で完結してしまった世界にヒビが入るとき」。 つまり、起承転結でいうところの「起」にあたる出来事が起こったとき、ともいえます。 そう考えたとき、島村の役目とは、鏡に「入る」ことであります。 「二重写し」になっている鏡を見ることで「それが鏡が純粋な鏡ではない」と気づきます。 その気づきを与えるのが、島村という人物なのです。 これが、『雪国』と言う不思議な小説を成り立たせる鍵であったのかもしれません。 駒子という女性の「変身」と「諦め」を描く物語 ゆるやかな小説のなかで、駒子もゆっくりと変わってゆきます。 身体的にも、精神的にも変化する描写がなされています。 そもそも、芸者に「なる」と言うこと自体、ひとりの人間の変化を表したことであるでしょう。 その駒子の変化を、象徴的にあらわしたシーンがあります。 島村が、駒子の住んでいる部屋を訪ねるところです。 「土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。 それは本当に梯子であった。 上の部屋もほんとうに屋根裏であった。 」 「お蚕さまの部屋だったのよ。 驚いたでしょう。 」 (中略) 蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。 」 蚕(カイコ)の部屋に住んでいる駒子。 ここで、駒子と蚕が重ね合わされていることは間違いありません。 では、蚕とは何であったのか。 蚕はご存知の通り、糸づくりには欠かせない昆虫です。 幼生の頃からマユを吐き、そのなかでゆっくりと成虫に変化してゆきます。 (成虫になる時点で、マユは人にはぎ取られてしまうわけですが) つまり、蚕とは 「変身してゆく虫」なのです。 駒子が蚕の部屋に住んでいること。 はっきり「蚕のように」と書かれていること。 その辺りを考えると、 駒子の変身が象徴的に描写されているシーンだと言えます。 では、駒子は「何に」なるのか。 先ほど見たように、駒子と葉子は鏡写しの関係にありました。 それならば、駒子は葉子になるのか。 おそらく、そうではありません。 小説の最後、火事場で駒子は葉子を抱きとめます。 これは駒子が葉子と一体化したのではなく、駒子は葉子に「なれなかった」情景だとしか読めません。 駒子は、葉子になることはできなかった。 というより、駒子ー葉子は、鏡の関係にはじめからありました。 人間は、鏡に写った姿そのものになることはできません。 先ほども見たとおり、鏡に写った顔を「これはわたしではない」と思うことによって、人は自分が何者であるか知ることができるのですから。 駒子は、葉子が「自分ではない」ということを誰よりもよく知っています。 だからこそ、駒子は葉子に「なろうとする」のです。 駒子が葉子に対する複雑な感情。 それは、 「葉子になろうとするけれど、なることはできない」と言うジレンマによるものと読むことができます。 まさしく、それは「徒労」であるのです。 駒子の「変身」は、変身が完成しません。 みずからも、それが不可能と知りつつも、変わらずにはいられないこと。 そして、その変身が挫折してしまうこと。 それは、幼生から成虫に変身するさなかで、マユを奪われてしまう「蚕」そのものなのです。 小説のクライマックス、火事のシーンで描かれる、 「島村はまた胸が顫えた。 一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。 なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。 」 という一文にある「苦痛と悲哀」は、駒子が葉子との一体化を果たすことができなかったことに対するかなしみの感情なのかもしれません。 つまり、クライマックスで描かれるこの火事は、破局を意味しているのです。 駒子ー葉子の鏡写しの関係は、ここに来て決定的に壊れるでしょう。 だから、駒子は何かに「なる」のではありません。 何かに「なれない」ために「変身」を続ける。 それがこの『雪国』という小説なのです。

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