市川いっかさつがい 長女。 芥川龍之介 宇野浩二 上巻 (一)~(十四) 附やぶちゃん注

市川一家4人殺人事件の当時19歳の関光彦の死刑が執行 ネット民「このクズの死刑は当然だね」

市川いっかさつがい 長女

錦糸町、某タワーマンションに住んでいる者ですが、案外と住みやすいとこですよ。 よく治安の話とか出てきますけど、錦糸町の繁華街の中に住んでいるのであれば どうだか分かりませんが、少なくとも太平や石原、本所に関してはそんなに 危惧するほどではないと思います。 墨田区が難しいのは、半蔵門線があるものの、両国と向島・墨田方面のアクセスが 悪いという点でしょうか。 でも、必要ありませんけどね。 そろと、同じ墨田区内でも錦糸町周辺・両国周辺・曳舟周辺・向島周辺でかなり違います。 錦糸町や両国に比べて、曳舟や向島ではまだまだ木造家屋も多く、よくも悪くも密集して います。 また、マンション類も少ないです。 とは言っても、曳舟周辺は再開発をしていますが。 また、押上ではスカイツリーの建設が来月から始まるので、完成すればかなり変わると思います し、噂ではありますが押上〜錦糸町&両国の無料シャトルバスも運行されるようになるみたい なので、かなり賑わうと思いますよ。 さんが書かれている子育てに関してですが、区内でも色々な意味で安定しているのは両国周辺 でしょうか。 両国小学校は区内でも1番人気ですし、比較的墨田区内でも富裕層が多い地区とも 耳にします。 総じて悪くはないと思います。 でも文京区や世田谷区とかとはくれぐれも比べぬように。 日本のシンボル「富士山」を描いた江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎。 その生誕地・墨田区で、 約20年前から塩漬けになっていたプロジェクトが動き始めたのは、タワー誘致が決まった 2006年3月だった。 「北斎館」(仮称)建設構想。 区が所蔵する約1400点の北斎作品などを展示する美術館だ。 その作品の価値は購入価格にして約15億円に上るが、ずっとお蔵入りとなっていた。 北斎は海外での人気が圧倒的に高い。 タワーに来る外国人客を美術館に呼び込み、地元商店の 包装紙を北斎の浮世絵で統一するなど『北斎の街』をアピールできれば、浅草に劣らない 国際観光都市になる。 開館はタワーが完成する11年度に合わせた。 学術目的に限って使用を認めていた北斎作品の 画像データも商業利用できるようにした。 建設地は国技館などがある両国寄りの地点。 タワーからの観光客を区内で周遊させようという戦略だ。 区は、タワーの下を東西に流れる北十間川も整備する。 コンクリートの護岸に挟まれた殺風景な川に船着き場や遊歩道をつくり、和船などの観光船を 運航させて「東洋のベネチア」を目指す。 段階的な整備ということで、豊洲〜住吉が動き始めそうです。 (2008年6月27日 日刊建設工業新聞) 東京・江東区は、区内を通る地下鉄有楽町線を豊洲駅から北側に延ばして半蔵門線の住吉駅に接続 させる延伸計画について、昨年度に行った整備効果の調査検討結果をまとめた。 今回の調査では、豊洲〜住吉駅間だけを整備した場合と、有楽町線の北側を走る東西線の南砂町駅 付近から有楽町線豊洲駅まで連絡線を併せて新設した場合を想定し、効果や整備コストなどを 検証。 その結果、連絡線を整備すると建設コストがかさんで採算が悪化するため、豊洲〜住吉駅間 の単独整備が望ましいとした。 調査結果によると、現在ピーク時の混雑率が199%の東西線最混雑区間(門前仲町〜茅場町駅) が、豊洲〜住吉駅間を単独整備した場合は183%に緩和される。 さらに連絡線を併せて整備した 場合は175%、直通運転した場合は174%と単独整備を上回る混雑緩和効果が見込めると試算した。 しかし、整備費用なども考慮にいれて各パターンを比較すると、費用便益比や採算性の面で連絡線 の整備には課題が残るとして、豊洲〜住吉駅間の単独整備を早期に実現すべきだとした。 有楽町線の延伸は、豊洲〜住吉駅から半蔵門線の既開通区間(住吉〜押上駅間)を通り、 押上〜四ツ木〜JR亀有駅までが構想されている。 併せて、半蔵門線も押上〜四ツ木〜JR松戸 までの延伸構想がある。 江東区のほか墨田区、葛飾区、千葉県松戸市、東京都、千葉県で構成する「地下鉄8・11号線 促進連絡協議会」は、これらの延伸構想について段階的な整備のあり方などを検討。 来月中旬に開く総会で段階整備について合意が得られれば、早期事業化に向けた作業に着手する考えだ。 東京スカイツリー 14日着工 2008年7月9日 朝刊 世界トップ級の六百十メートルの高さのタワー「東京スカイツリー」(東京都墨田区)の着工日が十四日に決まった。 事業会社の東武タワースカイツリーが八日、明らかにした。 当初は今月一日にも着工の予定だったが、都から建築確認申請が下りたのが四日になったことなどから、かねて起工式典を予定していた十四日に合わせた。 スカイツリーは地上デジタル放送への対応などを目的とした電波塔で、地上四百五十メートル地点に展望台もできる。 事業費六百億円。 高層ビルを含め、周辺の街区も同時に整備され、オフィスや店舗、宿泊施設などが入居予定。 スカイツリーを含む街区全体の面積は約三・七ヘクタール。 墨田区の試算では、スカイツリーへの年間来場者数は約五百五十万人、街区全体では約二千万人。 東京スカイツリー Tokyo Sky Tree 610mの天空物語! 東京スカイツリー Tokyo Sky Tree 610mの天空物語! スカイツリーToday 東京スカイツリー スカイツリー。 天空に向かって未来に向かって伸びゆく美しいイメージ! 歴史や過去よりも、未来の天空に向かって突き抜ける名称で良かった! 超高層ビルを「スカイスクレイパー」(天空を突く)と呼ぶように、 「スカイツリー」は天空と木のイメージを融合させ、趣と躍動感を表す、 世界に誇る素晴らしい名称です。 スカイツリーの素晴らしいところは、「スカイ」天空に伸びゆく未来志向のイメージと、 あえて「タワー」を名乗らず、ツリーと称した所にある。 タワーなら人工的なにおいがするが、ツリーなら成長過程、さらに天空に 伸び続けていきそうな、生きものの香りがする。 天空に向かって、どこまでも伸びていきそうな、そんな果てしない夢がある。 東京都墨田区で平成24年春の開業を目指す東京スカイツリーの地下には、タワーの展望台や 足元の商業ビルに降った雨水を一時的に貯める施設ができる。 集まった雨水はトイレの洗浄水や 屋上緑地の散水に利用される計画。 水害対策とともに環境対策にも貢献しようという狙いだ。 墨田区では家庭向けの小型雨水タンクの設置に助成金を出している。 7月には敷地面積500 平方メートル以上の集合住宅を対象に、雨水利用を義務づける条例も制定。 雨水利用の普及を目指す。 タンクは家庭用 でも200〜250リットルの雨水を貯められ、区全体で1万2600トンの雨水がためられる計算だ。 今の東京タワーよりよっぽど立地は良い。 古くからの江戸の市街地にも近い。 国際観光都市、浅草からも徒歩15分以内で散歩がてらで行ける! こんなスーパー凄い立地に建てられるのに、なぜか辺鄙なところだと 思われているのが不思議だ。 半蔵門線で錦糸町からも一駅。 三越前や大手町、渋谷からも乗り換えなし! 都営浅草線なら日本橋や東京駅(宝町)や銀座や新橋や浜町町(大門)からも 一本で行ける。 そして何より民報各局がスポンサーでもある。 想像を絶する観光名所になるのは間違いない。 下町の底力に驚くことだろう!!!• 区は、現在、区立観光案内所として雷門前で浅草文化観光センターを運営しています。 本施設は、昭和26年に銀行として建設されたものを、昭和58年に区が土地・建物を購入し、昭和60年4月に観光案内所としてオープンしました。 建物としては築56年以上が経過し、老朽化が著しく、バリアフリー上の問題があることなど利用客にとってより一層の利便性向上が望まれています。 さらに、平成23年冬には、隅田川を挟んだ墨田区押上・業平橋地区に、高さ610メートルの新タワーが竣工し、平成24年春に開業する予定です。 事業者の試算によると、開業初年度には約540万人、開業後30年で平均約270万人の来場を見込んでおり、隅田川を挟んだ台東区へのシャワー効果が期待できます。 この新タワーの開業に合わせて、台東区も観光客の受け入れ体制をさらに整える必要があります。 これらのことから、区は浅草文化観光センターを多くの観光客に楽しく便利に快適に利用してもらうため、利便性の向上を図り、建築物としても魅力のある地域のランドマークとして、平成23年度の開設を目指し、建て替え計画を進めています。 山谷地区 変わる簡易宿泊所 外国人、女性…客層幅広く 山谷の外国人宿泊者数を調査した。 外国人宿泊者数が多い11宿泊所を対象に、各月1日時点の数を集計した。 最も多かったのはヨーロッパ系の計921人で、外国人宿泊者のうち43%を占めた。 次いでアジア系が767人で36%だった。 今年から、荒川区は区内の簡易宿泊所に対し、外国人旅行者向けのパンフレットやホームページの作成費用の一部を補助する事業を始めた。 山谷の新しい可能性を生かした地域振興を進める自治体もある。 山谷地区の簡易宿泊施設で作る城北旅館組合のホームページには、女性からのアクセスが多いという。 帰山さんは「男性はカプセルホテルやサウナで泊まれるが、女性が安く泊まるところが少ない」と、その理由を説明してくれた。 そうだね。 錦糸町はその為というわけではなかったろうがスカイツリーの導線となる北口の開発がめざましかった。 アルカタワーズにオリナス、錦糸公園、体育館と。 そしてその隣となる亀戸は住宅地として南口を中心に開発を推し進めてきた。 サンストリートはまさにファミリー向けのモールだし、錦糸町や砂町へといった自転車利用がさかんな地域なだけに自転車道路も設けている。 都心への近さもさることながら 公園の数、公共施設の数、東西の鉄道、南北のバスの充実ぶりは素晴らしい。 堅実なサラリーマン世帯に最適な街が亀戸ですね。 全てが近場で済んでしまう。 錦糸町とともに発展していくことで住宅地でありながら利便性の高い生活ができるので無理に発展させる必要もなくこれからも住みやすい街であり続けられるでしょう。 だからこそ錦糸町にも大きく期待しています。 錦糸町亀戸はかなりバランスのとれた副都心ではないでしょうか。 スカイツリーの年間予想来場者数は552万人で、飲食やショッピングなどを周辺エリアで楽しむ来場者も入れると、年間で延べ2096万人が訪れると予想している。 あくまでもシュミレーションだから、当てにはならないと思うけど、今の東京タワーが年間来場者数が272万人(2005年度)だから、参考にはなるはず。 少なくとも土日祝日の四つ目通りとかは渋滞するだろうし、周辺に駐車場は少ないから路駐するクルマも増えるだろうね。 因みに…オリナスがオープン前に予想していた年間来場者数は1500万人だけれど、絶対にそんなに来ていないよな。 オリナスにはついては色々と思うこともあるけど、スレ違いなんで、あえて書きません。 墨田区の災害等の歴史 湿地帯の南部開発は、明暦3年(1657年)の振袖火事がきっかけでした。 江戸はほぼ全滅、10万人余りの命が奪われ、幕府は牛嶋南部に焼死者を葬り、回向院を建てています。 そして防火対策中心の都市復興に着手し、万治2年(1659年)には隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や火除地を設けました。 この防火計画に従って、武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区南部すなわち本所です。 本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画整理を進めた結果、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部となりました。 大正12年(1923年)の関東大震災で、本所区は9割余りが焼失し、焼死者4万8千人と、東京市全体の8割強に達する惨状となりました。 やがて復興し、都市化が進んだ北部には、昭和7年(1932年)、向島区が成立しましたが、第2次世界大戦の戦火で再びすみだの7割が廃きょと化し、6万3千人の死傷者と30万人近い罹災者を出しています。 一口に墨田区といっても、安全な場所や危険な場所があります. 安全な所 町名 町丁目 建物倒壊危険度 火災危険度 総合危険度 ランク 順位 ランク 順位 ランク 順位 堤通 2丁目 1 4782 1 4595 1 4720 横網 1丁目 1 3982 1 4416 1 4248 東墨田 1丁目 2 2237 1 3642 1 3069 錦糸 4丁目 2 1930 1 3894 1 3040 江東橋 4丁目 2 1558 1 3519 2 2652 江東橋 3丁目 2 1563 1 3447 2 2618 錦糸 1丁目 2 1434 1 3343 2 2490 横川 5丁目 2 1598 1 3079 2 2425 江東橋 5丁目 3 1058 1 3406 2 2315 横川 1丁目 2 1273 1 3135 2 2282 東墨田 3丁目 2 1392 1 2923 2 2233 千歳 1丁目 3 782 1 3520 2 2222 横網 2丁目 2 1415 1 2801 2 2161 江東橋 1丁目 3 1070 1 3131 2 2150 両国 4丁目 3 558 1 3602 2 2126 危険な所 町名 町丁目 建物倒壊危険度 火災危険度 総合危険度 ランク 順位 ランク 順位 ランク 順位 墨田 3丁目 5 3 5 21 5 1 京島 3丁目 5 10 5 26 5 7 東向島 1丁目 5 13 5 38 5 10 東向島 5丁目 5 21 5 45 5 12 京島 2丁目 5 1 5 81 5 16 八広 3丁目 5 17 5 74 5 19 押上 3丁目 5 22 4 127 5 31 八広 4丁目 5 31 4 144 5 38 東向島 6丁目 5 39 4 142 5 40 墨田 4丁目 5 51 4 166 5 47 八広 2丁目 5 59 4 174 5 53 八広 1丁目 5 37 4 229 5 62 立花 2丁目 5 35 4 245 5 67 向島 4丁目 5 62 4 244 5 77• セーヌ川に北斎・写楽… 交流150年記念の映像ショー 【パリ=国末憲人】日仏交流150周年を記念して、パリのセーヌ川周辺に日本の絵画作品などを投射して和風に染める大規模な光のショーが25日、催された。 照明デザイナー石井幹子さんと長女のリーサ明理さんが企画した例のない試みだ。 航行する船から光を発し、パリ中心部の河岸の壁や25の橋、川べりに立つオルセー美術館や自由の女神像などの建造物、モニュメントを次々とライトアップした。 日の丸や紅葉、竜が走る姿など、日本の情景を想起させるデザインと色。 岸辺で見守る市民から拍手がわいた。 北斎、写楽、円山応挙といった日本が誇る絵画の映像もノートルダム寺院近くの河岸に順番に映し出された。 午後8時から4時間近くにわたるスペクタクルとなった。 芸者遊びで街おこし 向島 「華のお座敷」格安披露 あでやかな歌と踊りをご堪能下さい——。 都内最大の花街・墨田区向島の芸者衆が25日、向嶋墨堤組合で歌と踊り、粋な芸を格安で披露する「華のお座敷」を開く。 今年3月の初公演が好評で、アンコールに応えた。 近くに東京スカイツリーが完成する3年後を見据え、お座敷遊びに縁のない人にも花街に足を運んでもらい、街を盛り上げようという試みだ。 浅草寺「大開帳」に合わせ 台東区の浅草寺で、慈覚大師が彫ったお前立本尊を公開する「大開帳」が15日から行われるのにあわせ、浅草の街をロンドン名物の真っ赤な2階建てバスが走ることになった。 40年以上前に作られた車両。 1から2008. 2 万人 2位 台東区 78. 7 3位 渋谷区 68. 2 4位 新宿区 65. 4 5位 足立区 63. 2 6位 江戸川区 56. 9 7位 荒川区 55. 5 8位 中野区 54. 6 9位 板橋区 54. 4 巨大繁華街が存在しない 10位 墨田区 53. 11位 葛飾区 51. 8 12位 練馬区 51. 4 13位 北区 50. 8 14位 杉並区 48. 2 15位 江東区 46. 2 16位 大田区 46. 1 17位 世田谷区 43. 6 18位 目黒区 38. 0 19位 品川区 38. 0 20位 港区 33. 5 21位 千代田区 32. 5 22位 中央区 31. 6 23位 文京区 29. 墨田区の両国で戦中まで行われていた菊人形展が、11、12の両日、回向院から国技館へと続く国技館通りで、65年ぶりに復活した。 両国の菊人形展は、回向院境内に旧国技館が完成したのを記念して、1909年に始まった。 以来、東京の風物詩として有名になったが、国技館が軍隊に徴用されたため、43年を最後に途絶えていた。 今回、両国橋の架橋350年を記念したイベントの一環として、復活した。 回向院に墓があるねずみ小僧を題材に、越後屋から千両箱を盗んだねずみ小僧を、黄色や赤の菊の花で彩られた捕り手が追いかける様子が、再現されている。 夫婦で訪れた梅木佳子さん(59)は「手作りの温かさが伝わってきた。 心があらわれるようです」と喜んでいた。 (2008年10月13日 読売新聞)• 山谷のにぎわいも今は昔、高齢化が進んで近いうちに消滅しそうです。 現在の山谷は、渋谷、新宿、池袋界隈でしょう。 現代の都会の日雇いは飲食店を中心としたサービス業に変わってしまいました。 数多くの無年金の若者が将来ホームレス化しないかと心配です。 すでに40代の人もいます。 山谷今昔 福祉の街 高齢化した元労働者ら4500人が生活 10月13日8時3分配信 産経新聞 石原慎太郎・東京都知事の「1泊200〜300円」発言でにわかに注目を浴びた東京・山谷の簡易宿泊所街。 山谷地区がある台東区は「イメージダウンだ」と抗議文を提出、旅館には「ネットカフェより安い宿があるってホントですか」といった問い合わせが相次ぐなど、波紋が広がった。 日雇い労働者の街というイメージが強かった山谷だが、その実像は様変わりしている。 山谷は、台東区と荒川区にまたがるわずか1.66平方キロを指す。 都福祉保健局の昨年10月の調査によると、山谷の簡易宿泊所で暮らす約4500人のうち64%が生活保護を受給している。 99.5%は男性で平均年齢63.5歳。 一方、日雇労働被保険者手帳(白手帳)を持っているのは17%に過ぎない。 もはや「労働者の街」ではなく、高齢化した元労働者たちが暮らす「福祉の街」になっている。 平成12年ごろから、旅館主たちの間で「福祉宿では先が見えている」と新規客の開拓を模索する動きが出てきた。 約160軒の簡易宿泊所が加盟する城北旅館組合の広報担当副組合長、帰山哲男さん(57)は「安宿を求める欧米人バックパッカーや出張のサラリーマン向けに個室に改装し、インターネットを見られるようにしたり、ホームページを開設した」と話す。 こうした流れは14年のサッカーワールドカップ(W杯)日韓大会で外国人サポーターが大挙して宿泊したのを機に定着。 毎年8、12月には東京ビッグサイト(江東区)で開かれる「コミックマーケット(コミケ)」の来場者らも押し寄せる。 外国人向けの1泊2700円の2畳半の個室に泊まっていたフランス人のゲーム販売店員、オスカル・ルメアさん(21)は「アキハバラも近いし快適。 でも、日本のような経済大国でネットカフェやビデオ店に寝泊まりする人が多いことに驚いた」と語った。 ゼロゼロ物件で提訴 家賃滞納でカギ交換や違約金 10月8日14時34分配信 産経新聞 敷金・礼金なしでアパートやマンションに入居できることで若者や低所得者層に人気の「ゼロゼロ物件」をめぐり、家賃の支払いが数日遅れただけで部屋のカギを交換されたり、法外な違約金を取られたとして、5人の居住者が8日、不動産会社「スマイルサービス」(東京都新宿区)を相手取り、慰謝料などとして計約1186万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。 全国青年大集会 派遣の若者ら4600人…雇用の現状訴え 10月5日21時35分配信 毎日新聞 非正規雇用が増える中、生活に困窮する若者が増えている現状を知ってもらおうと、「全国青年大集会」が5日、東京都新宿区の明治公園で開かれた。 派遣労働で働く若者らが加入する「首都圏青年ユニオン」などの労働組合や大学自治会などが主催。 若者約4600人(主催者発表)が参加し、「若者にまともに生活できる仕事を」と訴えた。 実家が墨田区で7年半前に本所吾妻橋のLマンションを分譲で購入したので生まれた頃から墨田区在住です。 駅からも近く日当たりも良くそれ程大規模ではないので住みやすいかなと思い購入しました。 墨田区の本所地区は住みやすいと思いますし数年後の東京タワーの影響で街の活性化も進むでしょうと。 しかし…入居7年目で隣の部屋が2LDKで子供5人! 入居後3年ごとに出て来るので高校生から中学生小学生未就学児乳幼児までバラエティ豊富で夏休みや連休は最悪です。 今の少子化の時代に子供をたくさん産むのは偉いと思いますし宗教上の理由から避妊ができない場合あるので非難はできませんが場所を考えて生んで欲しいと思うことしきり。 ちなみに友達は米国人と結婚し5人子供を産みましたがのびのびと育てたいと安孫子方面に200平米の庭付き一戸建てを建てました。 新築の分譲は隣りの部屋をどんな人種の人間が購入するのか予測不可なので一種の賭けだなと今更ながら実感しLマンションもこのレベルなのかと少々…。 平成24年春の開業に向けて建設が進む新タワー「東京スカイツリー」(東京都墨田区)で、四季の移ろい、江戸の情緒を意識しながら、塔の周辺を含めた空間に、和風のライトアップを行う構想が動き始めている。 新タワーは自立型の鉄塔では世界で最も高い610メートル。 ライトアップは、新進気鋭の照明デザイナー、戸恒(とつね)浩人(ひろひと)さん(33)がプランを担当する。 計画では、タワー全体の形をくっきりと照らすのではなく、夜空に溶けこむように陰影を強調しながら光を照射する。 巨大な樹木がそびえているイメージにしたいという。 使用する照明装置は全体で約1000基。 特注品で省エネを意識し、発光ダイオード(LED)も積極的に採用する。 周辺への光の漏れを軽減させる仕掛けも使う。 「陰と陽、相反するものを組み合わせる美しさ、日本人独特の光に対する感性、そういったものを世界に発信したい」と戸恒さん。 斬新なアイデアは、江戸の祭り、娯楽などをテーマにした演出と、四季の変化を表現すること。 春は桜の花が咲くイメージ、夏は隅田川の花火、七夕など。 たとえば着色フィルターをライトに装着して光を当て、光源は点滅させながら、桜の花びらの模様を動かす。 「照明は目にして5秒間で興味を引くことが勝負。 短い時間で花がちらつき、風で舞うのが分かるようにうまく見せたい」。 それで桜の名所、隅田公園の開花状況を表現したり、秋には紅葉の様子を紹介したり。 中秋の名月では照明を暗くして月が浮き立つようにしたり、雲が低いときには光で雲に模様を描き、2カ所の展望台から観察できるプランもあるという。 タワーの建設が約3分の1の高さまで進む来年夏にも照明実験に取りかかり、プランが実行可能かを検証する。 戸恒さんは「タワーを大人も子供も楽しめるオモチャのような存在にしたい」と張り切っている。 平成24年春の開業に向けて建設が進む新タワー「東京スカイツリー」(東京都墨田区)で、四季の移ろい、江戸の情緒を意識しながら、塔の周辺を含めた空間に、和風のライトアップを行う構想が動き始めている。 新タワーは自立型の鉄塔では世界で最も高い610メートル。 ライトアップは、新進気鋭の照明デザイナー、戸恒(とつね)浩人(ひろひと)さん(33)がプランを担当する。 計画では、タワー全体の形をくっきりと照らすのではなく、夜空に溶けこむように陰影を強調しながら光を照射する。 巨大な樹木がそびえているイメージにしたいという。 使用する照明装置は全体で約1000基。 特注品で省エネを意識し、発光ダイオード(LED)も積極的に採用する。 周辺への光の漏れを軽減させる仕掛けも使う。 「陰と陽、相反するものを組み合わせる美しさ、日本人独特の光に対する感性、そういったものを世界に発信したい」と戸恒さん。 斬新なアイデアは、江戸の祭り、娯楽などをテーマにした演出と、四季の変化を表現すること。 春は桜の花が咲くイメージ、夏は隅田川の花火、七夕など。 たとえば着色フィルターをライトに装着して光を当て、光源は点滅させながら、桜の花びらの模様を動かす。 「照明は目にして5秒間で興味を引くことが勝負。 短い時間で花がちらつき、風で舞うのが分かるようにうまく見せたい」。 それで桜の名所、隅田公園の開花状況を表現したり、秋には紅葉の様子を紹介したり。 中秋の名月では照明を暗くして月が浮き立つようにしたり、雲が低いときには光で雲に模様を描き、2カ所の展望台から観察できるプランもあるという。 タワーの建設が約3分の1の高さまで進む来年夏にも照明実験に取りかかり、プランが実行可能かを検証する。 戸恒さんは「タワーを大人も子供も楽しめるオモチャのような存在にしたい」と張り切っている。 墨田区:東京マラソン招致へ 「スカイツリーの足元走って」 /東京 2月10日11時1分配信 毎日新聞 墨田区は、高さ世界一に向けて建設中の新タワー「東京スカイツリー」を国際的にPRするため、東京マラソンのコースを招致することを決めた。 スカイツリーが開業する12年に合わせた招致を目標に、来年度予算に活動費80万円を計上した。 東京マラソンは、スカイツリーの建設地(墨田区押上1)から隅田川をはさんですぐの台東区浅草の雷門で折り返してしまう。 このため墨田区は、従来のコースを一部変更し、ランナーに言問橋や吾妻橋などを渡ってスカイスリーの足元を走ってもらうことでその存在を世界にアピールしたい考え。 既に住民が同様の活動を始めており、区は住民とともに招致活動を展開する計画だ。 2月10日9時55分配信 日刊スポーツ J2東京Vの広報担当は9日、クラブの経営権を日本テレビから株式会社協同(東京・墨田区、斉藤守弘社長)へ譲渡する交渉について「現段階で決まっていることはなく申し上げることはありません。 今後、発表できるときがくれば発表致します」というクラブの見解を出した。 かねて経営パートナーを探していたが、複数あった交渉先は事実上で協同に一本化され、大詰めの段階を迎えている。 協同がクラブ株式の約80%、日本テレビは約20%を保持する見込み。 早ければ来週にも合意に至り、3月1日から新体制となる。 協同の斉藤浩史専務は読売クラブ出身で、清水でもプレーした元Jリーガー。 OBのつながりから交渉が始まった。 すでに2月から協同の意向を受けた職員がクラブへ派遣されるなど、具体的な準備も進んでいる。 東京Vは元日本代表MF中田英寿氏が所属するサニーサイドアップとも交渉していたが、スムーズに進まなかった。 墨田区は、区内で建設中の東京スカイツリーの開業に合わせて導入を検討する区内循環バスの需要を探るアンケートの調査結果を公表した。 その結果を基にした報告書では、バスの運行間隔を十五分以内とし、短距離の循環ルートを基本とするなど、検討の方向性を提言した。 アンケートは昨年秋に実施。 全国からの観光客を意識したWEBアンケートや主要観光施設での観光客からの聞き取り、無作為の区民アンケートを組み合わせて計約三千五百人から回答を得た。 報告書によると、観光客の中でスカイツリーを訪れる際にバスの利用意向を示したのは全体の8%。 また、スカイツリー来訪者が周遊観光する際にバスの利用意向を示した割合は17%だった。 さらにアンケートでは望ましいサービスや運行ルートについて調査。 七割近くの人が運行間隔は十五分以内で運賃は二百円が限度とした。 また、観光施設以外に区民のための生活便利施設にもバス停を設置する需要が多いことも分かった。 今回のアンケートを基に、区は運行ルートのあり方について試算。 さらに浅草や亀戸など周辺観光地との連携の重要性も指摘しており、今後は隣接区との調整も課題となる。 区は八日発表した新年度予算案に事業計画費として約千三百万円を計上した。 区新タワー調整課では「新年度中にルート計画を示したい」などとしている。 「東京スカイツリー」、高さ世界一に 東武鉄道、24メートル延ばす 東武鉄道は16日、東京都墨田区に建設中の新電波塔「東京スカイツリー」の高さを従来計画より約24メートル延長し、634メートルに変更すると発表した。 従来計画の610メートルは中国・広州に建設中の新電波塔の高さとほぼ同じで、両タワーが高さ世界第1位で並ぶ見通しだった。 単独で高さ世界1位にするため、新電波塔の一番上にあるアンテナなどを取り付ける突起部分を伸ばす。 新電波塔は東京タワーの後継で、地上デジタル放送の電波塔として2012年春に開業する予定。 634メートルは「むさし」と読め、「武蔵の国(今の東京、埼玉、神奈川の一部)」の語呂合わせも意識し、覚えやすくする狙いもあるという。 担当者は「世界一の高さとなることで日本の持つ技術力の高さを見せつけたい」と話している。 新電波塔はもともと、高さ約640メートルでも耐えられるように設計・建設していた。 今回の高さ変更でも約650億円の総事業費、2012年春の開業予定は変わらない。 21:00• ロッテホテルが日本進出 「コアラのマーチ」の部屋も ロッテは5日、東京都墨田区で今年4月6日に「ロッテシティホテル錦糸町」をオープンすると発表した。 同社は韓国のグループ企業がソウルで高級ホテルを運営しているが、日本でのホテル事業進出は初めて。 菓子の主力商品「コアラのマーチ」のキャラクターをあしらった客室を設けるなど独自性を打ち出し、観光客やビジネス客の取り込みを図る。 ロッテシティホテル錦糸町は、JR・東京メトロの錦糸町駅前に建設。 地上19階、地下2階建てで、9タイプ、213の客室を備える。 都心のビジネス需要のほかに、東京ディズニーリゾート(千葉県浦安市)や、墨田区内に建設中の電波塔「東京スカイツリー」などを訪れる観光客もターゲットとする ホテルのコンセプトは菓子メーカーらしく「Tokyo Sweet Stay」。 コアラのマーチの客室(2室)をはじめ、チョコレートをテーマにしたカフェレストラン「シャルロッテ チョコレート ファクトリー」を設け、「甘く心地よい楽しさ、おいしさ、やすらぎを提供する」(ロッテ)としている。 また、館内には韓流スターのペ・ヨンジュンさんが手がける韓国料理レストランの新店舗「高矢禮 火(ごしれ・ふぁ)」もオープンする。 東京のホテル市場はここ数年、外資系の高級ホテルの進出が相次いだが、金融危機にともなう不況で利用客が減少し、苦戦を強いられている。 ロッテシティホテル錦糸町は、ロッテホテルソウルの高級イメージやサービスのノウハウを取り入れつつ、客室料金を1名1万3000円台(税込み)からと低めに設定し、東京の下町で新たな需要を掘り起こしていく戦略だ。 この前押上に行ってみましたが、ほんとにツリー半分近く出来上がってもその周りは落ち着いたもんで・・・ 本当に賑やかできれいな街並みにかわるのか???という疑念すら感じる下町っぷりでした。 (想像するのが大変でした) 家電なんかでも本当に発売されてから、最初に買った人の反応待ちで買う人多いけど、 この「スカイツリー」による発展に乗るかどうかも ふたを開けて真の結果が出るまで企業や投資家なんかも静観してるような気がしてならない。 もちろん一部の方はもうとっくに思い切ってますが。 計画自体が大規模なので観光地としての発展は確定なんだろうけど、 資産価値とか住宅需要とかは本当に見込めるんでしょうかね? 多少偏った見方でもかまいませんので、自論お持ちの方お願い致します。 過去レスは全部見たので、今年出た各情報も加味したご意見だと尚うれしいです。 「水の都」のにぎわい再生へ-。 東京都は来年度から、隅田川の岸辺を民間事業者が自由に利用できるように規制を緩和する。 これまでは自治体によるイベントなど一時的な利用しかできなかったが、通年でのオープンカフェの営業やコンサートなどが可能になる。 東京スカイツリーの建設に沸く下町がさらに活気づきそうだ。 川岸は河川管理者の都の所有で、民間利用は河川法で制限されている。 自治体による利用の場合のみ最長で三週間ほどイベントなどに使うことができた。 都は来年度から「地域の合意」を条件に、民間による営業活動ができるようにする。 東京・浅草の吾妻橋付近などを想定しており、「江戸時代の隅田川のにぎわいを取り戻したい」(担当者)としている。 墨田区が今夏、モデル的に川沿いで開いた「隅田川カフェ」のイベントには一万三千人近くが訪れた。 利用に当たっては、地元の区や観光協会、住民でつくる協議会を設け、地域主導で事業内容を決める。 都は、防災用の船着き場の一般開放も進める。 船での川巡りもしやすくする。 地元の墨田区と台東区などは隅田川の岸辺を観光スポットとして活用したい考えで、これまで都に要望していた。 墨田区は、スカイツリー周辺の隅田川や北十間川などを巡る「舟運ツアー」の開催を目指している。 同区は「隅田川の岸辺を活用できるのは大変ありがたい」と話す。 台東区は、隅田川を挟んだスカイツリーの眺望を新たな観光資源として重視。 浅草観光連盟の辻信之事務局長は「邦楽演奏ができるイベントスペースや和風オープンカフェなども実現できるとありがたい」と話していた。 建設中の東京スカイツリー(墨田区)敷地南端を流れる北十間川沿いの住民と地権者、区が、地区内の建物への屋外広告掲示を制限するなどのルールを定めたガイドラインを策定した。 ツリー見物客で連日にぎわい、急激な変化にさらされている同地区の生活環境維持を図る。 これは「北十間川水辺のまちづくりビジョンとガイドライン」。 ツリー敷地対岸の区道四百五十メートルに面した住民と地権者約三百世帯が対象。 法的拘束力のない任意のルールで、同地区の望ましい景観や、建物の用途について規定している。 景観では、建物は高さ三十五メートル以下とし、三階以上の建物への屋外広告を原則禁止。 ごみ置き場は北十間川に面して設置しないようにするなどと決めた。 建物の用途は一、二階の低層では飲食、物販店を推奨し、にぎわい創出を図る。 三階以上の中高層は住居を推奨、店舗を営業する場合は騒音対策が条件となる。 ラブホテルなど風俗施設を禁止した。 来年5月開業の東京スカイツリーを眺めながら、JR錦糸町駅周辺を散策するJR東日本主催のイベント「駅からハイキング 東京スカイツリーを眺めながら すみだ下町散歩」が来年1月5日から実施される。 駅からハイキングは、JR東日本の駅をスタートし、周辺観光スポットを巡り、ゴールの駅までの町歩きを楽しむ行事。 錦糸町駅は、業平橋駅や押上駅周辺に比べてツリーから少し離れている。 このため、ツリーの玄関口としての錦糸町をアピールしたいと、地元がJRにイベント開催を求めていた。 「すみだ下町散歩」は7・2キロのコースで、JR両国駅を出発、ツリー周辺を歩いたあと、錦糸町駅にゴールする。 水曜を除き、3月31日まで開催される。 予約は不要。 問い合わせは駅からハイキング事務局(03・5719・3777)へ。 (2011年12月25日 読売新聞)• 5月に開業予定の東京スカイツリー(墨田区押上)周辺を散策するJR東日本主催のイベント「駅からハイキング 東京スカイツリーを眺めながら すみだ下町散歩」が5日、スタートした。 初日は約200人が青空の下、地図を片手に両国から押上、錦糸町までの7・2キロのコースを2時間ほどかけて楽しんだ。 参加者は午前10時~正午に両国観光案内所でコースが書かれた地図を受け取り、両国国技館や旧安田庭園を通って清澄通りを北上。 隅田川沿いを歩いてから、浅草通りでツリーのある押上へ向かった。 墨田産の伝統工芸品や食品などを扱う「すみだもの処」に立ち寄った後、勝海舟が信仰していた能勢妙見山別院などの観光スポットを訪ねながら南下し、JR錦糸町駅に向かった。 (2012年1月6日 読売新聞)• 京成電鉄では押上線の連続立体交差事業を「押上~八広間」と「四ツ木~青砥間」の2区間で推進しています。 この事業は、道路の渋滞緩和や歩行者の安全確保、鉄道の保安度向上を目的に都市計画事業として施行するもので、墨田区内の押上~八広間、約1. 5kmについては8個所の踏切を除却すべく、平成20年度より本格的に着手しており、 平成23年7月8日の終車後に押上~曳舟間の最後の仮線切替工事を実施しました。 これに伴い、押上~八広間の全工区において上・下線の仮線化が完了、現在、本格的に計画上り線高架橋の築造工事を行っております。 また、葛飾区内においても四ツ木~青砥間の11箇所の踏切を除却すべく、工事の早期着手に向けて、用地買収並びに着工準備を進めています。 墨田区の「亀沢」地域が住みやすいと思います。 駅で言うと、錦糸町と両国の間に1丁目~4丁目まであります。 京葉道路と蔵前橋通りのもう一つ内側地域という感じで、意外に静かな住宅地です。 ただし、総武線に沿っている部分もありますので、電車音がダメな人には向かない部分もあるかと思います。 これは個人差の範疇だと思います。 この10年、すごい勢いでマンションが建てられており、 古き良き下町風情が消えつつあるのが残念なところですが、時代と共に街は替わるのかな…と割り切っています。 私は賃貸で約10年住んでいますが、このエリアの住環境が気に入っているので、 1ブロック先の新築マンションの購入を検討中です。 サマンサタバサがお土産テーマの店舗 スカイツリー観光客に照準 フジサンケイ ビジネスアイ 2月8日 水 8時15分配信 アパレル中堅のサマンサタバサジャパンリミテッド(東京都港区)が、スイーツや観光といった異分野との複合店舗の展開に注力している。 新店舗は5月22日開業予定のスカイツリーに近い商業施設「東京ソラマチ」に入る「サマンサタバサ アニバーサリー」。 看板商品のバッグだけでなく、バッグの持ち手につけるキーホルダー、携帯電話ストラップ、マグカップ、文房具などの小物も充実させる。 店内にはカフェも併設し、限定メニューも用意する。 「世界一の職場で働きたい」 「ソラマチ」採用面接に1000人 5月22日に開業する東京スカイツリー(墨田区押上)に隣接する商業施設「東京ソラマチ」に入る店舗で働く人を採用するための合同面接会が20日、すみだリバーサイドホール(吾妻橋1)とすみだ産業会館(江東橋3)で開かれた。 面接に臨んだ約1000人の参加者からは「世界一の職場で働きたい」との声も聞かれた。 ソラマチは計約310店が入る総床面積約5万2000平方メートルの商業施設で、ツリーと同じ日に開業する。 この日の面接会に参加したのは、飲食店やアパレル関係、雑貨店など2会場あわせて計約70社。 スカイツリー関係の求人で合同面接会が開かれるのは1月に続き2度目で、3、4月にも1度ずつ開かれる。 カフェ従業員を希望している埼玉県和光市の人(20)は「今一番注目されて輝いている場所なので」と面接を受けた理由を説明。 同県蕨市から訪れ、フランス料理店の面接を受けた人(42)は「スカイツリーは外国人にも知られたステータスのある職場。 世界一の場所で働きたい」と話した。 1月の合同面接会では都内からの参加者が多く、中でも墨田区民の割合が最も高かったという。 (2012年2月21日 読売新聞)• スカイツリー竣工 22日から個人向けチケット販売 スポーツ報知 2月29日 水 12時28分配信 5月22日に開業する東京スカイツリーが29日竣工し、施工会社の大林組から運営会社の東武タワースカイツリー社に引き渡された。 スカイツリー周辺は竣工を祝う行事もなく、未明からの雪が降り続き地上350メートルの天望デッキも見えない状態だったが、朝から観光客が訪れた。 広島から仲間4人と卒業旅行で来た20代の男性は、「せっかく見に来たのに上まで見られなくて残念」といいながら、元気よくポーズを決めた。 東京スカイツリーは今後、3月10、11日に東京空襲、東日本震災追悼のライティング点灯を行い、22日から個人向けチケット販売が始まる。 世界チャンピオンも出場 誰でも気軽に楽しめるオセロの国内3大大会の一つ「オセロ名人戦」が3日から「すみだリバーサイドホール」(墨田区吾妻橋1)で開かれる。 33回目となる今大会には、世界チャンピオンやフランス人の「天才少年」ら注目選手も出場、熱戦が展開される。 他の大会は、出場資格が限定されるのに対し、名人戦は希望者なら誰でも参加できる「オープン大会」。 例年、約200人が参加する国内最大級の大会だ。 3日は「女子」と「小学生以下」の各部。 大会2日目の4日は、「無差別の部」を開催。 無差別の優勝者は、世界選手権大会に出場する日本代表に選ばれる。 今大会には、「天才少年オセラー」のフランス人小学生、アルテュール・ジュイニィエ君(10)も参戦。 「小学生以下」と、「無差別」に出場する。 (2012年3月2日 読売新聞)• すみだ水族館、大人2000円=スカイツリーと同時開業 時事通信 3月19日 月 17時26分配信 東京スカイツリー(東京都墨田区)と同じく5月22日に開業する「すみだ水族館」について、運営するオリックス不動産(東京)が19日、施設概要を発表した。 同水族館はスカイツリーの足元に広がる複合施設、東京スカイツリータウンの目玉施設と位置付けられている。 一般料金は大人2000円で、「初年度175万人、翌年度以降200万人の集客」(オリックス不動産)を目指す。 同水族館はスカイツリータウンの西側5、6階で開業する。 400種の水生生物などが観賞できる見込み。 5階には屋内開放型の大型プールを設け、間近でペンギン、オットセイの生態を楽しめる。 6階には、世界自然遺産に登録された小笠原諸島(東京都)の海の世界を再現した大水槽も置かれる。 ガラス張りの天井から、5月開業の東京スカイツリー(墨田区)が雄大な姿を見せると車中から大きな歓声が上がった。 20日から運行を始めた京成バスの循環バス「すみだ百景」。 超満員だったJR錦糸町駅前発の南部ルートの「第1便」で、ツリー開業より一足早く、下町の新名所を回ってみた。 20日午前11時半。 JR錦糸町駅の北口に、江戸の粋を表す色「江戸紫」のバスが滑り込んできた。 乗り込むと、車内のいたる所に、大相撲の番付表や力士の手形の色紙などが張り付けられているのが目に入った。 同社によると、このバスは「巡回ルートにある両国の雰囲気を味わってもらうための車両」(同社社員)で、「大相撲号」と呼ばれているという。 夜空彩るスカイツリー=LED照明を試験点灯 時事通信 3月26日 月 20時54分配信 開業まで2カ月を切った東京スカイツリー(東京都墨田区、高さ634メートル)で26日夜、発光ダイオード(LED)照明器具の試験点灯が行われた。 青色や紫色、赤色などのLEDの明かりが下町の夜に輝くと、地上で見守っていた子どもたちの間から「光った、光った」と歓声が上がった。 スカイツリーは5月22日の開業後、隅田川をイメージした「粋」と、日本人の美意識を示す「雅(みやび)」と名付けたLED照明による光の演出で、東京の夜空を彩る予定だ。 今回の試験点灯はスカイツリー西側部分の高さ285メートルまでに設置された約150台のLED照明で実施。 スカイツリーを運営する東武タワースカイツリー(東京)は開業まで試験点灯を複数回行うことにしている。 スカイツリーへバス4路線=東京駅や羽田空港から 時事通信 4月4日 水 17時19分配信 東武バスセントラル(東京)は4日、東京スカイツリー(東京都墨田区、高さ634メートル)の開業日である5月22日から、スカイツリーと東京駅などを結ぶ4路線のバスを毎日運行すると発表した。 東京駅とスカイツリーの足元にできる複合施設「東京スカイツリータウン」を結ぶバスは、ほぼ20分に1本の間隔で運行。 羽田空港、東京ディズニーリゾートとの路線も同日開設する。 現在、上野や浅草とスカイツリーを土日・祝日に循環している路線は、平日も運行する。 4路線合計で今年度134万5000人程度の利用を目指す。 東武スカイツリーライン「とうきょうスカイツリー駅」のリニューアル工事が完了し、4月20日にオープンする。 東武鉄道が11日に発表した。 駅コンコースの床面積を60平方メートルから約700メートルに拡張。 浅草駅寄りに新たに正面改札を増設するほか、エレベーターを30人乗りの大型のものに更新し、ホーム中央に設置した。 駅構内の照明には全てLEDを採用し、「東京スカイツリータウン」で導入される地域冷暖房システムを空調に取り入れ、雨水を集めてトイレの浄水等に利用するなど、環境にも配慮する。 自然光を取り入れた駅舎空間を作り、「東京スカイツリータウン」に面した壁をガラスサッシにして開放感と一体感を演出。 駅構内の壁面にはパブリックアートを設置した。 サービス面では「ステーションコンシェルジュ」を新たに配置し、案内を担う。 5月22日に開業する東京スカイツリー(東京都墨田区)の玄関口として、改装工事中だった東武伊勢崎線「とうきょうスカイツリー駅」(旧・業平橋駅)が20日、リニューアルオープンした。 国内外からの観光客を迎えるため、1カ所だった改札口や階段を2カ所に増やし、エスカレーターを新設。 コンコースの床面積は約12倍の約700平方メートルに広げた。 構内の照明は全てLED(発光ダイオード)で、トイレに雨水を利用するなど、環境に配慮した。 構内の壁面や屋外広場には、ツリーデザインの監修者で彫刻家の澄川喜一氏が制作した芸術作品「TO THE SKY」を設置。 また、案内係として「ステーションコンシェルジュ」を常時2~3人配置し、タブレット端末「iPad(アイパッド)」を使った周辺の観光案内もする。 5月に開業する東京スカイツリー(墨田区、高さ634メートル)で23日夜、展望台付近の雲をライトアップする実験が初めてあった。 開業後の悪天候時、展望台来場客向けの演出として実施する予定だ。 天望デッキ(350メートル)、天望回廊(450メートル)は悪天候になると雲にすっぽりと包まれ、景色が見えなくなることがある。 その際、展望台から外側を照らし、雲の中の光景を楽しんでもらう。 専用の発光ダイオード(LED)投光器を天望デッキに21台、天望回廊には18台、屋根上に設置。 フルカラー演出が可能で、ほぼ全方向を照らせる。 実験では約2時間にわたり、青や緑、紫などの光で雲を照らし、光の届き具合や色味を確かめた。 運営会社の東武タワースカイツリーによると、この日は雲の高度が展望台より低く、密度も薄かったため、あまり色づけられなかった。 担当者は「自然現象なので予測は難しいが、実験を重ねて、演出効果が得られる気象条件や照らし方を探りたい」と話していた。 フィリピンパブホステスら男女10人、集団偽装結婚容疑で逮捕 警視庁 産経新聞 5月9日 水 14時32分配信 偽装結婚のために婚姻届を出したとして、警視庁組織犯罪対策1課は、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで、東京都墨田区江東橋、フィリピン国籍のマツモト・アン・マルガレット(27)と、葛飾区四つ木、無職、松本利光(49)の両容疑者ら5組の男女計10人を逮捕した。 女5人は、墨田区江東橋にあるフィリピンパブ「NEWスイートランド」のホステスで、同課は日本に長期滞在するために、偽装結婚したとみて調べている。 同課は、同店を無許可で経営していたとして、風営法違反の疑いで、江東区大島、同店経営者の田中伊佐男容疑者(45)も逮捕。 偽装結婚の仲介役とみている。 同課によると、マツモト容疑者と田中容疑者は容疑を否認。 松本容疑者は「落ち着いてから話す」と供述しているという。 マツモト容疑者らの逮捕容疑は、平成19年11月、嘘の婚姻届を世田谷区役所に提出したとしている。 同店には、マツモト容疑者ら30人のフィリピン人ホステスが働いており、すべて日本人男性と結婚の手続きをしていた。 売り上げは年間で2億円に上ったという。 さん 国技館はもちろん、相撲部屋がチラホラあるので、 ・部屋周辺ではまわしが干されている光景をよく見かけます。 ・力士の卵クンがケータイ片手に自転車に乗っています。 とにかく(なぜか)メガネ率が高い。 ・スーパーのレジ列で、前後が力士クンということもありました。 ・少し前ですが、九重親方(元千代の富士)、高見盛関とすれ違いました。 ・両国祭りの時は、錣山(しろこやま)親方(元寺尾関)のちゃんこ店が出るので、親方も張り切っています。 一緒に写真を撮りたい人が長蛇の列。 寺尾チームの面々のメガネが、これまたすごいカッコいいデザイン。 ・総武線両国駅は、若手力士が乗り降りしています(まだタクシー常用に至らない若手さんかな。 ) 駅構内にも横綱の肖像画が掲げられており、相撲の街を実感します。 一時、部屋の稽古のことなど、色々報道された時期がありました。 故郷を離れて頑張っている15,6の男の子を見かけると、まだまだ子供っぽくて、 何か(理不尽な)辛いことがあったら、どこの家でもいいから飛び込みなよ!と、そんな気持ちで応援しています。 自然スポットと言えるかは微妙ですが、あくまで個人趣味として、 ・安田庭園散策。 休日は、サンドイッチとコーヒー持参でブランチしています。 (結構そういう使い方をしている人が多い。 オアシスです。 ) ・隅田川べりの散策。 夕暮れ、風に吹かれて歩くのが最高です。 ・錦糸町方面ではありますが、大横川親水公園も悪くないと思いまーす。 東京スカイツリー(墨田区)は29日、隅田川花火大会が開催される7月28日の展望台入場券の販売方法を発表した。 インターネットは7月2~10日に申し込み、12日に抽選結果が発表される。 価格は、お土産付きで天望回廊への入場もできて4000円(天望デッキのみ通常大人2000円)。 旅行商品は同4日から、東武トラベルのホームページで販売する。 また、大会当日はソラマチの物販は閉店を1時間繰り上げて午後8時までとなる。 現在、施設内各所で「七夕イベント」を展開している「東京スカイツリータウン」で7月7日夜、フィナーレを飾る点灯セレモニーが行われ、スカイツリーを限定ライティングでライトアップする 同イベントでは「東京ソラマチ」の各所をササ飾りで演出、「ソラマチ広場」には地元小学校が参加して短冊を取り付けた高さ約9メートルのササが登場した。 同広場で18時45分から行われる点灯セレモニーには、スカイツリー公式キャラクターの「ソラカラちゃん」や、栃木県足利市をPRする「足利着物ガールズ」が「足利織姫神社」からの使者として参加予定。 19時から23時まで実施されるライトアップは、天の川をイメージした当日限りのライティング。 鉄骨が交差する地点に設置された「交点LED」を天の川のように点灯させ、ゆっくりと1周する。 全体は青色系にライトアップする。 スカイツリーの盛り上がりもすごいですが、No. 446さんの相撲の話がとても面白かったです。 相撲好きにはたまらない環境のようですね。 私は自転車でブラブラするのが趣味なのでコギコギの情報は嬉しいです。 スカイツリー関係のサイトを見てから周辺の古いお寺や神社を巡りたいなと思っていたので電車より便利そう。 ねずみ小僧の墓石を削ってお守りに・・・とか面白そうなスポットが多いのです。 あと、No. 458さんの「船着き場、民間に試験開放」のリンク先記事が消えていました。 それってクルーザーとかボートを持っている人に開放ってことでしたか? 係留費用は無料? だったらすごいなあと。 墨田区って楽しそうですね。 特別点灯は11月15日と、11月16日~12月25日の間の週末を予定する。 点灯色やイメージなどの詳細は「検討中」(同社)としている。 同時に、11月15日~来年1月31日の間、商業施設などがある東京スカイツリータウンで開業後初めての冬のイルミネーションも実施。 LED(発光ダイオード)照明を使った「光階段」などの演出を行い、冬の寒い時期にも多くの集客を狙う。 スカイツリー効果、業績上振れ=東武鉄道、今期2度目 時事通信 10月31日 水 21時0分配信 東武鉄道は31日、5月に開業した東京スカイツリー(東京都墨田区)と周辺商業施設の集客効果が業績を押し上げ、2013年3月期の連結業績予想を上方修正すると発表した。 業績の上方修正は9月に続き2度目。 売上高は5805億円(従来予想5765億円)、営業利益は470億円(同430億円)、純利益も250億円(同225億円)にそれぞれ増額した。 平田一彦常務は決算会見で「夏休み後も想定より客足が落ちなかった」と指摘。 12年度のスカイツリー展望台入場者数見込みは545万人と従来予想を85万人上回る見込み。 スカイツリー効果も、売上高で399億円(同348億円)、営業利益で113億円(同82億円)に膨らむ。 墨田区はスカイツリーは自転車圏内。 自転車置き場は下段2hまで無料。 上段は8hかな? 隅田川沿いは川沿いのコンクリートに囲まれた道かな。 荒川沿いは、草野球場があるひろい河川敷にサイクリングロードあり。 天気のいい日は気持ちよい。 (ただし、東墨田付近は注意。 工場があるので。 〇〇が風にのってくると困る。 住むには不向き) 街は、北は古い町並み入り組んでいる。 (路地多し)南側は比較的新しい街並み。 くるりんバス運行。 乗り換え可能。 (スカイツリー中心、3路線)1回100円。 1日300円 都バスと競合しないで、路地走るので、目的地までの時間はかかるが、墨田区の街並みが良くわかる。 また、寺とか神社付近でも止まるはず。 (時間があれば乗ってください。 ) 商店街はよく橘商店街がテレビでてる。 スカイツリーの水族館は高い。 でも、水族館は、ペンギンとクラゲしかいない。 墨田区ってどう?あまり変わらないよ。 スカイツリーが出来ただけ。 最近テレビによく墨田区が映るようになったな。 墨田区の何が聞きたい?• 東武鉄道は8日、運営する東京スカイツリーを「世界一高いクリスマスツリー」に見立てた特別点灯を、今月15日から12月25日までの間、実施すると発表した。 「シャンパンツリー」など新たに5種類の点灯を行う。 特別点灯初日(今月15日)や週末を中心に、もみの木を題材にした「シャンパンツリー」を点灯。 また、12月22~25日は白いベールをイメージした「ホワイトツリー」、同23~25日はろうそくの炎を表現した「キャンドルツリー」の各点灯を行う。 このほか、日替わりで実施している「粋」(水色系)、「雅」(江戸紫色系)の各点灯は「冬の訪れを感じていただきたい」(同社)として、新たに「冬粋」「冬雅」と名付け、塔体の点灯色である金色を、期間中は白銀色に衣替えする。 東京スカイツリータウン広報事務局では、クリスマス期間中の特別点灯が「新たな冬の風物詩になれば」と話している。 東武、スカイツリーで強気の計画 来年度は営業益4割増 東武鉄道は21日、グループ各社で運営する東京スカイツリー(東京都墨田区)関連事業について、開業2年目の2013年度の営業利益を前年度計画比37%増の111億円と大幅増益を計画していることを明らかにした。 来場者も同18%増の644万人と想定する。 22日で開業から半年を迎えるが人気の衰えはみられず、来年度は通年で利益に貢献するため。 今後も沿線開発や直通バスの新路線設置などで収益拡大を達成したい考え。 関連事業は、ツリーへの来場者収入のほか、大型商業施設「東京ソラマチ」などのテナント、物販収入など。 13年度のグループ営業利益計画は447億円のため、ツリー関連で約25%を稼ぎ出す計算だ。 東京スカイツリー、元旦に「新年」祝う特別点灯 産経新聞 12月10日 月 18時58分配信 東京スカイツリーで2013年元旦の午前0時から約45分間、新年を祝う特別点灯を行うことが10日、発表された。 元旦の特別点灯では、同日午前0時5分から約10分間、来年9月に開催都市が決定する2020年の東京五輪・パラリンピックの承知ムードを盛り上げるイメージを点灯。 このほか、冬限定の「冬粋」(水色系)や「冬雅」(江戸紫系)もライトアップする予定だ。 12月31日の点灯は通常通り、午後11時に終了。 1時間消した後、新年を祝う特別点灯が始まる。 運営元の東武タワースカイツリーでは「特別なカウントダウンイベントを開く予定はないが、ライトアップの形で新年を祝う催しを行うことにした」と話している。 また、クリスマス期間(12月25日まで)限定としていた冬の特別点灯を来年1月31日まで延長すると発表した。 「冬粋」「冬雅」を1日おきに点灯する。 世田谷区の賃貸に住んでますが、実家から遠くないこと、職場とのアクセスかよいことで、押上か曳舟でマンション購入を検討しています。 土地勘がないので、先日押上から曳舟界隈を歩いてみました。 生活に必要な商業施設もあり、古いテーラーがあったり、密集しているけど感じの良い住宅地の印象をもちました。 スカイツリーには興味はありませんでしたが、近くから見上げると迫力ありますね。 この界隈に住んだら、友人を呼んでスカイツリーを眺めたり、桜の時期を楽しんだりと、想像が膨らみます。 やはり 古くから栄えていた地域はいいですね。 浮わついたところがない。 それに故郷の神戸にもこの界隈に似た下町があるので親しみがわいてきました。 現在、墨田区に在住。 錦糸町と両国の中間地点でJR、半蔵門、大江戸線と交通も大変便利ですね。 日本橋の会社まで徒歩で30分位ですし、自転車でしたら15分位。 周りに相撲部屋がたくさんあって、自転車に乗ったお相撲さんとすれ違うのが日常です。 祭りの時期になると「ソイヤ、ソイヤ」の掛け声と共にお神輿が出てきます。 下町の情緒もありますし、新日本フィルの本拠地ですので、大きな楽器を抱えた団員の方々ともよくすれ違います。 在住であればお値引がありますのでコンサートも毎月鑑賞できますよ。 お散歩で浅草、スカイツリーにも行けますし、国技館も歩いて5分位、史跡もたくさんありますので、かなり面白い街でお勧めです。 ただし、錦糸町駅の南側に限ります。 北側はまだ昔の名残がありますね。 八広在住です(最寄駅も八広)。 一人暮らしをご検討ですか? 何丁目にあるとか、場所によっては通りが薄暗く寂しい印象は ありますね。 住宅や工場が多く飲食店などが少ないですし。 時間があれば日中と夜間に目当ての場所周辺を 歩いてみることをお勧めします。 治安は悪いと思いませんが、【独特のムード】があり、 昔の八広知っている人は環境を良くは思わないことは理解できます。 私は女性ですが、荒川土手沿いを夜間にウォーキングしていて、 危ない人がたむろしているから怖いと思ったことはないです。 ホームレスや不良などはほとんど見かけません。 ただ、人が通らなさ過ぎて怖い・・とは思ったことがあります。 八広5丁目のことでしょうか。 線路より東向島側寄りでしたら特に問題はないですよ。 普通の住宅地です。 電車の騒音があるかもしれませんが。 線路を越えた八広エリアだと、朝鮮学校あるからというのと 皮革工場があるかもしれないので、日中は薬品の匂いが するかもしれません。 最近は少なくなりました。 その辺はバス通りに近いのでそれなりに店もありますし、 押上・錦糸町方面には出やすいです。 「墨田5丁目」の場合は最寄り駅は鐘ヶ淵になります。 そちらは詳しくないですが、荒川土手沿いも 同じような感じで薄暗く人通りは少ないですが 自身が気をつけていれば大丈夫。 いずれにせよ、向島エリアは若者が比較的少なく 昔よりはマシですが年寄り臭い街ではあります。 よく言えば落ち着いて平和なムードですから そういう雰囲気が嫌いじゃないなら馴染めますよ。 よいお引越しになることを祈ってます。 基本的に静かで住みやすい居住環境ですが、下町にある飲み屋というのがメディアで人気だと騒がれはじめてからは、有頂天となった飲食店が大分終電間際までうるさい環境となりました。 例えば、ここ2年で酔っ払いの起こした事件で、千歳にあるリズムアンドベタープレスという店が、23時過ぎに一時間以上スケボーで20人くらいで騒ぎ、110案件で警察の調書に記録があるにも関わらず昼間ですからうちじゃないと言い張ったり、20回以上警察に注意されていますが何も変わっていません。 近隣の大家さんとかが苦言を呈しても、店長が逆ギレして俺も注意しているし、一人で店を回しているから知らん、客はいい奴らだからそんなことしない、住人どもが直接注意しろと耳をかさない環境です。 直近では、客が俺コロナウイルスに感染しているかもという趣旨の話を酔って大声で喋っていた人が住人のお爺ちゃんに怒鳴られて注意したにもかかわらず、怒鳴る方が近隣迷惑だと返しの刃を振るっていました。 夏は上半身裸で小学生の女の子に声をかけたり、酒を飲んで自転車に乗った客に怪我をさせられたりと、お子様、女性には向かない環境だと思います。 ただし、大人の一人暮らしであれば、大江戸線と新宿線が利用できコスパもいいので、おすすめの地域です。 隅田川のテラスも近く、ホームレス対策も進んだおかげで、散歩やランニングに困らず、浅草へプチ旅行している気分も味わえるため、最高のロケーションと言えます。 今後の展望としては、他県出身の起業者が下町の飲み屋飲食店を経営する傾向になるので、繁華街並みに煩くなる箇所もリスクとしてはあるので、購入ではなく賃貸を強く推奨します。

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市川一家4人殺人事件

市川いっかさつがい 長女

: 標的 事件の1か月前に強姦した女子高生一家5人(を参照) 日付 (4年) - 16時30分ごろ — 9時ごろ 〈・JST〉 概要 1992年2月、組員から200万円を要求された少年(当時19歳)が行きずりの少女を強姦して身分証明書を脅し取った。 その1か月後となる1992年3月、加害者少年はその少女が住むマンションの一室に強盗目的で押し入って住民一家(少女の家族)5人のうち少女を除く4人を次々に絞殺・刺殺した。 その間に少年は金品を被害者宅・勤務先から奪いつつ少女を長時間監禁してさらに強姦した。 攻撃手段 電気コードで首を絞める・柳刃包丁で刺す 攻撃側人数 1人 武器 電気コード・刃渡り22. 5 の1本(平成5年押収第52号の1) 死亡者 4人 負傷者 1人 損害 現金約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万3,412円)・印鑑7個 犯人 少年S(事件当時19歳) 容疑 ・・・・・・ 動機• 侵入の動機 - 暴力団から要求された200万円を工面するため(窃盗目的で侵入)• 作家・(祝康成)が加害者少年と交流して本事件関連の著書(参照)を出版した。 管轄 (県警本部・ ) ・ 市川一家4人殺人事件(いちかわいっかよにんさつじんじけん)は(4年)夕方から翌朝にかけて二丁目(地区)にあるマンションで発生した・・などの事件。 加害者少年S(事件当時19歳)はと女性関係を巡るトラブルを起こし、暴力団から要求された現金200万円を工面する目的で事件1か月前に強姦した少女(事件当時15歳)宅のマンションに侵入して一晩で少女の両親・祖母・妹の一家4人を殺害した。 また、少女の家だけでなく両親が経営していた会社からも金品を奪い、殺害現場で1人残された被害者遺族の少女を強姦した。 平成のでは初の・事件()となった本事件は 日本社会を震撼させ 衝撃を与えるとともに 、その重大性からの在り方などに論議を呼んだ。 加害者・被害者 [ ] 元死刑囚S [ ] S・T (記事中では仮名「S」と表記) 生誕 1973-01-30 ・ 死没 2017-12-19 (44歳没) ・ () 出身校 (1988年3月に卒業) 職業 鰻の加工・販売業(祖父の家業) 罪名 ・・・・・・ 刑罰 (・) 動機 から要求された現金200万円を工面するため 有罪判決• ・(1994年8月8日宣告)• ・側判決(1996年7月2日宣告・死刑判決を支持)• 第二・被告人側棄却判決(2001年12月3日宣告・控訴審判決を支持) - 上告審判決への訂正申し立て棄却決定(2001年12月21日まで)により死刑判決 殺人 被害者数 5人(本件強盗殺人・殺人の被害者一家) 時期 1992年3月5日 - 6日 国 現場 千葉県市川市幸二丁目5番地 (マンション806号室) 死者 4人 負傷者 1人 凶器 電気コード・刃渡り22. 5 の(平成5年押収第52号の1) 逮捕日 1992年3月6日(銃刀法違反容疑で現行犯逮捕) 本事件の加害者少年 S・T(事件当時19歳)は (48年)1月30日・千葉県生まれ。 事件当時は千葉県二丁目在住。 刑事裁判で死刑が確定し、(平成29年)12月19日に・の死刑執行命令(2017年12月15日付)により 先・で(44歳没)。 本項目中では実名の姓に基づくイニシャル「S」と表記する。 18歳時点で身長・体重とも同じ18歳男性の平均をはるかに凌駕するまでに成長しており 、逮捕当時は身長178 cm ・体重80 kg と大柄な体格だった。 生い立ち [ ] の加工・販売業を営む母方の祖父X の長女・母親Yと、Yと結婚して義父Xの店で働き市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Z の間に長男として出生した。 出生当時は市川市内に居住していたが、後に両親が同県内に転居したことから同市内で幼少期を過ごし 、Sは(昭和51年)には3歳で幼稚園に入園した。 (昭和54年)4月には転居先の松戸市内の小学校 に入学し、(昭和55年)9月には 東京都に転居したことから 同区内の小学校 に転校したが、父Zが莫大な借金を抱えて義父Xの経営する店に多大な損失を与えた上、暴力団員などによる厳しい借金の取り立てに遭った。 また、Zは結婚後に義父Xから店を1軒任されたが 、生活が落ち着いてくると仕事に精を出さずにギャンブル・飲酒・女遊びなどを優先するようになり 、愛人宅への外泊や妻Yに対する(DV) ・自身や弟への を繰り返したため 、Sは自宅を居場所と感じられなくなっていた。 Sは両親からの虐待に苦しんでいた中で敬虔な の信者だった親友から勧められたことがきっかけで聖書を勉強するようになったが、9歳の時に熱心に読んでいた聖書を父Zから「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てられたことに激昂して初めて父親に歯向かい、殴る蹴るなど一方的な暴力を振るわれつつも復讐を誓った。 (昭和57年)12月 、当時小学4年生だったSは 母Y・弟(5歳年下)とともに夜逃げして のアパートへ移住した。 Sは(昭和58年)1月から に通学したが 、両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でを受けるなど、不遇な生育環境で不遇感を抱いて育った。 また、このころには唯一の庇護者だった祖父Xからも見放された ことで劣等感を募らせ 、万引きをするようになったほか 、放課後にはで観光客を標的に・・かっぱらい・泥棒などの非行を繰り返し「世の中は金が全てだ。 貧乏を笑うようなやつらからはいくら金を盗んでもいい」と考えるようになった。 中学時代以降 [ ] (昭和60年)4月には へ入学したが 、体格・腕力ともに大きく成長して同世代の少年を圧倒するようになったため 、それまでのように一方的にいじめられることはなく、やられたらやり返すようになるとともに「たいていの場合には自分の腕力が通用する」と知った。 また当時所属していた少年野球チームではエース投手兼4番打者として活躍していたが 、このころから地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められ仲間に誘われた ことをきっかけに非行がエスカレートしていき、母親Y・弟への家庭内暴力を加えるようになった。 なおこのころには祖父Xも母親Yと関係を修復し 、Y一家はXから経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが 、Sは祖父Xを「一番辛くて寂しい時に俺を裏切って助けてくれなかった」と恨んでおり、以前のように尊敬することはできなくなっていた。 中学卒業後の(昭和63年)4月には 普通科大学進学コースに入学したが 、わずか1年後の(平成元年)5月31日付で 中退した。 高校中退後(1989年11月ごろ以降)は祖父Xの経営していたウナギ加工・販売などの仕事を手伝っていたが 、店の売上金を複数回盗んだほか 、(平成2年)1月17日には祖父Xから盗みの疑いを掛けられたことに激怒し、22時ごろに祖父X宅へ赴き就寝中だったXの顔面を蹴るなど暴行を加え 、Xの左目を失明させる事件を起こした。 また鰻屋の同僚には不良が多く 、同僚たちから非行や喧嘩の方法を教わったほか 、自分を挑発してきた同年代の同僚に対する暴力沙汰も起こした。 また母や弟への ・仲間らとの徘徊行為・・を行うなど生活は荒れていった。 家庭内暴力に耐えかねた母親YはSを別居させるため 、1991年6月から契約金58万円余りを出して船橋市本中山のアパート で一人暮らしさせたが 、その後も近隣住民とのトラブルを起こしていた。 事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗など多数の事件を起こしたほか 、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった。 女性関係 [ ] 中学生時代から女性経験があり 、中学3年時からは同級生の少女と交際していたが 、互いに深夜まで出歩いたり親の財布から金を抜き取るなどしていたため、高校中退後の秋になって少女の両親がSの母親Yに「うちの娘はSにたぶらかされたせいで悪くなった。 警察に訴えてやる」と苦情を入れてきた。 結果、互いの親同士が協力して2人を別れさせることになったが 、Sは少女の父親が彼女を自分から引き離そうと東北地方の親戚宅に預けたことに激怒し、ナイフで少女の父親を脅迫して少女を連れてくるよう迫ったことで違反に問われに書類送致された。 またアパートで独居を開始してからは3人の女性と同棲生活を試みたが、いずれも短期間で相手に去られたため長続きしていなかった。 その後、その女性とともにフィリピンまで赴いて1991年10月31日に正式に結婚し 、日本へ連れ帰って自宅アパートで同居していた。 しかし妻は姉の病気を心配して事件直前(1992年1月22日ごろ)にフィリピンへ帰国して 二度と日本に戻らなかった。 女性の帰国は夫Sの了承の下だったが、Sは「妻がいなくなったことで鬱屈した気分になった」ことから「新しい女性を引っ張り込もう」と考え、それが凶行の遠因となった。 被害者一家 [ ] 被害者一家は市川市幸二丁目の新興住宅街に建つ9階建てマンションに住んでいた。 千葉地裁 1994 は判決理由で被害者一家について「慎ましくも平穏な暮らしを営んでおり、本来ならば娘2人の成長を温かく見守りつつ会社の経営を盛り立てて平穏に生活できたはずの家庭」と述べている。 被害者男性Aは事件2年前の1990年ごろに寄稿していた料理雑誌『月刊食堂』()の元編集長・玉谷純作に対し「のペンションを買いたい。 ベルギーならにもにもすぐに行ける。 (事件の発生した)1992年にEC()統合があるのであちらに拠点を持って活動したい」と話していたが、その夢はSの凶行により断ち切られた。 被害者一家4人の葬儀を仕切ったは『東京新聞』記者の取材に対し「被害者4人の遺骨はA・Dそれぞれの親族に引き取られた」と証言した。 男性A(死亡) - (昭和25年)8月10日生まれ (41歳没)。 事件当日(1992年3月5日)21時40分ごろ(帰宅直後)にSにより背後から左肩を刺されて致命傷を負い、翌日(3月6日)0時30分ごろに再び包丁で背中を刺され出血多量で死亡した。 のカメラマンとして働いていた1985年(事件7年前)には写真週刊誌に掲載された()のプライベート写真を撮影したことがあったが 、結婚後は年ごろの娘を持つようになったためにそれまでの風俗関連から離れ 、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にして レストラン・温泉地などの写真を撮影していた。 1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し 、(昭和62年)3月にDと結婚して継子の少女Bを養子にした。 同年8月には妻Dとともに行徳駅前のマンションを事務所として 雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して取締役を務めており 、社員を数人抱えていた。 少女B(負傷) - (昭和51年)3月19日生まれ (事件当時15歳)。 女性Dの長女で事件当時は船橋市内の県立高校1年生だった。 一連の事件では一家殺害事件から1か月前(1992年2月12日)に加害者Sのアパートまで拉致されてSに2回強姦され 、事件当日(3月5日)の帰宅直後から翌朝(Sが逮捕されるまで)までSにより自宅に監禁され、帰宅前に殺されていた祖母Cを除く家族3人(母D・父A・妹E)を目の前で惨殺されたほか、自身もその間に計3回 (事件前を含めて計5回)にわたり強姦される被害を受けた。 千葉地裁 1994 は判決理由にて被害者Bについて「目の前で家族を皆殺しにされ、自らもその凄惨な現場で被告人Sのともいうべき獣欲の犠牲に供されて凌辱され、Sの一挙一動に肝を潰して神経を擦り減らし、泣訴哀願して幸いにも一命をとりとめた、身も凍るような筆舌に尽くしがたい恐怖と戦慄を味わった」と述べている。 男性Aとは血縁関係はなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた子で 、DがAと再婚した際にAと養子縁組した養女だったが 、義父Aからも我が子同然に可愛がられていた。 共働きの両親に代わり10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎するなど 優しい性格で 、通学していた県立高校では演劇部・美術部などに所属してクラスの副委員長も務め 、将来は美術関係の大学進学を希望していたごく普通の女子高生だった。 事件後は両親の知人の下へ身を寄せ、事件1年後の1993年にの母方の実家へ引き取られた。 高校卒業後は故郷の熊本を離れて美術系大学へ進学(2000年春卒業)した。 (本名および旧ペンネーム:祝康成)の取材に対しては「事件のことは忘れないと前に進めないからもう忘れた。 (当時死刑判決を受け上告中だった加害者Sが)どんな刑を受けようとまったく関心はないが、極刑は当然だと思っている」と、知人に対しては「母のようなキャリアウーマンになりたい」と話していた。 その後、永瀬 2004 は女性Bのその後に関して「Sの死刑確定後の(平成16年)春に以前から交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしている」と述べている。 女性C(死亡)- 1908年(41年)7月4日生まれ (83歳没)。 男性Aの実母かつB・E姉妹の祖母で、事件当時は現場マンションにて息子夫婦・孫2人と同居していたが、高齢のため散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった。 事件当日16時30分ごろに自宅でSに首を絞められて窒息死し、一連の事件で最初の犠牲者となった。 女性D(死亡) - (昭和30年)6月19日生まれ (36歳没) ・出身。 事件当日19時ごろ、長女Bとともに帰宅した直後に室内に隠れていたSから襲撃され、Bの目の前で包丁で刺されて出血多量で死亡した。 地元の高校を卒業後に隣町の男性と恋愛結婚したが、その前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため、長女Bを出産した直後に(当時20歳で)離婚した。 しかし前夫には慰謝料・養育費とも要求せず、誕生直後の娘Bを連れて「(Bは)自分1人で立派に育てる」と上京して証券会社事務職・建設会社経理職・ダンプカー運転手・水商売などと職を転々とした。 同居中にAとの第一子を妊娠するが流産してしまったため、後にEを妊娠した際にはAから「仕事は二の次でいいから体を大切にしろ」と注意されていた。 そして(昭和62年)3月に幼女Eを出産して男性Aと結婚(再婚)し 、1987年8月にはAとともに雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社 を設立して代表取締役に就任し 、1988年8月に夫Aとともに現場マンションへ引っ越し 、家庭ではB・E姉妹を養育していた。 幼女E(死亡) - (昭和62年)3月17日生まれ (4歳没)。 1992年3月6日6時30分ごろに姉Bの目の前でSにより包丁で刺され出血多量で死亡した。 A・D夫妻の長女だが 、Aには既に養子(Dの長女B)がいたため報道では「次女」とされることが多い。 姉Bの異父妹で、事件当時は市川市内の保育園に通う保育園児だった。 事件前の暴力的犯罪 [ ] Sは一家殺害事件前年の(平成3年)10月19日16時50分ごろ、愛車のロイヤルサルーン を運転して東京都の道路(祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近)を走行していた際、自分の前を走行していた車両(運転手:当時34歳男性)に対し「速度が遅い」と立腹した。 男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側へ駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回しエンジンを停止させた。 男性が車を降りるとSは突然その顔面を拳で複数回殴りつけ、男性を支店の建物内へ連れ込み、店の厨房内に置かれていた鰻焼台用鉄筋(長さ約112 cm)で男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた( 罪状その1・傷害罪)。 祖父Xは1992年1月ごろ、Sから危害を加えられることを避けるために店舗内で寝泊まりしていたが、Sはその店舗の窓ガラスを割って店内に侵入し、就寝中のXを起こし現金110万円などを奪い取った。 1992年2月6日、Sは市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出して店に無断で自宅アパートに泊め 、このホステスと性的関係を持ち、ホステスをマンション自室に閉じ込めて負傷させた。 その2日後(1992年2月8日)、店に帰ったホステスがこのことを店の関係者に泣きながら訴えると、激怒した店の関係者が暴力団に「落とし前」を依頼したため、それ以降Sは暴力団に追われる身となった。 1992年2月11日4時30分ごろ 、Sは東京都に住んでいたバンド仲間のアパートからクラウンに乗って帰宅しようとしていた際 、の路上でアルバイト先から帰宅途中の当時24歳女性が1人で左側歩道上を歩いているのを見つけ、「鬱屈した気分を晴らすために女性を殴ろう」と考え、道を尋ねるふりをして女性に近づいた。 その直後、突然女性の顔を拳で思い切り数回殴りつけるなど暴行を加えて全治3か月半の傷害(鼻骨骨折・顔への擦り傷)を負わせた( 罪状その2・傷害罪)。 Sは座り込んだ女性の顔を見たところ「意外に若い」と思ったために「この女性を強姦しよう」と考え、女性の髪の毛を鷲掴みにして引っ立てると「車に乗れ」と脅して女性を抱きかかえるようにクラウンの後部座席に押し込み車を発進させた。 そして女性に対し「病院に連れて行く」などと言いつつ車を走行させ、船橋市本中山の自宅アパートに連れ込み、6時30分ごろに自室アパートで女性を全裸にして強姦した( 罪状その3・強姦罪)。 しかし同日夜、前述のホステスの件で自宅アパートに暴力団組員7人が押し掛けたため、Sはクラウンに乗車して逃げたが 、店から依頼されていた外国人ホステス斡旋業者らがSを車から引きずり降ろそうとクラウンの後部窓ガラスを叩き割った。 検察官は罪状2. および3. の傷害・強姦事件に関して「Sは当初から女性に対する強姦の犯意を抱いていたため、女性への一連の犯行は全体として強姦致傷罪の一罪に該当する」と主張したが、千葉地裁 1994 判決は「被告人Sは捜査段階・公判を通じて『女性に暴行を加えた後、顔を見て『意外に若い』と思ったから俄かに欲情を催して強姦の犯意を抱いた』と主張している。 その供述に反する証拠は見当たらず、客観的状況も供述と矛盾しない」ことを理由に「被告人が強姦の犯意を生ずる以前の傷害罪・その後行われた強姦罪の2罪がそれぞれ別々に成立する」と事実認定している。 被害者少女を強姦・脅迫 [ ] Sが通りすがりの女性を強姦してから約22時間後(1992年2月12日2時ごろ) 、夜遅くまで勉強していた少女Bは途中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアへ行き、買い物を終えて帰宅しようとしていたところだった。 当時クラウンを運転していたSは帰宅途中だったBを見つけ、マンション前の狭い路地で背後から近づき、自転車の後輪にクラウンの左前部を衝突させた。 Bは自転車ごと路上に転倒して路上に投げ出され、右膝に擦り傷を負った。 車から降りたSはBに「病院に連れて行く」と優しく声を掛けた上で と訴えられないようBを車に乗せて内の救急病院で治療を受けさせた。 Bは当初こそSを警戒してはいたが、治療をさせてもらった後で「自宅まで送り届けてもらう」と約束されたことで安心した。 しかしSはBを自宅に送るために市川市・船橋市方面に向けて車を走行させていた途中でにわかに劣情を持ち 、人気のない路肩に停車し 、刃渡り約6. 7 cmの折り畳み式ナイフ(平成5年押収第52号の2)をBに突き付けた。 Sはナイフの刃をBの手の指の間にこじ入れてこね回しながら「黙って俺の言うことを聞け」と脅し 、抵抗したBに対し 左頬・左手を切り付けて顔面挫創・左手挫創の傷害(全治約2週間)を負わせた。 SはBをそのまま自分のアパートまで拉致し 、同日3時ごろ - 6時ごろまでの間に自室アパート内で2度にわたりBを強姦した( 罪状その4・強姦致傷罪)。 Sはその後、Bの手足を縛って抵抗を抑圧した上でBの所持品を物色して現金を奪ったが、その時にBが通っていた高校の生徒手帳を見つけ、住所・氏名を控えた。 しかしBはSがいったん外に出てから部屋に戻るまでの間に自力で逃げ出した。 その後、この同級生らから被害届を出すよう説得されたため、Bは1992年2月末ごろに() へ被害届を提出したが 、Sは顔見知りではなかったことなどから捜査線上に浮上しなかった。 彼女(ホステス)が在留期限を待たずに帰国したら店の損害は200万円になる」などと遠回しに金員の支払いを要求され、このトラブルに関して「それなりのことをするつもりだ」と答えてその場を辞去した。 しかし当時のSはいまさら暴力団員に支払う金員を祖父X・母親Yから出してもらうわけにはいかず、他に金策する当てもなかったため 、暴力団の取り立てを恐れてを続けており 、事件当日ごろには所持金も底を尽きていた。 Sは暴力団に脅されてから事件当日までの約20日間「このままだといずれ暴力団に殺されるかもしれない」と恐れていた一方、交通トラブルで2度の暴力・恐喝事件を起こした。 1992年2月25日(火曜日)5時ごろ、Sはクラウンを運転して旧道(市川市河原6番18号先)を走行していたところ、後ろを走っていた乗用車(運転手:当時22歳男性)から ために激昂し、クラウンを急停車させ 相手の進路を絶った。 後続車が停車した直後、クラウンを降車したSはトランクから鉄筋 (鰻焼台用鉄筋:全長約122 cm) を取り出して右手に握り、その鉄筋を威嚇するように1, 2回振り回してから後続車のドアを開け 、相手車の運転席に近づいて「煽ってんじゃねえよ」などと男性を恫喝し、空いていた運転席側の窓から手を差し入れて男性の車のエンジンキーを抜き取り 、相手の退路を絶った 上で自車に戻った。 これに激昂した男性はエンジンキーを取り戻そうとSに追いすがったが、Sは鉄筋で男性の左側頭部を1回殴りつけた。 男性は血まみれになり、両腕で頭を抱えてうずくまったが 、Sは男性に対し「お前のせいでブレーキパッドがすり減った」などと怒鳴りつけながら 男性の左半身を多数回殴打し、安静加療約10日間を要する頭部挫創の傷害を負わせた( 罪状その5・傷害罪)。 さらに男性から金品を恐喝しようと考えたSは暴力団組員を装って男性の車の運転席に乗り込み、同日5時過ぎごろ - 6時ごろまでの間にトラブルの現場から市川市二丁目31番地先の路上を経由して再びトラブル現場(市川市河原6番18号先)まで車を運転し、「俺たちの相場ではこういう場合は7, 8万円だ。 金曜日(2月28日)までに用意しておけ。 免許証はその時まで預かっておく」などと男性を脅迫して金品・運転免許証を出すように脅して金員を要求し、男性名義の自動車運転免許証1通を脅し取った( 罪状その6・恐喝罪)。 その2日後(1992年2月27日0時30分ごろ)、Sはクラウンを運転して(現:)東町一丁目7番26号路上を走行していたところ、乗用車(運転手:当時21歳の男子大学生)に追い越されたため立腹し、付近で赤信号のために停車した大学生の車の前方にクラウンを停車させて行く手を阻んだ。 そして大学生が降車すると「ヤクザ者をなめるな」などと脅迫しながらズボンのポケットから前述の強姦事件で使った折り畳みナイフ(平成5年押収第52号の2)を取り出して「これで刺してもいいぞ」と言い、大学生の左太腿を突き刺した。 その上でSは大学生の車の運転席に乗り込み、大学生を助手席に座らせ、自ら大学生の車を運転して岩槻市大字加倉1943番地路上まで移動した。 その間、Sは大学生に対し「お前が滅茶苦茶な運転をするから俺の車のタイヤが擦り減った」などと恫喝したが、脅迫の手ごたえがなかったことに激昂して「お前の親父のところに連れて行け」と大学生を脅迫したほか 、車内で大学生の身体20数か所(左右の大腿部・右肩・腕・背中など)をナイフで突き刺したり切りつけたりして全治約6週間を要する傷害(全身刺創・全身切創、右手第三指〈中指〉および第四指〈薬指〉伸筋腱断裂など)を負わせたが( 罪状その7・傷害罪)、大学生は血まみれになりながらも命からがら自分の車から逃げ出した。 Sは大学生の車で相手を追いかけようとしたが「轢き殺すとまずい」と思ったために断念し、後日金を脅し取ることにした上で 、大学生が逃げ出した後の同日1時20分ごろには岩槻市東町一丁目7番24号先路上に大学生から奪った車を移動させ、「住所・氏名を確認する目的」で車内にあった大学生名義の運転免許証1通・大学生の父親名義の自動車検査証を窃取し( 罪状その8・窃盗罪) 、大学生の車を運転して前述の現場に残した自車に戻った。 しかしSは暴力的な恐喝を繰り返しても暴力団から要求された額(200万円)を得られず、金の工面に困り恐怖・焦燥感を抱えていたため 「パチンコ店を襲おうか、強盗しようか」などと思案した末に、2月12日の強姦致傷事件の際に住所・氏名などを知っていた少女B宅に侵入して金品を盗むことを思いついた。 Bを強姦した事件以降、SはB宅の在宅状況を探る目的で時間を変えてB宅の電話番号へ何度か電話をかけた結果 「午後は留守か老女(殺害されたBの父方の祖母C)が1人でいる」と確認していたほか 、2月下旬・3月1日の2度にわたって現場マンションに赴き、マンションのエレベーターを使用して8階まで上がった上で「B宅は806号室にある。 マンション1階のエレベーターホールには防犯カメラが設置されている」ことなどを確認した。 事件当日 [ ] 現場マンション侵入 [ ] Sは事件当日(1992年3月5日)、既に所持金がほとんどなかったが朝からパチンコ・ゲームセンターで時間を潰したり、午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べたりした。 その後「B宅に侵入して現金・預金通帳などを窃取する」意思を最終的に固めた上で市川市幸のB宅に向かったが 、この時には「ついでにBを再び強姦すれば暴力団からの追い込みで鬱屈した気持ちも晴れるだろう」とも考えていた。 事件現場一帯はSの母方の祖父母の家(母親Yの実家)の付近で、幼少期によく祖父母宅に泊まっていたSは当時まだ空き地だった現場一帯で凧揚げをしたり自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため一帯に土地勘があった。 現場付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた。 Sは16時ごろ、クラウンを運転してマンション付近に赴き 、マンション近くの前にクラウンを駐車した上で付近にあった公衆電話を使用してBの自宅に電話を入れた。 当時、実際には後述のようにBの祖母Cが在宅していたが、電話に誰も出なかったためSは「留守だ」と思い 、クラウンをマンション近くの公園の脇に停車して下車し、Bの自宅マンションに入った。 Sは防犯カメラが設置されていた1階エントランスを避けて外階段を使い2階まで上ったが、2階 - 8階(B一家が在住していた806号室)まではエレベーターを使用した。 そして806号室玄関前に着くと部屋のインターホンを鳴らしたが、この時もインターホンへの応答がなかったため改めて「留守だ」と思い 、806号室の玄関口ドアを「試しに開けてみよう」と考えて ドアノブを回したところ 、ドアは意外にも施錠されていなかった。 ドアが開いたため「誰かがいる」と焦ったSはすぐにその場を離れたが 、エレベーター横の階段に座って20分ほど様子を見ても家人の気配がなかったため、16時30分ごろに玄関口から再びドアを開けて806号室に忍び入った。 当時は「この普通のマンションに現金は200万円も置かれていないだろう」と考えていたため、貴金属類・預金通帳を見つけたら家人に気付かれる前に速やかに逃走するつもりだった。 Sは自分の靴をベランダに隠し 、玄関突き当りにある居間に入って現金・預金通帳・貴金属類などを物色したが、目的とする金目の物はなかなか見つからなかったため、「Cを脅迫して現金などを強奪することに如くはない」と決意し、この時点での犯意を有した。 洋間に踏み込んだSは 就寝中だったCを脚を蹴り上げて起こした。 目を覚ましたCは「見ず知らずの男が目の前にいる」ことに驚いたが 、寝込んでいたところを突然起こされた上、高齢のため抵抗もままならなかった。 SはCに危害を加える気勢を示しながら 預金通帳・現金を出すようすごんだが 、Cは同室出入り口付近にあった棚に置かれた財布から現金8万円を取り出し 、それをSに渡して 毅然とした態度で帰るように諭し 部屋から逃れようとした。 これに対し「バカにされた」と逆上したSはCの後襟首につかみかかってCを引き戻し、再び通帳を出すよう要求して危害を加える気勢を示したが 、Cは頑なに応じなかった。 Sはこの時に緊張して尿意を覚えたため、Cに「通帳を探しておけ」と言い置いた上でトイレに行って用を足したが、トイレから戻ったところ 、Cが隙を見て居間に出て電話の受話器を取り上げ、警察に110番通報しようとしていたため 、とっさにCに体当たりしてCを仰向けに突き倒し、右尺骨および右脛骨を離開骨折させる重傷を負わせた。 SはそのままCに「何をするつもりだったんだ」と問い詰めて 殴り掛かろうとしたが 、Cから顔面に唾を吐きかけられたために激昂し 、Cを頭ごと激しく床に叩きつけたが、CはなおSに抵抗し、爪を立ててひっかいた。 これに逆上したSは殺意を持ってCに馬乗りになり 、近くにあった電気コードを抜き取り 電気コードをCの頸部に一周させて前頸部で交差させた上で、電気コードの両端を両手で持って引っ張ることでCの首を絞めつけた。 SはCの脈拍を調べて死亡を確認すると、Cの遺体の首に巻かれていた電気コードを抜き取った上でCの遺体を引きずって北側洋間に敷かれていた布団に寝かせ、家人が帰宅した際に就寝中だと思わせるように偽装工作した ほか、いったん外に出て付近の自動販売機でタバコ・ジュースを購入し 、約30分後に現場806号室へ戻った。 室内に戻ったSは、家人から金員を強取する目的で帰宅を待ち受けた一方、その間もさらに室内を物色し、Cの遺体を放置していた北側洋間内の出入り口付近にある棚に置かれていたバッグ内にあったCの財布から現金約10万円を強取し、その後も引き続き居間の中で金品を物色していた。 少女Bはこの時、学校帰りに父親Aの会社に寄り、母親Dと買い物をして家路に向かっていた。 被害者Dを殺害 [ ] 19時過ぎごろになって少女B・母親Dが買い物から帰宅したが、当時室内を物色し続けていたSはこの時までに家人の帰宅に備え、予め台所流し台の下から数本の包丁を冷蔵庫の上に移して隠していた。 Sは2人が帰宅すると冷蔵庫の上に隠していた包丁のうちの1本である柳刃包丁1本(刃渡り22. そして、何も気付かずにそのまま居間に向かおうとしたB・D両名を待ち伏せて台所から飛び出し 、2人に退路を断つようにして立ち塞がって包丁を突き付け「静かにしろ。 あまり騒ぐと殺すぞ。 ポケットのものを全部出せ」などと申し向けて脅した。 しかしDは包丁を手にしていたSに対し怯えることもなく、逆にSを「どうしてここにいるの」と厳しく問い詰めてきたため、SはDの「頭の切れそうな態度」に半ば恐れを感じて「騒ぐと殺す」と怒鳴りつけた。 Sは「女とはいえ2人を一度に相手にすることは無理だ。 もし別々の方向に走って逃げられたらどちらか1人は確実に逃げる。 2人が走って逃げ出し大声でも上げられたら終わりだ」と考えたため 、「伏せになれ」と2人を脅して居間の床に並んでうつ伏せにさせた。 その上で、既に殺害した祖母Cについて「睡眠薬で眠っているだけだ」と嘘を述べ 、2人のポケットの中に入っていた所持品をすべて出させた。 包丁で5回刺されたDは致命傷を負って 仰向けに倒れ、激痛・苦痛でうめき声を上げて身をよじって仰向けになったが、脚で床を蹴りながら約1 m ずり動いて床に置いてあったSのジャンパーに近づき、やがて失禁した。 しかしSはDへの救命措置を講じようとせず 、自分が脱ぎ捨てたジャンパーにしがみつく姿を見て「血が付くだろう」と言いつつ 、Dに容赦せずその脇腹を足で蹴ってダウンジャケットから遠ざけた。 そして「(刺されたDを)帰ってくる家人に見られてはまずい」と考えたため 、少女Bに瀕死の母親Dの足を持たせ、絶命寸前のDの体を居間から南側洋間に運び入れ、Bに床に残ったDの大量の血・失禁の跡を拭わせ、自らもそれらを拭き取って証拠隠滅を図った。 被害者Aを殺害 [ ] この時点でBは母親Dを自分の目前で刺され恐怖していたが、後に父親Aも同様に目前で刺され 、そのショック・恐怖で茫然自失状態に陥った。 また(別の部屋で既に殺害されていた)祖母Cについてもその死を知らず 、(寝かしつけられた妹Eも含めて)その身に危害を加えられることを恐れていたため 、妹Eを目の前で刺殺されるまではSに抵抗できない状態だった。 そのため、Bは(Eが保母に連れられ帰宅した際、および父親の会社へ預金通帳を取りに行かされた際に)外部の人間と接触したにも拘らず、助けを求めることができなかった。 SはDを殺害した直後から警察が突入してくる翌朝まで現場室内にBを監禁した。 Dを殺害してから15分後には保育園児の妹Eが保母に連れられて帰宅したが、Bがドアを開けてEを部屋に入れた。 SはBに命じて夕食の準備をさせてB・Eとともに3人で食事を摂り、食後にEを絞殺された祖母Cの部屋に追いやってテレビを観せた。 一方で少女Bから「父親は23時過ぎに帰って来る」と聞かされたために「金品を強取するためにその帰宅を待とう」と決意するとともに「気分転換のためにBを強姦して気を紛らわそう」と考え、21時20分ごろには先ほどDを刺した包丁で少女B を脅して 寝室に連れ込み 、その上でBに対し「服を脱げ」などと迫ったが 、Bは目の前で母親を惨殺されて恐怖に震えていたためにうまく手が動かず 逡巡していた。 しかしSの予想より早く21時40分ごろ(強姦行為の最中)に父親Aが帰宅したため、Sは慌ててBの身体から離れ、服を着てカウンター付き食器棚の上にいったん隠していた柳刃包丁を手に取り、食器棚の陰に隠れた。 男性Aがその状況に気付かず居間に入り、ベッドで横になっている娘Bを見て「寝てたのか」と声を掛けたところ、Sは金品を強奪する意図でAの背後から左肩を包丁で一突きして反抗を抑圧した。 Sは負傷して動けなくなったAに暴力団組員の名刺を突き付けて脅すとともに、組員を装い「お前が取材して書いた記事で(自分の)組が迷惑している」と架空の事実を突きつけて因縁を付け、「通帳でも現金でもなんでもいいから200万円くらい出せ」と脅迫した。 Aはまだ「妻D・母Cが目の前の男に殺された」とは知らず、「家族を守ろう」と必死だったため、Sに母親の通帳のありかを教えてしまい、娘Bに指示して宅内の現金16万円を集めさせた。 なお、現場806号室の真下の部屋に住んでいた住民は捜査本部の聞き込みに対し「同日23時30分ごろに上の部屋で『ドスン』と大きな音がした」と証言している。 Sはこの時点で致命傷を負っていたAから「勤務先の会社に行けば別の預金通帳・印鑑がある」と訊き出したためにそれも強取することを考え 、Bに命じて事務所に電話を掛けさせた。 SはBをして職場に残っていた社員へ「これから通帳を取りに行く」と伝えさせ、日付が変わった1992年3月6日0時30分ごろには居間で動けなくなり横たわっていたAを806号室に残し、Bを連れて同室を出た。 そしてエレベーターでBとともにいったん1階まで下りたが 、「Aをこのまま生かしておけば警察に通報される恐れがある」と考えてAを殺害することを決意し、Bを1階に残して806号室まで引き返した。 1992年3月6日0時30分ごろ 、Sは既に預金通帳などの所在場所を訊き出し、無用の存在となっていた被害者A を「後顧の憂いを断つため、即ちとどめを刺して口封じをする目的」で殺害した。 SはAにとどめを刺した後、反抗を抑圧されたBをクラウンに乗せて道案内させて行徳駅前の事務所に向かった。 会社の金を奪う [ ] 1992年3月6日0時40分ごろ、SはA・D夫妻の経営していた会社の事務所があった千葉県市川市行徳駅前所在のビル前に赴き、Bに「人がいるとヤバい。 俺はここで待っているから、お前が行って来い」と命じて事務所に向かわせた。 Bはビル204号室 にあった事務所に向かい、事務所内で寝泊まりしていた同社従業員の男性に「ヤクザが来ていて『お父さんの記事が悪い』とお金を取りに来ている」と告げ、事務所内から会社名義及びA・D夫妻名義になっていた預金通帳計7冊(額面合計63万5,620円)・印鑑計7個を持ってSが待っていた自動車内まで戻った。 Sはその後、それら通帳・印鑑をBから受け取ることで強取したが 、Bが事務所に行っていた間に空腹を覚えたため 、近くのコンビニエンスストアで菓子パンを買って食べていた。 SはBが事務所に現れてから約20分後に事務所へ現れたが 、その際にBに「おい、行くぞ」と声を掛け 、2人で印鑑・通帳を持って行った。 Sがビル1階にいた一方、Bは20分間にわたりビル2階の事務所にいたが、前述のように祖母C・妹Eに危害を加えられることを恐れていたため 、この時は特に従業員に助けを求めることはなかった。 一方でBの行動を不審に思った従業員は派出所に連絡し、1時30分ごろに葛南警察署員 とともに806号室に出向いた上で 部屋のドアを叩いたり室内に電話をかけたりしたが 、この時は部屋の照明が消えており応答もなかったため、署員は「不在だ」と思い引き揚げた。 なおこの時点ではいずれも前述したようにBの両親(A・D夫妻)および祖母Cの3人は既に殺害されていたが、寝かしつけられていた妹Eはまだ生存していた。 通帳・印鑑7組を奪ったSはそのままBをクラウンに乗車させて市川市塩浜三丁目にあったラブホテルにBを連れ込み、このホテルの5階501号室で一夜を過ごした。 Sはこの間、ラブホテル室内で30分ほどかけて通帳の額面を調べたり、印鑑・通帳の印影を確認したりしていた上、ここでもBを強姦した(4度目)。 そして4時間近く熟睡し、目覚めてからBに5度目の強姦を行った。 被害者Eを殺害 [ ] 3月6日6時30分ごろ、SはBとともにマンション806号室へ戻り 、既に一家3人が死亡していた部屋でしばらく時を過ごしていたが 、寝室で寝かせていたBの妹Eが目を覚まして 泣き始めていた。 Sは「Eが両親・祖母の死を知って泣き叫べば、近隣住民にその声が聞こえて犯行が発覚する」と恐れたため、その発覚を免れる目的でEを殺害することを決意し、6時45分ごろになって食器棚のカウンター上においてあった前述の柳刃包丁(A・D夫妻を殺害した際の凶器)を右手に持って寝室に入ると、自分に背を向けて布団の上に上半身を起こして座っていたEに近づき、その背後から左手でEの顎のあたりを押さえつけながら、殺意を持ってその背部を包丁で1回突き刺した。 この刺突行為は包丁がEの幼い体を貫通し、刃先が胸まで突き抜けるほどのもので 、Eは「痛い、痛い」と弱々しく声を出してもがき苦しんだ。 SはBに対し「妹を楽にさせてやれよ。 Bはこの時までに目の前で家族を皆殺しにされ、自らも複数回陵辱されたことで心身ともに打ちのめされていたが 、目の前でEが殺害された直後(6時50分ごろ)に「どうして妹まで刺したの!」とSに食って掛かった。 しかしSは「突然のBの反抗」に逆上して包丁を振りかざし、Bの左上腕・背中を切り付け全治2週間の怪我(左上腕切創、背部切創)を負わせた( 罪状その14・傷害罪)。 結果的に室内でのSの犯行は5日16時30分ごろ(侵入・Cを絞殺) - 6日6時50分ごろ(Bへの傷害)と約14時間に及び、一晩で家族4人を失った被害者Bは帰宅(19時過ぎ) - 警察出動(6日9時ごろ) まで監禁され続けた。 一家4人の人命が奪われたこの事件でSに強奪された被害総額は現金合計約34万円・預金通帳計9冊(額面合計424万円余り)に上り 、後に被告人Sと文通した『』()社会部記者・瀬口晴義は「検察官による冒頭陳述書を読んで『凶悪・凄惨という形容詞が陳腐に思えるほど残酷な場面』の連続で吐き気を催したほどだ」と述べた。 捜査 [ ] 一方でA・D夫妻の会社事務所に勤めていた男性社員は深夜にBが訪問してきたことを不審に思っていたが 、3月6日早朝に自宅の電話に再びBから「金の工面を求める電話」を受けたため 「社長宅の様子がおかしい」と不審に思い、同日8時過ぎになって マンションに電話を入れた。 社員からの電話に出たBは「おはよう」と言ったきりそのまま電話口で押し黙ってしまったが 、従業員が「脅している奴が部屋にいるのか」と尋ねるとうなずいた。 従業員はBの対応が不自然だったことに加え 、部屋を訪ねてもドアの鍵がかかっており呼んでも返事がなかったことを不審に思い 、9時ごろになって近隣の葛南警察署 行徳駅前交番に「知り合いの社長の娘から不自然な電話があった。 家族が刺されたらしい」と110番通報(Sが事務所に来た直後以来2度目)した。 その後、従業員が派出所の警察官とともに部屋の玄関前へ駆け付けたが、玄関は施錠され呼んでも返事がなかった。 そのため署員が隣の部屋からベランダを伝って窓から806号室に踏み込んだところ 、室内の壁などに血が飛び散り 、一家4人がそれぞれ別々の部屋で死亡していた。 また、室内では警察官が現場に駆けつけるまで十数時間にわたってBを監禁していたSがBとともに呆然と立ち尽くしていた。 Sは警察官が現場に踏み込んできたころ、冷蔵庫の上に置いてあった文化包丁を取ってBに持たせ 、Bが犯人であるかのように仮装して逃亡を企て「俺は逃げるから、俺を脅しているように(包丁を)持て」などと言っていたが 、9時30分ごろになって通報を受けて駆け付けた警察官たちが現場から逃走しようとしたSを取り押さえて現場へ連れ戻し 、Sがナイフを所持していたことから違反容疑で現行犯した。 一方、Bは警察によって保護された。 千葉県警捜査一課・葛南署は 殺人事件として本事件の捜査を開始し 、1992年3月6日夕方に捜査本部を設置した。 その上で捜査本部は長女Bと少年Sを それぞれ参考人として任意同行し、2人から前夜からの行動などについて 詳しく事情を聴取した。 警察が(結果的には被害者と判明した)Bに対しても嫌疑を向け、重要参考人として取り調べた理由は「事件当時、Bは少なくとも2度(妹Eの帰宅時・両親の部下の下へ預金通帳を取りに来た際)に外部へ助けを求める機会があったにも拘わらず助けを求めなかった点」に関する理由が判明せず、その点を疑問視していたためだった。 この時点で既に銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていたSは 取り調べに対し当初、事件への関与を否定して「先月にBと知り合い、A宅の住所と電話番号を聞き出した」「Bとは一緒にコンサートに行った」などと虚偽の供述をした一方で、被害者のBはショックのためか取り調べに対しても何も話すことができなかった。 千葉県警捜査本部は当初、Sの虚偽の供述を真に受けて「S・B両名を殺人容疑で取り調べている」と発表したが 、その後も丹念に真偽を調べた末にそれらを「Sの虚言」と突き止めた。 同日深夜、Sは一転して犯行を認め 、具体的な動機に関して「交際していた女性のことで暴力団組員から脅されており、200万円ぐらいの金が欲しくてやった。 806号室に盗みに入ったところCに見つかったので絞殺し、帰宅した家人を次々と刺殺してBを監禁していた」と供述した。 そのため、捜査本部は銃刀法違反容疑(前述の現行犯逮捕容疑)についていったん釈放の手続きを取った上で 、強盗殺人容疑で被疑者Sを逮捕した。 その後、Sは現場マンションで犯行を決行した理由に関して「マンションの近くまで行ったことがあり『この家ならやりやすい』と思った」と供述したため、捜査本部は本事件を「Sが金に困った挙句、標的を絞り下見をした上で実行した計画的な犯行」と推測してSを追及した。 1992年3月7日9時30分ごろから現場検証が行われた結果、現場から血液の付着した凶器の包丁が発見され、捜査本部は包丁の柄などから採取した指紋を鑑定するなど裏付け捜査を行った ほか、事件当時Sが住んでいたマンションを家宅捜索して書類など数点を押収した。 捜査本部は1992年3月8日に被疑者Sをへし 、1992年3月9日・10日両日にで殺害された被害者4人の遺体をした。 その結果、絞殺された祖母Cを除く被害者3人(刺殺されたA・D・E)の死因は「胸を刺されたことによる失血死」 、Cの死因は「首を絞められたことによる窒息死」と確認された。 1992年3月12日、(市川市)で殺害された被害者4人の葬儀が営まれ、被害者Bが喪主を務めた。 葬儀の最後に喪主のBに代わって親類代表としてAのいとこが 本事件に関して「平和な家庭を一夜にして奈落の底に突き落とした信じがたい出来事。 悪魔の所業だ。 このような犯罪が二度と起こらないよう、犯罪防止に努めてほしい」 「学識者・マスコミが中心になってこんな惨劇が二度と起こらないように努めてほしい」と挨拶した。 『中日新聞』1992年3月15日朝刊は後述の問題に言及して「その言葉は千葉県警・マスコミに厳しい課題を課した」と報道した。 千葉県警の発表・報道 [ ] 千葉県警は前述のように事件当初は加害者Sのみならず、結果的に被害者と判明した少女Bに関しても嫌疑を向け 、S・Bの両者を 重要参考人として取り調べていた。 また県警はマスメディアに対し、事件判明直後(1992年3月6日)の発表の際には少年Sが銃刀法違反容疑で現行犯逮捕されていた事実を発表しなかった一方 、「室内には長女Bのほか、自称19歳の『Bの男友達』がいた。 2人から参考人として事情聴取している」と発表した。 結果的に3月6日付新聞夕刊の一部・テレビニュースでは「長女・男友達から事情聴取」という報道が流れ、最終的には被害者と判明したBについて「『犯行に関与しているかもしれない』という警察・記者側の予断に基づいた、読者に誤解を与えかねない記事」による報道がなされ 、事件解決後に新聞各紙・関係者から問題提起がなされた。 新聞各紙夕刊の見出しは以下表の通りで、記事内容の概要はいずれも「市川市内のマンションで家族4人が血まみれの状態で倒れて死亡していた。 県警葛南署は4人の遺体に刺し傷があったために殺人事件として捜査を開始した上で、現場にいた高校1年生の長女(B)と『長女の友人の若い男性』(=加害者少年S)の2人から事情聴取している」というものだった。 1992年3月6日・7日付新聞各紙朝刊における被害者一家5人の実名報道状況 新聞名 3月6日夕刊見出し 死亡被害者4人 被害者B 備考 『』 「一家4人殺される 市川のマンション 部屋に高一の養女 男友達も、事情聴く」(東京夕刊) 実名 匿名 『』 「一家4人刺殺される 長女・友人から聴取」(東京都内版) 「一家4人殺される 市川」(千葉県内版) 全国版の社会面では県警から発表された事実が反映され「19歳の少年逮捕へ」という見出しに修正されたほか、千葉市以西に配達された朝刊でも朝刊段階で「事件はSの単独犯」という内容に修正された。 一方で県南部・北東部向けの朝刊早版では修正が追い付かず、3月7日付朝刊地方面では「数カ月間深夜に物音」「詳しい事情聴取 長女と男友達から」という見出しになっていた。 『』 「マンションで5人家族の一家4人、刺殺される--千葉・市川市」(東京夕刊) 「一家4人、刺殺される 高1長女無事、男友達も--千葉・市川」(大阪夕刊) 『』 『』 「家族4人殺される 千葉のマンション 長女と男性から事情聴く」 5人全員匿名 社会部長・稲田幸男は「両親の名前を書けば生き残った長女Bが特定されてしまう虞があったため家族全員を匿名とした。 社内では『実名報道の大原則に反する』と反対意見も出たが、今回の判断はそれを侵すものではないと考えている」と説明した。 『』 (発行せず) Sが強盗殺人容疑で逮捕された後の3月7日朝刊が第一報。 『』 「一家4人殺される? 千葉・市川のマンション」 5人全員実名 編集局次長・橋本直はBの実名報道に関して「第一報の段階ではBも千葉県警から嫌疑を掛けられていた状況だったため匿名にしたが、7日の朝刊作成段階で『Bは完全な被害者』と判明したため、それを明確に示すためには実名報道の方が適切と判断した。 しかし被害者にとっては陰惨で気の毒な事件であり一刻も忘れたいことだろう。 今後の報道の方法は考えたい」と説明した。 『』 「一家4人刺殺される 長女と男友達から聴取 千葉のマンション」 同日17時には千葉県警が2回目の記者会見を行ったが、県警はこの時にも同様に「B・Sの2人から事情聴取している」と発表したほか、「警官が現場に駆けつけた時、SとBは室内で呆然と立っていた」と説明し、これも現場の記者たちの予断に追い打ちをかけた。 夕刊発行後の21時30分になって 同日3回目となる記者会見が開かれ 、千葉県警は報道陣に「本事件はSの単独犯行であり、Bは全くの被害者である」という事実を発表したが 、『朝日新聞』では地域版によって修正作業が追い付かず、上の表で示したように全国社会面と千葉県版地域面で整合性を欠く記事が掲載された。 このほか『朝日新聞』の報道検証記事では「一部スポーツ新聞がBが養女である点(事件の主旨とは特に関係ない)に注目したり、裏付けを取らないまま被害者一家の生活ぶりを報道したほか、事件3日後(1992年3月9日)の朝にで放送されたワイドショー番組『』ではBの同級生へのインタビューの際にリポーターとその質問に答える同級生がBの実名を口にし、その問答がそのまま放送された」ことも指摘された。 事件解決後、千葉県警刑事部長は3月6日夜に「Bが最大の被害者だった」とコメントしたほか、Bが当時通っていた県立高校の担任教諭は事件後に「昼間に千葉県警が『長女B・少年Sの両者から事情聴取している』という発表があったにせよ、マスコミの取材はBを犯人扱いしていた」と批判した。 差別を受けやすい養子・養女には配慮が必要だと思う。 マスメディアには『』がないよう最大限の配慮をしてほしい」という読者からの発言が掲載された。 精神鑑定・起訴 [ ] 被疑者Sは逮捕直後、「ならどんな犯罪でもにより処罰は軽くなる」と考えていたため、自分が死刑になる可能性は考えておらず「これでも俺も行きか」程度にしか考えていなかった。 その考えの背景には当時、S自身が少年犯罪への刑罰ついてあまり知識を有していなかったことに加え 、「死刑になる者は過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいだ。 同事件の加害者少年たちと自身の犯行を比較して「自分の犯行はコンクリート事件ほど長期間ではなく、(事件前に)凶器を準備していない」とも考え 、逮捕後には自身の出所後の生活設計のため、面会に訪れた母親Yに頼んで高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書類を差し入れさせていた。 千葉地検は送検後の1992年3月25日、勾留期限満期(1992年3月27日)を前にのため被疑者Sを1992年3月26日から鑑定留置することをに申請した。 この間に教授(当時)・が半年間にわたり精神鑑定を行い 、千葉地検は鑑定結果を踏まえて「Sはカッとなると歯止めが効かなくなるが、完全ながあった」 と結論を出し 、1992年10月1日に強盗殺人・傷害など5つの容疑で被疑者Sを「刑事処分相当」の意見書付きでに送致した。 その後、千葉家裁(裁判官)は4回にわたるを経て1992年10月27日に被疑者Sを千葉地検にした。 千葉地検は1992年11月5日にSを強盗殺人・傷害など5つの各罪状で千葉地裁へした。 また、1991年10月19日に東京都内で起こした別の傷害事件(前述)に関しても同日付で被疑者Sを起訴したほか 、公判開始後の翌(平成5年)2月17日までに「一家殺害事件前の余罪3件(いずれも前述)」に関して傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷の計4つの罪状でSを千葉地裁へ追起訴した。 起訴内容は以下の通り。 1992年2月11日4時30分ごろ、被告人Sが東京都内の路上での女性に折り畳みナイフを突き付け、殴るなどの暴行を加えた上、手を切り付けて脅迫し、自宅に連れ込み強姦した容疑(強姦致傷罪)。 1992年2月25日、被告人Sが市川市内で通りすがりの会社員男性に因縁をつけて鉄の棒で頭を殴り、自動車運転免許証を奪い金を要求した容疑(恐喝罪)。 1992年2月27日、被告人Sが埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)内で通りすがりの大学生の顔を殴り、ナイフで全身数十箇所を刺すなどして全治6週間の怪我を負わせ、運転免許証や車検証などを奪った容疑(傷害・窃盗罪)。 刑事裁判 [ ] で被告人Sは強盗殺人・強盗強姦・恐喝・窃盗・傷害・強姦・強姦致傷と7つの罪に問われ「1991年10月から一家殺害事件直後に逮捕されるまでの約5か月間に計14の犯罪を繰り返した」と認定された。 第一審・千葉地裁 [ ] に関しては主に被害者への殺意の有無・程度や強盗の犯意が争点となり、検察官側は「被害者4人全員に確定的殺意があり、全員に対し強盗殺人罪が成立する」と主張した一方、被告人Sは被害者4人のうち女性C(被害者少女Bの祖母)以外の3人については強盗殺人罪の成立を否認した。 各被害者に対する殺意・罪状の認定 被害者 の選択 適用罪状 殺意の事実認定 検察官の主張 被告人Sの罪状主張 被告人Sの殺意主張 祖母C 無期懲役 強盗殺人罪 確定的 強盗殺人罪 殺意は確定的 強盗殺人罪 殺意は未必的 母親D 死刑(実際に適用) 未必的 傷害致死罪 もしくは 強盗致死罪 殺意なし 父親A 確定的 強盗致死罪 妹E 殺人罪 殺人罪 殺意は未必的• 被害者Bへの強姦致傷罪・強姦罪 - いずれも有期懲役刑を選択• その他各種余罪 - いずれも懲役刑を選択 各罪状における量刑選択の内訳は以上の通りであったが、刑法第51条()の「死刑を執行すべきときは没収を除き他の刑を執行しない」という規定により、実際に適用された刑は「犯情の最も重い妹Eに対する殺人罪への死刑」と「押収された折り畳みナイフ1丁(平成5年押収第52号の2)の」のみで、それ以外の刑は科されなかった。 また犯行当時の被告人Sのについても争点となり、検察官は(起訴前)・(公判中) による2度の精神鑑定結果を踏まえ「2度の鑑定でも精神病の兆候は認められず、自己の行為の是非・善悪を弁別する能力に障害はなかった。 被告人Sには完全な責任能力がある」と主張した一方、弁護人は福島による精神鑑定の結果に基づき「被告人Sは爆発型精神病質・類転換病質で、犯行当時は心神耗弱状態だった」と主張した。 しかし千葉地裁は「2度の精神鑑定から『心神耗弱だった』と断言することは困難。 『爆発的精神病質者』との鑑定があるが、責任能力に支障をきたすほどではなかった」として「責任能力は問題なくあった」と結論付けた。 千葉地裁は事実認定に関しても被害者Eに対する罪状(強盗殺人罪ではなく殺人罪を適用)および被害者Dに対する殺意の程度(未必的殺意)を除き、大筋で検察官の主張を採用し 、死刑を適用した。 初公判 [ ] 1992年12月25日に千葉地裁刑事第1部(裁判長)で一連の事件の初公判が開かれた。 前述のようにこの時点では余罪の追起訴が未完了だったため、検察側はこの日の冒頭陳述は見送り、次回公判(1993年3月3日)までに追起訴した上で改めて冒頭陳述・追起訴状の罪状認否を行うことになった。 罪状認否でSは 、被害者B宅を知るきっかけとなった強姦事件などについて全面的に起訴事実を認めた一方で 、殺意などに関しては上記表のように争った。 弁護人も被告人Sと同様に「外形的な事実関係」は認めたが、犯意・目的などの点に関する起訴事実を一部否認し 、公判後の記者会見では「被告人Sが千葉地検に逆送致される際、千葉家裁は我々の主張にほぼ沿う判断をした。 検察側が殺意を確定的と主張すれば全面的に争う」と話した上で、被告人Sについては「『被害者に何とかお詫びをしたい』といつも言っている」と話した。 第2・3回公判 [ ] 事件から1年を前にした1993年3月3日に千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)で第2回公判が開かれ 、被告人Sは同年1月に追起訴された計4つの余罪(傷害・恐喝・窃盗・強姦致傷など)に関する罪状認否でそれらの起訴事実をほぼ認めた。 その後行われた冒頭陳述で検察側は「被告人Sは暴力団員から要求されていた金以外にも遊興費など欲しさから一家4人を次々に殺害して現金約34万円・残高約420万円の預金通帳を奪った」などと主張し 、事件の引き金となった暴力団員とのトラブルなど様々な新事実を明らかにした。 この時点では弁護人側は「検察側による精神鑑定の結果には疑問があるが、被告人Sの責任能力は争わず、再度の精神鑑定は求めない」という考えを示した上で 「今後は被害者に対する反省の態度など『情状面での立証』に全力を挙げたい」と表明していた。 そのため千葉地裁は当初、次回公判(第3回公判・1993年5月19日)で・被告人質問を、第4回公判(1993年5月26日)で弁護人側の情状立証公判を行い、進めた上で1993年6月中に結審 することを予定していた。 しかし、次回公判までにそれまでと方針を一転させ、「1993年2月に追起訴された傷害・恐喝など別事件に関してはいずれも常人の理解を超えている」と主張し 、千葉地検が起訴前に小田へ依頼して半年間実施した精神鑑定の結果に対し「精神的な面が主な観点であり、犯罪心理面からの鑑定が必要である」と異議を唱えた。 第3回公判で弁護人がその方針を改めて表明したのに対し、千葉地検は「起訴前に半年間にわたって詳細な精神鑑定を実施しており再鑑定の必要性はない」と反対意見を述べたが、弁護人側の請求を受けた千葉地裁はいったん休廷して3人の裁判官による合議を行った。 その結果、神作裁判長は弁護人からの請求を認めて心理学教授(当時)・に委嘱し、約半年間にわたり再度の精神鑑定を実施することを決めた。 そのため、結審間近の公判中に別の角度から再度の精神鑑定が行われる異例の展開となったほか 、1993年6月21日に予定されていた論告求刑公判期日も取り消されたため、公判の長期化は必至となった。 第3回公判では被告人質問も行われ 、被告人SはC・E両被害者に対する殺意をそれぞれ認める供述をした一方 、A・D両被害者への殺意に関しては「その時は殺すつもりはなかった。 背中を刺して死ぬとは思わなかった」と否認したが、「なぜこんな事件を起こしたのか」という質問に対し「短絡的でした」と反省の言葉も述べた。 弁護人は同日に情状証拠として「被告人Sが被害者遺族の関係者宛てに書いた謝罪の手紙」「A一家とは別の事件被害者に対して支払った50万円近い被害弁償を証明する領収書」などを証拠申請した。 2度目の精神鑑定とその後の公判 [ ] 弁護人側の申請を受けて1993年5月 - 11月まで約半年間にわたり、福島による2度目の精神鑑定が行われ 、1993年11月20日までに福島は「被告人Sの母親Yが妊娠中に流産予防のため黄体ホルモンを約2か月間服用したが、出生したSはその『胎児に対する男性化作用』により攻撃的な性格になり、突然感情を爆発させる『間欠性爆発性精神病質』で『周期性気分変調』と診断される。 軽度の脳器質障害も見られ『興奮状態になる精神的な不安定さ』を有しているが、こうした心理・精神状態は中高年(30歳代)で矯正可能である」とする新たな鑑定結果を千葉地裁に提出した。 福島も小田鑑定と同様に「被告人Sは精神疾患ではなく刑事責任は問える」と評価したが、一方で「被告人Sは心身成熟過程にあり精神的に不安定な性格異常である。 しかし19歳は心身の成熟過程にあり、今後人格の改善の可能性がある」という見解を示した。 一方で千葉地検は精神鑑定中の1993年8月(事件から1年5か月)に「被害者Bに対する期日外尋問」を行ったが、Bは尋問に対し「他の人が手に包丁を持ったまま振り向いたりすると『刺されるんじゃないか』と思って恐怖を感じる。 夜はほとんど1人では出掛けなくなった」と供述し 、量刑などに関しても被告人Sに対し極めて厳しい意見を述べた。 1993年11月22日に第4回公判が開かれ 、福島による再度の精神鑑定結果に加え、検察官が提出した被害者遺族の尋問調書などが証拠として取り調べられた。 同公判後、弁護人は記者会見で「被告人Sは通常時・犯行当時ともに精神的には正常であり性格に偏りがあるにすぎないが、値が高いという体質的要素から『自分の感情をコントロールする能力』・『刺激に寄って我を忘れやすくなる性格』が結びついている。 これまでの司法判断で言えば刑事責任能力は取れるが、今回は体質的な要素や、その要素は年齢を重ねるにつれて改善されるものであることを考慮して被告人Sのをすべきである」と述べた。 また同日には次回第5回(1994年1月31日)以降の公判予定も改めて指定され、千葉地裁は第6回公判(1994年2月23日)で論告求刑・1994年3月に最終弁論を行って結審し、1994年4月に判決公判を開くことを決めた。 (平成6年)1月31日に開かれた第5回公判で証人尋問が行われ、弁護人側の情状証人として出廷した被告人Sの母親Yは前回公判で弁護人側が提出した精神鑑定の結果に関して「『妊娠中に常用していた黄体ホルモンの影響で息子Sの性格が攻撃的なものになった』と聞いて驚いた。 家庭の事情による度重なる転校で学校でのいじめもあったようだ」と証言した。 同日、被告人Sは被告人質問で「犯行当時は自分の行動が理解できなかった。 今は(当時の収監先)内で聖書を読むなどして心を落ち着かせている」と述べた。 一方で次回公判(1994年2月23日・第6回公判)では当初予定していた論告求刑ではなくそれぞれ最後の被告人質問・証拠調べを行った上で、1994年3月14日に改めて検察側の論告求刑を行うこととなった。 1994年3月14日に第7回公判が開かれ、千葉地裁は論告求刑公判の予定を再び変更して被告人質問を行ったが、被告人Sは「犯行に至った経緯・心境」「取り調べ状況」などについて質問を受けて「事件当初は空き巣目的で計画的な強盗ではなかった」などと強調した。 同日をもって証拠調べは終了し、次回公判(第8回公判・1994年4月4日)で検察側の論告求刑を行うこととなった。 死刑求刑 [ ] 千葉地検は論告求刑を前に上級庁であると慎重に協議を行い 、1994年4月4日に千葉地裁(神作良二裁判長)で開かれた論告求刑公判(第8回公判)で 被告人Sに死刑を求刑した。 少年犯罪に対する死刑求刑は異例で 、当時は1989年1月・の第一審()以来だった。 同日の論告で検察官は殺害された被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した上で完全責任能力があることを主張し 、尋問調書でBが述べた被告人Sへの極刑適用を望む言葉も読み上げた。 「今でも両親らとの楽しかった思い出を夢に見る。 私から大切なものをすべて奪ったSが憎くてたまらない。 Sをこの手で殺してやりたいし、Sはこの世に生きていてほしくない。 Sは許されていいはずがない。 優しかった父母や祖母、自分に『お姉ちゃん』と甘えてかわいかったEをなぜ殺した。 家族を返せ」 — 被害者少女B、永瀬 2004 p. 93 そして、量刑理由については「一連の犯行は全て被告人Sの単独犯行で、少年犯罪にありがちな『』とは事情が異なる」 「で示された死刑適用基準をすべて満たしていることから明らかなように被告人Sの刑事責任は誠に重大で、情状酌量の余地はない。 罪刑均衡・犯罪予防の見地から命をもって罪を償わせ、今後このような凶悪犯罪が起きないようにすることが司法に課せられた責務だ」と主張した。 公判後に記者会見した被告人Sの主任弁護人・弁護士は「生育環境など同情すべき事情や矯正可能性を評価しておらず、最近の死刑廃止の動きに逆行する求刑だ。 被害者や遺族には申し訳ないと思うが、当時少年のSには矯正の可能性があり、死刑は少年法の精神からして厳しすぎる」と述べた。 前述のように逮捕直後「少年犯罪なら死刑にはならない」と考えていた被告人Sはこの論告求刑公判で死刑を求刑されたことで「後の死刑判決宣告以上に」大きな衝撃を受けた一方、検察官に対しては嘲笑・に近い感情も抱いていた。 結審 [ ] 1994年4月27日の第9回公判では当初弁護人の最終弁論が行われる予定だったが、弁護人側は同年4月15日までに「事件当時少年の被告人に対して行われた死刑求刑に対し『死刑制度の是非』という大局的な見地で判断を仰ぎたい」との考えから、同公判で死刑制度の是非そのものについて問いかける内容の弁護人側立証を行うことを決めた。 千葉地裁もその方針を認めたため、予定されていた最終弁論は延期され 、追加の被告人質問・証拠調べが行われた。 弁護人は起訴前に精神鑑定を行った小田が鑑定前に事件について言及した週刊誌記事 や被告人Sの母親Yから提出された情状酌量を求める上申書2通などに加え、超党派国会議員による『』の発足を報じる新聞記事 などを証拠として提出したほか 、被告人Sは被告人質問で死刑求刑に関して「自分の犯してしまった罪の重さを痛切に感じている」と述べた。 1994年6月1日に開かれた第10回公判で改めて弁護人の最終弁論が行われ、同公判をもって第一審公判が結審した。 弁護人は検察官の「被害者4人への確定的殺意・C以外3人への強盗殺人罪の成立」をいずれも否認し、「犯行当時、被告人Sは心神耗弱状態だった」と主張して死刑回避・無期懲役刑の適用を求めた。 情状面に関して以下のように主張した。 被告人Sの母親Yは各余罪の被害者に対しいずれも誠意ある謝罪をした上で、所有するマンションを売却するなど可能な限りの方法で資金を作り以下のように示談をした。 1991年10月19日の江戸川区内における傷害事件の被害者男性に対し、示談金45万円を支払って示談が成立した。 1992年2月11日未明の中野区内における傷害・強姦事件の被害者女性に対し、示談金155万8,475円を支払い示談を成立させた。 1992年2月25日未明の市川市内における傷害・恐喝事件の被害者男性に対しては示談成立に至らなかったが、治療費・休業損・慰謝料の内金として50万円を現金書留郵便で送付した。 2月27日未明の埼玉県岩槻市内における傷害・窃盗事件の被害者男性に対しても同様に合計50万円を送付するなどして被害弁償に努めた。 被害者Bとの接触は拒否されたが、A一家の菩提寺へ被害者の墓参りに訪れたほか、供養のための喜捨をするなどして被害者の冥福を祈った。 死刑廃止は先進国際社会の常識で、死刑制度がある先進国は日本以外ではの一部州のみである。 少年法で18歳未満の少年への死刑適用は禁じられているが、被告人Sは犯行当時19歳で18歳とわずか1年1か月しか違わない。 事件は計画的ではなく、被告人Sは不幸な生育環境にあり当時精神未発達の少年だったが深く反省しており、矯正する可能性が高い。 被害者はSの犯行の合間に警察に通報する機会があった。 最後に被告人Sは、神作裁判長から「何か言いたいことはあるか」と問われて「大変な事件を起こして申し訳ない。 これから生きていく中で少しでも償うように過ごしていきたい」と述べた。 しかし『千葉日報』は公判中の被告人Sの態度に関して「心情を吐露することなく、被告人質問における供述も相手任せだったり、自分の言葉で深い心情を語らなかったりと、自らの生死を決する裁判の進行もまるで他人事と受け止めているかのような姿勢に終始していた」と述べている。 死刑判決 [ ] 1994年8月8日に判決公判が開かれ 、千葉地裁刑事第1部(神作良二裁判長)は検察側の求刑通り 被告人Sに死刑判決を言い渡した。 犯行当時少年への死刑判決は(108号事件)における1990年の第三・第二次上告審判決(差し戻し控訴審の死刑判決を支持して被告人・の上告を棄却)以来であり、第一審では1989年の・判決(控訴審で破棄・無期懲役が確定)以来であった。 理由で千葉地裁は「国際的にみるとそれぞれの国の歴史的・政治的・文化的その他の事情から、現在は死刑制度を採用していない国が多く、我が国においても一部に根強い死刑反対論がある」と述べたが 、永山事件における1983年の「」を引用した上で 、以下のような理由から「深く反省していることや、事件当時精神的に未熟な少年だったこと、不遇な家庭環境など被告人Sに有利な情状を考慮しても罪刑均衡・一般予防の見地から極刑をもって臨まざるを得ない」と結論付けた。 「各種の結果などが示している通り『いくら人を殺しても加害者本人の命は保証される結果になる』死刑廃止には多くの国民が疑問を抱いている。 死刑制度が存置している現法制下で死刑は極めて抑制的に適用されており、生命は尊いものであるからこそ犯した罪を自己の命で償わなければならないケースもある。 これは少年犯罪についても異なることではない。 何の落ち度もない被害者一家4人の命を奪った犯行は『意に沿わないものは人の命でも奪う』という自己中心的・反社会的なもので、残虐・冷酷で身勝手だ。 殺害ぶりも終始冷静・冷酷非道で社会に与えた衝撃は計り知れない」• 「犯行当時少年とはいえ、被告人Sは犯行当時は上成年とみなされる19歳の年長少年で、肉体的にも十分成熟して社会経験も積んでおり、知能も中位で酒やたばこを常用するなど、生活習慣も成年と変わらない。 被告人Sは深く反省して被害者の冥福を祈るなどしており、更生の余地がないとは言えないが、目の前で家族を次々に殺され一人遺された被害者Bの被害感情は峻烈で、被害者一家に対する被害は回復不可能だ」 判決への反応・控訴 [ ] 本判決に関して犯罪事件研究倶楽部 2011 は「死刑廃止を求める議論が活発になっていた当時、世論の注目の中で犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡された本事件判決はその後の刑事裁判にも影響を与えるものだった」と 、永瀬 2004 は「被告人Sは死刑判決を受けたことで初めて一家4人殺害の罪の重さを受け止め『犠牲者の苦痛と身も凍る恐怖』を知ることとなった」と述べている。 また(当時)・は被害者の立場から本判決を「自己目的の完遂に他人の犠牲をいとわぬ犯行で19歳への死刑適用は合法であり当然だ。 家族すべてを失いただ一人生き残った長女Bが『あんな男は生きていてほしくない』と語ったように、被告人Sを死刑にしなければ被害者遺族はさらに苦しむことになる」と評価した一方、日本支部・は「死刑廃止論が高まっている現状においてあえて少年に死刑を科するならば裁判所はその理由を積極的に示すべきだ」と述べ、死刑判決に否定的な見解を示したほか、弁護士・ も「被害者感情から死刑判決を出すことは簡単だが、そこから社会が学ぶものは何もない。 10回の公判で大人社会が少年を絞首刑にする結果となったが、法廷で少年が心を開いたとは思えない。 犯行へ至る心のひだを解明すべきだ」と指摘した。 千葉地検次席検事・三谷紘は「一部の点(次女Eに対する単純殺人罪認定など)で主張と異なる事実認定がされたが、こちら側の主張をほぼ認めた判決であり、量刑も求刑通りで妥当だ」と述べた一方 、被告人Sの弁護団(主任弁護人・奥田保)は閉廷後の記者会見にて「犯行時に被告人Sが未成熟だったことなどを否定し、世界的な死刑廃止の潮流に逆行して被害の重大性のみに目を奪われた量刑であり極めて遺憾だ」と本判決を批判した。 その上で被告人S・弁護人は判決を不服として、閉廷後の同日午後にへした。 控訴審・東京高裁 [ ] にて開かれた控訴審で弁護人側は以下のように「被告人Sの殺意は『未必の故意』もしくは存在しなかったにも拘らず、原判決は『確定的な故意がある』と事実誤認をしている」と主張した。 祖母C(確定的殺意・強盗殺人罪)および妹E(確定的殺意・殺人罪) - 殺意は未必である。 母親D(未必の殺意・強盗殺人罪)および父親A(確定的殺意・強盗殺人罪) - 殺意はなく強盗致死罪が成立するに過ぎない。 また第一審における「爆発的精神病質者」という主張に関してはアメリカ合衆国の心理学者 ・ライニッシュの論文を添えて補強した上で 改めて完全責任能力を否定する主張を展開したほか 、「世界的な死刑廃止運動」「18歳未満への死刑適用を禁じた少年法の趣旨」 を強調した上で「死刑判決を破棄して無期懲役刑を適用するのが相当である」とする旨を主張した。 しかし(平成8年)に開かれた控訴審判決公判で東京高裁刑事第2部(裁判長) は第一審・死刑判決を支持して被告人S・弁護人の控訴をする判決を言い渡した。 東京高裁は「犯行当時少年で、年齢を重ねれば教育によって改善の可能性はある」と被告人Sに対して有利な情状も認定したが 、以下のような様々な情状の認定により死刑を回避するには至らず「犯した罪の重大性を見ると犯行は卑劣・残虐であり生命に対する畏敬の念を見い出せない。 その罪の重大性から死刑に処すのはやむを得ない」と結論づけた。 被害者の傷の深さ・犯行後に救命措置を考えていないことなどから原審の殺意認定は正当である。 弁護人側の主張する『黄体ホルモンの影響による心神耗弱』の根拠である学者の研究はあくまで「性格的な傾向を見る」にとどまり、攻撃性の異常な増加を示してはいない。 また弁護人は被告人Sが犯行当時「爆発的精神病質者」であったことを主張しているが、被告人Sは犯行当時異常な心理状態にあったとは考えられない。 被告人Sは本事件前から粗暴な犯行を重ねており「自己の衝動・攻撃性を抑制しようとしない危険な傾向」が顕著である• 「自分より強い者には衝動を抑制し弱い者には抑制しない」など自己の攻撃行動を区別している。 一家殺害事件の際もむしろ「状況に応じた冷静な行動」を取っていたため、行動制御能力に著しい減退はなかったことが認められる• 犯行動機・殺害方法・殺害された被害者数に照らして責任は誠に重大で、特に幼くして命を奪われた幼女(E)には深い哀れみを禁じ得ない。 被告人Sの弁護人側は判決を不服として同日付でへした。 上告審・最高裁第二小法廷 [ ] 第二小法廷(裁判長)は事件発生から丸9年となる(平成13年)3月5日までに被告人Sの上告審公判開廷期日を「2001年4月13日」に指定して関係者に通知した。 2001年4月13日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護人は死刑回避(原判決破棄)を、検察官は上告棄却を求めた。 被告人Sは犯行を深く反省しているほか、死刑は残虐な刑を禁じたにするもので、特に少年への適用は許されない」と主張した。 一方、検察官は「弁護人の主張は量刑不当・事実誤認で上告理由として認められない。 なんら落ち度のない被害者ら自分より弱い者に対する冷酷・残虐な犯行は許されず、被害者遺族も極刑を望んでいる」として上告棄却を求めた。 結審当初は「2001年夏までに判決が言い渡される見通しだ」と報道されていたが 、「最高裁で弁論が開かれた段階」で新たに弁護人に就任した弁護士・が他の弁護人2人とともに「事実認定を全面的に洗い直す必要がある」として最高裁第二小法廷に弁論再開の申し立てをした。 しかし申し立ては認められず、安田は上告審判決を前に被告人Sと面会した際に「とにかく生き延びよう。 生きるために戦い続けよう」と約束した。 2001年11月13日までに最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)は上告審判決公判開廷期日を「2001年12月3日」に指定して関係者に通知した。 『東京新聞』(中日新聞東京本社)の記者から取材を受けた関係者は上告審判決直前の被告人Sについて「死刑確定を覚悟してはいたが、判決までの数日間は落ち着かない様子だった」と述べている。 2001年12月3日に最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)で上告審判決公判が開かれ、同小法廷は一・二審の死刑判決を支持して被告人S・弁護人側の上告を棄却する判決を言い渡したため 、被告人S(当時28歳)の死刑がすることとなった。 同小法廷は判決理由で「被告人Sは暴力団関係者から要求された金銭を工面するために強盗殺人を犯しており、その動機に酌量の余地はない。 犯行は冷酷かつ残虐で、自らも被害者となった遺族Bの被害感情も非常に厳しい。 4人の生命を奪った刑事責任は極めて重大で被告人Sの犯行当時の年齢などを考慮しても死刑はやむを得ない」と述べた。 犯行当時少年の被告人に言い渡された死刑判決が確定する事例は1990年に最高裁で死刑が確定した永山以来で、最高裁が統計を取り始めた1966年以降では9人目で 、平成に入って発生した少年犯罪では初めてであった。 被告人S・弁護人は上告審判決を不服として最高裁第二小法廷(亀山継夫裁判長)に判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ては同小法廷が2001年12月21日までに出した決定で棄却されたため、犯行当時少年としては永山以来となる死刑判決が正式に確定した。 少年犯罪に関しては死刑適用について判断が分かれる傾向が強いとされるが、本事件は第一審・控訴審・上告審と一度も死刑が回避されることなく確定する結果となった。 これにより死刑囚Sは戦後日本で37人目(永山への最高裁判決以降、および平成の少年事件では初)の少年死刑囚となった。 死刑執行まで [ ] 被告人Sは最高裁上告中の1997年から『東京新聞』(中日新聞東京本社)社会部記者・瀬口晴義と文通しており 、瀬口は死刑執行後に生前の被告人Sの人柄について「手紙・面会では『獄中生活で体重が120 kgを超えた』と嘆く一方で大腸がんを患った私を本気で気遣うなど、礼儀正しい性格で、その印象と残虐非道な犯行の差が最後まで埋まらなかった。 Sが口にした懺悔の言葉が本心からなのかどうは今でもわからないが、自分の命をもってしても償いきれない罪の大きさを自覚していたとは思う」と振り返った。 Sと瀬口が文通を開始したころにはを受けて少年法改正論議が沸騰していたが、被告人Sは瀬口宛の手記で「大人と同じように刑罰を下したところでいじめ・恐喝・殺人などなくならないどころか『これまで以上に陰湿なやり方』が増えるだけだ。 仮に少年法を改正しても凶悪少年犯罪が減少することはない」という考えを示したほか、「凶悪な少年犯罪を生む素地は『大多数の負け組の上に、一握りの勝ち組が君臨する社会構造』にある。 現代は『金か能力のある者』だけが『正義』と持て囃されて勝ち誇る社会だ。 子供でも一部の裕福で恵まれた人間以外は夢も希望も見ることもできない。 自分は『己の罪深さを恥じ真に償いを求める』ならば将来を求めてはいけないと思う」と述べていた。 また上告審判決期日(2001年12月3日)までに中日新聞社へ手記を寄せ、同判決を報じた『中日新聞』・『東京新聞』両紙の2001年12月4日朝刊記事で以下のような内容が掲載された。 この手記は上告審判決から9年後(2010年11月28日)に「ので初めて犯行当時少年の被告人(当時18歳)に死刑判決が言い渡された」と言及した『中日新聞』・『東京新聞』両紙朝刊コラムにてそれぞれ引用された。 「千葉地裁・東京高裁と二度の死刑判決を受けたことで『生き恥を晒し続けて自分の家族にさえ迷惑をかけるくらいなら早く死んで消えてなくなりたい。 早く生まれ変わって新しくやり直す方が楽だろう』と自暴自棄な考えに陥っていたころもあったが、自分を見た多くの人から『生きて償うべきだ』と言われたことで『生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けよう』と改めて決意した。 最後まで生き抜いて罪を贖える方法を模索したい」• 住職は中日新聞社の取材に対し「面会した当初は犠牲者の無念を思ってアクリル板越しに被告人Sへ怒りをぶつけたくなったこともあったが、第一審で死刑判決が言い渡されて以降は『生と死の境に立ち、命の重みを考え始めたのかもしれない』と思うようになった。 その後もSと面会するたびに被害者の供養を頼まれ、『Sは罪の大きさに苦しんでいる』と思ったが、被害者遺族の悲嘆を目の当たりにすれば死刑執行は因果応報だとも思う」と述べている。 なお「死刑廃止の会」(2006年当時)による 「1993年3月26日以降のについての調査(2006年9月15日付)」によれば 、に死刑囚Sは 2005年8月1日 - 2006年9月15日までの間に千葉地裁へ請求を起こしていたことが判明した。 第一次再審請求では死刑確定後に上告審で弁護人を務めていた弁護士が「犯行当時、死刑囚Sは心神喪失状態だった」と主張し 、弁護団はMRI検査のやり直しなども請求したが、死刑執行までに2度にわたり再審請求棄却が確定していた。 また弁護人・ は最高裁で弁論再開を申し立てた他の弁護人2人とともに 「事実関係の面に関しても未解明の部分がある」として、事実面における係争を含めて想定した上で次期再審請求のための準備を進め、死刑執行直前に再審請求書を作成していた(主張要旨は以下の通り)。 被害者の遺体に残された刺し傷と凶器(柳刃包丁)の形状の違い• 死刑囚Sは事件現場を長時間にわたって離れており(被害者Bを連れ出していた間)、その間に第三者が関与した可能性がある点• 被害者の遺体に残された刺し傷の場所・各被害者の死因などから、被害者4人全員に対する殺意の有無• 弁護団の主張する「重要参考人」が行方不明となっているため、弁護団は「死刑囚Sとは別にその人物が事件に関与している可能性がある」として行方を捜していた。 またSは死刑執行まで作家・と数十回にわたり面会を続けていたほか 、弁護士・一場順子 と約2か月おきに面会していたが、一場に対し「事件の情景がフラッシュバックし、殺害された被害者4人が自分に『お前を許せない』と言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあった。 事件発生から四半世紀(25年) ・死刑確定から16年後の死刑執行で 、犯行当時少年だった死刑囚()への死刑執行は(108号事件)の死刑囚・の死刑が1997年に執行されて以来20年ぶりだが 、法務省が死刑執行について事案の概要などを公表するようになった2007年12月 以降では初の事例だった。 死刑執行当時、死刑囚Sは第三次請求が棄却されたため即時抗告中で 、Sは処刑直前に弁護人・一場順子宛の遺言として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた。 当時は「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」は避けられる傾向が強く、近年では1999年12月17日 以来途絶えていたが、同年7月にの死刑囚(当時・在監)に対し法務大臣の命令で死刑が執行されて以来、2回連続で再審請求中の死刑囚が執行されたケースとなった。 同日に上川は記者会見で死刑執行を発表した際「再審請求中だからといって(死刑を)執行しないという考え方はとっていない」と述べた上で、犯行時少年に対する死刑執行に関しては「個々の死刑執行の判断に関わるため、個人的な考え方については発言を控える」と述べた。 同日、死刑囚Sの母親Yは出先の病院で東京拘置所から死刑執行の連絡を受け、同拘置所に向かったが、いったんは東京拘置所職員から「『遺体を引き取る』と意思表示する必要がある」として遺体との対面を拒否されたため、最寄り駅(・)ホーム上で待機していた。 その後、弁護人・安田 と合流したYは遺体を引き取るか否かに関係なく息子Sの遺体との対面を許可されたが、納棺されたSの遺体に触れることはできず、遺体の顔を覗くことしかできなかった。 安田は死刑囚Sの執行前は「弁護人とともに再審請求中の死刑囚に対する死刑執行はまずあり得ない」と考えていたが、この執行を「法務大臣から我々死刑囚の弁護人に対する『弁護人がいようが自力だろうが今後は再審請求中でも死刑執行する』という意思表示なのだろう」と受け止めたほか、「おそらく『第1次再審請求の結論が出るまでは死刑執行を見送るが、それ以降は見送る理由にはしない』ということだろう」 「今回の死刑執行は国家が自らの権力を見せつけるような『これまでの死刑執行とはまったく様相の異なるもの』だ。 いかなる躊躇・抵抗をも排除して有無を言わさずに死刑を執行する、すなわち国家からの『死刑執行に対する強固かつ積極的な意思表示』だ。 今後行われるだろうのら死刑囚13人への死刑執行を見据えた『地ならし』でもあるだろう」とも推測していた。 また安田は2018年1月25日に開かれた死刑執行抗議集会にて 「死刑執行から数日後に別の死刑囚・及び別の収容者1人と東京拘置所で接見した際『死刑囚Sは死刑執行よりかなり前から刑場へ連行される際も目立たない一番端の独房に収容されていた。 死刑執行当日の朝に独房から連れ出された 際には特に暴れたりせず、ごく普通の形で独房を出ていった』と伝えられた」と明かした。 死刑執行に対する反応 [ ] 事件当時少年でかつ再審請求中だった死刑囚Sの死刑執行を受け、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)は同日付で「まだ成長過程にあり更生の可能性のある少年への死刑執行は許されてはならない。 また、再審請求中の死刑執行は決して許されてはならない」などと抗議声明を発表したほか 、(日弁連)も同日付で会長名義の「死刑執行に強く抗議し、改めて死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すべきであることを求める会長声明」を発表した。 また千葉県弁護士会(会長:及川智志) および駐日(EU)代表部もそれぞれ死刑執行への抗議声明を出した を発表した。 一方で「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」(VSフォーラム)は同日付で共同代表の・両弁護士名義で「被害者遺族からすれば歓迎すべき死刑執行であり強く支持する。 死刑制度はで合憲とされている制度で、法律に従って死刑を執行するのは当然のことだ。 再審請求中および犯行当時少年であっても死刑執行を回避すべきではない」とする声明を発表したほか 、「少年犯罪被害当事者の会」代表・武るり子はの取材に対し「少年であっても罪に合った罰を受けることが犯罪抑止力につながる」と話した。 また元学長・(被害者学)は「『少年の更生可能性』という非科学的・曖昧な基準で死刑執行を回避するのは相当ではなく、事件の重大性・遺族らの被害者感情・社会影響を考えると今回の死刑執行は当然だ。 死刑執行の先送りを目的とした再審請求も多いため、再審請求中でも死刑執行対象から除外すべきではないが、法務省は死刑執行において『の可能性がないこと』を具体的に説明する必要はあるだろう」という見解を示した。 『』()は2017年12月20日付コラムで「死刑囚Sの判決確定は16年前でむしろ遅すぎた。 更生の機会に関しては刑事裁判の場で争われるものであり、法相にはその確定判決の是非を判断する職責はない。 法相の個人的信条で死刑執行の有無が決まるなら『』に著しく抵触するため、死刑が確定した以上は法相は粛々と死刑執行を命じるべきだ。 今回の死刑執行を契機に『国民が少年法改正の問題を考える』論議を提起することが望ましい」と主張した。 『週刊新潮』1992年3月19日号(3月12日発売)は「時代遅れ『少年法』でこの『凶悪』事件をどう始末する」というタイトルの特集記事を組み、記事中でSの実名を掲載した上で「被疑者Sの中学時代の顔写真」「Sが事件当時在住していた船橋市内のマンションの写真」を掲載した。 同記事は複数の識者意見を掲載して「少年法に対する問題提起」を目的に執筆・編集されており、実際に少年法の改正を訴える論調の記事となっている。 また『週刊新潮』は2001年12月13日号(同年12月6日発売)でも被告人Sの死刑が確定することとなった上告審判決について(当時・本名の「祝康成」名義)のインタビューを交えて報じたが、この際も被告人Sの実名・中学時代の顔写真を掲載した• 『FOCUS』1992年3月20日号はSの実名に加え、Sが千葉地検に送検される際の写真(当時の『FOCUS』記者・が撮影)を掲載した。 事件当時の実名報道に関して当時『週刊新潮』編集部次長であった宮沢章友は『産経新聞』・『朝日新聞』などの取材に対し以下のように回答したほか、千葉地裁で死刑判決が言い渡された際に『千葉日報』記者の取材に対し「無辜の人を冷酷に殺していく犯罪に『少年だから』という理由で保護すべき要素は微塵もない」と述べている。 「少年法が制定された当時と1992年現在では『肉体的・精神的ともに社会からの刺激が多い』という点で『少年』の概念が変わっているにも拘らず、『旧態依然とした少年法に従って20歳以下なら一様に実名を伏せる』ことは好ましくない。 犯行そのものも帰宅した家族を次々と殺害するなど凶悪で、少年法で保護すべき範囲を逸脱している。 実名報道するかどうかの判断はケース・バイ・ケースで、(ライバル誌の『』()が加害少年らを実名報道した)の際は『犯人グループのうち誰がどう手を下したのか』がはっきりしなかったために実名報道は見送ったが、今回は犯人が(Sの単独犯と)はっきりしているからこそ(実名報道という形で)問題提起をしやすかった」• 「今回の犯行は未熟な少年が弾みで起こしたようなものではなく、少年法で保護しなければならない『少年』の枠を超えている。 加害者の人権に比べて被害者の人権が軽視されており、少年による凶悪事件が増加している現在において『20歳未満ならばどんな犯罪を犯しても守られる』現行の少年法は時代遅れであり、それを問題提起する意味で実名報道した」• 「」 これらの実名報道に対しては(会長)が1992年3月25日付で「少年法の趣旨に反し人権を損なう行為だ」として「『良識と節度を持った少年報道』を求める要望書」を新潮社に郵送し 「マスコミが少年を裁くようなことをしていいのか」と問題を提起した。 一方、過去にの加害者少年4人を実名報道した『週刊文春』は本事件時は実名報道を見送り匿名報道としたが 、編集長・はその理由について「事件を受け編集部から『今回も実名報道すべきではないか』という意見が上がったが、以前の実名報道の動機である『少年法への問題提起』は以前の報道・それによって起こった論議から既になされたため、最終的に自分の判断で見送った。 しかし、今回も少年法に対して問題があるという姿勢は崩していない」とコメントした。 死刑執行後 [ ] その一方で新聞各紙は2001年12月の死刑確定時も被告人・死刑囚Sを実名報道せず匿名で報じ 、新聞・テレビの報道では2017年12月19日の死刑執行まで死刑囚Sの実名報道はなされていなかった。 しかしその後は「少年犯罪でも死刑が確定する場合については死刑執行前の判決確定段階で『更生可能性が消えた』として実名報道に切り替える例」が主流になりつつあり 、マスメディアは2017年12月の死刑執行を受けて「更生や社会復帰の可能性がなくなった」「国家によって人命が奪われる死刑の対象は明らかにされるべき」「事件の重大性を考慮」などの理由からそれぞれ実名報道に切り替えた。 『』() - 2004年に少年死刑囚の実名報道を是認する方針を決め 、「『国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだ』との判断から実名報道に切り替えた」と説明した。 (NHK)は2017年12月19日正午のにて死刑囚Sの実名を含めて死刑執行のニュースを報道したが、その際に「少年事件について『立ち直りを重視する少年法の趣旨』に沿って原則匿名で報道しているが、凶悪・重大な犯罪で社会の関心が高く、死刑が執行され社会復帰・更生する可能性がなくなったことから実名で報道した」と説明した。 『』()は「『国家が人命を奪う死刑の執行対象が誰なのか』は重大な社会的関心事であるため」 、『』()は「死刑執行により更生の機会が失われたことを考慮した」 、『』()は「事件の重大性・死刑が執行されたことを踏まえて実名報道に切り替えた」とそれぞれ説明した。 『』()はそれまで少年死刑囚について死刑確定時点でも匿名で報道してきたが、今回の死刑執行を受けて実名報道に切り替え、その理由を「確定時点では『再審・恩赦による社会復帰の可能性』などが残されていたことから『健全育成を目的とする少年法の理念』を尊重し匿名で報道してきたが、死刑執行によりその機会が失われたことに加え『国家による処罰で命を奪われた対象が誰であるかは明らかにすべき』と判断した」と説明した。 また同様に少年死刑囚を死刑確定時点でも匿名で報道してきた『』()・『』()も今回の死刑執行を受け「更生可能性がなくなった。 国家が人命を奪う究極の刑罰である死刑の対象者の氏名は明らかにするべきである」と説明した上で実名報道に切り替えた。 永瀬隼介と加害者Sの交流 [ ] (平成10年)10月から作家・(当時、本名の「祝康成」名義で活動)は本事件についての書籍出版を目的に東京拘置所で被告人S(当時最高裁上告中)と面会・文通を重ね 、2001年12月に死刑が確定するまで の約3年間にわたり事件の様々な関係者(Sの家族・被害者遺族・Sと結婚したフィリピン人女性の家族ら)への取材活動も含めてSの人物像・事件の詳細を調べた。 Sは永瀬宛の手紙で「完全に枯れ切ってしまう前に、潔く終わりにしたいと思います」と述べていたが、永瀬はSの態度について「当初は終始、誠実な姿勢は変わらなかったが、拘置期間が長引くにつれて感情の起伏が激しくなっていき、1999年12月17日に東京拘置所・で計2人の死刑囚の死刑が執行された 直後の1999年12月下旬からは様子が一変して精神的に不安定になった」と述べている。 また、被告人Sは幼少期に苛烈な虐待を加え、一家離散の引き金を引いた父親Zに対し「生まれつきの詐欺師」「他人の精神的苦痛など一顧だにしない奴」「一緒に死刑台に吊し上げてやらないと気が済まない」などと激しい憎悪の念を書き記していたほか 、女手一つで働きながら自分や弟の生活を支えていた母親Yや 幼少期に自分を溺愛していた祖父Xに対しても同様に憎悪の念を向け 、自身を「常識人の範疇を超えて偏った人格を持ち合わせた両親から生まれるべくして生まれた死刑囚」と評していた。 また被告人Sは永瀬宛の手紙で以下のように綴っているが、初めて永瀬宛の手紙を東京拘置所から送った際にはその手紙に香水を付けていたため、永瀬は「『独房で書き上がった手紙に香水を振りかけている大量殺人犯』とはどこか歪んでいる」と表現した。 「残された少女Bのために毎日祈り・お詫びの言葉をつぶやいてみても何にもならないどころか、自分勝手で独善的この上ない行為だ。 加害者側の自分がいくら熱心に経文を唱えようとも結局は『自分自身が自己満足するための儀式』でしかない」• 「最高裁で死刑判決(上告棄却)を受けて死刑囚となっても当分は生かされていることになるが、死刑とは『文字通り死ぬことで刑になる』から、刑務所で受ける懲役刑とは違い、労役などで罪を償うこともできず、ただ鉄格子の中で過ごすだけだ。 確定から何年か過ぎて平静を取り戻したころにいつか必ず死刑執行の日が来るが、それが決まっているのに毎日死の足音に怯えながら暮らさなくてはならない。 想像するのも嫌な生活だ」• 「これから先は何年も外界から一切遮断された獄中で誰とも会えず、希望も抱けずに平静を保って生きていく自信がないし、『死んでいくためだけにどうやって生きていけばいいのか』もわからない。 『死ぬことが怖くない』と言えば嘘になるが、それ以上に先のない毎日を怯えながら生きていかねばならないことの方が怖い」• 「次こそは絶対に真っ当な人間に生まれ変わりたい」 (平成12年)春に面会した永瀬が被告人Sに対し、手紙の内容に言及した上で「あなたにとって『本当の意味での反省』とは何か」と尋ねると、Sは「本当に謝るべき人々(被害者4人)を殺しておいて、今でも『反省して何にもならない』と思っている。 今でもどうやって反省していいのか分からない」と答えた。 また「手紙の中で殺害場面が記された箇所に入った途端、それまで整然としていた筆跡が『まるで別人が書いたかのように』突然大きく乱れていた。 殺害現場を書くこと・当時の自分を直視するのが怖いのか?」と質問されると「みっともない」と返したが、「『あのような事件を引き起こした自分が人間としてみっともない』ということか?」という質問に対しては曖昧な返答になったため、「『みっともないことをした自分を直視するのが嫌だ』ということになる。 『みっともない自分』を正面から捉えないで反省しても仕方ないだろう」と指摘された。 「自分の人生を振り返って何か言いたいことはあるか?」という質問には「それまでのことをすべてをなかったことにしてほしい。 自分という人間は『存在そのものが最初からこの世にいなかった』ことにできれば一番いい」と答えたが、永瀬 2004 はSのこの言葉に関して「この言葉を耳にして強い脱力感に襲われた。 Sはこの期に及んで『自分の人生の全てをなかったことにしたい』と口にするが、その真意は理解不能だ。 Sが抱える心の闇は私の想像よりはるかに大きい」と述べた。 永瀬は過去に(1996年発生)の死刑囚など殺人犯を取材した経験はあったが、Sについては「口では『切腹して死にたい』「潔く終わりたい」と殊勝に語るが、実際は生へのエネルギーが涸れない底知れぬ生命力の塊だ。 過去に取材したどの殺人犯よりもはるかに深い桁外れの闇を抱えていたため、その人物像を理解しようと接近を試みてはさらにその闇の中に巻き込まれていった」と形容している。 永瀬はSと面会など交流を重ねるにつれて次第に「このままではすまない。 手痛い代償を払わされるに違いない」と考えるようになり 、著書出版準備を進めていた2000年初夏には慢性的な精神的ストレスからを発症し、満員電車で帰宅していたところ気分を悪くして途中駅で下車した直後に意識を喪失し、プラットホームへうつ伏せに転倒したことで顎を強打し骨折・歯が砕けるほどの重傷を負った。 永瀬は当時の心境に関して単行本『19歳の結末 一家4人惨殺事件』()のあとがきで「私はSとの面会・本の差し入れ・文通など交流を重ねるうちに、Sに対し『悔恨と反省に満ちた真っ当な心』による懺悔の言葉などを期待していたが、4歳の幼女まで刺殺した悪鬼の所業の前ではどんな悔恨・反省も虚しい。 この本を書き終えて虚脱感・徒労感に支配されている」と述べている。 永瀬は2000年9月にそれまでの取材結果をまとめて新潮社から単行本『19歳の結末』を出版し 同書を獄中の被告人Sに差し入れたが、Sはその内容について同月中の永瀬との面会で「虚偽の描写が含まれている」と反論した。 Sがこの記述に憤慨した理由は、同書を読んだ弁護士から「『お前は(事件前に)こんなこともやっていたのに隠していたのか』と責められたため」だったが、永瀬 2004 は「自分がSに求めていたものは『同書に記されていた被害者や遺族の悲しみ・怒りの感情に触れ、それに対しどんな感想を述べるか』であってこのような些末なことではない。 許されるならばあの時、私は『お前が言うべきはそんなことじゃないだろう』とSの胸倉を掴んで揺さぶり諭してやりたかった。 その後も永瀬はSとの交流を続けたが、翌10月の面会中にはSが被害者Bを愚弄し「彼女は自分のことをすべて知っているのに本当のことを言わないし、あなた(永瀬)の取材にもまともに答えないとんでもない人間だ」などと発言したため 、永瀬は改めてその態度に失望し「『とんでもないのはお前だろう』と怒鳴りつけたくなるほどの激情に駆られたのをなんとか耐えた。 『この男は反省していない』と改めて実感した」と述べている。 永瀬とSの最後の面会は(平成13年)1月下旬(前年12月以来約2か月ぶりで、Sは「面会できることは世間との接点があって嬉しい。 これからもどんどん本を読みたいしあなた(永瀬)とも会いたい。 面会できなかった場合を含めて本を差し入れてもらってありがたく思っている」と感謝の言葉を述べ、永瀬から「どんな本が読みたいか?」と質問されると「『』(・)を読みたい」と返答した。 永瀬は「次回の面会時に『永遠の仔』を差し入れる」と約束し、それ以降も面会を試みたが、結果的にはこれが最後の面会となった。 それ以降、上告審口頭弁論が開かれ死刑確定が近くなったことから永瀬は「それまでに可能な限り話を聞こう」と考えたが、しばらくは手紙にも返信がなかったため「Sは精神的に動揺して返信できないのではないか?」と懸念したが、上告審弁論から約8か月後の2001年10月末になって久々に届いたSからの手紙では懸念していた「精神的な動揺」は感じられず「永瀬への挨拶・面会ができないことへの謝罪の文言・永瀬が定期的に差し入れていた『』(新潮社)に関する言及」が記されていた。 それから約20日後の2001年11月下旬には被告人Sから永瀬宛に再び手紙が届いたが、それ以降Sから永瀬への手紙は来なかったため、結果的にこれが「被告人Sが生前最後に永瀬宛に出した手紙」になった。 加害者親族のその後 [ ] 祖父Xの反応 [ ] 永瀬隼介(祝康成)の取材に対し、Sの祖父X(1999年当時76歳)は 獄中にいた孫Sについて「生きていても苦しい事ばかりで何もいいことはないしもう死にたい。 なぜSが今でも生きていられるか不思議だ。 自分がそのような事件を起こしたら耐え切れずに自殺する。 Sはろくでなしだとわかっていたが、4人も人を殺すなんて思っていなかったから事件当時はかなりショックだった。 あいつとはもう関わりたくないし、法に従えばいい」と述べたほか 、Sの父親(娘婿)であるZについて「自分はZを初対面の時から『人相が良くないし、真面目に働くような顔ではないから娘Yと結婚させたくない』と思っていたのに、Yは自分の言いつけをちゃんと聞いてくれなかった。 もしYが言いつけを聞いてくれていたらSはこの世に生まれていない。 いっそSはZ・Yが離婚した時にZにくれてやればよかった」などと述べた。 また事件後には店に客が来なくなり、事件後に複数店舗を閉店・売却したが、それでもXの借金は増える一方だった。 しかしその一方で「Xはアパートの家賃、犯行に用いた車の購入費のほか、ギター・オーディオの購入費なども祖父Xから代金を援助してもらっていた」 「Sは中学校に入学したころから祖父・母親に多額の現金をせびっていた。 Xは鰻屋の従業員の前で『また夜遊びか』と笑いながら、Sに1万円札数枚を手渡すこともよくあった」という報道もある。 XがそのようにSを甘やかしていた理由について、は「家業につなぎ留めておくため」と述べている一方 、『週刊文春』は「Yが息子Sを独居させた理由は家庭内暴力から自身や次男(Sの弟)の身を守るためだった。 Xが400万円以上するクラウンをSに買い与えた背景にも、単なる溺愛ではすまない事情があったのだろう」と述べている。 なお伴侶としてXと苦楽を共にし 「Sを最もかわいがっていた」という祖母(Xの妻)は被告人Sが控訴中の1995年に他界したほか 、跡継ぎになるはずだったXの長男(Sの叔父)は事件の3年前(1989年)にくも膜下出血で倒れ、44歳で死去している。 永瀬隼介は「(1998年 - 1999年にかけての)『の吹く時季』」にYが次男とともに暮らしていた家を取材したが、この時に応対したSの弟は顔・体格ともに兄Sと似てはいたが、永瀬に対し終始丁寧に応対していた。 その後、永瀬は母Yの帰宅を待って取材しようとしたが、Yは嗚咽しながら「あの子も今は反省しているのですからもうそっとしておいてください」と取材を断った。 識者などの分析・考察 [ ] 『中日新聞』は加害者Sの性格やその形成経緯について、Sの家庭環境などを踏まえながら「Sの『他人への思いやりを知らない本能むき出しの人間像』が形成れた背景には複雑な家庭環境があるのだろう」と報道した。 またはの著書『少年犯罪論』(1992年・)に寄稿した本事件の記事で、Sについて「ひと昔前なら確実に職人として成長できただろう境遇に生まれ、一度はその方向に進みかけたが挫折し、それが事件の誘因となった節がある」と考察したほか 、Sの生い立ちや鰻屋の同僚 の証言を踏まえ、Sが200万円を得るために一家4人を殺害した背景について「Sは父親が億単位の借金を作ったことにより両親の離婚を経験し、何度も転居・転校せざるを得なくなった。 それが体験の幻影のようにSの心の底にこびりつき、後に暴力団から追い詰められ『強大な他者の幻影』を見たことで自身を見失った。 (外部に助けを求められなかった)被害者BもまたSの怯えが伝染するかのように、Sの操り人形のように動いてしまったのだろう」と考察している。 『』1992年3月27日付記事はSの母親Yが元夫Zと離婚後も関係を断絶していなかったことにSが反発していた点に関して言及し、「別れたはずの両親がその後も付き合っていたことがさらに少年の心に屈折感を生んだようだ。 『祖父の愛情と父親への反発』という点ではの・を思い起こす。 (本事件と宮崎の事件)2つの事件を同列には論じられないが『複雑な家族関係が事件に与えた影響』は大きい」と述べたほか、ノンフィクション作家・は同記事にて「1988年にで当時中学生の少年が起こした両親・祖母の計3人殺害事件もそうだが、父母の愛情が何らかの要因で欠落すると『バランスを失った祖父母の愛情』で『抑制の効きにくい子』を育てることもあるのではないか」と述べた。 『週刊新潮』1992年3月19日号の記事などでは以下のような識者意見が掲載されている(肩書はいずれも当時)。 ・教授 - 「この事件は死刑に値する犯行。 残忍さではの(108号事件)と同等で、犯行の悪質性は以上ともいえる」• 板倉は第一審で死刑判決が言い渡された際にも『千葉日報』記者の取材に対し「1人で次々と4人を殺害した残虐性を考慮すれば犯行当時19歳の少年だったとしても死刑はやむを得ない。 もしこれが死刑でなければ最高裁の基準(永山基準)を無視することになる」と指摘している。 ・教授(後に被疑者Sの精神鑑定を担当)• 「もしSを死刑にできないようならばにすべき」• 少年法に詳しい弁護士 - 「現在は死刑廃止に向かっている時代だ。 少年の場合は『殺人が行われやすい環境だったかどうか』が争点になるため、この事件でも死刑は求刑段階ですら難しいだろう」• 元・ - 「現代は20歳未満だからといって甘やかしていられる時代ではないだろう。 運転免許でも18歳で取得できるのだから、凶悪犯罪を犯した少年が5歳や10歳の子どもと同じ扱いにされることはおかしな話だ」• 教授(刑事法)・ - 「死刑を選択しないぎりぎりの決断を期待していたが、裁判官は死刑廃止が世界的潮流となっていることを無視し、『量刑基準』から機械的に死刑判決を言い渡した。 死刑に凶悪犯罪への抑止力はなく、加害者Sを抹殺しても被害者感情を満足させる結果にはならない」• 少年事件研究会を主宰していた教授・(刑事法) - 「本件のような事件が発生すると『少年事件全体が凶悪化しており、厳罰化が必要だ』という論調が生まれ本質を見失いやすい。 しかし被害者の立場を考えれば死刑回避の決断は容易ではない。 裁判官の勇断を期待するためには死刑適用基準の1つである『被害者の処罰感情』を緩和することが必要で、国を挙げて思い切った被害者救済制度の確立に取り組むことが必要不可欠だ」 関連論文 [ ]• 「」『千葉敬愛短期大学紀要』第17巻、・、1995年2月15日、 22a-7a、。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 事件後の1995年に浦安警察署(葛南警察署から改称)から現場一帯を管轄するが分離発足し、2019年現在は行徳署が現場一帯を管轄している。 『D1-Law. com』収録の上告審判決文によれば地は東京都江戸川区・居住地は東京都。 家賃は7万円 (共益費込みで約10万1,000円)で 、1991年秋に家賃を滞納して以降は母親が代わりに振り込んでいた。 部屋には家具はほとんどなかったが「男1人暮らしの割にはきれいに片付いていた」状態だった。 なお、実名・イニシャルを掲載している一部文献で実名の漢字が誤読され読みが「S・M」となっている文献があるが正しくは「S・T」である(を参照)。 後の獄中生活により体重は120 kgを超え 、弁護人・はその体格を「自分の体の横幅を2つぐらい並べたほどの大きな体格」と表現した。 安田はSについて「あれだけ体が大きければ死刑執行の際にも刑務官はSの体を死刑台の上に持ち上げられないだろうし、絞首刑執行用の絞縄もその体重に耐えられないだろう」と考えたため、Sに対し「死刑執行回避のために体を大きくしろ」と提案していたが 、死刑執行後(2018年1月25日)に開かれた死刑執行抗議集会で 「体重に耐えられるほどの絞縄を用意した上で予行練習を周到に行って死刑執行に臨んだのだろう。 国家による周到な用意の元に実行された計画的な殺人だ」と批判した。 Sの母方の祖父Xは生まれつき視力が弱かったために兵役を免除され、直後の青年時代に東京都(土手沿い)でウナギの卸売業を興して周囲から「仕事の鬼」と呼ばれるほど猛烈に働き続けて事業を順調に拡大し、千葉県市川市・東部を中心に10軒近くの鰻屋を構える鰻屋チェーン店のオーナーとなった成功者だった。 チンピラと一緒だ」と快く思っておらず結婚に猛反対した。 しかし2人は駆け落ち同然で結婚して松戸市内にあったZの実家に新婚所帯を構え、なお結婚に反対していたXに初孫として産まれたSの顔を見せに行くと、祖父となったXは不本意ながらも結婚を認めた。 Yは息子Sが歩けるようになった直後からスイミングスクールに通わせ、小学校入学後からはピアノ・英会話を習わせた。 松戸市立和名ヶ谷小学校。 当時小学2年生。 祖父Xの援助で購入した高級マンションで、有名企業の社員・医者・実業家など高額所得者が多数在住していた。 (サラ金)だけでなくにまで手を出すようになったため 、借金は約3億円に上り 、• 浮気を責めた妻Yを殴る蹴るなど。 やがて夫ZからのDVでストレスを溜め込んだ母親YもSを虐待するようになった。 「何時間も正座をさせる」「食事を与えない」「徹底した無視」「真冬の夜中に外に放り出す」など。 一方で祖父Xや祖母はSをかなり寵愛していたため、Sは毎週末のように祖父X宅に泊まっていたほか、Xを「いつも怖いだけの父親とは違う、お金持ちで頼りになる働き者。 自分も祖父のように強くて立派な大人になりたい」と心から尊敬していた。 エホバの証人は過激なほどの徹底的な純粋性からキリスト教内部でも異端視されていたが、Sは「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。 彼(この友人)の家のように『笑顔の絶えない平和な家になる』」と信じていた。 Sは永瀬宛の手紙で両親・祖父を忌み嫌い激しい言葉で非難していた一方、この友人やその家族に対しては「別人のように思えるほど優しく柔らかい描写」をしており 、エホバの教義を学んでいた日々について「(獄中生活を送るようになった現在も)無駄だったとは思っていないが、中途半端なまま引き離されてしまったことが惜しい。 純粋に神を信仰・崇拝していた当時の気持ちを踏みにじられなければ後の『神をも恐れぬ所業の数々』も少しは抑えることができたのではないか?と思った」と述べている。 永瀬宛の手紙でSは父Zに聖書を破られたことを「聖書・経典を破られたことは『神に背く裏切り行為』。 信者なら誰でも気が狂うほどの大罪だ」と述べた。 後にSは非行を繰り返していた中学時代に「自分は何のために生きているのか?」と考えた末に再びキリスト教に帰依しようとしたが、このころには既に「神に祈っても幸せにはなれない」と考えるようになっており、教会通いもすぐにやめた。 母Yは1983年3月に父Zと調停離婚してSとその弟の親権を引き取るとともにイニシャル「S」姓に復氏した。 当時は両親の離婚後に改姓していたことを周囲から好奇の目で見られ、転校先の担任教師が電話連絡網を作るためにクラス全員の前でSから電話番号を聞いた際、Sが「電話はうちにはありません」と答えてクラスメートばかりか担任にまで大笑いされた。 Sは『東京新聞』記者・瀬口晴義宛の手紙で「義務教育の9年間は一度も無邪気にはしゃいだ記憶がなく、尊敬できる先生にも出会えなかった。 小学校高学年時代はいじめを受け痣だらけにされて過ごした辛い時期だった。 人生をやり直すならそれより前まで戻らないと同じことをしてしまうと思う」と述べている。 Yは2人の息子とともにしばらく祖父X宅に身を寄せたが 、Sを溺愛しておりSからも慕われていた祖父Xも全財産を吐き出してZの莫大な借金を清算せざるを得なかったために業を煮やし、娘Yに絶縁を言い渡したため、SもX宅を訪ねることはできなくなった。 その一方で「不良のレッテルを張られると損をする」と考えていたため、地元ではおとなしい真面目な少年を装っており 、中学時代に住んでいたアパートの大家夫妻は「無駄口をたたくことがない礼儀正しい子供。 弟思いで本当にできた長男」という印象を抱いていた。 不良仲間たちの誘いに乗った理由は「他人に必要とされることが何より心地よかった」ためだった。 また、母親Yが家庭崩壊の元凶となった父親Zを「教育のため」と称して自分や弟たちに逢わせるようになったこともSの反抗的な態度を強める要因となったが 、Sは年齢を重ねるにつれてその忌み嫌っていた父親Zに似るようになったことを自覚し、それについても嫌悪感を抱いていた。 しかし、祖父Xの鰻屋で働いていたころにXから将来を心配され「お前は顔も声もZに近くなってきた。 このままだとあいつのようになってしまうぞ」と諫められた際には意に介していなかった。 高校受験を控えた中学3年生時には学習塾に通い「野球が強くて大学進学率も悪くない普通高校」を志願していたが 、志願していた・はいずれも不合格に終わったため、祖父Xの援助を得て堀越高校に入学した。 を目指していたが を志願したが、同校野球部の練習用グラウンドは 遠方の内にあったため 「通いきれない」という理由で断念し軟式野球部に入らざるを得なかったほか、学級のレベルも低く感じられたことなどから次第に高校生活に対する意欲を失い、繁華街を徘徊するなど不登校状態になっていった。 2年生進級直後に他校生徒への恐喝事件への関与が発覚したため停学処分になったが、自宅待機を命じられたにも拘らず無断外出・外泊を繰り返していたため、母親Yが高校側に退学を申し入れた。 働き始めた動機は将来を真剣に考えた末の決断ではなく「祖父Xの猛烈な働きようを見て『仕事はそんなに面白いものなのか?』と興味を覚えたから」に過ぎず 、親類からすれば働きようは「手伝いの真似事」程度でしかなかった。 また夕方過ぎからの出勤・無断欠勤も多く 、「タレを扱う仕事は汚い」と嫌がり、店の備品を足蹴にしたり猫を放り投げるなどした。 祖父Xを失明させる事件の1か月前(1989年12月ごろ)に店の金庫から6万円がなくなる事件があり、その事件でXから疑われたことでXを失明させる事件を起こした。 また1992年2月上旬には夜間に店のドアを破って侵入し、売上金の現金120万円を盗んだ。 Sの足の親指がXの眼球に突き刺さり 、Xは水晶体脱臼・硝子体出血の傷害を負い へ約2か月間入院した。 祖父Xは親交のある信用金庫職員・商工会関係者から「面倒を見てほしい」と頼まれ、少年鑑別所・少年院収容歴のある者や暴走族現役メンバーのほか、暴力団事務所に出入りしていた者も雇っていた。 高校入学後から以前に増して家庭内暴力が深刻化したため、母親Yは「Sに個室を与えれば収まるはず」と考えて一人部屋を与えたが、Sはさらに増長したためその目論見は裏目に出た。 母Yは耐え切れずにSを連れて警視庁の少年相談室へ相談に赴くなどした一方 、Sがトラブルを起こす度に、怪我をした相手の家に謝りに行き治療費・見舞金を払うなどしていた。 たばこは1日にラーク5箱程度を常用していたほか、酒はウイスキーを特に好み、ボトル半分程度を適量としていた。 また鰻屋の仕事を辞めてからは不良仲間たちとともに・・などさまざまな薬物を乱用するようになった。 後に著者(永瀬本人)と面会した際に「他人の血を見ることは興奮する。 暴力をふるううちに相手が弱り、自分に従うようになる姿は勝利の象徴だった」 「ひとたび強烈な傷害事件・強姦を成功させたことで変な自信を持ち『もう一度やってみよう』とエスカレートした」と述べている。 1990年9月に母Yが80万円で購入したオートバイで交通事故を起こし、肋骨8本を骨折して以降は治療が長引くうちに怠け癖がつき仕事を休みがちになった。 中学2年生だった(昭和61年)に同年齢の少女(中毒でほかにも複数の少年と関係を持っていた)と「愛情などなく性的快楽を得るためだけ」の性行為を経験し 、後に中学の同級生と交際するようになるまではとして関係を続けていた。 少女は当初自分の父親に対し「Sとは真剣に付き合っている。 彼はそんな悪い人じゃない」と弁明していたが、やがて父親の説得を聞き入れてSを遠ざけるようになり、これに激怒したSが少女宅に押し掛けたため、少女の両親は娘を親戚宅に預けた。 Sは永瀬宛の手紙で「交際相手の少女はとても寛容で、当時喧嘩に明け暮れていた自分をありのまま受け入れてくれたおかげで『本音をぶつけ合える相手』とともに平和に暮らしていた。 それなのに彼女の両親が『Sが娘に財布から金を盗ませるなどして誑し込み、弄んでいる』と因縁をつけて仲を引き裂いたせいで、殺伐とした世界に逆戻りさせられた。 『一応は彼女の親だから』という理由だけで躊躇したが、今思えば『あの時に感情に任せて彼女の両親を殺しておいた方がよかった』と後悔すらしている。 そうすれば(後の一家殺害事件のような)無関係な人間ではなく『正当な理由・動機付けのある殺人』で済んでいたはずだ」と述べている。 美容師・フリーターの女性と同棲を経験したが、Sによる暴力が原因でいずれも1,2か月で別れていた。 「東南アジア最大のスラム街」とされるマニラ近郊地区出身だった。 それ以前にもSは女性から結婚を持ちかけられたが、当時は「長期滞在が目的だろう」と考えて断っていた。 しかし女性の必死の懇願に折れたことに加え「彼女は家事が上手くできる上に自分に尽くしてくれる。 一緒に生活したら楽しいかもしれない」と考えて結婚を決意したが、母Y・父Zともに猛反対したため、両親の反対を押し切り1人で結婚手続きを取った。 Sは英字新聞を購読しており、取り調べに対し「英語・は不自由なく話せる」と供述していた。 永瀬 2004 は「1992年1月ごろに女性の妊娠が判明したが、女性は言葉が通じにくい日本の産婦人科を嫌がり『マニラの母親の下で産みたい』と訴えたため、1月26日にフィリピンへ帰国した」と述べているが 、女性の母親は永瀬の取材に対し「娘は妊娠していなかった」と答えている。 現場マンションは(現:)から南東約2 km に位置し 、に面していた(付近)。 千葉地裁で可能な限り公判を傍聴してきた被害者Aの元同僚は被告人Sに死刑判決が言い渡された直後、『千葉日報』記者の取材に対し「Aは仕事熱心でいい人だった。 小さい子(次女E)まで殺した被告人Sを許せない。 極刑にしてもらいたい」と怒りを露わにしていた。 夫婦仲は良好で、近隣住民は『読売新聞』記者の取材に対し「夫婦揃ってカメラボックスを抱えて事務所に出入りする姿を見ていた」と証言した。 母Dを目の前で殺害された直後に1回 ・父Aを殺害されSにラブホテルに連れ込まれた際に2回。 『読売新聞』は「Dは前夫との娘Bとともに出身地・熊本から市川市に転居して行徳駅前のマンションに部屋を借り写真の勉強をしていた」と報道している。 同居開始前後からは東京都で編集プロダクション会社を経営していた。 Dが第一子(後の次女Eとは別)を妊娠した際、夫Aは「子供は何人いてもいい。 立派な子供を産んでほしい」と喜んでいた。 Dは雑誌会社で「中村小夜子」のペンネームを用いて活動し フリーランスのライターとして料理雑誌などのコラムなどを担当していたほか 、幼いEを連れて取材に出たこともあった。 保育園の職員は事件直後、Eについては同じ保育園に通っていた園児たちに対し事件のことを伏せ「遠くに引っ越した」と伝えた。 事件1年前の1991年2月に自動車学校の合宿講習で運転免許証を取得、翌月(1991年3月)に母親Yの援助を得て433万円余りでクラウンを購入した。 ローンは4年間48回払いで、頭金50万円はそれまで乗っていた400 ccのバイクを売却した上でアルバイトで貯めた金を足して払ったが、ローンの支払いが遅れると母親Yが代わりに払っていた。 トランクの中には常に暴力事件で凶器として使用した鉄筋を柄に滑り止めのテープを巻いた上で3, 4本隠し持っていた。 Sは後述のように暴力団組員から200万円を要求されていたため 、『』()はこの点に関して「Sは『自分の車を売ればそれなりの金は工面できる』とは考えず盗みに走った結果一家4人を殺害することとなった」と報道した。 『週刊文春』ではこの110万円窃盗事件に関して「1992年2月上旬にXの鰻屋から売上金120万円をかっぱらったほか、同月下旬には親類宅に合い鍵で侵入して従兄弟(当時高校3年生)の大学進学準備金110万円を盗んだ。 親類は合い鍵で侵入されたことから『犯人はSに間違いない』と確信して所轄警察署に被害届を出したほか、Xも弁護士を帯同して千葉県警に『Sが犯人だ』としたが取り合ってもらえなかった」と報道しており、後述の親戚は事件後に同誌記者の取材に対し「この事件の時点でSを社会から隔離し拘束していればこんな凶悪犯罪は起きなかったかもしれない」と証言している。 永瀬 2004 は「Sはこの時にそれまでの鬱屈した気分が晴れ、『強姦は性欲の解消以上に(自分に)優越感・自信を与えてくれる』『セックスと暴力は繋がっている』と思った」と述べている。 また本事件で逮捕された後にこの強姦事件についても取り調べられたが、その当時は「どうせ捕まって同じ罪(強姦罪)になるなら学生時代に好きだった女の子を強姦しておけば本望なので納得できた」などと考えていた。 丸山 2010 は「Sは『(Bを)このまま帰すのはもったいない。 強姦してやろう』と考えた」と述べている。 また、この時にはBの自転車と衝突する前から割れていた車の窓ガラスについて「お前が割った」と言いがかりをつけている。 『フライデー』によれば当時Bは特に深刻そうな様子ではなく「身分証明書を見られた」などとは話していなかったほか、顔の傷に関しては別の友人に対し「高校で先輩にやられた」と話して友人たちから「負けずにやり返してしまえ」とけしかけられていた。 また、Sに切り付けられたBの頬の傷跡は第一審判決時点でも完治していなかった。 当時は平日の夕方近くだったが、SはB宅に入室するまで誰ともすれ違わなかった。 永瀬 2004 は「Sは当時『仮に誰かがいたとしても、それがB以外だったら彼女の知人のふりでもしておけばいい』と考えた」と述べている。 Sは永瀬宛の手紙で「今思えば預金通帳ならまだしも、ほんのわずかな現金を奪う目的で被害者一家に執拗にこだわり、自分の一生を捨ててまで犯行を成し遂げる価値があったとは思えない」と述べている。 Sは永瀬宛の手紙で「『年寄り1人が相手なら力で負けることはない』と短絡的思考を抱いていた」と述べている。 永瀬 2004 は当時のSの心境について「『少し痛い目に遭わせて力関係をわからせてやろう』と考えた」と述べている。 被害者Cの遺体の頸部には首の周りを一周する索溝が形成され、舌骨が左大角の中央部・右大角の中央部において骨折していたほか、右大角付着部においては広く出血を伴い、さらに甲状軟骨の左上角も骨折し、広く周辺に出血を伴っていた。 重度のだったSはCからかけられた唾液を汚らしく思い 、洗面所で頭・顔・首・手を何度も洗ったが 、「生まれて初めて人を殺めてしまった」という実感よりも「唾液を吐きつけたCに対する怒りや嫌悪感」の方が強かった。 予備のジュースを購入したのは「長期戦を覚悟して」のものだった。 その後、SはA・D夫妻の会社へ赴く前に室内を物色して小銭類を収集し、いつでも持ち去ることができるようにビニール袋に入れていた。 この包丁はその長さに加えて先端が鋭く尖っていたことから「十分な殺傷能力を有する物」だった。 Sは当時のDの態度を「何も持っていなかったら噛み付かれそうなぐらいの勢いだった」と回顧している。 創洞の長さは約4. 6 - 11. 3 cmに達し、左肩甲部3か所の刺創(刺し傷)は左肺に達していた。 また司法解剖時の所見によれば遺体の左胸腔内には凝血を含む血液約1200 ccが入っていた。 Sは後に捜査段階でEを刺殺した動機を「前夜テレビの前に座らせたらおとなしくじっと見ていたため、そのままにしておいたら眠った。 しかし自分がBとともに明け方に戻ってきたら泣きわめいていたので殺した」と供述した。 少女Bは当時、母親Dが目の前で刺されたのを見て極度に畏怖し、抵抗不能な状態に陥っていた。 Aは左肩甲下部を1回刺されたことにより左肺下葉を貫通し左肺上葉を損傷する創洞の長さ約15. 8 cmの刺創(十分致命傷になる刺し傷)を負った。 また長女Bは捜査段階において当時のAの様子について「床上に横たわり、起き上がろうとしても起き上がれない状態で苦しそうな様子」と述べていた。 Sは永瀬宛の手紙でAを刺した当時の感触を「人間の体は自分の予想以上に簡単に力が入っていった。 むしろ『鰻を捌く時の方が力が要る』と思った」と述べている。 郵便貯金総合通帳1冊(額面257万6,055円)および銀行総合口座通帳1冊(額面103万1,737円)。 司法解剖を担当した鑑定人・木内政寛は当時の被害者Aについて「ほとんど運動能力はなく瀕死状態で、立ち上がることはおろか会話することもできない状態だった」と推定した。 この時の刺創(刺し傷)は創洞の長さ約12. 7 cmで、左肺を貫通・損傷して心嚢・大動脈をも刺切するもので、身体の最枢要部分に1回目の刺創よりさらに重篤な損傷を生じさせるものだった。 ビル2階。 この時のSの態度は「他人の目を欺こうとした」ためとされ 、当時留守番をしていた知人従業員も「SがBの名前を呼ぶ声から『2人は友人だ』と思い込み、その時点では疑いを持たなかった」と証言している。 妹Eを刺殺する前後、Sは現場806号室から友人に電話を入れ「取り留めもない話」に興じていた。 遺体の傷は「右肩甲下部に刺乳創を形成し、右第六肋間・第七肋骨上縁を損傷して右肺の下葉・中葉・上葉を貫通し、更に胸郭前面で右第三肋骨・第三肋間を損傷して右胸部の刺出口に至る貫通刺創を形成し、創洞の長さは約12. 3 cmで、胸腔内には凝血を含む血液約200 ccを貯留していた」ほどの重篤な傷害だった。 この前後、Bは高校で同じクラブに入っていた近所に住む同級生の少女宅に「今日は休む。 部室の鍵を持っていけなくてごめんね」と電話していた。 Aは居間、Dは6畳の和室、EはDが死んでいた和室の隣の6畳の洋室、CはEとは別の7畳の洋室。 永瀬 2004 によればSはこの時「俺に殺されたいか、それとも一緒についてくるか」とBを脅迫して包丁を持たせようとしたが、Bは放心状態のまま床に座り込んで動かなかった。 また、この時Bに握らせた包丁は検察官による冒頭陳述で「家族3人を刺殺し、3人の血液が付着した凶器の包丁」とされている。 Sはその際に「俺はやっていない」と叫んでいた。 千葉県警広報課は事件当時、『朝日新聞』記者の取材に対し「県内で一般の家族4人が殺されたケースはいずれも(前)からなどに限られており、近年では例がない」と証言した。 なお県警の「被疑者Sが被害者B宅を狙った理由」に関する発表内容は当初「今月2月中旬、SがBを車に連れ込んで乱暴した際に住所・電話番号を聞き出した」というものだったが、その後「脅して身分証明書を奪った」というものに変わった。 事件解決後に『読売新聞』・『千葉日報』はそれぞれ3月11日付朝刊で「Sは警察官が踏み込んだ直後に逃走を図ったが、ナイフを所持していたため銃刀法違反容疑で現行犯逮捕され、署に連行された」と報道した。 10時30分になって千葉県警本部(千葉市中央区)の記者クラブに「市川市内のマンション一室で9時ごろ、家族4人が死亡しているのが発見された」と第一報が伝えられたが、捜査本部の取り調べに対しSは「Bとは昔からの友人」と虚偽の供述をした一方、完全な被害者であったBはショックで何も話せない状態だったため、捜査本部はSの供述通り「2人は友人」と判断した上でマスメディアに向けて発表した。 『朝日新聞』は後の検証記事で当時の状況について「県警からの発表を受けて『長女(B)も事件に関与か』という予断を持ったまま、午後から現場マンションで住民への聞き取り取材を開始したが、『夫婦仲は良かった。 長女Bは普通の女の子』という予断とは異なる回答が返ってきた。 しかし結果的には、『長女(B)の男女関係はどうか、素行はどうだったのか』という(県警発表に基づく)予断に基づいた質問に終始してしまった」と述べている。 この時に「強盗殺人容疑で少年Sの逮捕状を請求する予定だ」と説明されたが、逮捕状請求前の段階で逮捕が発表されることは異例の措置だった。 捜査幹部の1人は事件解決後に『朝日新聞』記者の取材に対し「2人が無関係と分かってからは逮捕前にその事実を発表するなど、報道陣に誤解を与えないように発表することを心がけたが、県警にも予断があったことは認めざるを得ない」と述べた。 同番組プロデューサー・は『朝日新聞』記者の取材に対し「今回はBを匿名で報道すべきケースだったが、VTRの編集で消し忘れた」と回答したが、他局プロデューサーは「編集の時間が足りないことはあっても、インタビューを撮る前に相手に対し『仮名で呼ぶので実名を言わないようにしてください』と念を押すなどの工夫が必要だ」と指摘した。 永瀬宛の手紙では「もし当時20歳だったら本事件(およびそのきっかけとなった傷害・強姦事件を含め)このような犯罪を犯すことはなかっただろう」と述べている。 また『東京新聞』記者・瀬口晴義宛の手紙では「犯行当時は少年法など熟知しておらず、法律など眼中にない衝動的な犯行だった。 もし少年法や死刑などについて考えながら事件を起こしていたなら、指紋が残らないように軍手をはめるなどしている」と述べている。 実際にはSに限らずらの死刑囚13人・()、()、宅間守()・加藤智大()など過去に殺人前科のない初犯で死刑が確定した死刑囚は多数存在する。 「永山基準」が示されて以降「殺害された被害者が1人でかつ無期懲役刑に処された前科がない場合」でも(殺人前科なし)・(殺人前科はあるが有期懲役)など最高裁で死刑が確定したケースが存在する。 コンクリート事件の約1年前(1988年2月)に発生したでは第一審(1989年6月・)で事件当時19歳少年に死刑・17歳少年にも(死刑相当の)無期懲役といった極刑が宣告されていた(最終的には両者とも無期懲役が確定)。 しかしSは永瀬宛の手紙では同事件について言及していない。 は著書『生身の暴力論』()にて「本事件の前後(1980年代後半から1990年代前半)にかけてはコンクリート事件(1988年11月 - 1989年1月発生)・(1988年2月発生)、(1994年9月 - 10月発生)など『想像を絶するようなあまりにも残虐な凶悪少年犯罪』が集中して発生した」と述べた。 千葉地検次席検事・甲斐中辰夫は『千葉日報』記者の取材に対し、その理由を「『被疑者Sの精神状態に異常がある』とは考えていないが、本事件の凶悪性・残虐性など事件内容を考慮して慎重を期した。 今後、被疑者Sの犯行当時の精神・心理状態や刑事責任能力の有無を分析する」と説明した。 なお当初の鑑定留置期間は90日間(1992年6月25日まで)の予定だったが 、千葉地検は1992年6月16日までに「鑑定期限を1992年9月上旬まで延長する」と申請した。 小田の精神鑑定に先んじて加害者Sに対し2度の精神診断が行われたが、心身鑑別の際に健康診査を担当した医師・今津清はSについて「精神分裂病の罹患は否定でき、薬物乱用による精神病やそれに等価の状態は認められないが、爆発的・惰性欠如および意志の持続性欠如を要素とする人格障害が認められる」という趣旨の判断を下した。 また捜査段階では医師・原淳が簡易鑑定を担当したが、原もSについて「意識清明で知能低下は認められず、感情の表出・疎通性も比較的良好だが、意志欠如・軽佻・抑鬱・情性希薄・気分易変などを呈する。 これが性格異常に基づくものなら情性欠如型・意志欠如型・爆発性精神病質で完全責任能力が認められるが、Sは高校中退直後から性格変化を来しており、精神分裂病の欠陥状態・前駆状態および同疾患の辺縁型当の疑いもなくはなく、さらにより詳細な鑑定が必要だ」と診断し、小田は原の診断結果を踏まえて精神鑑定を行った。 小田は精神鑑定の結果、加害者Sについて「正常な知能を有する反社会性人格障害の診断基準にほぼ合致する爆発性・冷情性精神病質者だが、犯行当時も現在も精神病またはそれに等価の状態に陥ってはおらず、器質的精神障害の存在も認められない。 意識状態は終始清明だった。 よって犯行当時は事理を弁識し、その弁識に従って行動する能力は喪失しておらず、その能力が著しく障害された状態とも認められない」と結論付けた。 逆送致の理由は「事件は社会を震撼させて世間に多大な影響を与えた。 被疑者Sは成人に近い年長者であるため、刑事罰を加えることにより規範意識を覚醒させることが必要だ」というものだった。 祖母Cが被告人Sへの咄嗟の抵抗としてSの顔に唾を吐きかけたことに対し、被告人Sが逆上したことで誘発された「偶発的犯行」と認定され 、Cへの強盗殺人罪についてのみ死刑ではなく無期懲役刑が適用された。 「Sは捜査段階・公判において一貫して『Cが抵抗しなくなるまで首を力の限り絞め続け、脈を調べてその死亡を確認するなどの行動を取っていた』ことを供述している。 公判でも『Cを殺してしまおうという気持ちがあったと思う』など、殺意の存在を認める趣旨の供述をしている」として確定的殺意の存在を認定した。 また、量刑理由でもCがSの顔面に唾を吐きかけたことに関して「Cはこの時Sに突き飛ばされたことで重傷を負っていたため、せめてもの抵抗として顔面に唾を吐きかけたことも理解できなくはなく、これだけの理由で『Cが危難を自ら招いた』とのみ評価することはできない」と事実認定した。 検察官は妹Eについて「Sは事件現場でC・D・Aを順次殺害して金品を強取し、その後でAの会社から預金通帳などを奪うためにいったん現場を離れたが、それは現場に再び戻ることを予定しての行動だ。 現にそれ以前に発見・収集し、ビニール製手提げ袋に入れておいた小銭類を現場に残していたため、一時現場を立ち去ったことを『強盗の現場を離脱した』と解釈することはできず、むしろ犯行を完遂するために現場に戻ったものにほかならない。 強盗殺人などの犯行が発覚することを阻止するためにEを殺害したことなどを見れば、E殺害も強盗の機会になされたもので、強盗殺人罪が成立する」と主張した。 被害者Cについて弁護人は「SにはCに対する確定的殺意は認められず、唾を吐きつけられたことに激怒して冷静さを失いとっさに首を絞めた。 この時『Cが死亡するかどうか』について考える余裕は全くなく、せいぜい『死ぬかもしれない』という未必的殺意があったにすぎない」と主張して確定的殺意の存在を否認した。 「刃物で突き刺すことでDが死亡することを認識・予見しながら、単に犯行の通報などを阻止するにとどまらず、進んで金品を強取する目的で敢えて刺突行為に及んだ。 無抵抗になったDを数回鋭利な包丁で突き刺し、刺されたDが大量に出血して苦しむ姿を見ても何ら救命措置を講じておらず、その後もDが既にいないことを前提に行動していた」として「被害者Dの死を意欲していた(=確定的殺意があった)とまでは認められないが、死に至る危険性は十分に認識・予見していたため、未必の殺意が認められる」と事実認定した。 冒頭陳述では「逃げ出されると思い刺した」と主張し、殺意だけでなく「金品強取の目的」も否定した。 弁護人は「Dへの刺突行為は金品強奪のための手段ではない」とも主張した。 最終弁論では父親Aと同じく強盗致死罪の成立を主張した。 Sは捜査段階ではDへの殺害行為に関して「Dが死亡するかもしれないとは思ったが、激情のまま敢えて意に介さず突き刺した」と供述したが 、公判では「Dが警察に通報するなどすることを防ぐために刺した。 当時は殺意までは持っておらず、突き刺すことによってDが死亡することも予見していなかった」と主張した。 また精神鑑定の際、この時にDのみを刺した理由に関してSは「Dは『頭が働くずる賢そうな人』のようなタイプだったので『伊達に年を取っていないから知恵が働くだろう』と思ったから」と述べた。 Aへの殺害行為については「十分な殺傷能力を有した柳刃包丁を使い、瀕死状態のAを敢えて再び刺突した。 その後Aの安否を心配した様子はなく、捜査段階でも(妻Dと同じく)『被害者が死亡するかもしれないことを認識しながら激情の赴くままに敢えて意に介することなく突き刺した』と供述しているため、被害者Aへの確定的な殺意が認められる」と事実認定した。 またEへの殺害行為に関しても「十分な殺傷能力を有する包丁を用い、刃先がEの身体を突き抜けるほどの強さでEの身体を突き刺し、Bに『首を絞めるとかして妹を楽にさせてやれよ』などと言い放ったことに加え、公判でも「刺した時には『もう死んでしまっても仕方ない』と思った」と供述したことなどに照らし「Eの泣き声などにより、一連の犯行が露呈することを恐れて確定的殺意を有した上でEを殺害した」と認定した。 弁護人は「殺意はないため強盗殺人罪ではなく強盗致死罪が成立するにすぎない」と主張した上、被告人S自身も「柳刃包丁で突き刺した時は「Aが死ぬかもしれない」とまでは考えなかった」と主張した。 弁護人はEの殺害について「朝起きて騒ぎ始めたので、事件の発覚を恐れて驚いて刺した。 強盗目的もない」と単純殺人罪を主張した。 千葉地裁は「Bが両親の会社から持ってきた通帳・印鑑を奪って以降はそれ以上金品を物色する行為に出ておらず、Bをラブホテルに連れ込み、806号室に戻ったのは会社に向かってから5時間近くが経過した6時30分ごろだった。 Sが前夜に収集してビニール袋に入れておいた小銭類はSが収集した時点で既にSに移転していたため、強盗殺人行為は遅くとも(小銭類の強取を含め)「会社の通帳・印鑑を奪った時点」ですべて終了したものとみるべきである。 よって被告人SはC・B・A各被害者に対する各強盗殺人の行為が終了した後、それとは別の機会に一連の犯行の発覚を阻止するという動機から新たな犯意に基づいて被害者Eを殺害したことが認められる」として「別個独立の殺人罪を構成する」と認定し、被告人Sの弁護人の主張を認め強盗殺人罪ではなく単純殺人罪を適用した。 罪状認否に先立ち弁護人は、検察側に対し「起訴状に記載されている殺意は、確定的殺意か未必的殺意か」と説明を求めたが、検察官は「立証段階で明らかにする」と回答した。 同月21日に検察側の論告求刑公判を行う予定だった。 起訴前に検察側の依頼で行われた小田の鑑定と異なり、福島の鑑定は被告人Sの矯正可能性に重点を置いた点が特徴だった。 精神鑑定を担当した福島は、被告人Sと直接面接した際の印象について「率直で正直な態度で、素朴な好青年と感じた」と表現した上で「被告人Sは事件について強い後悔・羞恥心を持ち、被害者に対する哀悼の気持ちを抱いていると感じた」と評価した。 千葉地裁 1994 は「その察するに余りある精神的衝撃の一端を窺わせる供述」と認定している。 本文で述べた通り論告求刑公判は最初の予定では1993年6月21日だったが 、1994年2月23日 、同年3月14日 、そして同年4月4日と結果的に3度にわたり予定が変更された。 弁護人は「小田は精神鑑定前から『死刑を適用すべき』と言及するなど偏見があり、その鑑定結果は信憑性がない」と主張した。 「死刑制度の是非を問う社会的な潮流がある」ことを主張するために証拠として提出した。 同連盟(会長:)は死刑判決が言い渡された際、事務局長名義で「少年法の精神に則り『被告人の今後の生きるべき指針となる判決』を期待したが、死刑判決には失望を禁じ得ない。 この判決を機に被害者遺族への補填・救済の在り方を見直すとともに、死刑存廃問題について真正面からの議論を期待したい。 そのために死刑に関する情報を公開し死刑執行を一定期間停止するを制定すべきだ」と声明を発表した。 『読売新聞』は「死刑事件では初めて死刑制度を巡る国内外の議論について言及した」と報道している。 安田は当時の被告人(第一審で死刑判決を受け控訴中、後に無期懲役が確定)の主任弁護人を務めており 、後に本事件上告審・再審請求審で本事件の被告人・死刑囚Sの弁護人を務めた。 「被告人Sの犯行当時の精神年齢は18歳未満で、少年法の精神に照らせば死刑を適用することはできない」と主張していた。 神田は退官後の2008年に『毎日新聞』の記者から取材を受け「人命が奪われるのだから(死刑でよかったとは思わない。 被告人Sに憎しみは持たないし、持ってはいけないと思う」と述べている。 、(被告人3人中2人)、といった死刑が確定した少年事件でも下級審(第一審・控訴審)では無期懲役判決が言い渡されていた。 永山事件以降(および平成)に発生した少年犯罪では「第一審から上告審まで一貫して死刑判決が支持されて確定した事件」は(平成28年)にの最高裁判決(一・二審の死刑判決を支持)が言い渡されるまで本事件のみだった。 この住職はSの母親らから説得を受けてSと交流するようになった。 住職は死刑執行翌日(2017年12月20日)に死刑囚Sの供養を行ったが戒名は与えなかった。 2016年時点では「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム'90」(フォーラム90)が実施している。 Sの死刑確定以降には2002年5月10日 、2003年5月末 、2004年7月末 、2005年7月31日と 、「死刑廃止の会」が計4回にわたり確定死刑囚について調査を行ったが、いずれもSについて再審請求をした旨の記述はない。 当時、新証拠として挙げたものは「(確定判決で問題となった)上智大学教授・福島章の精神鑑定結果」「死刑囚Sの成育歴・脳のMRI検査結果を考慮して再度行った精神鑑定結果」であった。 安田は死刑執行後に「月命日には被害者4人への謝罪の祈りをして冥福を祈っていた。 Sの獄中生活の長さ(逮捕 - 死刑執行まで25年)を考えればもう生き直したも同然だから死刑執行の是非を再検討する機会があっても良かったはずだ」と述べている。 一場は上告審から弁護団に加わり、死刑確定後も再審請求担当の弁護人を務めていた。 Sが生前最後に一場と面会したのは2017年10月末で、一場は死刑執行直後に産経新聞などの取材に対し「死刑囚Sは死刑執行まで新聞をよく読んでいた」と述べている。 もう1人の死刑囚は1994年にで3人(交際女性とその両親)を殺害して殺人罪に問われ、1999年に最高裁で死刑が確定した死刑囚。 一場は死刑執行を受けて『中日新聞』の取材に対し「解離性障害の可能性から責任能力の有無を争って再審を請求していた」と証言したが 、法務省関係者は『読売新聞』の取材に対し「死刑囚Sは(過去に棄却された再審請求と)実質的に同じ理由で請求を繰り返していた」と証言した。 法務大臣の死刑執行命令により、に収監されていた長崎雨宿り殺人事件の死刑囚が処刑された。 翌2018年7月、のら死刑囚13人に対し「7月6日に麻原ら7人・26日に残る6人」と2度に分けて死刑が執行されたが、うち麻原を含む10人は再審請求中だったため、4回連続で「再審請求中の死刑囚に対する死刑執行」がなされた。 安田は同日、偶然用事のために東京拘置所に向かっていた中で死刑執行を知った。 実際、後に行われたオウム事件死刑囚13人に対する死刑執行においては・・(以上2018年7月6日に死刑執行) ・・・・(以上2018年7月26日に死刑執行)の計7人が死刑執行時点でへの第一次再審請求中、および東京地裁の請求棄却決定に対する東京高裁への即時抗告・最高裁への特別抗告中だった。 この時には理由を「面会か何か」と伝えられたとされる。 日弁連死刑廃止検討委員会事務局長・は『中日新聞』の取材に対し「犯行当時少年の場合は判断能力が成人より劣っている上、家庭環境・社会の影響も強く受けている。 事件の責任を個人に負わせるのは相当ではなく、死刑を執行すべきではない」「死刑確定者も『犯人性への疑い』だけでなく『責任能力の問題』『量刑不当』など様々な論点で再審を請求しているため、そのような人々から裁判で争う機会を奪うのは問題だ」と意見を述べた。 同会副会長・藤岡拓郎は『千葉日報』の取材に対し「死刑制度自体の問題・犯行当時少年に対する死刑執行への反対姿勢」を明確にした上で「死刑を執行すべきではなく極めて遺憾だ」と非難した。 東京に大使館を置く26加盟国・・大使館が共同でに対し「死刑は残酷かつ非人間的で犯罪抑止効果は全く証明されておらず、(裁判の)誤審も免れない」として死刑執行停止を促す声明を出した。 同誌は1992年3月19日号・3月26日号と2週連続で組まれた特集記事でSを「牧和雄」の仮名で報じ 、後者でSの生い立ち・少年時代の自画像、中学時代の卒業文集などを掲載した。 の上告審判決(2011年3月10日)に関する報道が同方針の初適用例となった。 その際は『読売新聞』・『産経新聞』・『日本経済新聞』の3紙および各テレビ局も『朝日新聞』と同様の対応を取った一方、全国メディアで唯一『毎日新聞』は死刑確定時点でも匿名報道を継続した。 それ以降の少年死刑事件である・両事件でも各メディアは各々の対応を踏襲している。 死刑が確定すると面会は親族・弁護士に限定され、外部の人間との接触は原則として不可能になる。 (東京拘置所)および長崎雨宿り殺人事件(福岡拘置所)の死刑囚で、後者は当時請求中だった。 永瀬から「Yから取材を拒否された」と伝えられた際には「Yがとんだ無礼を働いて申し訳ない。 Yは自分たちの置かれた立場を理解していない」と述べている。 永瀬との面会で「本当に生まれ変われると信じているのか?」と質問された際には「生まれ変われると信じている。 そう信じていないと目標がなくなる(自分の場合は判決は目標にならない)」と答えている。 この事故の直後に病院で検査をした際「転倒の衝撃で顎の骨が割れている」と判明したため、永瀬はその治療のために3週間入院し、その間は東京拘置所にも通えなかったが「側頭部・後頭部からではなく顎から倒れ、砕けた歯・顎がクッションになったから助かった。 『顎が割れた程度で済んでよかった』と思う」と回顧している。 退院後に再び東京拘置所へ通うようになった永瀬は最初の面会で被告人Sに「怪我と入院で面会に来られなかった」という旨を説明し、Sから「人間は健康第一ですから身体には気を付けてください」と労われた。 同書に対しては同業者のライター・編集者から「よく取材した」と好意的な意見もあったが「読後感が悪い」と否定的な声もあり、「今後のためにもっと建設的な仕事をした方がいい」とも指摘された。 その内容は「1991年10月、当時フィリピン滞在中だったSは結婚相手の女性の兄(義兄)とともにマニラのカラオケスナックに来ていたが、その場で現地の警察官を殴って拳銃を突き付けられた」という記述で 、永瀬がフィリピンでSの義兄に対し直接取材した事実を基に帰国後、Sと面会して直接確認した上で記述したものだったが 、Sは「もしフィリピンで警官に暴行など加えていたら自分は今ごろ現地の刑務所に入っている。 その警官が金をせびってくるやつがいたから『うるさい』と腕で振り払ったら拳銃を突き付けられただけだ。 義兄は永瀬のことを自分の身内とでも思っていただろう」と述べている。 永瀬からその暴言を咎められると一転して「もっと早くあなた(永瀬)に出会っていればよかった。 塀の外で会っていれば自分も変わっていたと思うが、自分にはあなたのように叱ってくれる人間がいなかった」と発言した。 「永瀬と面会できない理由」に関しては「死刑確定までの時間が限られているので平日はほぼ毎日、修道会の方・関係者の方々と交代で面会するスケジュールを組んでいるため」と説明されていた。 Sは弟について「自分とは正反対の人間」と述べており、実際にSの弟と対面した永瀬も彼に対しては同様の印象を抱いていた。 朝倉の取材を受けた鰻屋の同僚は「XはSに鰻屋を継がせようと思っていたなら『自分の孫と思わず、厳しく鍛えてやってくれ』と現場に手配りをすべきだったが、実際にはその逆だった。 しかしSは叱られた際はいつも素直で、一度ウナギを焼かせてやった時は一人前に扱ってもらえたことが嬉しかったのか、そのことをあちこちで吹聴していた。 だから、Sは自分がきちんと面倒を見て厳しく指導していればあのような事件を起こさずに済んだはずだ」と証言し、朝倉はその同僚を「相手が誰だろうと歯に衣を着せず、筋を通す姿勢が身についていた」と評している。 1990年代初期当時は死刑執行(死刑執行一時停止)期にあり、・・・と4代にわたり法務大臣による死刑執行命令が出されなかった。 1993年3月26日、(警察官僚出身)が「法秩序、国家の基本が揺らぐ」(国会答弁)として死刑執行命令を発したことにより、3人の死刑が執行されたことでこのモラトリアムは終わった。 出典 [ ] 出典• 183. , p. 148. 147. 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。 「」『産経新聞』産業経済新聞社、2017年12月19日。 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。 147. 148. , p. , pp. 15-16. , pp. 18-19. , p. , pp. 17-20. , p. , pp. 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『産経新聞』1994年8月8日東京朝刊社会面「市川の一家4人殺害、求刑死刑にきょう判決 千葉地裁」(産経新聞東京本社)• 『産経新聞』1994年8月8日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 19歳被告(犯行時)に死刑判決 少年に適用10人目」(産経新聞東京本社)• 『読売新聞』1994年8月8日東京夕刊一面1頁「犯行時19歳少年に死刑判決 市川の一家4人殺害 未成年、5年ぶり 千葉地裁」(読売新聞東京本社)• 『日本経済新聞』1994年8月8日夕刊一面1頁「少年(当時)に死刑判決 市川の一家4人殺害 千葉地裁『冷酷非道な犯行』」(日本経済新聞社)• 『産経新聞』1994年8月8日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 『罪刑均衡の見地から』 残虐犯行に極刑の断」(産経新聞東京本社)• , p. , p. 187. 『朝日新聞』1994年8月9日朝刊第一社会面23頁「死刑判決受けた被告が東京高裁に控訴 市川の一家4人強殺事件」(朝日新聞社)• 『中日新聞』1994年8月9日朝刊第二社会面22頁「死刑判決の被告控訴」(中日新聞社)• 『読売新聞』1994年8月9日東京朝刊社会面23頁「千葉の一家4人殺害事件 死刑判決の被告が控訴」(読売新聞東京本社)• 『』2008年3月23日東京朝刊第二社会面30頁「正義のかたち:裁判官の告白/3 重荷背負う、死刑判決」()• 『産経新聞』1996年7月2日東京夕刊社会面「市川の一家4人殺害 当時少年、二審も死刑 東京高裁判決『罪の重大性から相当』」(産経新聞東京本社)• 『読売新聞』2001年3月6日東京朝刊第二社会面38頁「千葉・市川の一家4人殺害事件 最高裁、来月に弁論」(読売新聞東京本社)• 『朝日新聞』2001年3月6日朝刊第二社会面38頁「市川の殺害、来月弁論 最高裁」(朝日新聞社)• 『毎日新聞』2001年3月6日東京朝刊社会面31頁「千葉・少年の死刑事件 来月13日に弁論 最高裁」()• 『産経新聞』2001年3月6日東京朝刊社会面「市川の一家4人殺害 最高裁が4月に弁論」(産経新聞東京本社)• 『朝日新聞』2001年4月14日朝刊第二社会面38頁「最高裁で弁論 市川の一家殺害事件」(朝日新聞社)• 『』2001年4月14日朝刊第二社会面24頁「一家殺害上告審『幼児期の虐待影響』犯行時少年被告 弁護側、死刑回避訴える」()• 『毎日新聞』2001年4月14日朝刊社会面27頁「千葉・市川の一家殺害 死刑判決の元少年、最高裁で審理」(毎日新聞社)• , pp. 223-224. , pp. 224-225. 141. 『読売新聞』2001年11月14日東京朝刊京葉版地方面30頁「市川の一家4人殺害事件 上告審判決、12月3日に=千葉」(読売新聞東京本社・京葉支局)• 『産経新聞』2001年11月14日大阪朝刊社会面「来年3日に判決 市川の一家4人殺害上告審」(産経新聞大阪本社)• 『産経新聞』2001年11月14日東京朝刊社会面「来年3日に判決 市川の一家殺害上告審」(産経新聞東京本社)• , 主文. 『千葉日報』2001年12月4日朝刊社会面23頁「市川の一家4人殺害 後絶たぬ凶悪少年犯罪 死刑判決や厳罰化でも」(千葉日報社)• 『東京新聞』2001年12月4日朝刊第一社会面27頁「早く消えたい…自暴自棄にも 今は生き抜き罪あがないたい 僕の経験が反面教師になれば 『死刑確定』の当時19歳、心境赤裸々に 市川4人殺害 本紙に告白手記 今なおいえぬ遺族の心の傷」(中日新聞東京本社)• 『朝日新聞』2001年12月4日朝刊社会面33頁「『適用基準』改めて確認 市川の殺人、未成年の死刑確定<解説>」(朝日新聞社)• 『読売新聞』2001年12月4日東京朝刊第二社会面38頁「千葉・市川の一家4人殺害の元少年死刑 『冷酷、残虐』と極刑選択/最高裁」「3日の千葉・市川の一家4人殺害事件の判決要旨」(読売新聞東京本社)• 『産経新聞』2001年12月4日大阪朝刊一面1頁「一家4人殺害 当時、少年の死刑確定へ 永山元死刑囚以来 最高裁が上告棄却」(産経新聞大阪本社)• 『産経新聞』2001年12月4日大阪朝刊社会面「当時少年の死刑確定へ 『何をやったか考えて』 被害者の会『当然の判決』」(産経新聞大阪本社)• , 理由. 『中日新聞』2001年12月31日朝刊県内版14頁「【愛知県】事件ファイル2001(下) 連続リンチ殺人判決 木曽川・長良川事件 元少年のA KM 被告に死刑 3被告全員を検察側控訴 遺族の強い不満後押し」(中日新聞社 社会部記者・吉枝道生) - 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件の関連記事• 『朝日新聞』2001年12月22日朝刊第二社会面30頁「市川の一家殺害で死刑判決が確定 最高裁、申し立て棄却」(朝日新聞社)• 『中日新聞』2001年12月22日夕刊社会面10頁「当時19歳の死刑確定」(中日新聞社)• 『日本経済新聞』2001年12月22日西部朝刊社会面17頁「当時少年の死刑確定 千葉の一家4人殺害」(日本経済新聞社)• 『産経新聞』2001年12月22日東京朝刊社会面「市川の一家4人強殺 当時少年の死刑が確定」(産経新聞東京本社)• 『産経新聞』2001年12月22日大阪朝刊社会面「当時少年の死刑確定」(産経新聞大阪本社)• 「」『産経新聞』産業経済新聞社、2017年12月19日。 2017年12月19日閲覧。 の2017-12-19時点におけるアーカイブ。

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【掲示板】【地域スレ】墨田区の住環境ってどうですか?|マンションコミュニティ(レスNo.1

市川いっかさつがい 長女

「犬がうらやましい。 ああ、なぜ人間なぞに生れたろう」 冗戯 ( じょうだん )にも、人間仲間で、こんなことばを聞くことが近年では、めずらしくもなくなった。 笑えるうちは、まだよかったが、この頃ではそんな 冗戯 ( じょうだん )が出ても、笑う者もなくなった。 「何しろ、 怪 ( け )ッ 態 ( たい )な世の中になったものです。 お犬様には、分るでしょうが、人間どもには何が何だか、わけが分りませんな」 これは、庶民とよぶ人間の群の、一致していうことばだったが、人々のあたまの中は、言葉どおりに、一致してはいなかった。 こういう時代の特徴として、各 の思想も、人生観も、三人よれば、三人。 十人よれば、十人 十色 ( といろ )にちがっていた。 世にたいする考えも、自分というものの生かし方も、皆、まちまちで、ばらばらで、しかも表面だけは妙に、浮わついた風俗と 華奢 ( かしゃ )を競い、人間すべてが満足しきッてでもいるような 妖 ( あや )しい享楽色と 放縦 ( ほうじゅう )な社会をつくり出していた。 夏の夜である。 蛍狩 ( ほたるが )りでもあるまいに、淀橋上水堀の道もないあたりを、狐にでも 化 ( ば )かされたような三人男が歩いていた。 「おいおい、 大亀 ( おおがめ )。 待てやい。 待ってやれよ」 「どうしたい。 阿能十 ( あのじゅう )」 「 味噌久 ( みそきゅう )のやつが、 田 ( た )ン 圃 ( ぼ )へ落ちてしまやがった。 まっ暗で、引っ張り上げてやろうにも、見当がつかねえ」 「よくドジばかりふむ男だ。 味噌久はかまわねえが、背負わせておいた御馳走は、まさか田ン圃へ 撒 ( ま )いてしまやアしめえな」 べつな声が、闇の中で、 「ええ、ひでえことをいう。 ふたりとも身軽なくせに。 すこし荷物を代ってくれやい」 と、田の 畦 ( くろ )を、這い上がっているようだった。 大亀と阿能十は、おかしさやら、暗さやら、わけもなく笑いあって、 「まあ、そういうなよ。 目ざす中野はもうすぐだ。 辛抱しろ、辛抱しろ」 「だが、着物の裾をしぼらねえことにゃあ、どうにも、 脛 ( すね )にベタついてあるけもしねえ」 「阿能。 泣きベソがまた泣いていら。 そこらで一ぷくやるとするか」 小高い雑木林の丘に、男たちは腰をおろした。 三人とも、 二十歳 ( はたち )から三十前。 ふたりは、浪人風であり、ひとりは町人。 そしてその味噌久だけが、何やら臭気のつよい包み物を首に背負っていた。 真夜中、街道もあるのに、わざわざこんな闇を、この変な荷物をたずさえ、一体どこから来て、どこへ行くのか。 どう人間を信じたらいいのか。 どう世の中を考えていいのか。 また、どう自分を生かしてゆくのが真実なのか。 元禄の当代人には、厳密にいって、たれにも分っていないらしい。 それを明らかにしてよく生命を 愛 ( いと )しんでいる人間などは、 寥々 ( りょうりょう )たる星のごときものであろう。 ことに、若い者には、刹那的な享楽をぬすむほかは、なんの方向があるでもなく、希望もなかった。 いまよりはまだ健康な世代といわれる寛永から万治までの世を知っていないかれらには、前期との比較がないので、 慨嘆 ( がいたん )もなく、煩悶もせず、 易々 ( やすやす )と、自堕落な世に同調してゆけるのもある。 「こう、阿能十、あれ見ねえ。 こんな 御府外 ( ごふがい )からでも、堺町の夜空がぼうっと赤く見える」 「ほんに、今ごろは、芝居小屋も 蔭間 ( かげま )茶屋も、灯の色に染まっている頃だろうて」 「よせやい阿能。 アアいけねえ、ここらは虫の声ばかり、女の顔をおもい出すと、今夜の先が急に 恐 ( こわ )くなってきた」 「兄貴らしくもねえことを。 ……なあ、味噌久」 「そうだとも。 そっちが 弱音 ( よわね )をふいたひにゃ、この久助なざ、なおのこと、ここらでお別れと願いたくなッちまう」 「ばかをいえ」 阿能十は、ここぞと強がった。 あばた顔の大亀が、この仲間では、年かさで、体つきも頑丈だが、小柄ながら阿能十には、武家息子らしい 風骨 ( ふうこつ )と 敏捷 ( びんしょう )さがある。 「今夜のことは、おれの 発議 ( ほつぎ )だ。 まちがっても、大亀にもてめえにも、ヘマを喰わせてすむものか。 おれがいる。 さあ行こうぜ」 阿能十は、 頬被 ( ほおかぶ )りを 解 ( と )いて、ぽんと払って、顔に 被 ( かぶ )り直しながら、長い刀に 反 ( そ )りを打たせて立ち上がった。 色街でもない真ッくら闇を、いつもの癖で、阿能がイヤに気取って歩くのをうしろから見て笑いながら、あばたの大亀も、のそのそと味噌久を中に挟んで歩き出した。 だん畠の傾斜地を下り、谷をわたって、向うがわの丘へ上がる。 そして雑木林の細道を半里ほども行くと、いんいんとして犬の遠吠えが聞えてきた。 一頭や二頭ではない。 何百、何千ともしれない群犬の声である。 それが 谺 ( こだま )して、一瞬この世の声ともおもえぬ 凄味 ( すごみ )に夜をつつんだ。 「お、あれだ、お犬小屋は」 「ちがった人間の 臭 ( にお )いがしてくると思ってか。 もう吠えたてていやがる。 気をつけろよ」 遠吠えは、まもなくやみ、三人はまた道をさぐった。 林を 出端 ( ではず )れると、高い板囲いにつき当った。 夜目にはただ長い長い塀の線が果てなく闇を縫っているとしか見えない。 世に聞えた中野の原のお犬小屋というのがこれらしい。 「しッ。 もどろう。 そっちへ行くと、番所の明りがさしている」 「いや、犬になって行け。 犬になって」 「ど、どうするんだ。 犬になれとは」 「こうよ。 こうやって……」 と、阿能は、四ツん這いになって、 柵門 ( さくもん )の 際 ( きわ )を、先に通ってみせた。 大亀も、味噌久も、それに 倣 ( なら )って、通り越し、番所の灯をふりむいて、声なく笑いあった。 目的にかかり出した。 味噌久に背負わせて来た風呂敷には、犬どもの食欲をそそるにちがいない魚肉の 揚団子 ( あげだんご )が大きな 魚籠 ( びく )にいっぱい入っていた。 味噌久を踏み台にして、阿能十が板囲いの内をのぞく。 そして大亀の手から揚団子をうけ取っては、つぶてのように中の広場へそれを撒いてあるくという段取だ。 「阿能さん、もう品切れだぜ」 「なくなったか。 どこかそこらの木の上で」 と、あたりの 喬木 ( きょうぼく )を見まわした。 「ここらが、手頃」 と、阿能十は、高い赤松の梢をめがけて、もうよじ登っていた。 大亀も、隣の大木へ登りかけたが、ふと、味噌久のうろうろ姿を見て、 「おい、久の字。 ここらで帰るがいいぜ。 あしたの 午 ( ひる )まえにゃ、いつもの所へ、阿能とふたり、 空 ( すき )ッ腹で行くから、お 袖 ( そで )にいって、 美味 ( うま )いもので、飯のしたくをさせといてくんな」 するすると、彼の影は、もう木の上の 梟 ( ふくろ )だった。 ここまでのつきあいが、精いッぱいの辛抱だった味噌久は、大亀にそういわれると、元気づいて、 「ほい、心得た。 じゃあ、お袖のうちで、待ちあわせているぜ」 彼のすがたも、夜鳥に似て、江戸府内の方へいちもくさんに消え去った。 夏のみじか夜とはいうが、梟のまねして、木の上にとまっているふたりには、それからの空がひどく長い気がした。 「阿能。 寒いようだなあ」 「ウム。 洒落 ( しゃれ )た涼みだ」 「寝られるかい。 少 ( ち )ッたあ」 「寝たら落ッこちるだろうと思ってよ」 「おれたち、人間の先祖は、穴に住む以前は、木の上に寝たんだそうだ。 寝られねえわけはねえが」 「それで読めた。 いまの地上では、お犬様をはじめ、畜生どもが、人間以上にあつかわれ、おれたち人間は、木の上で寝る。 これやあ、大昔に返っただけのことだ」 「ははは。 そうかもしれねえ」 この暗天の笑い声も、もし聞く者があったら、異様な感にうたれたろう。 しかし、これも世が人にさせてる一つの 業 ( わざ )にはちがいなかった。 いわゆる元禄若衆姿というものは、風俗画的に見れば優雅にして 艶 ( えん )なるものだが、社会史的に見れば、時の不良青少年の 競 ( きそ )った 伊達 ( だて )にほかならない。 何しろいまは不良が多い。 というよりは、天下不良に満つである。 柳営 ( りゅうえい )の大奥にすら、不良少女不良老女がたくさんにいる事実を江戸の人々は知っている。 ときの将軍家、五代綱吉。 この人の不良も庶民は知りぬいている。 いま、閣老随一の きけ者といわれ、同じ老中の酒井、阿部、大久保、土屋などをも、意のまま操縦しているという柳沢 吉保 ( よしやす )なども、側用人の小身から、破格に成り上がった不良の大なるものだという。 慨嘆の聞かれる時代は、まだ多少健康な時代といいうる。 それを聞くには、 時人 ( じじん )はもう余りにも現世的な快楽主義に 惑酔 ( わくすい )し、成りゆき主義に馴れすぎていた。 「まだまだ島原の孤城に、十字架旗をたてて、天下の軍勢をひきうけるのがいたり、由井正雪とか丸橋みたいな男が出て、成らないまでも、徳川に 叛骨 ( はんこつ )を示してみるような 輩 ( やから )がいた時代は、世の中が、何かを求めて、人間の自堕落を、ゆるさぬとしていたのじゃよ。 腐るものに、腐らぬ作用をしていたのじゃ。 上も下も男も女も、 狎 ( な )れあって、みじかい命のあるかぎり、この世を畜生道にたたき込みおる。 悪政家には、わが世の春じゃろう」 悪政のうちでも、新貨幣への切り換えと、生類 御憐愍 ( おんあわれ )みという二法令ほど、急激に世を悪くし、時人を苦しめたものはない。 さしもの幕府の 庫 ( くら )の金塊も、放漫な経理と、将軍綱吉や、その生母 桂昌院 ( けいしょういん )の湯水のごとき浪費とで、近年は 涸渇 ( こかつ )に 瀕 ( ひん )してきたのである。 そこで、通用中の古金銀を、すべて禁止し、一たん民間から回収して、金には銀を加え、銀には 錫 ( すず )を混ぜて、新貨幣を発行すれば、手つかずに、天下の通宝が、幕府の手にあつまる。 柳沢、荻原らが、その間に、私腹をこやし、新貨幣の威力をもって、さらに悪政閥を活溌にしたのはいうまでもない。 悪貨の増発は、物価をハネあげる。 物価の狂騰はまた貨幣の 濫発 ( らんぱつ )をやむなくする。 それにたいし、幕府は追っかけ追っかけ節約令や禁止令をもって、庶民生活を抑圧した。 その日は、 綺羅 ( きら )盛装の諸侯も 相伴 ( しょうばん )の列に伍し、 蜿蜒 ( えんえん )の遊楽行は、忙しい都人の往来を遮断した。 吉保は、一門一族をあげてこれを迎え、歓楽つきて、秘室、 伽羅 ( きゃら )を 焚 ( た )きこめた 屏裡 ( へいり )には、自分の妻妾でも、家中のみめよき処女でも、綱吉の 伽 ( とぎ )に供するのを否まなかったとさえいわれる。 しかし彼女には、そこの 御能 ( おのう )見物や、美酒美女よりも、護国寺詣りのほうが、はるかに興味があったらしい。 虚栄と、迷信と、綱吉にたいする盲愛ほど、彼女をとらえるものはなかった。 なべて、彼女は盲情家だった。 綱吉を盲愛し、吉保を 盲寵 ( もうちょう )し、また、護持院 隆光 ( りゅうこう )を盲信した。 護持院の七堂 伽藍 ( がらん )は、彼女が黄金にあかせて、 寄進 ( きしん )したものである。 その 普請中 ( ふしんちゅう )、 不念入 ( ふねんいり )というかどで、最初の奉行、 棟梁 ( とうりょう )、 小普請 ( こぶしん )方など、幾人もの者が、遠島に罪せられたほどやかましい 建立 ( こんりゅう )であった。 そのときまだ一側用人だった吉保が、次の奉行となって、お気に入ったのが、彼の今日ある立身の 緒 ( ちょ )であった。 それにみても、かれと隆光と桂昌院との、大奥における 女謁 ( にょえつ )政治が、以後、どんなかたちで育ち、三人のみの秘密が愛されてきたかがわかる。 以後、この法律は、綱吉の死ぬまで、足かけ二十三年間解かれなかった。 人間が畜類の下におかれた受難期である。 いま、元禄十四年は、その発令から十年めにあたっていたが、まだ人間は、その法に、馴れきれなかった。 「いったい、蚊をいぶしたり、たたいたりは、どうなるんだい?」 「きまってら。 いぶしたやつは、松葉いぶし。 たたいたやつは、百叩きよ」 「じゃあ、 蚤 ( のみ )もつぶせねえの」 「そうさ。 へたに 蛍 ( ほたる )やきりぎりすなんぞ飼うと、永牢だろうよ」 江戸の庶民は、法の重圧や、疾苦を、こんな 冗戯 ( じょうだん )や 洒落 ( しゃれ )でまぎらす 術 ( すべ )のみ知って、「なぜ人間が」とは考えなかった。 そして、落首や 戯 ( ざ )れ絵で小さな反逆の中に遊びながら、犬を、犬と呼び捨てにせず、「お犬さま」と敬称するのを忘れなかった。 幕府も、お犬さまは、諸生類の最上級において、禁令条項のうちでも、特別に犬は重視した。 将軍綱吉が、 戌年 ( いぬどし )生れだったからである。 また、綱吉の若年の名は、 右馬頭 ( うまのかみ )といっていたし、 館林 ( たてばやし )侯から出て、将軍家を継いだ天和二年も、戌の年だった。 こんなつまらぬ暗合も、護持院隆光にとっては、大いに用うべき偶然事だった。 かれの献策は、まず迷信家の桂昌院を信じさせ、桂昌院は将軍を 説 ( と )いて、ついに法令化となったのである。 時の人、 太宰春台 ( だざいしゅんだい )は、その著「三王外記」のうちに、 這般 ( しゃはん )の事情を、こう書いている。 僧隆光、進言シテ云フ、人ノ 嗣 ( し )ニ乏シキ者、ミナ生前多ク殺生ノ 報 ( ムク )イナリ。 王(将軍のこと)マコト嗣ヲ欲セバ、ナンゾ殺生ヲ禁ゼザル。 且、王ハ 丙戌 ( ヒノエイヌ )ヲ以テ生ル。 戌ハ犬ニ属ス、最モ犬ヲ愛スルニ宜シト。 王コレヲ然リトス。 太后 ( タイコウ )(桂昌院)マタ隆光ニ 帰依 ( キエ )深シ、共ニコレヲ説ク。 王イハク諾。 スナハチ殺生ノ禁ヲ立テ、即日、 愛狗犬 ( アイクケン )令ヲ、 都鄙 ( トヒ )ニ下ダス。 法令は、人間どもを、驚かせた。 いや、まごつかせた。 しかも、徹底的に厳行され、 寸毫 ( すんごう )も、 仮借 ( かしゃく )されなかった。 違犯第一にあげられたのは、その年の春さき、 持筒頭 ( もちづつがしら )の水野藤右衛門の配下が、門に集まった 鳩 ( はと )を 礫 ( つぶて )で落したという 科 ( とが )を問われ、藤右衛門は免職、与力同心はみな 蟄居 ( ちっきょ )させられた。 同じ年の二月、 御膳番 ( ごぜんばん )の天野五郎太夫は、遠島になった。 これは本丸の御膳井戸へ猫が落ちて死んだのを問われたのである。 また、夏の初めごろ。 秋田淡路守の下屋敷の軽輩が、吹矢で 燕 ( つばめ )を射たことが発覚し、しかも、将軍家の 御忌辰 ( ごきしん )に、法令を犯したとあって、夫婦ふたりとも、斬罪に処せられた。 あとで沙汰にされた噂によると、この軽輩の士には、まだ幼い 愛娘 ( まなむすめ )があり、その娘の重病に、燕の黒焼をあたえればよいと人にきかされて、親心からつい禁を犯し、この酷刑をうけたものということだったので、聞くひとはみな悪法を呪い同情のなみだを禁じ得なかった。 これらの例は、法令が出たばかりの僅々四、五ヵ月のうちに起ったことで、その一年だけでも、江戸市中や諸国であげられた違犯者の数は何千人かわからない。 法令は、年ごとに、 微 ( び )に入り 細 ( さい )に入って、小やかましい箇条を加え、 鷹匠 ( たかじょう )、鳥見組の同心は、ことごとく御犬奉行や犬目付へ転職になり、市中には、犬医者のかんばんが急にふえた。 石を投げた子供が、自身番へ しょッ引かれて、その親が、犬目付の告発にあい、手錠、所払いになるような小事件は、一町内にも、毎日あった。 日常、牛馬をつかう稼業の者からは、特に多くの違犯者があげられた。 牛馬に鞭を振ったとか、病馬を捨てたとかいうだけの理由で、死罪、遠島になった者も少なくない。 犬がうらやましい。 疾苦 ( しっく )の民は、心からいった。 死罪、遠島、重追放などの、家を失った数々の人間の子は、必然、浮浪者のなかまに入り、また、良家の子弟ではあっても、世のばからしさ、 あほらしさから、犬になりたい仲間も 殖 ( ふ )え、両々 相俟 ( あいま )って、 糜爛 ( びらん )した 時粧 ( じしょう )風俗とともに、天下不良化の観をつくった。 中野の原のお犬小屋をうかがい、 揚団子 ( あげだんご )を 撒 ( ま )いて、木の上に夜を明かしていた大亀や阿能十なども、いずれは、こうした時代の子にはちがいない。 お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が大きかった。 犬は仔を産むし、多産だし、しかも十数年来、太鼓の製皮も禁ぜられてきた程なので、その繁殖率は、たいへんなものになっている。 世上の違犯数も、当然、それに準じて増すばかりなので、さすがの幕府も、犬目付も、法の厳励を期すには、いまや悲鳴をあげないでいられない。 このため、勘定奉行の荻原近江守は、八州の代官に 下知 ( げじ )して、 高 ( たか )百石について一石ずつの 犬扶持 ( いぬぶち )を課し、江戸の町民へは、一町ごとに、 玄米 ( くろごめ )五斗六升の割で、徴発を令した。 だから中野より規模が狭かった大久保小屋の消費高でも、犬に喰わせる一日料の米、三百三十石、味噌十樽、 鰯 ( いわし )十俵、 薪 ( まき )五十六 束 ( そく )という記録がある。 その大久保の所用地面積は、二万五千坪で、中野は十六万坪もあったというから、ここでの犬の消費料は知るべきである。 家なき人間の子は、 市井 ( しせい )にも山野にもみちているが、もし一頭の犬でも病んだらものものしい。 犬医者ト申スハ、御用医者ニテ、 典薬 ( テンヤク )ノゴトク、六人肩ニシテ、若党、草履取、薬箱持チ、召シツレテ来ル。 脈ヲ見、薬ヲ処方シテ帰ル。 マタ 御徒士目付 ( オカチメツケ )、 御小人 ( オコビト )目付、二日オキニ御検分ナリ。 カヤウノ事故、町方モ、ソレニ準ジ、物入リオビタダシケレド、モシ犬ヲ痛メバ、牢ヘマヰル者、縁類ニモ一町内ニモ及ビ、何百人トイフコトヲ知ラズ。 通リスガリニモ、ワント云ヘバ、身ノ毛モヨダチ、食ヒ付カレテモ、叱ルコトナラズ、逃グルホカハナカリケリ。 科人 ( トガニン )、毎日五十人、三十人ヅツアリ、打首ニナルモアリ、血マブレナル首ヲ俵ヘ入レ、三十荷モ持チ出シテ、 大坑 ( オホアナ )ヘ打捨テタリトモ聞エタリ。 悪政にたいする世間沙汰をあげたら限りがない。 意気もない。 (ひとつ、お犬小屋を、ひッくり返すような目にあわせて、 犬公方 ( いぬくぼう )や犬役人どもに、泡をふかせてやろうじゃねえか) と、いうのが、今夜の目的であり、そこらが精いッぱいの義憤だった。 かれの父、阿能静山は、 朱子 ( しゅし )学派の一 儒者 ( じゅしゃ )だったが、あるとき聖堂の石段で、いきなりワンと噛みついてきた赤犬を、意識的にか、思わずか、蹴とばしたので、家に帰るやいな、 捕手 ( とりて )を迎えぬうちに、切腹してしまった。 息子の十蔵は、出先で 捕 ( つか )まり、遠島送りになったが、途中、夜に乗じて、遠島船から海へとびこみ、江戸へ舞いもどって以来、自暴自棄な野性の生活力を 逞 ( たくましゅ )うしている男だった。 親は深川の味噌問屋だったが、古金銀の 隠匿 ( いんとく )で 闕所 ( けっしょ )になり、浮浪の仲間入りしている味噌久を、口のかたい男と見て、鼠捕り薬を入れた 揚団子 ( あげだんご )を背負わせ、人目につかぬ道まで苦労して、はるばるその決行に来たのだった。 ……チチ。 大亀、大亀」 「なんだい、阿能」 「見や。 うッすら、東の方が、明るくなりかけて来たぜ」 「明けたか。 おれはとろりと、寝ていたらしい」 「いい度胸だの。 ……あっ、おい。 出て来た、出て来た」 「えっ、何が」 「何がって、犬の群れがよ」 「おお……。 ふふん、来る来る」 樹上のふたりは、一望に見える囲い内へ、そこから眼をこらしていた。 十六万坪の原には、数多い犬舎も、点々と、朝霧の海の小舟みたいでしかない。 驚くべき犬の大群は、朝の運動に 堰 ( せき )を切ッて流れ出し、やがて 戯 ( たわむ )れ狂いながら、朝霧の土を 嗅 ( か )ぎまわりつつ散らかった。 「あっ、食った。 大亀、見ろ、見ろ」 「 叱 ( し )ッ」 「あ。 ほんとだ。 食ってる。 食ってる」 「阿能、静かにしろよ。 あんまり伸びあがると、おめえの松の木がゆさゆさ揺れて、遠くからでも 気 ( け )どられるぞ」 かれらが夜のうちに撒いた揚団子は、あっちでもこっちでも、犬どもの 嗅覚 ( きゅうかく )に争われ、むさぼり合う闘争の吠え声がつんざいた。 そのうちに、けんッ! と異様な啼き声とともに、二、三頭がくるくると狂い廻って、あらぬ方角へ、矢のようにすッ飛んで行ったかと思うと、バタ、バタとつづいて 仆 ( たお )れた。 「やっ。 やっ?」 犬同心も、何か、絶叫し出した。 「阿能っ。 胸がすうとした。 もうことばを 交 ( か )わしてなどいる暇はない。 どこをどう駈けたかもわからない。 大亀は、 練馬 ( ねりま )へ出てしまっていた。 久しい殺生禁断で、 河岸 ( かし )すじの稼業はあがったりである。 魚鳥の禁令は、犬ほどではないが、川魚までが、美味なのはたいがい禁制項目に入っている。 漁師、漁具屋、釣舟屋など、みな商売にならない。 が、裏には裏があり、闇舟屋も闇漁師もいるらしい。 屋敷すじへもそっと入るし、料亭はみな 精進 ( しょうじん )を看板にしているが、すずき、鯛、ひらめなどの鮮魚を欠かせる家はない。 で、京橋尻の河岸ぞいなどは、一時はさびれ果てたものだが、近頃では、また、たそがれれば裏の 川面 ( かわも )へ、かぼそい 灯 ( あかり )のもる家もぼつぼつふえていた。 「久助さんてば、嘘ばかりおいいだね。 ふたりとも、影も形も見せやしないじゃないか」 お袖は、 行燈 ( あんどん )へ灯を入れながら、ふと、朝からそこにおいてある 蝿除 ( はえよ )けをかけたままの膳を見て、味噌久へ、舌打ちしていった。 味噌久は、三ツになるお袖の子のお 燕 ( えん )をあいてに遊び相手になりながら、物干し台で川風にふかれていた。 「ほんとに、どうしたんだろう。 もう、日が暮れるっていうに」 ゆうべ別れた大亀と阿能のあれからを想像して、味噌久はふと夕雲に、不安な眼をあげた。 「さ、お燕ちゃん、お 行水 ( ぎょうずい )を浴びようね。 いいお子だから。 ……ネ。 おしろいつけてきれいきれいに、お化粧しましょ」 お袖は、子どもを抱きに来た。 そして台所の軒下に、雨戸を横にして囲った 盥 ( たらい )の湯へ、自分も帯を解いて白い肌をかくした。 夕闇にこぼれる、湯の音にまぎらして、 「オオ、きれいにおなりだこと。 こんなよいお子になったのに、お燕ちゃんのお父さまは、なぜこんな可愛いお顔を見に来ないんでしょ、お燕ちゃんも、お父さんに会いたかろうにね」 聞く人もなしと思ってか、若い母親は、無心なこと神のような肉塊をあいてに、心のうちのものを、 戯 ( たわむ )れのようにいいぬいていた。 物干しのてすりに暮れ沈んでいた味噌久は、小耳にはさんで、身につまされ、 「……むりもねえ。 そうだろうなあ」 と、口のうちで呟いた。 「十七で、あの子を産んで、あの子がいま三ツ、お袖さんは、まだ十九歳。 もしや、ゆうべの二人は、やり損なって、捕まったのではないかとおもい、じっとしていられなくなった。 「オヤ、久助さん、どこへ出て行くのさ」 「ちょっと、見て来ようと思って」 「行水が 空 ( あ )いたよ。 ざっと、ひと浴びはいらない?」 「それどころじゃねえ」 久助が出て行ったので、彼女は夕化粧をし、お燕の額にも、 天花粉 ( あせしらず )をたたいてやっていた。 そのとき、門口で、コツコツと、杖の音がした。 お父さん、お帰んなさい」 「帰ったよ。 暑かったのう、きょうも」 導引 ( どういん )の 梅賀 ( ばいが )は、 頭巾 ( ずきん )をとって、お袖にわたした。 六十にはとどくまいが、年のわりに、頑健な骨ぐみをしている。 「お袖さん。 ちょっと、もういちど耳を」 小声だが、あわただしげに、外から戻って来た味噌久が、土間の暗がりに、身をすくめてさし招いていた。 「なにさ。 顔いろを変えて」 「なんとなく、気になるので、その辺まで、ちょっと出てみたら、いやもう町はえらい騒ぎなんで」 「なにがさ。 あのふたりのことかい」 「やったらしいんで。 ……もう町じゃ、その噂やら 落首 ( らくしゅ )やらで、あっちでもこっちでも、近頃にない気味のいいことだ、やったのは、町奴か、旗本か。 イヤ、ふだん空威張りばかりしている奴らにそんな気のきいたまねができるもんか、これは 天狗業 ( てんぐわざ )だろうなんて、町の衆は溜飲をさげてみんなその話で、持ちッきりに 沸 ( わ )いているのさ」 「そうだろうね」と、お袖も、ニコと笑った。 「じゃあ、この春殿中で、浅野様が吉良上野介を 刃傷 ( にんじょう )したときのような騒ぎかえ」 「まさか、それほどでもありませんがね。 しかし、腹ん中じゃ、あの時よりも、こん夜のほうが、誰でも胸をスウとさせていましょうよ。 そのせいか、町はどこの番所も、犬目付や町奉行の手が総出で、往来を睨んでいるし、川口はどこの川筋も、夜明けまで、船止めだといっている。 ……だが、そんなに手配が廻っては、あの人たちも当分、ここへは寄りつけまい」 「梅賀さんにも、耳打ちしておいておくんなさい。 じゃあ、そのうちまた」 いちど飛び出したが、味噌久は、また、あたふた戻って来て、 「お袖さんお袖さん。 なんだか町調べの役人や手先が、こん夜は、川筋の軒並みを洗ってあるいているそうだ。 気をつけねえといけないぜ」 早口に注意して、どこともなく、 宵闇 ( よいやみ )のうちへ掻き消えた。 導引の梅賀は、湯から上がった体を拭き、浴衣、 渋団扇 ( しぶうちわ )のすがたになって、 「お袖、阿能と大亀が、とうとう馬鹿を、やったらしいな」 「いまのを、聞いていたんですか」 「なあに、客先の茶屋で療治をしているうちにもう、噂は聞いていたのよ」 「 捕 ( つか )まったら、獄門でしょうね」 「 油煎 ( あぶらい )りになるかもしれねえ。 金にもならねえことを。 粋狂なやつらだ。 今どきの若いやつらは、お犬様にかぶれて、生ませッ放しをあたり前にしていやがる」 「ま。 そんな、ひどいこといわないでも」 「ふ、ふ、ふ。 ……お袖。 こんなに薄情にされても、てめえはまだ市十郎を待っている気なのかい」 「だって、しようがありませんもの。 あちらはやかましいお屋敷の部屋住みという御身分だし」 「笑わせやがる。 市十郎は養子だぜ。 きまった家つきの娘もある」 「でも、わたしとは子を 生 ( な )した仲。 わたしに誓って下すったことばもあります。 五年でも、十年でも……」 「待つというのかい。 おそれ入った 貞女 ( ていじょ )だなあ」 「大亀さんとは、 従兄 ( いとこ )同士、きっと今に、連れて来てやる、会わせてやるともいってくれていますから」 「そいつあ、当てになるまいよ。 なるほど、大亀と市十郎とは、親戚かもしれねえが、身寄りはおろか、どこへだって、拙者は以前大岡亀次郎と申した者でござるとは、名乗って歩けねえ日蔭者だ。 ……といやあ、お袖もおれも、同じ日蔭の人間だが」 畳に落ちた涙の音が、ふと耳を打ったので、梅賀も、 箸 ( はし )と悪たれを 措 ( お )いてしまった。 ふたりの話しぶりも、どこかほんとの親子らしくない水くささがあった。 これは近所でも感づいているが、養女と聞いているだけで、深い事情を知っている者はない。 お袖のまことの父は、秋田淡路守の家来で、わずか五十石暮らしの軽輩だった。 お袖がまだ五ツの年、大病して、医者にも見離された折、その病の薬には、燕がよく奇効を奏すと人から教えられ、吹矢で燕を射たことが発覚し、あいにくその日が、将軍家の 忌辰 ( きしん )にもあたっていたので、夫婦ともに、斬罪という憂き目にあった人だった。 縁につながる身寄りもみな、それぞれ罪に問われて、世を去り、離散して果てたが、お袖はかえって人の手に病も 癒 ( い )え、その代り、身は転々と 世路 ( せろ )のつらさを 舐 ( な )めて、早くから水茶屋の茶汲み女に売られたりした。 かの女は、恋を知った。 その頃、よく水茶屋へ通って来た、若い武家息子たちのうちの一人に。 赤坂辺にやしきのある大岡市十郎と名も初めてのときから覚えた。 その市十郎を連れて来たのは、従兄の大岡亀次郎で、亀次郎の方が、二つ三つ年上でもあり 遊蕩 ( ゆうとう )も先輩だった。 (とり持ってやる) と、亀次郎が、あの夜ついに、導引の梅賀の家を借りて、灯もない一間へ、若い 男女 ( ふたり )を置き放しにして帰ってしまった。 梅賀は、おもて向きは、 按摩 ( あんま )療治をしているが、実は、したたかな悪党で、世間の信用を利用して、ここかしこの穴を見つけ、悪い仲間にゆすらせたり、泥棒の 上前 ( うわまえ )をハネたりしているような男だった。 が、老賊の老巧で、やりたい 贅沢 ( ぜいたく )は、年に何度か、伊勢詣りの、 検校 ( けんぎょう )の試験に 上洛 ( のぼ )るのだと称して、上方へ行って散財し、江戸では、導引暮らしの分を守り、決して 尻 ( し )ッ 尾 ( ぽ )をあらわさない。 しかしその家は、 自 ( おのず )と、悪い仲間の巣になって、不良の若いのが、彼を頭目のようにしてよく集まった。 亀次郎は、 疾 ( と )くからここの仲間であり、若い命を、女、酒、ばくち、悪事の火遊びにすり 減 ( へ )らしていた。 従弟の市十郎も、うかと、ひッぱりこまれたのである。 気がついたときはもうおそい。 お袖とはできていたし、養子の身なので、養家にたいし、それは怖ろしい弱点であった。 悔いは、かれの良心をさいなんだが、お袖との 逢引 ( あいびき )は、苦しむほど、悪を伴なって 偸 ( ぬす )むほど、楽しさ、甘さを、深くした。 市十郎も、嘘をおぼえ、悪智をしぼり、教養を 麻痺 ( まひ )せしめ、あらゆる 惑溺 ( わくでき )を、急速にして行った。 極道 ( ごくどう )にかけては、ずっと先輩の亀次郎にも舌を巻かせて、かれはお袖との恋一つ抱いて一気に 堕落 ( だらく )のどん底まで行ってしまうかとさえおもわれた。 ところが、幸か不幸か、大岡市十郎がお袖と知りそめた翌年、一族の亀次郎の家庭に、兇事が起った。 いや、同姓の大岡十一家に、みな難のかかって来た事件だった。 それは、亀次郎の父、大岡五郎左衛門 忠英 ( ただひで )が 番頭 ( ばんがしら )の 高力 ( こうりき )伊予守を、その自邸で政治上の争論から打果したのである。 五郎左衛門も、その場で、伊予守の家来に、斬り殺されてしまったが、 不埒 ( ふらち )とあって、家名は断絶を命ぜられた。 親戚の他の大岡十家も、みな 閉門 ( へいもん ) 謹慎 ( きんしん )の 厄 ( やく )に会った。 市十郎の養家、大岡忠右衛門の家も、まぬがれなかった。 家族みなが、共にかたい禁足である。 どんな恋も、この厳戒の眼と、この 鉄扉 ( てっぴ )は破り得なかった。 かれの素質は反省にかえる一面をもっていた。 幽居 ( ゆうきょ )の日を、読書に没し、禅に参入し、若いいのちを、自らたたき 醒 ( さ )ますにつれ、ひとりとめどなく涙した。 かれら骨肉は重追放となり、召使の田舎を頼るやら、遠国のうすい縁者をあてになどして散らかったが、亀次郎はすぐ江戸へ舞いもどった。 もちろん、容貌をすっかり変えて。 かれのあばたは、 灸 ( きゅう )や薬で、自ら焼いてこしらえた作りあばたなのである。 「市十郎さま。 お 薄茶 ( うす )など一ぷくおたていたしましょうか」 家つきのお 縫 ( ぬい )は、きりょうこそ 美 ( よ )くはないが、明るくて純な、そして教養もよく身についている 処女 ( おとめ )だった。 ふたりは、ふたりが 許嫁 ( いいなずけ )であることを、もうもちろん知っている。 お縫は 二十歳 ( はたち )。 市十郎はすでに二十六歳。 「茶ですか。 さあ、よしましょう」 市十郎は、読書からちょっと眼をはなしたが、体は机から向きを変えず、お縫には、すぐ去って欲しいような顔に見えた。 が、彼女は、市十郎が十歳のときから、共にひとつ家に暮らしているので、恋人同士のあいだに触れあうような、細かい神経の 奏 ( かな )では、その性格からも感じなかった。 「おつかれでしょう、そんなに、御本ばかり読んでいらっしって」 「いいんです。 抛 ( ほ )っといて下さい。 秋の晩は、燈下書に親しむとき。 夜が 更 ( ふ )けるのを知りません」 「お父上も、お母様も、市十郎は、まるで変った。 閉門の事などから、どうかしたのではないかなどと……陰で心配していらっしゃいますよ」 「出かければ、出かけるで、やかましいし」 「ほんとにね。 でも、三、四年前は、いくら何でも、あんまりでした。 毎晩のように、夜遊びにばかり出ていらしって」 「…………」 うるさげな彼の顔いろにもかまわず、お縫はひとりで話しかけていた。 「いちどなんか、夜明け近くに、塀をこえて、お帰りになったことなんかあったでしょ」 「縫どの。 市十郎には、感興がない。 きらいではないが、好きでもない。 かれは常に、今でも、その中に潜入していないと、自分の心が、なおどこか危うげでならない。 三年前の閉門は、まこと、自分の危うい青春のわかれ道を、一歩前で救ってくれた事だったとおもう。 古人の書に、素直に 訊 ( き )こう。 子どもになって、大人の体験に 訓 ( おし )えられよう。 要は、生命の問題だ。 人と生れたという意義を、どう 享 ( う )けるべきか。 人間の世。 おもしろいと 観 ( み )るべきか。 憂 ( う )しと観るべきか。 また、くだらぬ 泡沫 ( うたかた )と観るべきか。 「……おや?」 かれは、ふと、 庭面 ( にわも )の秋草へ、ひとみをこらした。 はたと、虫の 音 ( ね )が一ときにやんだからである。 「おい。 ……市の字。 おぼえているかい。 おれを」 袖垣 ( そでがき )のあたりの 萩叢 ( はぎむら )を割って、ぬうッと、誰やら 頬被 ( ほおかむ )りをした男の影が、中腰に立ち、こなたの書院の明りに、顔をさらして見せた。 「た、たれだ、そちは? ……」 息をつめて、 凝視 ( ぎょうし )したが、分らなかった。 「わかるめえ。 わからねえはずだよ、 於市 ( おいち )。 四年ぶりだもの。 ああ、なつかしいなあ、この部屋も」 蟇 ( ひき )のように、のそのそと近づいて、 沓石 ( くつぬぎ )へ腰をすえ、かぶっている布を 脱 ( と )ると、縁に 肱 ( ひじ )をつきこんで、ヘラヘラ笑った。 あばた顔だが、その笑い癖は、市十郎の遠くない記憶を、ギクとよび醒ました。 悪友仲間のきずなほど、宿命的なものはない。 兄弟のきずな、主従のきずなは、なお断ちえても、悪い仲間の籍を抜けて、正しきへ返ろうとする道はむずかしい。 かれらの、仲間心理にいわせれば、 (ナニ、真人間へ。 それやア誰だって、考えねえ馬鹿はあるもんか。 だがいまさら、てめえひとりで、いい子になろうったって、そうはゆかねえ。 虫がよすぎらあな) そういうにちがいないのである。 「ふん、勉強か、於市。 ……ええ、おい。 いやに学者ぶッて、なにを読んでるんだい」 と、亀次郎は、縁がわから 身伸 ( みの )びして、市十郎の 倚 ( よ )っている机の上をのぞきこみ、 「なアんだ、論語か。 いまさら、論語でもあるめえに、 子曰 ( シノタマワ )クなんて寝言をおさらいして、どうする気だい。 自体、 孔子 ( こうし )なんて野郎は、正直者を食いものにする大嘘つきの いかさま師だ。 何より証拠は、世の中を見ろ。 「孔子だの、 釈迦 ( しゃか )だの、 法然 ( ほうねん )だの、どいつもみんな、鹿爪らしい嘘ッ八の問屋じゃねえか。 そのまた受売り屋の講釈を 真 ( ま )にうけて、したいこともせず、窮屈に、一生を棒に振ッちまった 阿呆 ( あほう )がどれほど多いかを、おれなんざ、身に沁みて、知ってるんだ。 正しい政治が立つとか立たぬとかいって、高力伊予守を斬り、自分も殺され、家は断絶、おれという息子にまで、こんな日蔭の一生をのこして死んでしまやがった。 ……し、しずかにしてくれ」 たまりかねて、市十郎は、 哀訴 ( あいそ )の手を振りながら、眼で、奥の部屋をさした。 亀次郎の大亀も、首をすくめて、ペロと、舌のさきを見せ、 「まだ、起きてるのか。 ……奥は」 「寝たが、もし、 養父 ( ちち )が目をさまして来たら、ふたりともただではすまぬ」 「おらあ、いいよ。 気をつかうのもむりはねえ。 しずかにしよう」 「亀次。 いったい、あれから、どうしていたのか」 「長いはなしは、あとでする。 とにかく市の字。 匿 ( かくま )ってくれ、今夜から」 「え? ここへか」 「ほんの当座だ。 二十日もたてば、十手風もきっと 緩 ( ゆる )むとおれは見ている。 どこか、そこらの、押入住居で我慢しよう。 ……たのむぜ、当分、おれのからだを」 かれは、のそのそ上がって来た。 そして書斎のすみの戸棚をあけ、もうわが 住 ( す )み 家 ( か )と、そこへ、尻の方からもぐりこんだ。 大岡家の紋は、 稲穂 ( いなほ )の輪だった。 家祖 ( かそ )が、稲荷の信仰者で、それに 因 ( ちな )んだものという。 そのせいか、赤坂のやしきの地内には、昔から豊川稲荷を 勧請 ( かんじょう )してあった。 秋も末頃となり、木々の落葉がふるい落ちると、小さな 祠 ( ほこら )が、小高い雑木の丘に、 透 ( す )いて見える。 丘の西裏から、一すじ、ほそい道がついていた。 これは、聞きつたえた町の信心家が、いつとはなく踏みならしたお詣りの通い路で、地境の柵のやぶれも、やしきでは、 塞 ( ふさ )ぐことなく、自然の 腐朽 ( ふきゅう )にまかせてある。 「……まあ。 いい気もちそうに、寝てしまって」 稲荷の祠と、背なか合せに、 木洩 ( こも )れ 陽 ( び )を浴び、落葉をしいて、乳ぶさのうちに寝入った子を、 俯 ( ふ )しのぞいている若い母があった。 そっと、乳くびをもぎ離すと、乳のみ子の本能は、かえって、痛いほど吸いついて、音さえたてた。 「……もう、いや、いや。 そんなに」 若すぎる母は、身もだえした。 からだじゅうの異様なうずきが、そのあとを、うッとりさせて、官能のなやましさと、こころに 潜 ( ひそ )む男心への恨みとが、 眸 ( ひとみ )に、ひとつ火となっていた。 「お袖さん。 ……たんと、待ったかい」 ひょっこり、そこへ味噌久がのぼって来た。 きょうは、本屋の手代となりすましていた。 蔦屋 ( つたや )と染め抜いた 書 ( ほん )の包みを、背からおろして、お袖のそばに坐りこんだ。 「見附辺から、くさい奴が、あとを 尾 ( つ )けてくる気がしたので、道を廻って、遅くなったのさ。 やれやれ、逢い曳きのおとりもちも、楽じゃあねえて」 「あんまり待ったので、もう帰ろうかしらと、おもってたところさ」 「ウソ。 嘘いってらあ、お袖さんは。 やり損なったら、あぶないものだ」 「臆病だね、久助さんは」 「その久助に、手をあわせて、後生、たのむ、一生恩にきるからと、あんなに泣いて、かき 口説 ( くど )いたのは、誰だッけ」 「そんなこと、いいからさ」 打つ真似して、追いたてると、久助はやっと腰をあげ、ひと風呂敷の和本を、肩から脇にかかえ、 「じゃあ、ここを 去 ( い )なずに、待っておいでなさいよ。 うまくゆけば、おたのしみだ」 「おねがい……」 お袖は、拝むようにいって、味噌久を見送った。 もとの道からそこを下りて行ったかれは、丘のすそを巡って、やがて大岡家の表門のある赤坂筋の広い通りを歩いていた。 大岡家は、十一家もあり、ここの忠右衛門 忠真 ( ただざね )は、本家格ではないが、お 徒士頭 ( かちがしら )、お先鉄砲組頭、駿府 定番 ( じょうばん )などを歴任し、いまは、閑役にあるといえ、やしきは大きなものだった。 男子がないので、同族の弥右衛門忠高の家から、七男の市十郎(幼名は 求馬 ( もとめ ))を、十歳のとき、もらいうけた。 むすめのお縫にめあわせて、家督をつがせるつもりなのは、いうまでもない。 ところが、養子の市十郎も、年ごろになるにつれ、近頃の若い者の風潮にもれず、おもしろくない素行が見えだした。 で、お縫との結婚を、こころに急いでいるうちに、同族五郎左衛門 忠英 ( ただひで )の刃傷事件で、一門の 蟄居 ( ちっきょ )がつづき、それが解かれた今日でも、なお、公儀への 拝謁 ( はいえつ )を 憚 ( はばか )っている関係から、ふたりの婚儀ものびのびになっていた。 むしろかの女は、雨を待つ春さきの桜のように、 綻 ( ほころ )びたさを、 姿態 ( しな )にも胸にも秘しながら、毎日、午すこし過ぎると、江戸千家へ茶の稽古に、なにがし 検校 ( けんぎょう )のもとへは琴の稽古に、欠かすことなく通っていた。 きょうも。 お縫は、門を出て、 薬研坂 ( やげんざか )の方へ、降りかけてきた。 と、道の木蔭にたたずんでいた味噌久が、 「あ。 お嬢さま。 ……大岡様の御息女さまでいらっしゃいましたな。 どうも、よいところで」 前へまわって、頭を下げた。 「まいど、ごひいきになりまして」 「たれなの。 そなたは」 「 石町 ( こくちょう )の 蔦屋 ( つたや )という 書肆 ( ほんや )でございまする。 おやしきの若旦那さまには、たびたび、御用命をいただいては、よく……」 「お目にかかっているというの」 「はい、はい。 今日も、実はその、かねがねお探しの 稀本 ( きほん )が、売物に出ましたので、お目にかけに、出ましたのですが」 「おかしいこと。 おまえ」 「ええ、それやアもう、お 馴染 ( なじ )み顔。 お会いいたせば、一も二もございませんが……。 こう仰っしゃっていただけば、なお、すぐにお分りでございましょう。 そして、蔦屋へ書物など註文したおぼえもないということです。 おまえ、どこぞのお客さまと、やしき違いしているのじゃありませんか」 いい捨てると、かの女は、おもわぬ暇つぶしを取りもどすべく急ぐように、 薬研坂 ( やげんざか )を小走りに下りて行った。 忠右衛門 忠真 ( ただざね )は、親類じゅうでの、 律義者 ( りちぎもの )で通っていた。 元禄の世の、この変りようにも変らない、典型的な旧態人であった。 が、その忠右衛門も、子のためには、意志を曲げて、きょうは、老中の秋元但馬守の私邸を訪うて来たとかいって、 気 ( け )だるげに、夕方、帰っていた。 多分、あてにして、まちがいあるまい。 ……権門へ頭をさげて通うくらい気のわるい思いはない。 やれやれ、さむらいにも、 世辞 ( せじ )やら 世故 ( せこ )やら、世渡りの 要 ( い )る世になったの」 風呂を出て、 夕餉 ( ゆうげ )の膳にむかいながら、かれは、述懐をまぜて、きょうの出先の結果を、常におなじおもいの、老妻に告げていた。 ききめのあることは、分っているが、かれの気性が、ゆるさないのである。 (おぬしも、浅野 内匠頭 ( たくみのかみ )じゃよ。 いまの世間を知らな過ぎる) 親戚でも、その愚をわらう者が多かった。 秋元但馬守は、去年、老中の欠員に補せられたばかりで、この人へなら近づいても、自分に恥じないような気がした。 そこで、思いきって、出かけたのである。 結果はよかった。 近いうちに、拝謁の機会をつくってやろう、そしてその後に、婚儀のおゆるし願いを出したがよかろう、といってくれた。 では 年暮 ( くれ )のうちに、何かと、支度しておいて」 と、日数をかぞえたり、若夫婦のために、奥の書斎と古い一棟を、 大工 ( だいく )でも入れて、すこし手入れもせねばなどといいはじめた。 夕食のしらせに、お縫も来て、むつまじい膳の一方に加わった。 けれど、お縫には、食事のたびに、近ごろ、物足らないおもいがあった。 十日ほど前から、市十郎が、朝夕とも、食事を、奥の書斎に運ばせて、家族のなかに、顔を見せないことだった。 「どうなすッたんでしょう、市十郎さまは。 ……ねえ、お 母 ( か )あ様。 呼んで来ましょうか。 たまには、御一緒におあがりなさいッて」 「いや。 気ままにさせておけ」 忠右衛門は、顔を振った。 「夜も昼も、読書に没頭しておる様子。 多少、 気鬱 ( きうつ )もあろうが、若い頃には、わしにも覚えがある。 抛 ( ほ )ッとけ、抛ッとけ」 「でもお父さま。 たまに私がのぞいても、とても恐い顔なさるんでございますの」 「よいではないか。 市十郎も、知らぬというので、あんなにニベなく断ってやったのに、夕方、帰宅して召使にきくと、押しづよく、あれからまたもやって来て、「お嬢様にも今そこでお目にかかりまして……」とか何とかいって、小間使いを通じて、とうとう市十郎の書斎に通り、何か、だいぶ話して帰ったというのである。 市十郎にきくと、市十郎は、「会わぬ」と首を振ッたきり、きょうは特に気色がよくない。 こんな時には、琴でもと、部屋にもどって、昼、習った曲をさらいかけたが、それも心に染まず、 絃 ( いと )に触れると、わけもなく泣きたくなった。 窓の外にも、冬ちかい 時雨雲 ( しぐれぐも )が、月の秋の終りを、落葉の梢に 傷 ( いた )んでいる宵だった。 かの女は、燭の下に、琴を残して、庭へ降りた。 この屋敷ができない前からあったという古い池がある。 茂るにまかせた秋草が水辺を 蔽 ( おお )い、その向うに、灯が見える。 かの女は、池をめぐって、知らず知らずその灯の方へ足を向けていたが、ふと、薄月夜のひろい闇いッぱいに、耳をすまして、立ちどまっていた。 「オヤ。 幼な児の泣き声がする……? どこであろ。 たしかに、小さい子が泣いているような?」 それは、遠くして、遠くないような。 夜風に絶え、また夜風に聞こえ、 哀々 ( あいあい )として、この世に持った闇の生命に、泣きつかれたような泣き声だった。 日の短い晩秋といえ、もう昼からのことである。 木々の露もうす寒い宵ともなるのに、丘の稲荷の 祠 ( ほこら )には、まだ子を抱いた若い母が、身うごきもせず、草の中にうずくまっていた。 「どうしたのよ、お袖さん。 ……さ、帰ろう。 帰って、またいつか、出直したらいいじゃねえか。 ……ねえ、おい。 お袖さんたら」 味噌久は、そばに立って、しきりと、なだめたり、 促 ( うなが )したりしているが、お袖は、泣きぬく膝の子と共に、声なく泣いて、立とうともせず、返辞もしない。 泣きベソの久助と、日頃、仲間からいわれている味噌久の方が、今夜はよッぽど、泣きたかった。 「よう、お袖さん。 いい加減にもう、おれを困らせないでくれやい。 きょうは、ありッたけな智恵をしぼって、市の字に、会うことは会ったんだが、どうしても、ここへ出て来ねえんだから仕方がねえ。 いくら、おれが 説 ( と )いても、お袖さんの心をいってみても、奴は、じっと眼をつぶっているだけなんだ。 ……が、もともと、三千石の御養子なんぞに、おまえが、かまわれたのが、悪縁さ」 「なにさッ。 怒ったのかい」 「あたりまえ……」 と、お袖は、泣く子の顔へ顔を伏せて、泣きじゃくった。 「お、おまえなんか……久助さんなんか、知ったことじゃあるものか。 わたしと、市十郎さまとの仲は、そ、そんな水くさいんじゃありませんよ」 「あれ。 まだあんなことをいってらあ。 ……じゃあ、罪だから、いッそ、はっきりいってしまうが、市十郎は、きょうこの久助に、こういったんだぜ」 「あのひとが」 「うむ。 おれにいうのさ。 ふたりの仲に 生 ( な )した子は、どうか、よそへやって、お袖も、他によい男をもってくれ。 市十郎さまが、そんなことを」 「だからもうお袖さんも、あんなやつのことは、思いきって、ここはきれいに、帰るがましだとおらあ思うがネ」 「ほ、ほんとかえ。 久助さん。 市十郎さまが、おまえに、いったということは」 かの女は、にわかに身を起した。 立ちよろめくのを久助があわてて抱き支えると、お袖は、久助の手へ、子を抱かせて、ひとり、よろよろと歩みはじめた。 「あっ、お袖さんっ。 ……どこへゆく。 どこへ?」 追いすがる味噌久へ、 「うるさいね。 もう、おまえなどに、頼んでいられるものじゃない。 自分で、自分の男に会いにゆくのがなぜ悪い。 市十郎さまの心をはッきりときかないうちは、私は死んでも帰らないよ。 あいては、 大身 ( たいしん )の武家やしき」 「その御大身ぶりが、癪にさわる。 御大身なら 女子 ( おなご )をだましてもよいものか」 それはもう久助にいっているのではない。 かの女は、 彼方 ( かなた )の灯にむかって叫んでいた。 この丘から地続きの広い庭園の木の間がくれに、その灯は、冷ややかにまたたいている。 葛 ( くず )、くま笹、萩すすきなど、 絡 ( から )むもの、 阻 ( はば )めるものを、踏みしだいて、かの女は、盲目的に、駈け下りて行こうとした。 けれど、何を見たのか、ギクとして、お袖は急に足をすくめてしまった。 そして傍らの 榛 ( はん )の木の下へ、よろめくように身を 凭 ( もた )せた。 ふと、お袖の見たあいての女性も、 祠 ( ほこら )の横の大きな木の幹に、半ば、すがたを隠して、じっと、射るような眼をしているのであった。 「?」 両女 ( ふたり )は、息をつめて、 黙 ( もだ )しきった。 眸と眸とは、 曼珠沙華 ( まんじゅしゃげ )のように、燃えあった。 「そなたは、どこの、誰ですか。 それはお縫であった。 水と火だった。 お袖は、下町ことばの、つよい響きと、竹を割るような感情で、反撥した。 「大きなお世話、どこへ行こうと、わたしの勝手でしょ」 「そうは、ゆきませぬ」 「なぜさ」 「ここは、お庭外でも、大岡家の 地内 ( じない )です。 ひとのやしきへ、たれに断って」 「市十郎さんに訊くがいい。 市十郎さんのいる所へなら、庭はおろかお部屋へも、わたしは上がって行きますよ。 行ッて悪いわけはないんだから」 「いけない! わたくしが、そんなこと、ゆるしませぬ」 「ゆるすもゆるさないも、ありやしない。 自分の 良人 ( おっと )に、女房のわたしが会いにゆくのに」 「な、なんですッて」 お縫はもう口惜しさに、いい返してやることばも出ない。 「そちらは、家つきのお嬢様か何か知らないが、わたしと市十郎さんとは、可愛い子まで 生 ( な )した仲。 誰であろうと」 「行っては、いけないっ。 用人の 嘉平 ( かへい )という老人。 また若党、 仲間 ( ちゅうげん )たちは、お縫の部屋に、お縫が見えないのに騒ぎ出して、こっちへ向って駈けていた。 屈強な若党のひとりが、それと一足違いに登って来て、いきなり、 「この女め」 と、お袖を 捉 ( とら )えて叩き伏せた。 泣き狂い、泣きさけぶのを、わけも 糺 ( ただ )さず、二つ三つ、 足蹴 ( あしげ )をくれて、 悶絶 ( もんぜつ )させた。 お縫もそこに、泣き伏している。 この 態 ( てい )に、嘉平はしばらく、狐にツマまれたような顔をしたが、若党仲間たちへ、何事かささやいて、かれはお縫ひとりへ、あらゆる 宥 ( いたわ )りをかけた。 そしてお縫は泣く泣く嘉平に伴われ、やしきの方へもどって行った。 その後。 若党と、仲間たちは、気を失ったままのお袖を、粗末な駕籠に押しこんで、丘の裏から夜の町へ担ぎ出した。 何かの 弾 ( はず )みに、駕籠のうちで、ふと、息をふき返したお袖が、くやしげな嗚咽をもらすと、 「よしっ、この辺で」 とたんに、仲間たちは、並木の暗がりへ、駕籠ぐるみ、かの女のからだを 抛 ( ほう )り捨てて、あとも見ずに駈けて返った。 その夜じゅう……。 また、次の日も。 大岡家は、家じゅうが、重くるしい苦悩の沼に沈んでいた。 十日余りも同じ日がつづいた。 ゆうべからの 時雨 ( しぐれ )雲に、きょうは、ひねもす寒々と、雨音に暮れていたが、家の中は、もの音一つしなかった。 折々ふと、奥から洩れてくる声は、忠右衛門の 憤 ( いきどお )ろしい 唸 ( うめ )きに似た声か、さもなくば、かれの妻か、お縫かの、すすり泣く声だけだった。 「おい。 ……おい。 ……市の字」 市十郎の書斎には、机の前の、市十郎以外に人は見えなかったが、どこかで、こう低い低い小声がしていた。 「とうとうばれたな。 どうする気だい」 隅の戸棚の内側から、その戸の裏を、爪でコツコツ叩きながら、外へむかって囁くのである。 「おたがい、足もとの明るいうちに、逃げ出そうぜ。 なあ市の字。 世間はひろいよ。 しかも、こんな狭ッこくて面白くもねえ世間とはちがう。 おれも、二十日はここに辛抱してと思ったが、おめえの尻が割れて来ちゃあ、いたくもいられなくなった。 ……お袖の身になってみれやあ、こう出てきたのもむりはねえ」 もちろんそれは市十郎に話しかけているのだが、市十郎は、机へ 倚 ( よ )り、両手で頭をかかえたきり、返辞もしなければ、ふり向きもしない、背中で聞いているだけである。 眼は、書物へ落していても、もとより市十郎の心は、どこにあるやら、乱れに乱れ、生きているそらもないにちがいない。 夜来、家族も、召使も、かれの部屋を、覗きもしなかった。 が、一切はかれにも分っていた。 かれは、自ら作った牢獄の中に、自ら最大な 苦刑 ( くけい )にかかっていた。 「おれも悪かったのさ」 返辞はなくても、戸棚の中の小声は外の雨のように、独りぽそぽそと話しかけてやまなかった。 「お袖には、前々から、おめえに会わせてくれ、連れて来てくれと、おれもどんなに、せがまれたかしれなかった。 ところが、この間も話したようなお犬小屋一件からは、こッちの身一つも、危くなり、梅賀の家へも寄りつかねえので、女心の やきもちから、お人よしの久助をくどいて、とうとうやッて来ちまったにちげえねえ」 戸棚の声がとぎれると、雨の音が、耳につく。 雨は、日暮れに近づくほど、いとど 蕭条 ( しょうじょう )のわびしさを加えていた。 「……なあ、 於市 ( おいち )、おめえは、あんなに実意のある女を、かわいそうと思わねえのか。 子どもなんざ、ままになれだが、ああまで 情 ( じょう )の深い女はめずらしい。 不憫 ( ふびん )とも、 可憐 ( いじら )しいとも、いいようのねえやつサ。 お袖が、うんというならば、おれがおめえになり代ってやりてえくらいなもんだ。 ……ええ、おい。 何とかいえやい」 焦 ( じ )れッたそうに、またコツコツと、 啄木鳥 ( きつつき )のような音をさせ、 「あと、十日も経てば、お犬小屋の一件の 詮議 ( せんぎ )も、きっと 緩 ( ゆる )むにちげえねえと、おれには考えられる筋があるんだが、もう、ここにはあと一日といられまい。 おめえも、元の古巣へ一緒に帰れよ。 あそこの巣には、お袖もいるぜ、梅賀もいるぜ、阿能十もやがてどこからか現われて来るだろう。 もとの仲間と、またおもしろく、仕たいことをして、遊ぼうじゃねえか」 「しッ……しっ」 市十郎は、うしろ向きのまま、机の下で手を振った。 「おるか」 男の声だ。 ふすまの音あらく、入って来たのは、忠右衛門とおもいのほか、市十郎にとっては、その養父より恐い実家の兄の大岡 主殿 ( とのも )だった。 坐るか坐らぬ、うちにである。 主殿はやにわに、机の上の書物をひッ 奪 ( た )くッて、 「えい、おのれが。 なんの為に、こんなものを読みおって」 と、障子へ向って、 抛 ( ほう )り捨てた。 「弟っ。 これっ、 面 ( つら )を見せい、その面を」 主殿は、昂奮している。 その眼からは、市十郎の沈黙が、いかにも冷然たる姿に見え、主殿の激越な心の波を、いやが上にも 昂 ( たか )めるのだった。 「 忠右 ( ちゅうえ )どのからのお使いに、何事かと来てみれば、あきれ返った仔細。 いやもう、言語道断。 ……わ、わしは、御夫婦へも、お縫どのへも余りのことに、いつまでも、この面を上げ得なんだわいっ」 畳を打って、膝を、つめ寄せながら、 「家祖、 忠教 ( ただのり )、忠政様このかた、まだかつて、おのれのような無恥、 腑抜 ( ふぬ )け、不所存者は、ひとりも出したことのない家だ。 どうして、貴様のような極道者が、大岡家の血から出たことやらと、この兄は、無念でならぬ。 ……が、いかに大たわけでも、よもやなお恋々と、水茶屋の 売女 ( ばいた )風情に、心を奪われておるわけではあるまい」 声を 嚥 ( の )み……声を落して……。 「さ、そこじゃ。 そこのところは、この兄も、刀にかけておちかいする。 ……さ、察してもくれやい、弟。 そう申すしか、この兄の立場があろうか。 たとえここに、亡きお父上が御存命でおわそうともじゃ」 市十郎は、首を垂れ、 潸 ( さん )として、涙の流るるにまかせたまま、両手をかたく膝についていた。 「のう、弟。 真実また、貴様の心もそうであろ。 ……ここに両三年、閉門以後の 慎 ( つつし )みと勉学ぶりは、兄もひそかに、よろこんでいたことだ。 ……もう、多くはいうまい。 三年前のたまたまの一過失、 咎 ( とが )めもすまい。 ……ただ、兄に一札書いて預けてくれい。 まかせろ、おれにまかしておけ。 たとえ伝来の家宝を売っても、女に手切れの金をつかわし、子どもの始末もつけてやる」 「そ、それがです、兄上」 「なんとした。 まだ、未練か」 「未練は、ございませぬが……女が、承知してくれませぬ」 「ばか者っ」と、一 喝 ( かつ )して、 「だから書けというのじゃ、あいそづかしの切れ状を。 もし、わからぬことを、 女々 ( めめ )しゅう申して、 埒 ( らち )があかねば、最後の手もある」 「最後の手……と、仰っしゃるのは」 「貴様の一生には代えられぬ。 ひいては、おととし、叔父五郎左衛門の不首尾にかさねて、またも、公儀の耳にまずい噂が聞えては、大岡十家の 安危 ( あんき )にもかかわろう。 ……女ひとりの生命くらいは」 「げッ。 ……手にかけてもと、おいいですか」 「何をおどろく。 さてはなお、未練をもつか」 「ふ、ふびんです、兄上。 罪はまったく、この市十郎にあるのですから」 「いいや、貴様は、女を知らんのだ。 なんで、水茶屋の女などが」 「そ、それが、お袖ばかりは、ありふれた世間の女とは」 「どうちがう」 「気だても……」 いいかける弟へ、主殿は、いきなり手をのばして、その襟もとをひッつかみ、 「うぬ、のめのめと、まだ眼がさめぬか」 と、満身の力で小突いた。 肉親への、愛情の怒りには、どんな他人の仇に怒るよりも、烈しい本能が加わるのだった。 まッ青になった市十郎の顔は、 死首 ( しにくび )のように、ガクガクうごいた。 閉じている眼から涙のすじを描き、兄の力に、何の抵抗もしなかった。 「切れ状を、書くか書かぬか。 さ、いえっ。 いわぬか」 「……書きます」 「なに、書くと」 「け、けれど、兄上。 おねがいです。 万一 彼女 ( あれ )が、切れぬといっても、刀にものをいわすような、罪なまねはよして下さい。 決して、そんなことはなさらないと、私へも、兄上から一札書いてお渡しください」 「そんな、ばかな約束を、貴様に与えられるか。 忠右どのや、お縫どのにたいしても」 「では……嫌です」 「なにっ。 嫌だ?」 「お袖がほんとに 倖 ( しあわ )せになるのでなければ、切れ状は書けません。 因 ( もと )はといえば、罪はまったく、この市十郎にあることで、水茶屋奉公はしていましたが、それまでの、お袖は、真白い絹のような 処女 ( おとめ )だったのですから」 「この、大たわけ!」 離した手は、あっというまに、市十郎の横顔を、ぴしゃッと打った。 顔をかかえて、 仆 ( たお )れた弟へ、主殿の手は、追うように、またその襟くびをつかんで押した。 怒りにまかせて、市十郎の顔を、畳へごしごしこすりつけた。 「養家のてまえもあるに、よくもよくも、そのようなことがいえたものだ。 この体を、たれのものと思いおるか。 さむらいの家に生れながら、祖先にたいし、御公儀にたいし、身のほどもわきまえぬ奴。 こ、この、生れぞこないめが!」 撲られている弟よりも、 拳 ( こぶし )をかためて、 打擲 ( ちょうちゃく )している兄のほうが、果ては、泣き顔を 皺 ( しわ )め、ぽろぽろ涙をながし、疲れきった血相となっていた。 「こう撲るのは、おれではないぞ。 貴様ごとき馬鹿者を、おれには、撲るまでの大きな愛は持てぬわい。 おれの身をかりて、貴様を打ったのは、亡き父上だ。 父上とおもえ、この拳を」 と、突ッ放して、 「もう一ぺん、考えろっ。 ようく心を落着けて、考えてみい」 主殿は、いいすてて、室外へ、立ち去った。 廊下の外へ、用人の嘉平が来て、大岡兵九郎が来た旨を告げたからである。 兵九郎というのは、やはり大岡十家の一軒で、市十郎兄弟の叔父にあたり、市十郎の養子縁組は、この兵九郎の口ききだった。 日が暮れた。 ……雨はやまない。 たれも彼の部屋へ、燭を運ばなかった。 夜ごとの 燈火 ( ともし )も、彼自身で 点 ( とも )すのが、この書斎の習慣であったから。 机のまわりも、かれの心も、墨のような夕闇が深まってゆく。 「すみませぬっ。 ……兄上。 亡き父上。 ……また養家の御両親さまにも」 かれは、独りして、手をつかえた。 鬢 ( びん )の毛が、みな泣いているように、そそけ立って見えた。 ただ、お縫どのに、この上の 傷 ( いた )みをかけずに、ゆく末、きょうを忘れて、よい人妻となるように、祈って 逝 ( ゆ )かれるのが、唯一のお詫びです。 ……おゆるしください」 むくと、かれは 面 ( おもて )を上げた。 そして静かに、短刀の鞘を払った。 かれの 面 ( おもて )はすでに死に澄んでいた。 死んで詫びようと決意したのだった。 「あッ。 あぶねえ。 「行こう! 死ぬくれえなら、町へ飛び出そう。 どッちみち、おれも、今夜がおさらばだ。 いちど、短刀を取り落した市十郎の手には、従兄のそういう力に、抗し得ない魅力をおぼえた。 その力にまかせて行けば、そこには、お袖がいるのだ。 気まま仕たいままな、享楽の灯があるし、苦悩を知らない 泡沫 ( ほうまつ )のような悪の仲間がおもしろそうにウヨウヨしている。 「おっ、たれか来るっ。 早くしろ」 「兄だっ。 ああ、兄上……」 「ええ、もう。 何を、ベソ掻いて、うろうろするんだ。 おれの腕に、つかまって来い。 「ややっ。 待てッ弟。 すかさず、かれも直ちに雨の中へ飛び降り、ふたりの影の行くてに廻って立ちふさがった。 「主殿、ぬかるな。 ひとりじゃないぞ」 兵九郎も、ばッと降りて、一方へ槍をつけた。 叔父の声に応じて、主殿も、刀へ手をかけ、雨に 咽 ( むせ )びつついった。 「オオ、何やつか知らぬが、弟を 拉 ( らっ )して、どこへ行こうとするか、 解 ( げ )せぬ曲者。 名を名のれっ。 大亀は、自分たちの住む世界とくらべて、いまのふたりの意気ごみ方が、おかしくて 堪 ( たま )らなくなったのだった。 かれは、白い歯をむき、肩を揺すッて、なお独り笑った。 「おいおい、叔父貴たち、あんまり騒がない方がお身のためだぜ。 いや、こんだあそんなお沙汰じゃすむまい。 おれにつながる身寄りの奴らは、三軒や四ん軒はぶッ潰れるぞ。 わははは」 「身寄りの? ……。 と申すそちは」 「知りたいか。 知って、腰をぬかすなよ。 同族五郎左衛門のせがれ、亀次郎だ」 「げえッ。 か、かめ次郎じゃと」 「聞かない方がよかったろう。 だが、なにもヘボ親類へ あだしたり、同族どもの細扶持を喰って歩こうなんて 肚 ( はら )ではねえから安心してもらいたい。 ちょッと、 悪戯 ( わるさ )をやったお犬小屋一件が 祟 ( たた )ッて、ここ百日は足もとが危ねえので、実あ、市の字の部屋を隠れ家に、十日ほど、戸棚住居を辛抱していたまでのことなんだ」 かれは、市十郎の腕を、いよいよ強く脇の下へ抱きこんで、 「なあ、市の字」 と、すぐ側の顔を見た。 市十郎の手は、無意識に、またも自分の腰の 刀 ( もの )をさぐりかけていた。 雨は、彼ひとりを、無残に打ちたたくように降った。 「いけねえよ、いけねえよ。 死のうなんて、ケチな量見。 このおれを、見るがいいや」 傲然 ( ごうぜん )と、かれの生命は市十郎の生命を誘った。 「ううむ……世をおそれぬ、不敵なやつ。 親類でも手にかけて、そのそッ首を公儀にさし出さねば」 兵九郎の槍が、殺意を示し、こう憎み、罵ると、 「よせやい、叔父貴。 おれを殺して、 各 ( めいめい )が、お家の無事を計ろうとしても、おれにはおれの仲間がある。 そいつらが、きっとしゃべるぜ。 中野お犬小屋の犬を、一夜に何十匹も殺した天下の 悪戯者 ( いたずらもの )は、大岡十家が、知っていながら 匿 ( かくま )いおいた同族五郎左衛門のせがれ亀次郎だと」 そのとき、ふッと、忠右衛門が、手燭の明りをふき消した。 風かのようであったが、次のことばによっても、忠右衛門が意識的に、消したにちがいなかった。 「行け。 行くがいい。 ……もう止めぬ。 ふたりとも、迷うだけ迷って来い。 若いのだ。 「おれには、ないっ。 だから広い 巷 ( ちまた )であばれてやるのだ」 「いいや、ある。 忠右衛門の手もとへ来い」 「そして、縄付きにして、公儀へのいいわけに突き出すか」 「そんなことをするほどなら、ここを去らせず、汝の首ぐらいは、ひん抜いてみせられぬことはない。 老いたりといえ、忠右衛門だぞ。 そちにもいっておく。 帰りとうなったらいつでも帰れよ。 帰ってくれよ。 ……さあ行け。 あまり 更 ( ふ )けぬうちに」 と、自身、戸ぶくろから雨戸を繰り出し、一枚一枚、敷居のうえを送り出しながらまたいった。 「さあさあ。 兵九郎どのも、主殿どのも、風呂場へまわって、浴衣に 更 ( か )えて来たがいい。 一杯 酌 ( く )もう。 「お目ざめ?」 と、女は、 寝唾 ( ねつば )に乾いた 唇 ( くち )をすりよせていう。 その口臭、 安 ( やす ) 鬢 ( びん )ツケのにおい、白粉剥げの下から見える 粗 ( あら )い皮膚。 市十郎は、女の呼吸から、 面 ( おもて )を 外 ( そ )らさずにいられない。 夜具の襟には、自分でないべつな男のにおいすら、あきらかにする。 「ううウむ……」 と、かれは伸びをして、何か堪えきれぬ心のものを誤魔化しながら、 むくと、起きかけると、 「ま。 ……なぜだろ、この人は」 と、女は寝たまま、 双手 ( もろて )を彼の首すじへからませ、いきなり下へ抱き 仆 ( たお )した。 すると、蒲団の横に立ててある小 屏風 ( びょうぶ )の上から、連れの亀次郎が、ぬウと首をのばして、 「おや、お隣りは?」 「あら、覗いちゃいけないよ。 それでなくても、この坊やは……」 と、女はその恰好のまま、ことさら、市十郎の首のねを、ぎゅうぎゅう、息づまるほど抱きしめて、 「 初心 ( うぶ )ッていうのか、臆病なのか、それともわたしが嫌いなのか、ゆうべから、わたしを振ッて。 ……これこのとおり、このひとは、縮まってばかりいて」 「どれどれ。 どんなふうに」 ゆうべからの悪遊びだが、大亀はまだ気分を 醒 ( さ )ましていない。 屏風越しに、肱をのばして、蒲団をめくりかけた。 女も市十郎も、とび起きた。 とたんにまた、大亀も、屏風と一しょにぶっ仆れて、二人の上へ折り重なった。 ひどい……」 屏風の蔭だった所からも、またべつな女が飛び起きた。 小屏風一つを境にして、そこにも二つの枕がころがっている。 ここは神田辺の汚ない風呂屋の裏二階なのである。 ふたりは、今朝でもう三日も、自堕落をやっていた。 さきおとといの雨の闇夜、大岡家を飛び出して、二人とも、濡れ鼠の姿で、 懐中 ( ふところ )のあてもなく、ここへ 揚 ( あ )がッてしまってからの、続きであった。 「おい、市の字。 何をぼんやりしてるんだ。 階下 ( した )へ行って、ひと風呂サッと入って来ようぜ。 ……これこれ、女房たち、おぬし達はその間に、湯豆腐か何かで、熱いとこを一本 燗 ( つ )けておくんだよ。 よいかネ。 そしてきょうも、きのうの小唄の稽古でもやろう」 大亀は、寝ても醒めても、 くッたく知らずだ。 天性、遊蕩児にできているのか、女たちを、怒らせたり、笑わせたり、嬉しがらせることに、妙を得ていて、しかも、 大風 ( おおふう )な贅沢をいいちらし、ふところに一文なしとは影にも見せない。 それにひきかえ、市十郎は、ここへ来ても、養父の最後のことばがなお耳から去らなかった。 従兄の大亀の徹底ぶりに、ハラハラしているだけだった。 「短い命で、この世を、楽しみきろうッていうのに、そんな気の小ッせいことでどうするか。 お袖にも、今にきッと逢わせてやらあな」 風呂場の流しで、市十郎に背中を洗わせながら、大亀は、傲然と、説教した。 その背中には、刀傷が幾ヵ所もあった。 「…… 於市 ( おいち )。 「金さ。 金だよ。 何とか、金を手に入れて来なくッちゃあ、この先、どこを泳ぎまわるにも、おもしろくも何ともねえやな」 大亀は、ニヤと凄味を見せて笑った。 湯から上がったばかりなのに、市十郎は、 鳥肌 ( とりはだ )になった。 行えばその兇猛をかえりみぬ彼の性情を知っているし、かれの行為は、 直 ( ただ )ちに、自分の連帯行為となるからだった。 屠所 ( としょ )の羊みたいな恰好で、市十郎は、 傲岸 ( ごうがん )なかれの姿に 従 ( つ )いて薄暗い梯子段を、元の裏二階へのぼりかけた。 すると、下座敷の 内緒暖簾 ( ないしょのれん )のかげから、見るからに 威嚇 ( いかく )的な 長刀 ( ながもの )を腰にたばさみ、けわしい 眼 ( まな )ざしをし、 月代 ( さかやき )を厚く伸ばした四十がらみの武家 ごろが、 「おい。 雛鳥 ( ひよ )ッ子たち。 ちょっと待ちな」 と、 初手 ( しょて )からひとを子ども扱いにしてよびとめた。 「雛鳥ッ子たあ、何だ。 ばかにするな」 大亀は、梯子の中途から云って、 怯 ( ひる )みは見せじと降りて来た。 歪 ( ゆが )めた唇に銀歯が見えた。 悪旗本のあつまりと聞く銀歯組。 こいつあ相手が悪い、と大亀もやや鼻 たじろがせた。 「おれは、ここの亭主の友達で、風呂屋町の 喧嘩買 ( けんかがい )、 赤螺 ( あかにし )三平という男だ。 聞きゃあ、おめえ達は、三日も駄々ら遊びのやり通しだそうだが、たいそうなもンだの。 金はあるのか。 あったら一度、払いをしてみせろ」 「払うとも、払うさ。 なんだ三日や四日の 端 ( はし )た勘定」 「ふん、そうか。 さ、払え」 「だが、今は。 今に払ってやる」 「なにを」 三平は、右の手に、大亀の胸ぐらをつかみ、左の手に市十郎の腕くびを 把 ( と )った。 「このチンピラ 奴 ( め )が。 濡れ鼠で舞いこんで来やがって、いうことは大きいが、どうも 容子 ( ようす )がおかしいと、今、亭主と女たちで、着物持ち物を調べてみたら、ビタ一文、鼻紙一帖、持ち合せてもいねえという。 ふてえ奴らだ」 「いや、きょうは屋敷から取りよせるつもりだったのだ」 「屋敷? どこだ、てめえ達の巣は」 「それだけは、訊かないでくれ。 きっと、持ってくる。 ……市の字。 すまないが、おまえだけ、残っていてくれ。 おれはちょっと、屋敷へ行って、用人に金を 工面 ( くめん )させてくる。 午 ( ひる )までには、きっと帰るからな。 どうぞ、この方の身を質として、わしを出してくれないか」 「きっと、午までには、持ってくるか」 「必ず、持参します。 「こう天気はいいし、朝ッぱらからでは、何とも、金に巡り会いようがねえ」 悪心も、途方にくれた。 十月末の清澄な昼。 くまなき太陽。 かれの悪智も、働き出るすきがない。 「そうだ、 梅賀 ( ばいが )の家へ行って、お袖の 小費 ( こづかい )をゆたぶッてやろう。 子どもの泣き声が聞える。 「おや、味噌久じゃねえか」 「オオ、大亀か」 「どうしたい。 子どもを背負って、台所なんぞしやがって、不景気な」 「だって、この子を、 干乾 ( ひぼ )しにするわけにもゆくまい」 久助は、背なかで泣きぬくお燕をあやしながら、箸や茶碗を洗っていた。 「ところで、お袖は……?」 「あの晩きりさ。 …… 行方 ( ゆくえ )知れずだ」 「え。 あの晩きりだって」 「どうしても、市の字に会わせろというので、大岡家へ連れて行ったさきおとといの晩からさ。 ……ここへも、どこへも、帰って来ねえ」 「はてな。 ……まさか、身投げをしたわけでも、あるめえが」 「それとも、屋敷の奴らにでも殺されたかと、心配で堪らねえから、実あ、きのう思いきッて、大岡家の 仲間 ( ちゅうげん )にきいてみたのよ。 そしたら、何でもあの晩、召使たちが三、四人でお袖を駕籠に押しこんで担ぎ出し、番町辺の濠際へ、その駕籠ぐるみ、 抛 ( ほう )り捨てて帰ったなんていやがるんだ。 飯を食っての、思案としよう」 大亀はすぐ寝そべッた。 頬杖ついて、家の中を見まわしていたが、やがて、飯ができると、悠々と 掻 ( か )ッこんで、 「久助、こんな物はもう洗わなくッてもいいや。 それより夜逃げ屋を呼んで来い」 「何だい、夜逃げ屋というなあ」 「道具屋だよ。 どこかそこらに、古道具屋があるだろう。 ぐずぐずしてると、てめえも、お犬小屋一件の御用風に抱きこむぞ」 味噌久を 脅 ( おどか )して、古道具屋を呼ばせ、世帯一式、付け値の七両二分で、売り払ってしまった。 そのうち、二両を、味噌久へ渡して、 「これだけやるから、てめえはこれを持って、市の字の体を、遊び風呂の 丁字屋 ( ちょうじや )から 請 ( う )け出して、どこへでも潜りこめ。 何しろ、まだまだ、お犬小屋一件の下手人が出ねえてンで、町奉行は血眼らしい。 たのむぜ、久の字」 風の如く、大亀は、町の辻に、彼を捨てて、その姿を消してしまった。 久助はすぐ丁字屋をたずねた。 市十郎は、裏二階から首をのばして待っていた。 大亀とおもいのほか、久助が来て、しかもその背に、わが子が負われているのを見て、 ぞくと全身の血を凍らせたふうである。 女たちは、ここの内緒へ、久助が勘定を払ったのを見て、 「オオ。 可愛い子だ」 と、お燕を抱きとって、あばき合ったが、やがてそれが市十郎の子だと知ると、俄然、邪けんに突ッ返して、 「まあ、憎らしいね」 と、こんどは、市十郎をとり巻き、どうしても、返さないと、 執 ( しつ )こくひきとめた。 女たちをもぎ離して、市十郎は逃げるように 戸外 ( そと )へ出た。 うしろで、キャッキャッと、笑い声がしたが、道も見えない心地で、鎌倉河岸まで馳け出した。 「市の字。 ひどいよ。 逃げちゃあ、ひどいや。 自分の子だぜ、この 餓鬼 ( がき )は。 お燕のくびが、宙へ向いて、がくがく揺られぬいて来る。 市十郎は、振り向いて、棒のように立ちすくんだ。 「亀次は? そして、お袖は?」 もう散り初めてきた柳並木を、市十郎は、 人魂 ( ひとだま )のように、力なく歩きながら、早口に訊ねた。 「どうする? ……。 市の字」 お人よしの久助も、背中の子どもは、持て余し気味だ。 市十郎の眼へ、つきつけるように、お燕の顔を見せた。 市十郎は、腕ぐみを解いた。 そして素直に、自分の背なかを向けていった。 「わしの子だ。 わしが負う。 ……久助、こっちへ背負わせてくれ」 十一月にはいった。 寒さは心へもくいついてくる。 木賃を泊りあるいているうち、ふところの金もなくなってきた。 味噌久は、冬空を仰いで、しょんぼり、嘆くようにいった。 「ねえ市の字。 どこかで、何かやらなきゃだめだよ。 泥棒はできねえの、 たかりはいけねえのと、臆病なことばかりいッてたんじゃ、この子が、 凍 ( こご )え死んでしまうぜ」 お燕を、 交 ( かわ )る交るに負って、きょうもあてなく、盛り場の裏町をうつろに歩いている二人だった。 寒さと、空き腹は、悪への盲目を駆り立てるが、大亀や阿能十のような先輩がいなくては、味噌久も、 掻 ( か )ッ 攫 ( さら )い一つできない男なのである。 まして、市十郎には、その方面の才覚はない。 いや、市十郎は、こうして毎日、泣く子を負って、町をうらぶれ歩くのも、今では何か、楽しみになりかけていた。 心は、常にそぞろだった。 かの女の行方をさがすための、恋の苦労と思うと、 飢寒 ( きかん )も、ものの数ではない。 恥をつつむ 破 ( や )れ編笠も、自分だけには、恥でない気がした。 すれ草履の足もとを、 霰 ( あられ )もつ風に吹きなぐられても、お袖に似たうしろ姿を、ふと人なかに見つけたときは、胸のうちが花火のように どきと鳴った。 走り寄って、人違いと知った後にも、甘い感傷がかなしくのこり、人知れず、自分を、恋の詩人にしていた。 心あたりをそれとなく問い歩いても、生死すら知れないのである。 そして現実は、ふたりの前に、今夜の 糧 ( かて )と寝床をどうするか。 がんぜないお燕を飢え死なすか、捨て児か。 冷酷な決意をたえず 強 ( し )いてやまない。 「アア、良い 印籠 ( いんろう )だなあ。 長身で色白な人だった。 粗服だが、どこか 気稟 ( きひん )の高い風が見える。 髪から顎へ、紫の布を頭巾結びに たらりとつつみ、革袴、新しい草履、ゆったりした 歩様 ( ほよう )で行く。 曲がり角まで出るに手間どるほど、そこらからもう 雑鬧 ( ざっとう )の雑音につつまれ初める。 幼な子の悲鳴もつんざき、市十郎の胸をぎょッと 衝 ( う )ッた。 お燕は、久助の背なかだった。 子どもを背負っているくせに、久助は、ふらふらと、美少年のうしろを 窺 ( うかが )い、その腰にある印籠を、 掏 ( す )り取ったのだ。 ところが、美少年は、一人ではなかった。 数歩離れて、そのうしろから、同じように、黒布で、頭巾結びに顔をつつんだ侍が、ひそかに随行していたのである。 「何とした? 半之丞」 「お腰の印籠がございますまい」 「ほ。 ……ないわ。 盗まれたか」 「こやつめです」 半之丞とよばれた随行の武士は、久助の手から印籠を引ッ 奪 ( た )くって、 「お気をつけ遊ばしませ」 と、主人らしい美少年の手へもどした。 たちまち周りは人間の黒山をつくりかけた。 口々に、 掏摸 ( すり )だ、盗ッ人だと、罵り騒ぐ。 そのとき美少年の 明眸 ( めいぼう )も、久助の姿へそそがれた。 十八、九歳の豊麗な容貌が、頭巾のうちで微笑していた。 何か、おかしくてならないようである。 そして、いま手にもどった印籠を、 「これか。 ゆうべは、寺の縁へ寝た。 こん夜はお竹蔵の竹置場に、むしろを 被 ( かぶ )って、夜霜をしのぐ父と子だった。 久助は夕方からあの印籠を売りにゆき、人目もないので市十郎は、抱いているお燕の顔に頬ずりした。 どこかに、お袖の肌を思わせてくれる。 「お母あちゃまは、どうしたろうな。 おまえも母をさがして泣くか。 おお、よしよし。 飢 ( ひ )もじいか。 いまに久助が、何か買って来よう。 泣くな。 泣くな」 折々、立って歩いたり、小声で子守唄をうたってやったり……そしてそのわが子守唄に、若い父は、感傷になって、独り涙をたれていた。 なんのために屋敷を出てしまったか。 あやしい自分の気もちを今さら疑わずにはいられない。 従兄の誘惑に負けたのか。 家つきのお縫とつれ添う将来が 厭 ( いと )わしいのか。 屋敷生活や武家階級のいつわりと空虚にいたたまれない気持からか。 やはり最大の原因は、自分の内にあった。 最初の小さい一つの過失が、次第に、罪から罪を生み、果てなく 罪業 ( ざいごう )をつんでゆく。 それにも似た青春の野火だ。 この 火悪戯 ( ひいたずら )は、元より自分の好奇心にもあったことだが、火つけ友達は、まぎれなくあの従兄だ。 従兄の亀次郎さえいなかったら、この運命もなかった気がする。 だが、この境遇を、自分はほんとに悔いているだろうか。 そして目が醒めたらいつでも帰れよ)と。 ……今からでも前非をわびて帰れないやしきでもない。 にも関わらず、自分はこの子を捨て児にもしきれないのだ。 こうしていれば可愛さはますのみである。 本能というか、愛というか、われながら分らない 妄執 ( もうしゅう )がつのっている。 あらゆる理由はあるに似て、実は何もないのである。 あるのはただお袖だけだ。 もしお袖との相愛に祝福される境遇を得たら、ほかの理由はことごとく 泡沫 ( ほうまつ )のようなものだったことを悟ろう。 青春の問題の多くがこれだ。 「オオ寒。 くたびれ儲けさ。 どうしても買手がねえよ。 宝の持ちぐされとはこのことだ」 やがて久助が帰って来た。 売りあるいた印籠は、どこへ見せても売れないという。 理由は、 蒔絵 ( まきえ )の構図が、 葵 ( あおい )の紋ぢらしになっているせいだった。 葵の紋は、お犬様と同じだ。 さわらぬ神に祟りなし、誰も嫌うのが常識である。 まして久助の身なりとそれを見較べては、買手がないのは当然といえる。 「……だがネ市の字。 こんな物を、ちッとばかり買って来たから、お燕坊に、やってくんな。 この子に罪はねえものを。 なあお燕坊。 ……オヤ、笑ったよ、おれを見て」 飴 ( あめ )の袋と、まんじゅうの包みを出し、久助はお燕にそれを喰べさせた。 あの垢じみた一 張羅 ( ちょうら )をどこかで脱ぎ、そして、わずかに買ってきたおみやげにちがいない。 市十郎は眼が熱くなった。 そこへ、夜鷹 蕎麦 ( そば )の 担荷 ( にない )が通った。 温かそうな 葱 ( ねぎ )の香と、汁のにおいが、ふたりの空腹をもだえさせた。 胃の 疼 ( うず )きが唾液をわかせて抑止しようもない浅ましい意欲に駆られた。 ふたりは、やがて、かじかんだ手に、夜鷹蕎麦の 丼 ( どんぶり )をかかえ、ふウふウいって、喰べあった。 五体の血は生命の火を点じられたように活気づいて指の先まであたためた。 箸の先に 水洟 ( みずばな )がたれるのも思わなかった。 浅ましいというなかれ。 無上大歓喜即 菩提 ( ぼだい )。 人間とは、こんな 小 ( ささ )やかな瞬間の物にもまったく満足しきるものだった。 痛い、 痒 ( かゆ )いも覚えない。 名誉、功利、闘争、廉恥、そんなものもなかった。 「アア、 美味 ( うま )かった……」と、久助は箸と丼を蕎麦屋へ返すと、天にむかって 浩嘆 ( こうたん )した。 市十郎は、丼の底に余した汁を、お燕の口に与えていた。 「お代りは? ……」と、蕎麦屋がいった。 久助は、よほど、もう一杯といいたそうだったが、心のうちで、闘っているらしい顔をした。 そしていいにくそうに、蕎麦屋の屋台 行燈 ( あんどん )の下へ、例の 印籠 ( いんろう )をひょいと出した。 「蕎麦屋さん。 実あ、金はないんだよ。 これを 抵当 ( かた )に、もう一杯喰べさせてくれるかい」 「え、何です、これやあ……」蕎麦屋は、じっと、手にも取らず見ていたが、 「これやあ、紀州様の御紋章つきの印籠じゃございませんか」 「そうだよ。 盗んだ物じゃあない。 堺町の抜け裏で、紫頭巾をなすった立派なお若衆からいただいたんだ」 「へえ、なるほど、それじゃあ嘘ではありますまい。 あのお若衆は、赤坂のおやしきからよくお 微行 ( しのび )で町へお 出 ( い )でなさる紀州様のお三男、徳川新之助様だってえ噂ですからね。 ……が、どうして印籠なぞを、お前さんたちにくれなすッたろ」 「この子のおもちゃに 抛 ( ほう )って下すったんだ」 「そうですかねえ。 そんな気まぐれもなさるかもしれない。 何しろ変った 御曹司 ( おんぞうし )ですよ。 やはり 柳沢閥 ( やなぎさわばつ )の、さる老中の息子らしく、これも 微行 ( しのび )姿で、よく堺町へ来るが、いつも大自慢の土佐犬を、銀の鎖でつなぎ、わざと、盛り場の人混みを引きあるいていた。 そして、この 獰猛 ( どうもう )なお犬様に、 雑鬧 ( ざっとう )の露ばらいをさせて、人々が恐れまわるのを、愉快としていた。 かれが、芝居を見物中は、これを小屋の木戸番へ預けて入る。 木戸番は、お犬様のために、特に、入口に別席をもうけ、地上に 緋氈 ( ひせん )を敷いて、青竹につないでおいた。 すると、ある日、賎しからぬ若衆が、その前に 佇 ( たたず )んだ。 そしてふと足の先で、お犬様を愛撫した。 権門の猛犬は、常に人間を猫、鼠以下に見馴れているせいか、この人間の無礼にたいし、土佐犬特有の 牙 ( きば )をいからして、猛然と、その若衆の出した足くびへ食いついた。 さだめし、足を引くのも間にあうまいと思ったからだ。 さしもの猛犬も、これには牙を立ついとまもなかったとみえ、ぐわッと五臓を吐くような 唸 ( うめ )きと共にぶっ仆れ、死ぬまでには至らなかったが、けたたましい吠え声をたてて、まったく尻ッ尾を垂れてしまった。 犬の声よりも、見ていた群集の歓声が、小屋の前を揺すったのである。 老中の息子と、その家来たちは、血相を変えて、小屋の内から出て来た。 さきの若衆はそのときまだ悠然と去りもやらずにいた。 木戸番は責任上、すぐすッ飛んで行って町役人をよんできた。 もちろんこんな盛り場にも、お犬目付は随所にいる。 しかもなお、若衆は沈着を極めていた。 役人捕手が取り囲んだ。 が、風采を見て、犬目付が何かふた言三言、訊問した。 と思うと、役人たちがみな犬の如く初めの気勢を失ってしまい、老中の息子等と共に、こそこそ協議の上、何事もなく退散してしまった。 その事があって以来、若衆の 素性 ( すじょう )は、この界隈でかくれないものとなった。 願い下げだよ、これは。 ……だが、見れやあいい若い者のくせに、幼な子を抱いて、この霜夜に、どうしたってえことだ。 お 嬶 ( かか )に間男でもされて逃げられなすったかね。 蕎麦代はその子に 奢 ( おご )っておこう。 夜が明け、夜を迎え、それでも何とか、人間は喰べつないでゆく。 久助が、食物を 漁 ( あさ )りまわっては持って来るのだった。 そのうちに、銭など持っていることもあり、それのある時は、木賃の 薄 ( うす )蒲団に寝た。 葵ぢらしの印籠は、お燕のよい 玩具 ( おもちゃ )になったが、市十郎が、そのお方の好意にたいしても、 勿体 ( もったい )ないといって、以来、お燕の腰紐に、守り袋と一しょに提げさせていた。 「あっ、泥棒ッ。 追いかける方は二、三人。 ひとりは 暖簾棒 ( のれんぼう )など持っている。 町中はちょうど 夕餉 ( ゆうげ )の 炊 ( かし )ぎ時、 靄 ( もや )みたいに煙っていた。 それと 黄昏 ( たそがれ )を窺って、すぐ見つかるようなのでは、いずれはコソ泥にちがいあるまい。 「曲がッた。 泥棒だ泥棒だ」 コソ泥は必死に逃げ、 石町 ( こくちょう )の鐘つき堂をぐるぐる廻り、また追いつめられて、瀬戸物町の方へ馳けたが、折ふし通りかかった二人づれの同心に、番所に居合せた捕方の三、四人も加わり、逃げれば逃げるほど、追えば追うほど、 由々 ( ゆゆ )しい大物でも 懸 ( か )かるような騒ぎを伝えた。 京橋尻の、もと梅賀がいた家の近くに、河に添って広い空地があり、 伐 ( き )り残された 団栗林 ( どんぐりばやし )のわきに、軒傾いた木賃宿が二、三軒ある。 市十郎は、そこの 破 ( や )れ 窓 ( まど )から、何気なく首を出した。 「おやっ?」 捕手らしい人影に囲まれて、ひとりの男が、むごく引ッ張られて来るのが見える。 撲られるたびに、泣くような 喚 ( わめ )くような声も聞こえ、その一群れは、この木賃長屋と 船玉 ( ふなだま )神社のあいだを通って、往来へ出て行った。 夕闇せまる往来には、黒々と人立ちがして、縄付を指さしあっていた。 南無三、何とか救う手段はないか。 罪はかれが犯しても、罪の責任は、自分にある。 だが、あきらかに彼は、泥棒を働いた。 いかなる罪をもって律せられても苦情のいえない縄付にちがいない。 市十郎は、 苛責 ( かしゃく )された。 もし気がつく者があれば、怪しまれるほど、苦悶の状を、その 面 ( おもて )に深く描いた。 ふと、足をすくめて 佇 ( たたず )みかけたが、歩けッと、たちまち縄尻で打ちすえられ、ふし眼がちに、市十郎の方を見ながら、すごすご宵の辻を曲がって行った。 出来心の軽い罪。 長い牢舎でもあるまい。 それが彼の今では第一の目的だったが、日毎の木賃の払いにも金がいる。 かれは、背にお燕を負い、 面 ( おもて )を破れ編笠にふかく隠して、 素謡 ( すうたい )をうたいながら、恥かしそうに人の軒端に立った。 「なんだなんだ。 何が行くんだ」 「さらし者だ。 罪人だ。 江戸中引きまわしの上、小塚ッ原へ引ッ立てられてゆく途中だ」 「え。 中野のお犬小屋荒しだって。 そいつあ、拝んでおかなくッちゃ、申し訳ねえ」 口々にいい交わしては、争い走ってゆく人々の足に、乾ききった十二月の昼は、馬糞色に 埃立 ( ほこりだ )ッて、もう両側はたいへんな見物人であった。 この日、江戸町奉行は、懸案の難問題を解決して、百数十日ぶりの明るさを取りもどしていた。 おそらく、現江戸町奉行 丹羽 ( にわ )遠江守は、年内に切腹するだろうと、取沙汰されていたくらいだからである。 かかる者は、草の根を分けてもひッ捕え、世人の見せしめに、極刑に処しおかねば、次々、いかなる不心得者が現われるやもしれますまい) と、例のごとき献言まで行った。 さなきだに、激怒していた綱吉は、老中を通じ、町奉行丹羽遠江守へ、犯人の逮捕を、 日限 ( にちげん )きッて、きびしく催促した。 しかし、容易にその検挙は実現しなかった。 理由は、事件がまったく無欲の行為に依るからだといわれた。 そのために、ほとんど、足どりとか 贓品 ( ぞうひん )の経路とかいう常套的な捜査法はまったく用をなさなかった。 期限の百日が、老中の説明で、やっと猶予され、さらに犯人逮捕の日限は、五十日延期された。 それ以上は、奉行の無能を謝して、切腹でもするしか、丹羽遠江守の立場はないまで、さし迫っていたところなのである。 町の情報通は、虚と実のけじめもなく、そんなことをガヤガヤ話しあいながら、裸馬の 三途 ( さんず )行列を、首を長くして、待っていた。 裸馬、三頭。 その一頭一頭に、囚衣の罪人が、 縛 ( くく )りつけられている。 みな、きりぎりすのように痩せ細り、眼をくぼませ、髪も 髯 ( ひげ )も、ぼうぼうと 生 ( お )いはやして。 白い弔旗のような 幟 ( のぼり )ばたにも、何か、かれらの罪悪がくろぐろ書かれ、一番あとから、数珠をもった坊主が二人、何のつもりか、足駄ばきで 従 ( つ )いてくる。 市十郎は、眼を疑った。 なんとそれは、姿こそ変れ、ひと月ほど前に、微罪で捕まった味噌屋の久助ではないか。 「……久助だ! おお、何として?」 何か、わけのわからない疑念で、頭がぐらぐらした。 阿能十なら知らぬこと。 大亀なら知らぬこと。 久助とは? ……信じられないのである。 その上の者は、まったく見も知らない人間だ。 更に、三番目の裸馬が通った。 その上の者も見覚えがない。 久助のみが、彼のあたまの中を、いつまでもいつまでも、果てなき死出の道へ通って行く。 打消そうとしても、そのあわれなる姿は、もう一生消えまい。 だが、見物人の声の中には、よくある強盗、放火、殺人などを犯した者にたいするような悪罵も怒りも聞かれなかった。 むしろ、かれらは暗黙のうちに、裸馬の背に同情していた。 ある者は、お念仏をとなえたりした。 ある者は、ひそかに 合掌 ( がっしょう )していた。 またある者は、よくやッてくれたと、いわぬばかりな眼をもって見送っていた。 それらの人影も、 師走 ( しわす )らしく、たちまち 蝟集 ( いしゅう )して、たちまち散った。 あとには、路傍の枯れ柳と、大岡市十郎だけが残っていた。 「めずらしいじゃねえか。 市十郎。 おめえはたしか、 於市 ( おいち )だろうが」 思いきや、まだ柳の木蔭に、もひとり人影が 佇 ( たたず )んでいた。 長刀 ( ながもの )をぶっこんで、 熊谷 ( くまがい )笠とよぶ荒編みの物を、 がさつに顔へひッ 被 ( かぶ )った浪人である。 「えっ。 ……ど、どなたでござったろうか」 「ござったろうかもねえもんだ。 おれを忘れちゃ困る。 その子を生んだお袖なざあ、おめえよりは、この 阿能 ( あの )十蔵の方が、早くから目をつけていたもんだぜ」 「おう、阿能十か」 「於市。 ちか頃、お袖に会ったかい?」 夜になるとよくこの辺の売笑婦たちが集まってくる茶めし屋の 葭簀 ( よしず )囲い。 お 厩 ( うまや )河岸にはこれが多い。 「お祝いだ。 きょうはおれにも祝っていいことがある。 そして何か 美味 ( うま )い 肴 ( さかな )をな」 かれも、床几に 片胡坐 ( かたあぐら )をかきこんで、 前屈 ( まえかが )みの小声になり、半分口を抑えながら語った。 「かわいそうなのは、お人好しの味噌久だが、これで一件は、めでたく落着だ。 奉行なんてやつあ、自分が切腹とでもなると、何をやるか分らねえ。 あの三人の下手人のうち、久助は、半分下手人といってもいいだろうが、後の二人は、奉行の身代りだよ。 どこかの唖乞食か、半馬鹿の罪人をつかまえて、お犬殺しに仕立てたにちげえねえ。 ふふふふ、こッちにとっちゃあ 勿怪 ( もっけ )のしあわせ。 いずれ 根 ( こん )よく潜っていたら、大概、こんな片付きかたをするんじゃねえかと思っていたのさ」 そしてまた、不敵に、こうもいった。 「なあに、老中だって、将軍だって、柳沢次第の世の中だアな。 奉行も、切腹と来ちゃあ堪らねえから、そこはそれ、柳沢の 御簾中筋 ( ごれんちゅうすじ )へ、廻すものを廻しさえすれやあ、どんなにでもなることさ。 世の中は、面白かろう。 わけて、裏街道をあるいてみると」 酒が来たので、ちょっと、黙ったが、またすぐ小声と、前屈みになり、こんどは、お袖のことをいい初めた。 阿能十にいわせれば、 「お袖にゃあおれはちょいちょい会ってるんだ。 「会わせてやるぜ。 いつでも」 阿能十は、ぐっと一杯ほして、その杯を、市十郎に持たせ、 「はやくおれにぶつかれば、いつでも連れて行ってやったものを……」 と、まだ明らかには、居場所を口に出そうとしない。 市十郎は、てもなく 焦 ( じ )らされた。 「よし、きっと、会わせてやろう。 おれは、大亀のような、 ずぼらは嫌いだ。 約束する、かたい約束を」 「この通りです。 何とぞ」 「そう、いんぎんになるなよ於市。 こっちも武家出、つい固くならあ。 自分に持って来いというものは」 「おめえの親戚に、たしか大岡兵九郎とかいうのがあったなあ。 屋敷は牛込だ。

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