二宮 金次郎 何 した 人。 二宮金次郎とは

農政家で財政立て直しの達人「二宮金次郎」について歴女がとことん解説

二宮 金次郎 何 した 人

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小学校にある二宮金次郎の銅像の意味とは?スマホが撤去の理由?

二宮 金次郎 何 した 人

自筆文書では 金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。 また、の「尊徳」は正確には「 たかのり」と読むが、「 そんとく」という読みで定着している。 経世済民を目指して を唱え、と呼ばれる農村復興政策を指導した。 生涯 [ ] (現在の栢山(かやま))に、二宮利右衛門 の長男として生まれる。 母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。 尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。 尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。 次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。 後者は賢夫人と称される。 子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)がいる。 幼少時代 [ ] 当時の栢山村は領であった。 父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。 そこに、金治郎が5歳の時の3年()8月5日、を襲った暴風で、付近を流れるの坂口の堤が決壊し、金治郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。 その影響で父の田畑は砂礫と化し、家も流失した。 開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する。 寛政9年()、父が眼病を患う。 金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事のを父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜にを作って配布して献じた。 この頃、寺に入れられていた弟友吉が耐え切れずに寺から戻った。 寛政12年()、父の病気が悪化し、9月に没する。 母よしが働くために前年生まれた富治郎を人の家に預けるが、乳張りがひどくて家に戻す。 14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てた。 2年()、貧困の中で母が亡くなった。 まだ幼い2人の弟は母の実家川久保家に預け、金治郎は祖父(伯父) 萬兵衛の家に身を寄せることとなった。 しかしこの年にまた酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった。 金治郎は本家・祖父の家で農業に励み、身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌い、しばしば口汚く罵られた。 そこで金治郎は策を講じ、堤防にを植え、それで菜種油を取って燈油とした。 また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。 元年()、萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿。 この年に余耕の五俵を得て、翌年は親戚での二宮七左衛門方に寄宿。 さらにここで余耕の20俵を得て、文化3年()に家に戻り、20歳で生家の再興に着手する。 家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑をに出すなどして収入の増加を図った。 しかし他方で、弟の富治郎はこの頃に亡くなった。 生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、としても働いた。 この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。 また体重は94kg あったと言われている。 小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた。 青年時代 [ ] 文化5年()、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げた。 その頃、小田原藩で1,200石取のをしている服部十郎兵衛が、親族の助言により、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼した。 金治郎は五年計画の節約でこれを救うことを約束し、文化11年()に服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。 この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった。 文化13年()、前年に家に戻った友吉(常五郎)を萬兵衛の長男・三郎左衛門の養子とし、自らも最初の妻を娶った。 元年()、藩主が孝子節婦奇特者の表彰を行った時に、その中に金治郎の名もあった。 文政2年()、生まればかりの長男が夭折。 家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。 翌年、34歳の金治郎は16歳のなみと再婚した。 同年、忠真公が民間の建議を求めた際に、金治郎は貢米領収桝の改正を建言。 これが採用されて斗量を改正した。 また小田原藩士のための低利助貸法及び 五常講を起こした。 文政4年()、二度目の伊勢詣でから戻った金治郎は、小田原藩主の分家・宇津家のであった桜町 が荒廃しているということで、その再興救済を藩主より命じられた。 文政6年()、金次郎は名主役柄・高5石二人扶持の待遇、移動料米50俵・仕度料米200俵50金を給されて、桜町に移住して再建に着手した。 文政9年()には宇津家家臣・横山周平が同役勤番となって江戸に行ったため、金次郎が組頭格に昇進して桜町主席となった。 再建は村民の抵抗にあって難航していたが、2年()には正米426俵を納める成果を上げるに至り、同5年には1,330俵を返納し、同7年には封地4,000石租900石の所を実収3,000石にまで増やしたので、分度(支出の限度)を2,000石に定めて再建を成し遂げた。 その方法はとして他の範となる。 但しこれらの復興政策は必ずしも上手く行ったというわけではなく、村人らに反感を持たれたときは突然行方不明になった。 間もなく成田山で断食修業していることが判明し、修業を終えて戻ると村人らの反感もなくなっていたという。 晩年 [ ] 天保3年()には桜町より三里先の青木村の旗本川副勝三郎より依頼を受けて伝授。 天保4年()にはが関東を襲ったため、藩命で下野烏山の大久保領の領民を救済。 天保5年()には谷田部細川家の家政を中村玄順を介して改善。 天保7年()、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられる。 駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられる。 金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救急。 儒式の尊徳墓(日光市今市の報徳二宮神社) 天保9年()、石川氏のの所領1万3,000石が三分の一に減収していたのを復興し、3万金の借金を償却して、分度外の余剰500俵を出す。 天保11年()、伊豆の代官江川氏の招きを受けて、田方郡多田弥次右衛門家を再興。 天保13年()、幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水について二件の提案を行ったが、結局、それは採用されなかった。 翌年、幕府直轄領()下総大生郷村の仕法を命じられ、元年()には日光山領の仕法を命じられる。 翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。 日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたが、3度目の病を発し、3年()下野国今市村(現在の栃木県)の報徳役所にて没した。 享年70。 は誠明院巧誉報徳中正居士。 24年()11月16日にが追贈されている。 逸話 [ ] 尊徳に関しては多くの逸話が残っている。 事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある。 これらの逸話の多くは、弟子のが著した尊徳の伝記『』を由来とする。 ただし、尊徳自身は幼少期の頃について全く語らなかったため、高慶は村人から聞いた話を記したに過ぎず、これらの逸話については高慶自身も信憑性は保証できないとしている。 小田原時代 [ ]• 一斗枡を改良し、藩内で統一規格化させた。 役人が不正な枡を使って量をごまかし、差分を横領していたのをこれで防いだ。 倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻した。 桜町時代 [ ]• を食べたところ、まだ夏の前なのに秋のナスの味がしたことから、その年はになることを予測。 村人たちに指示してに強いを大量に植えさせた。 尊徳が予測した通りその年は冷夏となり、が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったおかげで餓死者が出なかったばかりか、余分のヒエを周辺の村々にも分け与えることができたという。 して間もない田畑は、既存の田畑と比べて負担が軽いことに注目し、新しい田畑の開墾を積極的に奨励した。 村人たちの開墾作業を見回っていた時、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。 お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、村人たちの前で男の不正を厳しく叱ったという。 その一方で、年老いて無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちがやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を毎日地道に続けてきたの老人に対しては、開墾に邪魔な木の切り株を彼が全部取り除いてくれたおかげで他の村人たちの作業が容易になり開墾がはかどったという理由から、通常の賃金のほかに慰労金として15もの大金を与えたという。 成田山に引きこもっていた際、そこで出会った老婆に教えられ、と出会い、「農民や役人が自分に従わないと仕事をはじめないと思っておられるようですが、いちばん大切なのは復興なのでは?」との小谷の言葉で、まず役人と村人を改心させようとした自分の完全主義に無理があると悟り、説得より復興作業をまず開始しようと決心して、桜町に帰ったという。 評価 [ ]• 「二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったよ。 全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。 時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ」 子孫 [ ]• 通称、弥太郎。 4年()生まれ。 尊徳の長男・徳太郎が生後まもなく没したため、となる。 尊徳没後も御普請役の命を受け、遺志を受け継ぎ日光山領89村の仕法を推進した。 嘉永5年(1852年)4月、士・三宅頼母の娘・鉸子(こうこ)と下野国東郷陣屋で結婚する。 慶応4年()6月、の戦火が今市に及び母、妻子と領内に移った。 これにより日光山領の仕法は打ち切られた。 明治4年(1871年)、尊徳夫人(歌子)と尊行没する。 - 尊行の。 通称は金之丞、金一郎。 2年()11月16日生まれ。 明治4年(1871年)、父の後を継ぎ家禄700石を給される。 明治10年(1877年)、を民間で実践する為、冨田高慶を社長にが設立され、副社長にが就任するが間もなく尊親が就任した。 富田高慶が没すると社長に就任し、新天地にて実践することを求め、明治29年(1896年)に社員と探検隊を組織し、開墾に適した土地を探して周り、を発見した。 明治30年()、第1期移住民75名とともに(現在の)に移住しとして豊頃村牛首別(ウシシュベツ)原野を10年で840haも開墾し、宅地や防風林等も含めては1,345haにも及ぶ大農場となった。 またこの間、母の鉸子は尊親の子・(とく)を札幌に居を構えて養育した。 明治40年(1907年)、開拓が一段落した為、再び相馬に来住し、妻は報徳婦人会会長となり、尊親は中村城三の丸跡にある相馬家事務所に執事として勤め、「報恩全集」の編纂をした。 その後、銀行の取締役、大正6年福島県立薫陶園園長、大正8年(1918年)には2代目校長に就任した。 - 尊親の。 後に富士山麓に「」を発足させた。 - 尊行の。 通称、延之助。 安政5年(1858年)生まれ。 の娘と結婚し高慶の養子となる。 娘は、相馬家に嫁いでいる。 - 尊徳の。 門人 [ ]• - 士・齋藤(富田)嘉隆の次男。 相馬中村藩士。 通称は久助。 弘道任斎と号する。 尊徳の娘婿。 文化11年(1814年)生まれ。 藩世継のの近侍となるが藩復興の志のもと江戸に出る。 天保10年(1839年)6月1日、入門。 4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。 尊徳の片腕として活躍し、嘉永5年(1852年)に尊徳の娘・文子と結婚するが、翌年出産で帰った実家にて母子ともに亡くなった。 日光仕法、相馬仕法に従事した。 相馬仕法は尊徳の代理として、弘化2年(1845年)から廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。 維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。 明治2年(1869年)、相馬中村藩家老上席および政治総裁となった。 廃藩置県後は、明治10年(1877年)に興復社を設立し社長となった。 また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。 明治23年(1890年)、77歳で没する。 二宮尊行の次男高英を婿養子とした。 - 旧幕府下での開拓を指導。 札幌開拓の始祖と呼ばれた。 - 4大門人の1人。 - 4大門人の1人。 富田高慶の甥。 久米之助。 弘化2年(1845年)、入門。 相馬仕法の後半を高慶に代わって指導した。 晩年、大原村(南相馬市原町)に隠棲し大原山人と号した。 明治27年(1894年)6月、76歳で中村にて没した。 - 弘化2年(1845年)に入門。 - の祖父。 崇敬・記念 [ ] 日本銀行券A1円券 有効券 各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」と呼ばれる)に関する記述は、明治14年()発行の『報徳記』が初出である。 そこには「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。 」とある。 この「書を懐にして」を、「懐中」か「胸の前で持って」と解釈するかは判断に迷うところだが、金治郎像では後者で解釈されている。 ただし先述のように『報徳記』の尊徳幼少期の記述は信憑性が薄く、このような姿で実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残る。 『報徳記』を基にした著の『二宮尊徳翁』(1891年10月)の挿絵(画)で、はじめて「負薪読書図」の挿絵が使われた。 ただし、これ以前から既にこの図様に近い少年像は存在していた。 金治郎の肖像画のルーツは中国の「図」にあり、これがに伝統的な画題として代々伝わり、その末裔の永興もこれを参考にしたと想定される。 確認されている最初のこの姿の像は、明治43年()にが東京彫工会に出品したものである。 明治37年(1904年)以降、にの象徴として尊徳が取り上げられるようになった。 小学唱歌にも『』という曲がある。 しかし、修身国定教科書には金治郎の逸話は取り上げられたものの、「負薪読書図」は一度も掲載されていない。 「負薪読書図」が広まったのはや、子供向けの伝記類による。 これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとして、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。 この「金治郎」の政治利用は、を中心とする人脈によって行われていた。 特に・・らによる指導が大きかった。 小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって普及したとされる。 小学校に建てられた「金治郎像」で最古のものは、13年()、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現)に建てられたものである。 その後、初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。 立像の大きさは1mとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったともいわれる。 実際のところは、立像はきっかり1mではないことが多い。 これは、昭和15年()頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。 この像が戦後、の指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和21年()に(1円券)の肖像画に採用されていることからも、像の減少とGHQは特に関係は無い。 戦前の像は製のものが多いが、ほとんどが中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。 金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある。 は金属類回収令で供出される前に、銅像の本に書かれている内容を調べたことがある。 各学校によって刻まれた文字が異なり、「忠孝」の二文字、または『』や『』の一節が刻まれるもの、あるいは白紙のものまであったと記している。 石像はその後の時代も残った。 また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。 像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから、1970年代以降、徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあるほか、「現在の児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある。 歴史博物館調べによると、市内の小学校の55. また、15年()にが改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。 2010年代に入っての危険性が社会問題になったが、この問題を受けて「いまいち一円会」が2016年に日光市立南原小学校に寄贈した石像は立像ではなく座像となっている。 なお、では、「二宮金治郎像」が夜中の校庭を駆け回るという話が典型的に語られている。 二宮尊徳生家 記念館 [ ] 尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。 栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館がある。 顕彰碑 [ ] 荒廃した村を再建した尊徳の偉業を讃えて、茨城県桜川市真壁町(旧青木村)に顕彰碑が建てられている。 唱歌・歌謡曲 [ ]• 『噫々二宮金次郎』() 関連作品 [ ] 漫画• (、):テレビアニメ版の二宮尊徳(金次郎)を演じた声優は 小説• 『小説 二宮金次郎』、• 『尊徳雲がくれ』 『谷中・首ふり坂』収録 、 演じた人物 [ ]• - 『』(1957年の映画)• - 『』(日本放送協会、1973〜1974年)• - 『』(1998年の映画)• - 『』(少年時代)• - 『』第四話「二宮尊徳 秘話」(BSジャパン、2017年11月14日)• - 『二宮金次郎』(2019年の映画) 史料 [ ] 近代デジタルライブラリー• 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 銀右衛門は次男坊ながら若干の土地から身を起こして中農までになった人物。 萬兵衛は金治郎の祖父であるが、本家と分家との違いがあり、本家の立場からは伯父である。 油代がもったいないと叔父に指摘される家にて書物を読んでいるが、その書物をどこから手に入れたのか疑問が残る。 現在の、なお合併前のの町名の由来は尊徳である。 実際には冷害の数年前からヒエの作付を準備させていたことが分かっている。 尊徳は飢饉に備えて一人当たり五俵(約300kg)ずつの割合でヒエを蓄えるよう村人たちに指示していたという。 当時の日本では、田畑の開墾を積極的に奨励するため、新しく開墾した田畑については一定期間(一般には3~5年程度)にわたってを免除もしくは大幅に軽減する制度があった。 この制度は俗に「鍬下年季」(くわしたねんき)と呼ばれた。 の『』に校長先生が訓示で「いよいよ二宮金次郎さんの銅像も出征することになりました。 銅像は敵をうつための大砲の弾になるのです。 今日皆さんは、下校する時金次郎さんにお別れしてください」という場面がある。 山中らの指摘では時代が少し早いという。 出典 [ ]• 大藤修『人物叢書 二宮尊徳』吉川弘文館、2015年5月、2p。 大藤修『人物叢書 二宮尊徳』吉川弘文館、2015年5月、3p。 著『二宮尊徳 -財の生命は徳を生かすにあり-』、22ページ。 、pp. 31-32。 日本博学倶楽部著[図説]歴史の「決定的瞬間」(愛蔵版)電子書籍版 株式会社PHP研究所 2013年 第3章column• 「海舟全集 第十巻」• 岩井茂樹 「二宮金次郎「負薪読書図」源流考」『日本研究』第36集、 、、2007年9月28日、pp. 7-46。 、pp. 200-201。 『ノスタルジック・アイドル 二宮金次郎』 新宿書房、1989年、pp. 32-33。 、pp. 142-161。 、「戦時下、学校から次々消えた「二宮金治郎像」」(銅像はつらいよ十選 4)、、2013年12月18日• 『歴史に「何を」学ぶのか』 2017年 pp. 79 - 80. 、2016年3月3日閲覧。 参考文献 [ ]• 『報徳記』 1883年(脱稿は3年(1856年))• 『二宮尊徳』(『岩波新書』)、、1959年1月(のち、特装版『岩波新書の江戸時代』に収録、1993年7月刊。 『二宮尊徳』(『朝日評伝選』2)、、1975年9月(のち、『朝日選書』に収録、1989年7月刊。 『二宮金次郎の一生』、、2005年5月刊。 『二宮尊徳 -財の生命は徳を生かすにあり-』〈〉、2009年12月刊。 『日本人の肖像 二宮金次郎』〈角川叢書45〉、2010年2月。 『二宮尊徳の日光神領廻村の記録を読む』• 『二宮尊徳の相馬仕法』、1970年7月刊。 足柄下郡教育会編 足柄下郡教育会、1929年。 国立国会図書館デジタルコレクション。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 如意山 — 小田原市868。 菩提寺• :A号券の肖像に採用された。 :二宮の唱えた『五常講』を淵源とする。 外部リンク [ ]• (神奈川県小田原市)• (栃木県真岡市)• - (2011年11月23日アーカイブ分)•

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日本の農業の救世主!?二宮 金次郎(尊徳)とはどんな人物なのか?

二宮 金次郎 何 した 人

二宮金次郎像の受難 江戸時代後期の著名な農政家である二宮尊徳(1787-1856。 なお読みは「そんとく」で定着しているが正式には「たかのり」)。 幼名の金次郎で知られ、薪を背負いながら読書に励む子ども時代の銅像や石像が、戦前にはどこの小学校でも校庭に置かれ、児童の手本とされていた。 だが戦後、天皇皇后の写真や「教育勅語(教育ニ関スル勅語)」を納めた「奉安殿」と呼ばれる学校施設とともに多くが撤去された。 神奈川県小田原市の報徳二宮神社にある「少年二宮金治郎像」(画像提供:報徳博物館) 教育勅語は1890(明治23)年に明治天皇が発布した、近代日本教育の基本方針を示したもの。 親孝行など儒教道徳を説き、天皇を中心とする国家への忠誠心を養うことを求めている。 第2次大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が教育勅語の神聖視と奉読を禁じたため、奉安殿は瞬く間に姿を消した 金次郎像は、教育勅語と直接の関係はない。 しかし、地元の篤志家らの寄付により、しばしば奉安殿の近くに建てられた。 また戦前、「修身」と呼ばれた道徳の国定教科書に金次郎が孝行と勤勉の手本として取り上げられ、その挿絵を元に銅像が造られた。 このため金次郎は、戦前の道徳教育と不可分とされ、像とともに一時は過去のものとなった。 教育勅語には根強い擁護論があるが、タブー視されており、復活などほぼ夢物語だ。 しかし金次郎の方は、かつてのイメージを脱して、子どもの手本としてよみがえりつつある。 茨城県筑西市など像を再建するところもある。 2018年度から小学校の道徳教科書にも復活した。 金次郎は子どもだけでなく、その思想哲学や手法が戦前戦後の大物実業家にも手本とされてきた。 24年に導入される新1万円札の肖像に選ばれた「日本資本主義の父」、渋沢栄一が深く尊敬していたのが金次郎だ。 その意味で「日本資本主義の祖父」といえるかも知れない。 没落した生家と奉公先の武家を再興 金次郎は1787年、現在の神奈川県小田原市栢山(かやま)で生まれた。 二宮家は富裕な農家だったが、91年に起きた水害で田畑の大部分を損失。 父は5年をかけて田畑を回復したが、心身の酷使がたたり、金次郎が14歳の1800年に亡くなった。 一家が極貧の暮らしに転落する中、2年後に母も世を去る。 金次郎は、16歳で伯父に養われる身となった。 昼間は伯父の家業の農作業に励み、夜は寝ずに勉学に励んだ。 だが、伯父は、農民に学問は不要との考えで、金次郎が油の明かりで本を読むことを浪費だとして、厳しく叱った。 当時としては伯父の考えは常識だ。 金次郎が非凡なのは、荒れ地に菜種を育てて油屋に渡し、引き換えにもらった燈明油で夜の読書を続けたこと。 昼間も、山に登って薪を切り、背負って歩きながら書物を読んだ。 先に触れた銅像や石像は、このころの逸話がモデルとなっている。 映画『二宮金次郎』より。 資金を得るため他家に奉公すると同時に、買い戻した田畑で収穫した米や野菜を売ってさらに金を稼いだ。 24歳で約1. 4ヘクタールの農地を持つまでになり、再興に成功した。 農作業と同等に現金収入を重視したことが再興を速めたとみられている。 25歳の時、小田原藩の家老、服部家の使用人となる。 服部家の子息3人の勉強を助けることが役目で、藩の儒学者の屋敷に共に通った。 子息の近くで講義を聴くことで、自らも学問を深めた。 服部家時代の金次郎は、使用人同士が助け合うための金融制度「五常講」を始める。 互いに金を出し合い、困窮者が借りる制度で、金利も取った。 参加者は儒教道徳を順守し、確実かつ早期の返済を求められた。 貸し倒れがなく、利息収入が得られることから参加者は積極的に資金を提供した。 金次郎の「五常講」は1820年、小田原藩の出資で藩全体の武士を対象とする制度に発展した。 世界最初の協同組合、信用組合との指摘もある。 日本では後の明治時代になって「産業組合法」が成立したが、金次郎の「五常講」とドイツの「救済貸付組合」を参考にしたと言われる。 金次郎はその後、依頼を受けて服部家の財政再建を引き受け、厳しい緊縮策を実施する。 その間、小田原藩主・大久保忠真に見出され、21年、藩主の分家・宇津氏の領地で、現在の栃木県にあった桜町領の立て直しを命じられた。 身分制度が厳格なこの時代に、農民が藩士として登用されて領地の再興を任されるのは極めて異例なことだった。 当時、桜町領を含む一帯は、土地が痩せ、作物が乏しかった。 住民は怠惰で熱心に働かず、農地は荒廃し、領主の年貢収入が激減していた。 映画『二宮金次郎』より。 それを元に再興事業の期間と数値目標などを記した契約書を作成し、小田原藩と宇津家との間で取り交わすなど、かなり近代的な方法で事業をスタートしている。 その後の再興事業も、近代の企業家のような思想と手法で取り組んだ。 金次郎は再興事業開始後、藩主が申し出た無償の資金供与をきっぱりと断った。 それまでも桜町領には藩から補助金が下付されていたが、金次郎にしてみれば、それこそが農民の勤労意欲を削ぎ、再興を妨げる原因だった。 だが、事業にはもちろん金がいる。 金次郎は、持参した自身の財産と、藩から支給された再興事業の請負費用を元手に、低利の融資制度を創設した。 領民に農機具の購入費用などとして貸し出し、作物を売った利益を返済金に充ててもらった。 農民の自主性と積極性を引き出すための工夫だ。 金次郎は、領民の寄り合い「芋こじ」も重んじた。 里芋を桶に入れ、皮をとるために棒でかき回すことを意味するが、徹底した話し合いによる合意形成をこう呼んだ。 農村では、個々の農民の勤労に加えて、共同作業が不可欠だ。 用水路の整備や、村民の共同利用地「入会地」の管理は、みんなで力を合わせてやらねばならない。 「芋こじ」は、共同体の結束強化の手段だった。 映画『二宮金次郎』より。 この面で能力がありそうな領民の若者に命じ、米の収穫量を予想して売買させたのだ。 桜町領は、後の36年に起きた「天保の大飢饉」の際、事前に米を買っていたため、被害は最小限にとどまった。 「移民」の奨励も金次郎が導入した改革の一つだ。 当時は、米穀生産が経済の根本だが、桜町領では逃散する農民が多く、水田の3分の1が荒れ地になっていた。 そこで子だくさんの地域から移住者を受け入れて労働力不足を補った。 順調にみえた桜町領の再興事業だが、途中で一度、挫折している。 金次郎に反感を抱く藩の武士と領内の反対派が結束し反発したためだ。 特に藩が派遣した役人との対立は激しいものだった。 金次郎はいったん桜町領を離れ、千葉県の成田山新勝寺にこもり21日間の厳しい断食修行を行った。 その結果、「一円観」という真理を悟った。 善悪や苦楽といった二項の対立も相対的なもので、対立者の心は動かすことができるとの信念を抱いた。 映画『二宮金次郎』より。 断食修行をやり遂げ、桜町領へと戻る金次郎を見送る成田山新勝寺の僧侶たち。 金次郎の不在で彼の偉大さを領民が痛感したことに加え、藩派遣の役人が交代したことも大きかった。 結局、桜町領の再興事業は成功した。 赴任最後の31年、年貢米の収穫可能量は開始時の2倍近くに増えた。 金次郎の功績は、各地に知れ渡り、再興事業の依頼が相次ぐようになった。 生涯に再興を請け負った土地は、現在の9県と北海道にまたがる600村に及ぶと言われる。 金次郎の「道徳経済一元論」 二宮金次郎は、各地の再興事業での実績に加えて、独自の哲学「報徳思想」で後世に大きな影響を残した。 父母、夫婦、兄弟、天地大自然から受けている恩徳に感謝し、これに報いる行動を行うべきだという道徳思想だ。 金次郎が指揮した各地の再興事業は、報徳思想に基づき行われたので「報徳仕法(しほう)」と呼ばれている。 報徳思想は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の4つが中心的な理念となる。 このうち「分度」は、自分の収入に応じた支出の限度をあらかじめ算出すること。 倹約と儲蓄(ちょちく)の基礎となる。 金次郎は、個人だけでなく家や国家にも分度を求める。 また、「推譲」は利他の思想。 分度を守り生じた余剰は、他人や社会のために用いるよう求めた。 金次郎の高弟、福住正兄(1824-1892)は報徳思想を「道徳経済一元論」と総括している。 金次郎が、克己と節制、利他主義に基づき経済活動を行えば、国家や社会の安定・繁栄に結びつくと説いているためだ。 マックス・ウェーバー(1864-1920)は、プロテスタンティズムの禁欲主義が近代資本主義の誕生を準備したと述べた。 金次郎が、日本近代資本主義の形成を、思想面で準備したと言えるかも知れない。 後世と海外への影響 金次郎の報徳思想は、渋沢栄一(1840-1931)のほか、近代日本を代表する銀行家の安田善次郎(1838-1921)、繊維機械の発明家でトヨタ自動車の祖である豊田佐吉(1867-1930)、パナソニック創業者の松下幸之助(1894-1989)、京セラやKDDIの創業者である稲盛和夫 1932- ら、近代日本を代表する実業家に受け継がれた。 金次郎の思想は、海外からも関心が持たれている。 日本と中国の研究者により「国際二宮金次郎思想学会」が2003年に設立され、中国でも定期的にセミナーが開かれている。 市場経済化が進む中国で、金次郎の倫理性が魅力を持つようだ(=中国語)。 映画『二宮金次郎』より。 少年時代に刻苦勉励する金次郎の姿はよく知られるが、青年期以降の農政家としての金次郎にスポットを当てた劇映画は初めてという(映画の情報は)。 『二宮金次郎』は、桜町領の報徳仕法を丹念に描いている。 拝金主義と利己主義に傾く現代の日本人からみて、金次郎の思想と行動はとても新鮮に映る。 映画の最後には、金次郎を称える明治時代の唱歌『二宮金次郎』がタイトルバックとともに流れる。 「手本は二宮金次郎」のフレーズを繰り返す、年配者には懐かしい歌だ。 敗戦とともに一時は消えた二宮金次郎。 もはや完全復活と言ってもよい。 二宮金次郎(尊徳)— 岡本秋睴筆『尊徳坐像』(画像提供:報徳博物館) 参考文献• 松沢成文『教養として知って置きたい二宮尊徳』(PHP新書)• 三戸岡道夫『二宮金次郎の一生』(栄光出版社)• 小澤祥司『二宮金次郎とは何だったのか』(西日本出版社)• マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳、岩波文庫) 画像提供:(神奈川県・小田原市).

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