ジョン タイラー。 ワット=タイラーの乱

アメリカの大統領 第10代 ジョン・タイラーについて│公務員総研

ジョン タイラー

農園主の子 ジョン・タイラーはヴァージニア州チャールズ・シティ郡で生まれた。 父ジョン 1747. 28-1813. 6 と母メアリ 1761-1797. 4 の8人の子供の6番目であある。 父ジョンは農園主でヴァージニア州知事も務めた。 タイラーはウィリアム・アンド・メアリ大学を17才で卒業後、法律を学んで弁護士になった。 ヴァージニア政界 父ジョンを見習ってタイラーは政界に進出した。 ヴァージニア州下院議員を皮切りに連邦下院議員、ヴァージニア州知事、連邦上院議員を歴任した。 1840年の大統領選挙でとともにホイッグ党の副大統領候補として選挙を戦い、当選した。 史上初の大統領職継承 ウィリアム・ハリソンが就任後1ヶ月で病死したので、タイラーは副大統領から昇格して大統領に就任した。 タイラーは厳格な憲法解釈に基づいて、議会が推進する国内開発事業や合衆国銀行などに関連する諸法案に反対を唱えた。 そのため閣僚が異を唱えて辞任しただけではなく、ホイッグ党の支持を失った。 一方でテキサス併合に成功している。 南部連合結成時にその議院として選出されたが、まもなく亡くなった。 大統領就任 ジャクソン主義的な大統領制度の強化はが就任後1ヶ月で死去した時により明白となった。 1841年3月4日は史上最も寒い大統領就任日であった。 ハリソンの死因は、1841年3月4日の就任式で雨の中、歴代最長の1時間40分に及ぶ就任演説を行い、肺炎を発症したことによる。 副大統領のタイラーが大統領として直ちに宣誓し、ハリソンの残りの任期をまっとうすることを表明した。 タイラーの大統領就任は、大統領職が空席になった時に副大統領が完全な資格で大統領に就任する権利を持つことを明らかにした。 タイラーはハリソンに比べてホイッグ党の政府の原理、特に大統領に関する原理を熱心に信奉していなかった。 ホイッグ党の指導者達は、タイラーがジャクソン主義的な大統領制度を解体しようとする試みにあまり協力しようとしないのを知って落胆した。 タイラーが完全な資格で大統領に就任することができるか否か憲法上の権利は不確定であった。 憲法第2条の継承に関する条項は曖昧であり、大統領が死亡、辞職、罷免、もしくは無能力になった場合、「同上」は副大統領に移り属すると規定しているだけである。 この規定は、タイラーが副大統領のまま、特別選挙が行われるまで単に大統領の権限を代行しているに過ぎないのか、それともハリソンの残りの任期の間、完全な資格で大統領となるのかという疑問を生じる。 タイラーはあらゆる意味で自身が大統領であると即座に主張した。 ハリソンが亡くなったすぐ後に、議会で議論が継続中であったのにも拘わらず、タイラーは宣誓を行い、10日以内にホワイト・ハウスに移った。 大統領としての資格に疑念を残さないために、1841年4月9日、タイラーは選挙で選ばれた大統領と同じく公衆の面前で就任演説を行った。 タイラーは自らがハリソンの陰に立つことに甘んじないことを国中に示した。 それはまたクレイを代表とするホイッグ党の指導者の従順な召使にはならないという警告であった。 タイラーは積極的かつ断固たる行動をとることによって、明確な憲法の規定がない中で、臨時の大統領が選挙で選ばれた大統領と同じ地位を享受できるという前例を打ち立てた。 下院ではタイラーを「前大統領の死亡によって大統領職の権限と義務が移り属する副大統領」と通信で公式に呼称する動議が提出されたが、圧倒的な票数で否決された。 それは議会がタイラーの主張を黙認したことを示している。 大統領であれ、大統領代行であれ大統領の権限と義務を遂行する人物を疎外することによって政治的に得られることはほとんど何もなかった。 大統領と議会の対立 タイラーが大統領に就任することで直面した困難は継承にまつわる憲法的な疑念を超えるものであった。 タイラーの大統領昇任は政治的行き詰まりを生み出した。 タイラーは、元民主党員であり、ホイッグ党の指導者が唱導するナショナリスト的な観点と意見を異にする一派を代表していた。 アメリカの政党政治でよく見られる慣習として、タイラーの指名は南部の州権を重視する一派への妥協策であった。 この場合はそうした妥協策が裏目に出た。 タイラーはハリソンの死後、積極的に大統領の権限を行使し、州権を尊重し、ホイッグ党の指導者が推進するアメリカ体制の実現を脅かした。 タイラーはヴァージニア決議で示された州権の原理を主張し、連邦政府が僭取した権限を剥奪することが自らの使命であると信じていた。 多くのホイッグ党の国内政策に反対したために、タイラーはジャクソンを除いてこれまでの大統領よりも数多くの拒否権を行使した。 1841年、タイラーはジャクソンが葬った第2合衆国銀行に似た2つの連続する法案に対して拒否権を行使した。 タイラーが2回目の拒否権を行使した後、ホイッグ党の指導者の怒りは爆発した。 それは大統領選挙で勝利した後も、自らの政策を実現できないホイッグ党の苛立ちを示していた。 タイラーの人形が国中で焼かれ、暗殺を仄めかす手紙が何百通も届いた。 閣僚はウェブスター国務長官を除く全員が辞職した。 民主共和党の時代のように国務長官が大統領の後継者となることを想定してウェブスターはさらに1年半、タイラーと協調しようとした。 もしウェブスターが、タイラーによる新しい閣僚の指名を阻む企みを支持するように求めるの圧力に抵抗していなかったら、タイラー自身が辞任を余儀なくされたかもしれない。 銀行問題をめぐる争いはタイラーとホイッグ党の指導者の間の争いの始まりにすぎなかった。 1842年の関税法案に対するタイラーの拒否権の行使によって、史上初めての大統領弾劾の試みがなされることになった。 タイラーの拒否権は覆され、史上初めて大統領の拒否権が覆された例となった。 タイラーの積極的な拒否権の行使は、大統領は議会に従属するべきだというホイッグ党の理念と相反する行為であった。 クレイは、単純過半数で大統領の拒否権を覆すことができるように憲法を修正するように提案している。 こうした対立によってタイラーはホイッグ党を放逐された。 そのため引き継ぎの大統領ではなく、自ら選挙で勝利して任期を獲得したいというタイラーの願いは打ち砕かれた。 ドアの乱 タイラーは州権を尊重していたが、ロード・アイランド州で起きたドアの乱に介入した。 ロード・アイランド州は独立以来、植民地時代に授与された特許状を憲法として採用していた。 その特許状によって約5,000人の土地所有者が参政権を独占していた。 そうした状況に不満を抱いた人々は州議会を無視して1841年10月に憲法制定会議を開催し、白人成人男子に選挙権を拡大する憲法を採択した。 新しい憲法は人民投票にかけられ圧倒的な多数で批准された。 1842年4月、トマス・ドアが知事に選出され、新政府を樹立した。 その一方で従来の特許状に基づく旧政府はドアの新政府を反乱分子であると宣告し、民兵を召集し、全州を戒厳令下に置いた。 タイラーは新旧両政府からの訴えを聞いて、旧政府が合法的な政府であり、必要であれば武力を行使してでも支持すると声明した。 新政府側は州武器庫の奪取を目指して蜂起したが失敗した。 ドアは反逆罪で有罪となった。 旧政府は勝利を収めたが、さらなる内乱の発生を恐れて憲法修正会議を開催し、選挙権の拡大を認めた。 ウェブスター=アシュバートン条約 タイラー政権はウェブスター=アシュバートン条約を締結し、メイン州とカナダのニュー・ブランズウィック州の現在の境界を定めた。 それによりアルーストゥック戦争が起きた原因が解決された。 約768万エーカーの係争地域のうち約448万エーカーをアメリカは獲得した。 またウェブスター=アシュバートン条約によって東海岸からロッキー山脈に至るまでの国境線が調整された。 さらに同条約は、暴力犯罪や通貨偽造などについて逃亡犯罪人の引渡しについて規定し、奴隷貿易の抑圧に協力することを取り決めた。 テキサス併合 1844年4月、アメリカとテキサスは併合条約を結んだ。 しかし、奴隷制度の拡大に反対するホイッグ党議員が中心となって上院でテキサス併合条約の批准を阻んだ。 またホイッグ党が支配する北部の州議会は、外国の併合は違憲であり、連邦の自由の権利に対する侵害であるという決議を採択した。 それに対して民主党の支配下にある各州議会はテキサス併合を求める請願を連邦議会に行った。 その中でもサウス・カロライナ州の過激派は、もし併合が失敗すれば、南部諸州は連邦から脱退してテキサス共和国と合体すべきであると主張した。 条約の批准に失敗したタイラーは議会に両院共同決議を求めることを考えついた。 条約の批准には上院の3分の2の賛成が必要であるが、両院共同決議は両院の単純過半数のみで可決される点に目をつけたのである。 その結果、議会は両院共同決議でテキサス併合を認めた。 タイラーは任期が終了する3日前に両院共同決議に署名した。 これは国際条約が条約の批准ではなく両院共同決議で発効した最初の例である。 しかし、タイラーのこうした措置は違憲性の疑いがあることは確かである。 タイラーは任期の最後の日に、特使をテキサス共和国大統領に派遣して、テキサス共和国の同意が得られれば連邦加入を認めると通告した。 テキサスはタイラーの申し出に即座に同意した。 結語 タイラーは初めて副大統領から大統領に昇格することで継承の先例を確立した。 また拒否権を行使して議会を主導するホイッグ党と対立した。 それは憲法上、大統領が議会の意思に抵抗できることを示した。 しかし、タイラーはホイッグ党の支持を失ったために大統領候補指名さえ得ることができなかった。

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John J. Tyler Arboretum

ジョン タイラー

百年戦争下の財政危機 1337年、イングランド王のフランス側領地アキテーヌ公領の臣従礼を巡る対立から始まった百年戦争は序盤こそイングランド王エドワード3世とその子エドワード黒太子の活躍で優位に進めたものの、1370年代に入ると、フランス王シャルル5世と名将ベルトラン・デュ・ゲクラン元帥の活躍で征服地のほとんどを喪失する一方、戦費ばかりが増大してイングランド王国は財政危機に瀕していた。 エドワード3世は百年戦争の戦費を度重なる臨時課税と羊毛取引の際の関税、および大商人からの借入に頼っていたが、治世末期の財政・政治危機はこれらが限界を迎えたことにあった。 1375年に英仏間で休戦が結ばれたものの休戦明けにはカスティーリャの参戦など軍事情勢の悪化が著しく、戦時体制確立のため行政機構は大きくならざるを得ず、また愛妾アリス・ペラーズへの浪費など、宮廷費も拡大していた。 羊毛生産は1370年代に入って大きく減少傾向を示していたから、自ずとさらなる重税を課さざるを得ない。 1376年の議会では愛妾アリス・ペラーズや侍従長・宮内府長官ら閣僚の弾劾・追放、および三年間の関税徴収などが決定された。 イングランドの民生は著しく疲弊していた。 1348~1349年にヨーロッパ全土で猛威を振るった黒死病は、地域によって差があるが、イングランドでは概ね30パーセントから45パーセントの死亡率となり、その後も1361年、1369年、1375年と繰り返し襲来して、イングランドの農村を壊滅状態にした。 労働力の著しい減少は、当然労働賃金の上昇や労働者の離散につながるが、これを恐れる大土地所有者の求めに応じて、1351年、労働者の移動の制限と賃金の凍結などを定めた労働市場を規制する法を制定した。 このような慢性的な財政問題を残して、1377年、エドワード3世が亡くなり、王太子エドワード(黒太子)も前年に亡くなっていたため、弱冠10歳で孫のリチャード2世が即位することになった。 人頭税の導入と庶民の不満 戦局は引き続き悪化の一途を辿っていた。 1377年から1380年まで、フランス軍の攻勢の前にブルターニュの諸要塞が次々陥落し、アルフルールから撤退し、ナント攻略に失敗し、サン・マロの奪還は適わず、ボルドー防衛に苦心させられ・・・と、軍事行動はことごとく失敗した。 それでも止めるに止められないのは諸侯の意見の大勢が戦争継続だったからである。 彼らは戦功による報酬や身代金の獲得、略奪など戦争で得られるであろう利益を強く求めていた。 戦費徴収のため1377年、1379年と二度の人頭税が課され、1380年には三度目の人頭税が承認されたが、この際、『議会は、新しい人頭税の必要性に疑問を呈しただけでなく、非常に稀なことだが、この課税水準は「耐えられないもの」、すなわち人々が担うことのできる以上のものだと述べた。 』(エドマンド・キング,294頁) 『第一回では十四歳以上の男女一人当たり四ペンス、第二回では十六歳以上の俗人男女に各人の経済力に応じてひとり四ペンスから十マルクまでが課された。 第三回では十五歳以上の男女一人当たり一シリングが課され、一徴税区内一人一ポンド以内で富者が支払不能者の負担分を代納することが認められてはいたが、平均税率は第一回の三倍であり、第二回にもまして多数の脱税者がでた。 』(城戸毅,379頁) 未曽有の疫病と飢饉で明日をも知れない苦しい生活、崩壊する共同体、少ない労働人口、低水準で抑えられた賃金、追い打ちをかけるかのごとき増税に次ぐ増税、にもかかわらず政府はそれを実りない対外戦争に湯水のごとく費消し続ける・・・議会が「耐えられないもの」と懸念する通り、民衆の怒りが爆発することになった。 農民反乱の勃発 1381年5月20日、ロンドン北東エセックス州ブレントウッドで民衆が領主館の記録を焼き払った事件が前触れで、5月30日、議員のジョン・バンプトンが現地に到着して調査を開始すると、6月2日、これに反発して民衆が納税拒否者裁判の陪審員三人を殺害し、農民一揆が始まった。 同じころ、ケントのロチェスター城でも納税拒否者の解放を求めて農民が押し掛け、エセックスとケント両地域からロンドンへ向けて農民たちが向かい、各地からこの一揆集団に合流し始める。 反乱の指導者となったワット・タイラーの経歴は謎に包まれているが、従軍経験がある兵士だったという。 彼とともに思想的指導者となったのがヨークの司祭だったジョン・ボールである。 司祭を辞して各地を放浪し、『ゆくさきざきで支配層の腐敗堕落を指弾し、農民に立ち上がるようよびかけて歩いた。 一三六〇年代に破門されたが、これに屈せず身分や階級の撤廃と富の共有を説き、一揆の直前には政府に拘留されてケントの監獄にいた』(379頁)という。 6月12日、一揆集団はグリニッジ近くのブラックヒースに到着し、史上名高いジョン・ボールの演説が行われた。 『アダムが耕しエバが紡いだとき、誰が貴族だったのか』 6月13日、ロンドンに入った一揆勢にロンドン市民も加わって修道院を襲撃し、重臣ジョン・オブ・ゴーントのサヴォイ宮殿を焼き払い、監獄が襲われて囚人が解放された。 『彼らは社会の変革を求め、全ての貴族制度の廃止を欲していたが、国王に対して不忠をなしているわけではなく、争いの相手は国王ではないと主張していた。 それどころか、彼らは揃ってリチャードに対して忠誠を誓っていた。 彼らが見るところ、リチャードは君側の奸に囲まれており、そこから直ちに救い出される必要があった。 事態の核心には困難があり、必要とあらば国王に直接申し入れ、一筆ふるって事態を収束せしめるというのが彼らの意図するところであった。 』(トレヴァー・ロイル,41頁) リチャード2世とワット・タイラー リチャード2世とワット・タイラーの面会 弱冠十四歳の少年王リチャード2世は、この難局で目覚ましい判断力と勇気を示した。 6月14日、ロンドン塔を出たリチャード2世はロンドン市長サー・ウィリアム・ウォルワースを供にして農民反乱軍との面会に臨んだのである。 反乱軍は農奴制の廃止や自由契約、農民の移動の自由、農地の固定賃借料の制定などを求め、リチャード2世はこれらの条件を受け入れ、追って文書で確約した上で、反乱に参加した農民たちを罪に問わず、故郷に帰れるよう取り計らうことなどを約束して、両者は合意に至った。 ところが、事態は思わぬ方向に向かう。 同じころ、暴発した民衆がロンドン塔を襲撃、人頭税施行の責任者だった尚書部長官カンタベリー大司教サイモン・サドベリー、大蔵卿サー・ロバート・ヘイルズらを捕らえ処刑した上で首級をロンドン橋で晒すという事件が起きていた。 6月15日、スミスフィールドでリチャード2世とワット・タイラーの会談が取り行われたが、紛糾した。 ワット・タイラーは国王に礼を行わず対等の者として挨拶した上で、教会所有地の没収などより過大な要求を行ったという。 両者の議論が平行線をたどる中、行動を起こしたのが後ろで控えていたサー・ウィリアム・ウォルワースである。 ウォルワースは会談の場に馬で乗りこむと、ワット・タイラーを刺殺してしまった。 同時代の年代記作家らが記録するところによれば、圧倒的多数の群衆が暴発して命の危険すらある中、動揺する群衆を前に、リチャード2世は馬上からこう言ったという。 『朕は諸君らの指導者だ。 朕に続け』(トレヴァー・ロイル,44頁) 直後、武装兵が到着して群衆は解散させられた。 交渉は決裂、リチャード2世は融和から武断へ一気に転じる。 7月2日、リチャード2世は6月14日の約束の撤回を宣言し、ジョン・ボールら首謀者が逮捕、処刑された。 十四歳の少年王は以後、有力諸侯の集団指導体制を解き、親政に乗り出す。 彼が着手したのが百年戦争の終結であった。 1389年のレウリンゲン休戦協定は以後更新され続け、1396年、二十八年間の長期休戦条約が締結された。 彼の統治が続く限り、百年戦争は五十年で終わっているはずだった。 主戦派諸侯を抑えるため、側近政治を行って王権の強化に乗り出し、有力諸侯の追放・粛清が繰り返される。 一方、人頭税を始めとした諸課税は撤廃され、対フランス戦争という重荷が取り去られたことで、彼の治世を通して世情は安定していきつつあった。 ところが、1399年、追放されていた有力諸侯ヘンリ・ボリングブロク、後のヘンリ4世の反乱によって、彼は王位を追われ、三十二年の短い生涯を終える。 彼は皮肉にも、専制的支配を敷いてプランタジネット王朝250年の歴史を終わらせた暴君として名を残すことになったが、近年ようやく再評価されてきている。 その後、ヘンリ4世の簒奪によって苛烈な内戦が始まり、内戦終結後、後を継いだヘンリ5世は再びフランスへと牙を剥くのであった。 「ワット・タイラーの乱」の意義 中世ヨーロッパ世界で争議の原因となってきた身分制度・労働・地代・課税・公共圏・裁判などの諸問題が、疫病や戦乱などの危機的状況や経済的混乱、制度的限界を迎えたことで、十四世紀から十五世紀にかけて集中的、暴力的な農民反乱という形態で発生した。 『野心的な大衆運動は、その志を完全に実現することはできなかったが、段階的な変化の要因として、究極的な到達への道を支えた』(H,R,ロイン,376頁) ワット・タイラーの乱は同時代のフランスでおきたジャックリーの乱(1358年)などとともに、中世後期を代表する農民反乱である。 特に農奴制の廃止や労働権の保障、自由契約、特権身分の撤廃など、中世的な社会制度の根本的改革を求めた点で特筆される。 参考書籍 ・青山吉信・飯島啓三・永井一郎・城戸毅編著『』山川出版社,1991年) ・朝治 啓三,渡辺 節夫,加藤 玄 編著『』(創元社,2012年) ・森護著『』(大修館書店,1986年) ・世界史小辞典編集委員会 編『』(山川出版社, 2004年) ・エドマンド・キング著(吉武憲司監訳)『』(慶應義塾大学出版会,2006年,原著1988年) ・トレヴァー・ロイル著(陶山昇平訳)『』(彩流社,2014年,原著2009年) ・ヘンリー・R・ロイン編(魚住昌良監訳)『』東洋書林,1999年,原著1989年.

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ワット=タイラーの乱

ジョン タイラー

人間の平等を説き、封建社会を批判し、農奴の解放を主張したかれの教えは、イギリスの農民に広がり、の引き金となった。 気狂い僧とされて捕らえられていたが一揆軍によって救出され、その先頭に立って農民を励ました。 反乱軍が離散した後、捕らえられて処刑された。 ジョン=ボールの説教 当時の記録をもとにしたジョン=ボールの説教を復元すると、次のようになる。 (引用)『皆の衆よ、イギリスでは、財産が共有にならない限り、また、農奴も殿様もなくなって皆が平等にならない限り、世の中がうまく行く道理はないし、また決してうまく行かないだろう。 そもそもなぜ、わしらが領主と呼んでいる連中は、わしらよりえらい主人なのか? わしらは皆、ただ一人の父とただ一人の母、アダムとイヴから出ている。 何を根拠にして彼等はわしらの上におさまって領主づらをしていられるのだ。 その理由といえば、自分らの消費するものをわしらに耕し作らせるからというほかには無いではないか。 彼等は天鷲絨を着、わしらは粗末なものを着ている。 彼等には葡萄酒があり香料があり上等のパンがある。 わしらには裸麦と糠と麦藁しかない。 しかも水を飲んでいるのだ。 彼等は善美を凝らした館で悠々と暮しているのに、わしらは畑にあって雨と風に曝されている。 しかも彼等の生命の糧は、とのわしらが耕してつくり出さなければならないのだ。 ・・・・さあ、行って王様に会おうではないか。 王様は若い。 わしらが農奴となって束縛されているととを、王様に陳情しよう。 どうにかしてもらいたい、でなければわしらが自ら救済の道を講ずるから承知してもらいたいと、王様に申上げようではないか。 』 <アンドレ=モロワ『英国史』水野成夫・小林正訳 上 新潮文庫 p. 245>.

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