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【悲報】パチYouTuber「いむちゃんねる」が実践撮影していた「ティガ一宮千秋店」が突然の閉店・店長はSNSアカウントを削除して失踪してしまった模様

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どうも、駿 はやお です。 あれ?くらげPのアルバムの感想は?昨日は明日投稿するって言ってたよね? って思ってる方もいらっしゃるかもしれません。 いや何回やるんだこのクダリ… あの、本当申し訳無いんですけど、延期しすぎなのは本当反省してるんですけど、本当アレなんですけど… 今回は急遽予定を変更しまして今日投稿されたMARETUさんの新曲の感想を書きます! 興奮しすぎてマジで今日書きたくて!!!明日こそは!明日こそはくらげPのアルバムの感想投稿するから!すまーん! コウカツ ボカロP:MARETU ボーカル: MARETUさん新曲きたあああああああああ!!!!!! もう結構長い間ぼくの一番好きなボカロPであるMARETUさんが一切の予告無しに新曲を投稿しました。 もう嬉しすぎますよコレは。 しかも今回のコウカツ、今年の1発目に投稿されたトウテツとタイトルが似ていてその時点でアヒャ〜!って感じでした。 要するにテンションが上がったってことですね。 で、聴いた結果… なんだこのやべー曲は… いやもう最初の笑い声みたいなのが流れた時点で今回すごいぞって雰囲気を感じ取りましたよぼくは…まあいつもすごいんですけども… で、サビですよサビ!こ、これはまさか…!スクラマイズやスヂで何百回と聴いたアレじゃないか…!? こういうの大好きです。 伏線回収じゃないですけどそういうの。 もうほんと大興奮ですよ…。 そんでもってサビだけじゃない!動画時間2:15からのイラッシャイマセェタイムがヤバイんですよ!この異常でクセになる感じ…!これは実際聴かなきゃ分からないと思います。 聴いてください頼む〜! そして2:53〜落ち着いた感じからのラスサビじんわ〜り盛り上がるのが堪らない…!鳥肌です鳥肌…! 動画もイラストはシンプルながらすごく凝ってて不気味で…やっぱ良いなあ〜。 あとMARETUさんのミクの調教大好きなんですよね。 人間っぽすぎず機械っぽすぎず。 大好き…。 連なった外野に釘を打て 集まった好奇の目を抉れ 群がったの首を刎ねれば 嬉しからずや そんなわけで本日の記事は終わりです。 コウカツ、是非聴いてみてください。 MARETUさんの曲をあまり聴いたことがない方は他の曲を聴いてみることもオススメします!どの曲もマジで最高だから! ではまた〜。 <本日のオススメボカロ曲> 空中分解 ボカロP:すりぃ ボーカル: イラスト:真ひろ ムービー、ロゴ:まめでん ベース:ま子 で話題を集めたすりぃさんの初投稿曲です。 1分間という短い曲ですが1発で心を掴まれました。 中毒性が高い! 動画のクオリティもすごいんです。 少しでも気になったら1回再生してみてほしいですね。 初投稿なのにすでに結構伸びてまして、2つめの曲も注目ですね!楽しみです。 hayao1209hayao.

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、宮﨑 駿 別名義 秋津 三朗(あきつ さぶろう) 照樹 務(てるき つとむ または てれこむ) 生年月日 1941-01-05 (79歳) 出生地 、 国籍 血液型 O型 職業 ジャンル 、 活動期間 - 配偶者 (妻) 著名な家族 (義父) (長男) (二男) (義甥) 事務所 公式サイト 主な作品 アニメーション映画• 『』(・)• 『』(脚本・)• 『』(・脚本・監督)• 『』(原作・脚本・監督)• 『』(原作・脚本・監督)• 『』(脚本・・監督)• 『』(原作・脚本・監督)• 『』(原作・脚本・監督)• 『』(原作・脚本・監督)• 『』(脚本・監督)• 『』(原作・脚本・監督)• 『』(原作・脚本・監督) 実写映画• 『』() テレビアニメ• 『』()• 『』(演出) 漫画• 『』(作)• 『』(作)• 『』(作) 絵物語• 『』(作)• 『』(作) 小説• 『』(原作・絵) 音楽• 『』()• 『』(作詞)• 『』(作詞)• 『』(補作詞) 受賞 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 生涯功労賞 『』 最優秀作品賞 『』 『』 最優秀アニメーション作品賞 『』 『』 話題賞 『』 会長功労賞 作品賞 『』 特別賞 『』 『』 その他の賞 アニメ振興への貢献に対して 長編アニメ作品賞 監督賞 脚本賞 「」 長編アニメ脚本賞 「」 『』 『』 第34・39・41・43・56・63回 第43・52・56回日本映画大賞 第44・47・52・56回毎日映画コンクールアニメーション映画賞 第52・56・59回毎日映画コンクール日本映画ファン賞 第56回毎日映画コンクール監督賞 第2・6回作品賞 第4回日本アニメ大賞特別賞 第6回日本アニメ大賞脚本賞 第6回日本アニメ大賞主題歌賞 第16・20回メディア部門 第26回星雲賞コミック部門 第23回大賞 第12回 第13・26回監督賞 第22回報知映画賞特別賞 第39回文部大臣賞 第39回芸術選奨芸術作品賞 第5・10回 第14回日刊スポーツ映画大賞作品賞 1993年長編作品部門 第1・5回アニメーション部門大賞 第5回文化庁メディア芸術祭特別賞 第37回観客賞 2007年スクリプト部門賞 第2回 宮﨑 駿(みやざき はやお、(昭和16年) - )は、の、、。 別名として 秋津 三朗(あきつ さぶろう)、 照樹 務(てれこむ)がある。 映画などのでは 宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。 、、()館主。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年4月) 出身。 、名誉市民。 アニメーション制作会社に映画監督として所属し、4月より取締役。 また、自身が企画開発した()の館主である。 個人の事務所に、株式会社があった。 主に宮﨑の関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていたが、2016年スタジオジブリにし解散した。 としても知られている。 来歴 [ ] 生い立ち [ ] 数千人の従業員を擁した一族が経営するのを務める一家の4人兄弟の二男として、で生まれた。 幼児期にに疎開、小学校3年生まで暮らしていた。 1950年、小学校4年に進級時に東京都に転居。 幼少時は身体が弱かった ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。 当時の進学校である在学中の3年生の時に観た製作『』に感動し [ ]、にも関心を持つようになる。 学生時代に佐藤文雄のアトリエでデッサンを独学で学び、のような印象派に影響されている。 アニメ業界での活躍 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年4月) に進学し、サークル(児童文化研究会)に所属する。 幾つかのを企画しつつ、を志し漫画を描き続けていたが 、アニメーションの世界へ進む事を決断する。 を卒業し、としてに定期採用で入社し、動画などを手がける。 当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観た製作長編アニメーション映画『』に強い感銘を受け 、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。 『』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。 結成間も無い労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。 1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。 ・・らと共に3年がかりの大作、『』(1965 - 1968年)を作り上げた。 1971年、高畑勲、と共に東映動画を退社し、新企画『』を制作するためにに移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。 その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『』で宮崎にとって事実上の初監督の仕事を引き受ける。 名義上は演出。 半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくはの項を参照)。 「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。 高畑、小田部とともに(のちの)に移籍し、『』の準備に入る。 1974年TVアニメ、『』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。 この作品は最高平均が26. 未来少年コナン [ ] 、『』()で監督を務める。 名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。 毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の、レイアウトを描いた上、スタッフの作った・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。 カリオストロの城 [ ] 詳細は「」を参照 その後、リニューアルされ人気を博していた『』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受ける。 その為、(内)に移籍し、映画『』()で映画作品の監督デビューをした。 宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた。 しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、アニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的にはに及ばなかった。 むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。 しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。 この直後には、『』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。 後の『』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。 『カリオストロの城』制作時に、当時『』副編集長で取材に訪れたと出会っている。 宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。 『ルパン三世 PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。 宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいたが監督を務めることになった(詳細は「」参照)。 風の谷のナウシカ [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年4月) テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、との間を行き来したが、企画への疑問から降板。 この時期、『』『』『』『』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。 宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。 しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。 『コナン』の時より宮崎に注目していたの『アニメージュ』誌編集長・は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。 さらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。 企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だったの社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し 、宮崎の弟が勤務するがこれに乗る形でプロジェクトが結成され、にアニメーション映画として製作・公開された。 映画『』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった。 スタジオジブリ設立 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年4月) 1985年に徳間書店の出資を得てを設立し、以後の制作の基盤とした。 の『』との『』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。 また1986年頃、宮崎が推薦したによる劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている。 『』(1989年)は、当初は監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。 本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。 これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。 『』(1992年)は、もともとの機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。 に公開された『』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『』が持っていた日本の映画を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。 宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。 に発表した『』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円 と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。 日本国外からの評価も非常に高く、翌年のでは日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初のを受賞し、には を受賞した。 『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。 公開の『』は、もともと監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。 公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。 さらにのオゼッラ賞、最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。 には、において優れた世界的映画人に贈られるを受賞。 には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。 宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。 に、新作『』を公開。 公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。 『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。 しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。 今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。 最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。 マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にによって2度、「」にて密着ドキュメントが作られた。 アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。 また、2008年11月20日のに招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。 には、に選ばれた。 に、自身の『』を原作とした、アニメーション映画『』を公開。 同年、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長が発表。 長編監督引退後 [ ] 2013年、を舞台にした漫画を執筆中であると『』2014年1月号で発表された。 しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。 予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。 、『思い出のマーニー』を最後の作品として、スタジオジブリの制作部門が解体される。 三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた。 同年11月、第87回 を受賞。 日本人としては以来2人目の快挙となる。 同時受賞となった女優のは長年のファンで、会えたことに感動した。 同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。 のの本殿で奉納された。 、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『』を制作中であることを明らかにした。 宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。 制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はが担当している。 2015年5月8日、におけるの移転計画に反対するの共同代表に就任した。 同年7月13日、の要請に応じてにあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなくに負担が集中している状態そのものを批判し、かつてが提案した県外移設の実現を強く求めた。 引退撤回 [ ] 午後9時からで放送された「終わらない人 宮崎駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。 書類の内容はで隠されていたが、「完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。 3か月後の、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった。 5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートした。 10月28日に早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『』であると明かされた。 、高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。 略歴 [ ] 、との対談にて• - 、東京府東京市に生まれる。 同年生まれのアニメ監督に、、、、がいる。 - 、に遭遇。 - 杉並区に転居。 、、卒。 - 政経学部卒業。 なお、同年の政経学部卒業生には、(元)、(会長、元NHK解説委員長)、(元社長)、(元社長)らがいる。 - 東映動画の第2代に就任。 なお、初代書記長は大塚康生。 - 同僚のと結婚。 - 長男(・(財)理事)誕生。 - に自宅を移す。 次男(・木口木版画家)誕生。 - 、と共に(現)に移籍。 - 高畑勲、小田部羊一と共に(後にに改組)に移籍。 - 『』で演出家に転向。 - の子会社に移籍。 - 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。 日米合作劇場アニメーション映画『』の準備に携わったが企画への疑問から製作から降り、、テレコム・アニメーションフィルムを退社。 - 4月、個人事務所を設立。 - を設立。 - 東京都民文化栄誉章を受章。 - 保全連絡協議会を結成し、会長に就任。 - スタジオジブリを退社し、「」を設立。 第26回・生涯功労賞、文化賞、賞を受賞。 - スタジオジブリに所長として復帰。 - 第3回を受賞。 - を創立し、初代館主に就任。 第49回賞を受賞。 - 、国家功労賞、市勲章を受章。 『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。 - 民栄誉賞を受賞。 『』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。 - 12月、にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。 - より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。 第62回・、賞を受賞。 『』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。 - 2階・外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。 『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。 - スタジオジブリ社内『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。 東京都名誉市民に選出。 長男に息子が生まれ、初孫を授かる。 - 第2回を受賞。 『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。 - 東京都の名誉市民に選出。 - 9月、長編映画製作から引退すると発表。 - 第87回 を受賞。 - 共同代表就任。 - 2月、長編映画制作に復帰すると発表。 作風 [ ] 子供の視点 一貫してに向けて作品を作り続けている。 これについて「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている。 を愛読し、「は基本的に子供の物」と公言。 宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り 、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時には、ガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している。 スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた。 主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからのとのこと。 同性だと自身と重ね合わせすぎて、悲観的な物語にしかならないとも語っている。 最も本人の趣味が反映された『』に関しては製作後も「でくだらない物を作ってしまった」とに囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている。 脚本なしでの制作 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、なしでと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。 これは、周囲から「日本アニメーション界の」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。 また漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。 ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。 本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。 軍事マニア ・マニアとして知られ、から前の・鎧兜や兵器(、など)に造詣が深い。 作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。 この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊』誌の『』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。 連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。 漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている。 2009年から2010年にかけて『』誌にの開発者であるの若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。 また、の活躍との戦果を記録した、戦史家(市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている。 ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。 また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。 声優の起用方針 の新聞『』でのの中で「日本の女性は、男性を惹きつけるコケティッシュなを持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている。 作品名の共通点 「」も参照 監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋 の神隠し、崖の上 のポニョなど、平仮名の「」が含まれている。 ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』 を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない。 作風の変化 『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕は、もう既成ののよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。 高畑勲との関係 [ ] アニメーション作家・映画監督のは(現・)時代の先輩であり宮﨑に多大な影響を与えた。 東映動画のにとして従事した際、高畑は副委員長として宮﨑を支え交流を深めていった。 高畑の初監督作品・映画『』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 )として大抜擢された。 含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なで魅せる高畑の演出も宮﨑にとっては憧れの的だった。 (共同演出)、(高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、、(高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した。 『』・『』では高畑はを務める。 宮崎はには疎いため、音楽的知識が豊富でが弾けて自らも行う高畑は献身的にサポートした。 ハイジや三千里で共に仕事をした(絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。 高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。 そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。 でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」。 その後、やの考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。 互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮﨑の畏敬の念は特別だった。 『』の制作の際、宮﨑は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。 これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑さんに教わったためである。 ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。 宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている。 宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。 でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある。 アニメ界への意見 [ ] 日本のアニメ界への危機感 以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けており、1985年2月号のアニメ雑誌『』の、との対談や、『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見にて 「が撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子が振り回すような作品は、いいかげんやめてほしい」と発言していた。 2002年、の金熊賞受賞の際、で「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、のなど、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず、のアニメーションファンを含めて、様々な反響があった。 手塚治虫の評価 、が亡くなった時、漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語(『』)の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。 同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した。 これは手塚が「」などで費用が足りず絵の枚数を大幅に減らしたことなどが原因だと考えられる。 それ以降は、手塚について語る事はほとんど無かったが、に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。 その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。 これで太刀打ちできると」と述べた。 宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。 また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた。 この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった。 しかしその後、宮崎は手塚に対して「年寄りが言うことはありません」とも発言しており、アニメ黎明期の手塚の活躍を容認するような発言もしている。 「」も参照 ディズニーの評価 前述の手塚治虫に対する批判の1年程前に、に対しても批判をおこなっている。 「ぼくはディズニーの作品がキライだ。 入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。 ぼくには観客蔑視としか思えないのである」。 その一方で、やスタジオジブリの社長を、ディズニー日本法人の社長が務めるなど、ディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。 スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では、「芸の力」「本当に驚きましたね」「尊敬の念は消えません」など、賛辞を述べている。 政治的・思想的スタンス [ ] 彼の発言には以下のようなものがあるが、一部の発言は国内で非難の対象にされている。 反戦 [ ] 著名なミリタリーマニアである一方、現実の行為には断固として反対している。 大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。 作品中では『』『』『』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。 しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。 『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは 「方丈記私記」をイメージしたものだという。 に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「に湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他 、同時期に製作した『』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという。 第二次世界大戦 『』製作時には作品テーマもあって、における日本の戦争責任について積極的に発言している。 「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。 しかし後の世から断罪するのは簡単。 一方で、零戦を作った優秀な技師としてを祭り上げる動きもあります。 いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」 としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。 思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。 僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」 「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」 と述べている。 同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている。 この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって『最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?』と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。 だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。 ただ、それ以上は『ちょっと待て』っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている。 こうした姿勢は当事者国の一つである諸国で広い賞賛を受けており、中国の「」は(国営)を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている。 韓国でも『』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり、「日本の生ける良心」と賞賛されている。 憲法改正 2013年にが加熱した際、スタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「」で現状での改正には反対声明を行った。 宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」を寄稿、の改憲に反対の立場であることを闡明にした。 寄稿文の中で、日本国憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている。 特にとについては「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。 おかしいけれど、そのほうがいい。 国防軍にしないほうがいい。 」と述べ 、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないから、すぐ手玉に取られてしまいます。 もしになるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている。 同寄稿文では、現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している。 時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。 隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。 」とし、で行われた海外派遣については「に行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と評価している。 またを先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためには、ちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている。 集団的自衛権 憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に憲法解釈を用いたの整備がで推進されると、でので、を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した。 現行憲法はとその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。 いわゆる「」であるという批判に対しても、1928年の(戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ、決して『押し付け』でもないと述べている。 生命倫理・反差別 [ ] 2016年に東京都港区で開かれた「の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にあるを訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。 作品を真正面からやらなければならない」と語った。 左翼・社会主義 [ ] 学習院大学時代に社会主義や共産主義などの運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。 東映動画入社の志望動機書には「米帝に対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたとが著書で述べている が事実かは不明。 実際にらと入社後に激しい組合活動を行っている。 宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながらなどの理論書は読んでいないと率直に述べている。 宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。 ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている。 ただし後年に「的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や 、「今はがいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている。 思想転向があったとする評価 その後も的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期のに起きたおよびに大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある。 思想転向はしていないという評価 しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。 宮崎はもともと統制的・強権的なには懐疑的で、ソ連や中国の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカも嫌いです。 日本も嫌いだけどね」と発言している。 での会見で中国のの語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが 、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。 周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている。 冷戦崩壊直前のにはと対峙するの独立運動で「」という用語が使用されている事に触れながら、「がっていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。 の現状はどうなんですか?が健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている。 天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている。 『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きたに触れ、民主化によるの台頭に絶望感を覚えたという。 そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後のになるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している。 宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている。 反原発 [ ] スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で [ — ]、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。 表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督はで小さなデモをした」と書かれてある。 6月11日は同年3月に発生したのに関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。 この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、、、、による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。 座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちになどのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている。 また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている。 ナショナリズムへの批判 [ ] 2008年の講演で、日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した。 「世界の問題は多民族にある」とも述べている。 風刺画 [ ] をめぐる問題について、「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘。 その上で、他の文明が崇拝しているものを対象にすることは「やめた方がいい」と話した。 また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った。 また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「でのと同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した。 影響を受けた作家・作品 [ ] 20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、、映画『』、そしての監督作品、とりわけ『』を挙げている。 そのほかに、の『』、の『』、の『』、フリッツ・パペンハイムの『 The Alienation of Modern Man』といった本からも影響を受けたと述べている。 アーシュラ・K・ル=グウィン 「」も参照 の作家、の愛読者であり、とくに『』を何度も読んでいる。 様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機でのパリから、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡()まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。 サン=テグジュペリが当時危険だった乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。 その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「」「」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。 中尾佐助 「」も参照 宮崎駿手塚治虫の『』に大きな影響を受けた1人である。 」 第23話「黄金の大勝負! 」 1972年 フジテレビ トムス・エンタテインメント 絵コンテ 第26話「やったぞ! 赤胴真空斬り」 第27話「大暴れ! 真空斬り」 第41話「キリシタンの秘宝」 1973年 1973年 トムス・エンタテインメント キャラクター原案 全話 1973年 よみうりテレビ トムス・エンタテインメント 原画 第1話「ほえろ! バンババン」 1974年 1974年 フジテレビ 場面設定 画面構成 全話 1975年 フジテレビ 原画 第15話「古い帳簿」 1976年 フジテレビ 日本アニメーション 場面設定 レイアウト 全話 原画 第2話「ジェノバの少年マルコ」 1977年 第4話「ミルウォーキーのお月さま」 第5話「オスカーへの贈り物」 第6話「さようならスカンクたち」 第10話「はじめての探検」 第12話「本と1セント銅貨」 第13話「夏休みの第一日」 第14話「母のない子」 第15話「アリスと友達になれたらなあ」 第16話「楽しいパーティの夜」 第17話「ラスカルの冒険」 第18話「森で会った不思議な青年」 第19話「ラスカルとトウモロコシ」 第20話「スターリングの悲しみ」 第21話「あぶないラスカル」 第22話「森と湖と動物たち」 第24話「走れ走れぼくらのカヌー」 第25話「森で見つけた仔鹿」 第26話「森と湖の夏まつり」 第28話「檻の中」 1977年 日本テレビ トムス・エンタテインメント 脚本 絵コンテ 演出 第145話「」 第155話「」 1978年 日本アニメーション キャラクターデザイン メカニックデザイン 場面設定 演出 監督 全話 絵コンテ 第1話「のこされ島」 第2話「旅立ち」 第3話「はじめての仲間」 第4話「バラクーダ号」 第8話「逃亡」 第15話「荒地」 第16話「二人の小屋」 第17話「戦闘」 第18話「ガンボート」 第19話「大津波」 第22話「救出」 第23話「太陽塔」 第24話「ギガント」 第25話「インダストリアの最期」 第26話「大団円」 1979年 フジテレビ 日本アニメーション 場面設定 画面構成 第1話「マシュウ・カスバート驚く」 第2話「マリラ・カスバート驚く」 第3話「グリーン・ゲイブルズの朝」 第4話「アン・生立ちを語る」 第5話「マリラ決心する」 第6話「グリーン・ゲイブルズのアン」 第7話「レイチェル夫人恐れをなす」 第8話「アン日曜学校へ行く」 第9話「おごそかな誓い」 第10話「アン・心の友と遊ぶ」 第11話「マリラ・ブローチをなくす」 第12話「アン・告白をする」 第13話「アン・学校へ行く」 第14話「教室騒動」 第15話「秋の訪れ」 1980年 日本テレビ トムス・エンタテインメント 原画(Aパート担当) 第8話「恐怖の殺人合体ロボ」 テレビ朝日 トムス・エンタテインメント 脚本 第3話「小さなマーサの大事件!? 」 絵コンテ 演出 第3話「小さなマーサの大事件!? 」 第4話「ミセス・ハドソン人質事件」 第5話「青い紅玉」 第9話「海底の財宝」 第10話「の大空中戦! 」 監督 第3話「小さなマーサの大事件!? 」 第5話「青い紅玉」 第9話「海底の財宝」 第11話「ねらわれた巨大貯金箱」 2020年冬 NHK スタジオジブリ 企画 実写作品 [ ]• オーニソプター物語〜飛べ! ひよどり天狗号(出演)• (巨神兵)• (出演) その他の作品 [ ] 漫画・絵物語・イメージボードなど [ ]• 砂漠の民(秋津三朗名義)• 妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む)• 徳間書店文庫• 駆けろ二馬力 風より疾く(『』1989年12月号、『』2010年8月号、各)• 空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む)• 風の谷のナウシカ-宮崎駿水彩画集 徳間書店• もののけ姫 徳間書店• 飛行艇時代 「紅の豚」原作 (大日本絵画 1992年、増補改訂版2004年)• (大日本絵画 1992年、増補改訂版1997年)• 知られざる巨人の末弟• 甲鉄の意気地• 多砲塔の出番• 農夫の眼• 竜の甲鉄• 九州上空の重轟炸機• 高射砲塔• ship• 特設空母安松丸物語• ロンドン上空1918年• 最貧前線• 飛行艇時代• 豚の虎• 宮崎駿の妄想ノート(大日本絵画 2002年8月)• ハンスの帰還• 泥まみれの虎• 『』 ・作、宮崎駿・編、訳(児童書、、)• 『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作、金原瑞人・訳(岩波書店、3月)• 続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語• 風立ちぬ 宮崎駿の妄想カムバック(大日本絵画、2015年11月)、『』に連載 デザインワーク [ ]• TVCM『・ニューゴールド・ビデオテープ』の「 ワンダーシップ号」• TVCM『日立パソコンH2』の「 ポシェット竜」• 実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船• のシンボルキャラクター「 なんだろう」(TVCMのアニメでは演出も担当)• 「」のマスコットキャラクター「 かなべえ」• 「へようこそ展 通俗文化の王道」 展示漫画描き下ろし• のみたかモールのマスコットキャラクター「 POKI」• のシンボルキャラクター「 えどまる」• のシンボルキャラクター「 どれどれ」• 公式ファンクラブのマスコットキャラクター「 ガブリ」• 社屋外壁(上)の大からくり時計「 日テレ大時計」• 広島県福山市鞆町ののゆかりの宿「 御舟宿いろは」• のイメージキャラクター「 こきんちゃん」• のロゴ 題字 作詞 [ ]• 『』(『天空の城ラピュタ』主題歌)• 『』(『となりのトトロ』主題歌)• 『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)• 『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)• 『』 (『もののけ姫』 主題歌)• 『タタラ踏む女達』 (『もののけ姫』 挿入歌)• 『千と千尋の神隠し』イメージアルバム• 『神々さま』• 『さみしい さみしい』• 『 [ ]』• 『崖の上のポニョ』イメージアルバム• 『いもうと達』• 『ポニョの子守唄』• 『ひまわりの家の輪舞曲』• 『お母さんの写真』(CMソング) 著書(対談・インタビュー・共著も含む) [ ]• 『トトロの住む家』 (画文集/写真和田久士) (1991年)/増補改訂版 (2011年1月)• 『時には昔の話を』(との共著、絵本、対談) 徳間書店(1992年)• 『時代の風音』(、との鼎談) UPU(1992年)。 (1997年)• 『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集) 徳間書店(1996年)• 『教育について』(共著、インタビュー集) 旬報社(1998年)• 『虫眼とアニ眼』(との対談) スタジオジブリ(2002年)。 (2008年2月)• 文春ジブリ文庫(2013年11月)• 『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集) 岩波書店(2008年)• 『腰ぬけ愛国談義』(との対談)、文春ジブリ文庫 (2013年8月)• 『惑星カレスの魔女』()、(1987年)、(1996年)• 『真夜中の電話』()、徳間書店(2014年)• 『遠い日の呼び声』(ロバート・ウェストール)、徳間書店(2014年)• 『』()、岩波書店(2015年) 絵コンテ集 [ ] 劇場用アニメーション映画 [ ]• ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)• 風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)• 天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)• となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3(徳間書店)• 魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)• 紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)• 耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)• もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)• 千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)• ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)• 崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)• 風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店) テレビアニメーション [ ]• 名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!? して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年4月) 宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。 なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。 サイン・コサイン・シータ 大学時代の子供向け人形劇用の脚本。 舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。 上演は実現しなかった。 1971年頃、原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。 そのイメージは後に『』や『』で活かされている。 『幻の「長くつ下のピッピ」』がある(岩波書店、2014年10月。 高畑勲・小田部羊一共著、宮崎によるイメージとストーリーボードを収録)。 頭の上のチッカとボッカ Aプロダクション在籍中の1973年頃にとともに企画したテレビアニメ。 を主人公とし、彼らが人間のものを「狩猟」と称して勝手に持ち出すストーリーで、キャラクターもデザインした。 に楠部が持ち込んで好感を得るも、宮崎が当時は無名だった点に難色を示され、楠部が(当時は名)を原作にするという修正案を出したことで『』として実現し、宮崎の作ったキャラクター等は使用されなかった。 ユキの太陽 の漫画。 パイロットフィルムのみ製作された。 イメージボードは1993年に(後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。 ルパンの娘 1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。 主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。 ロルフ 1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。 イメージボードが作成されている。 舞台設定やデザインは『』の原型とも言える作品。 との合作の予定だった。 戦国魔城 1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。 イメージボードが作成されている。 ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。 1981-1982年、原作の『』の企画にのスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。 フリーになっている。 映画自体は1989年に公開されている。 風の谷の一日 1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。 徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。 アンカー 1980年代半ば、との対談で宮崎が提案した。 『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督、プロデューサーで検討されるが、企画段階で中止される。 宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。 しかし、美少女を出そうとする宮崎と、鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した。 この話は、若き日のにも製作依頼しているが、「未来少年コナンを実写でやろうとしている」として、庵野も辞退している。 アイアンポーク 1985年頃、「」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。 大東京物語 の漫画。 後に現代には合わないと判断している。 古代中国が舞台の原作の歴史小説。 構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。 押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。 東京汚穢合戦 宮崎が1997年、NHK番組『』に出演した時に語ったもの。 ゴチャガチャ通りのリナ 原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』 煙突描きのリン 架空の震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。 でそのプロットが見られる。 かなり具体的に構想され、約1年間の検討の末にボツとなった。 この物語のために作られたの『』が、後に『』の主題歌となり、主人公の「リン」の名は同映画の登場人物に再使用されている。 毛虫のボロ 長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。 長編化困難として『もののけ姫』の前に一旦ボツになったが、ジブリ美術館用の短編として完成した。 原作のSFファンタジー小説 ジョナサンと宇宙クジラ のSF小説 名探偵対 明治の文豪が出てくる探偵モノ。 ポルコ・ロッソ 最後の出撃 の続編 宮﨑駿版 宮崎は本作の古くからのファンであり、1980〜90年代に出版社および原作者に対し、二度映画化の打診を行い断られている。 その後2000年代に入り宮崎の映画が原作者にも知られることとなり、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と言わしめるが当の宮崎は既に本作に対する当時の情熱を失っており、紆余曲折の末宮崎の息子の吾朗によりされた。 鉄砲侍 を参照。 受賞歴 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2019年4月)• 第87回• 金のオゼッラ賞• 第26回 (功労賞)• 第30回 長編アニメ映画賞 監督賞 脚本賞 音楽賞• 第41回 長編アニメ部門脚本賞• 、 最優秀作品賞• 最優秀アニメーション作品賞• 会長功労賞• 第43回、第52回、第56回 日本映画大賞• 第52回、第56回、第59回 日本映画ファン賞• 第34回、第39回、第41回、第43回、第56回、第63回 、• 第44回、第47回、第52回、第56回 アニメーション映画賞• 第56回 監督賞• 第13回、第26回 監督賞• 第7回、第10回、第19回、第26回 日本映画部門 マネーメイキング監督賞• 第5回、第10回• 第10回 監督賞• 第14回 作品賞• 第39回 芸術作品賞 文部大臣賞• 第12回• 長編部門賞• 第2回部門賞 演出部門• 第7回部門賞 作品部門• 第1回、第5回 アニメーション部門大賞• 第68回、第71回映画批評家協会 最優秀アニメ賞• 映画批評家協会 特別賞• 第37回 観客賞• 第16回国際アニメーションフェスティバル 功労賞• 第9回映画祭・ベストアニメーション賞• アメリカSFファンタジー作家協会 SFWA (脚本部門)• 第8回ミンモ・ロテッラ財団賞• フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード特別表彰• 2009 第8回東京アニメアワード・アニメーションオブザイヤー・国内劇場部門優秀作品賞・原作賞・監督賞• 漫画家の殿堂• 関連文献 [ ] 書籍 [ ]• 『映画を作りながら考えたこと』(、1991年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2014年)、• 『映画を作りながら考えたことII 1991~1999』(、1999年)、• 『作画汗まみれ』(徳間書店(増補版)、2001年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2013年)、• 『リトル・ニモの野望』(、2004年)、• 『宮崎駿の原点 母と子の物語』(、2002年)、• 『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』(、2004年)、• 『映画道楽』(、2005年/角川文庫、2012年)、• 『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(、2008年、新版2014年)、• 『ジブリの仲間たち』(、2016年)、• 『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』(、2019年)、• 『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、• 久美薫『宮崎駿の時代 1941〜2008』(、2008年)、 DVD [ ]• 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』(ホームエンターテイメント、2001年)• 『』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)• 『さんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)• 『世界・わが心の旅(2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)• 『宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。 』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)• 『宮崎駿とジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)• 『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2009年)• 『スペシャル 宮崎 駿の仕事』(ドキュメンタリー、NHK、2009年、DVD• 映画『』 ドキュメンタリー、2013年• 『終わらない人 宮崎駿』 ドキュメンタリー、NHK、2016年、DVD 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 会社がの下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。 宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮がを受け、親類の運転するで4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。 しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。 車はそのまま走り出した。 その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。 医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う。 この時期、何本かの社会主義革命の漫画を執筆して持込みをした事もあったが、「ウチは時代劇扱ってないんですけど」と編集者に門前払いされている。 漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後のに完結。 初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。 この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる。 宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。 映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言。 一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。 アジア人が登場する作品では動物化はされていない。 「𦻙記」の読みは「せっき」。 「𦻙」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。 「聶」(耳を三つ)は誤記あるいは代用表記。 原話は、の書いたの民話「」、。 「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加え、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併収。 、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。 熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・の橋渡しによって採用されることとなった。 「崖の上のポニョ」の創作現場密着。 「コクリコ坂から」の創作現場密着。 「風立ちぬ」の創作現場密着。 「毛虫のボロ」の創作現場密着。 出典 [ ]• タレントデータベース deta house aiba. 2014年10月4日閲覧。 シネマトゥデイ. 2014年2月2日. 2017年10月10日閲覧。 小金井市. 2019年4月19日閲覧。 毎日新聞 2016年1月19日. 2016年1月閲覧。 24-28))• , p. 『映画天空の城ラピュタGUIDE BOOK』徳間書店〈ロマンアルバム〉、2010年12月、復刻版、142頁。 『風の帰り道』(pp. 251) [ ]• 「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年) [ ]• 「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年) [ ]• 及び 大塚康生『作画汗まみれ』、2019年4月19日、増補改訂版、168頁。 [ ]• 毎日jp. 2013年9月6日. の2013年9月7日時点におけるアーカイブ。 産経ニュース. 2013年9月6日. の2015年1月10日時点におけるアーカイブ。 マイナビニュース. 2013年9月7日. の2013年9月7日時点におけるアーカイブ。 尾形英夫「あの旗を撃て! [ ]• 興行通信社 2016年9月26日. 2016年9月28日閲覧。 監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日• 東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日。 東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日。 第65回 記者会見時のインタビュー [ ]• 「フレデリック・バック展」のトークイベント「話をする二人」での、鈴木敏夫の発言 [ ]• 毎日jp(毎日新聞). 2013年9月1日. の2014年2月2日時点におけるアーカイブ。 2013年9月2日閲覧。 「やっぱり宮崎さんはメルヘンが好きなんだ」『AERA』2014年8月11日号、朝日新聞出版、18頁。 日本経済新聞. 2014年8月29日. シネマトゥデイ 2014年11月9日. 2014年11月23日閲覧。 朝日新聞デジタル. 2015年7月10日. STEVE N' STEVEN. 2016年3月4日時点のよりアーカイブ。 2019年4月18日閲覧。 ハフポスト. 2015年5月7日. BLOGOS. 2019年4月19日閲覧。 ねとらぼ. 2019年4月19日閲覧。 産経ニュース. 2017年2月24日. 2017年2月24日閲覧。 シネマトゥデイ. 2017年5月19日閲覧。 朝日新聞DIGITAL. 2017年10月28日. 2017年10月29日閲覧。 『また、会えたね! 』富沢洋子、徳間書店〈〉、1983年。 [ ]• , pp. 83,88. 「宮崎駿ロングインタビュー この映画が作れて僕は幸せでした」『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し「徹底攻略ガイド」』ニュータイプ、角川書店、2001年、35頁。 , p. 123. [ ]• 宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店、2008年、p389。 MODELKASTEN. ARTBOX. 2016年3月4日時点のよりアーカイブ。 2019年4月19日閲覧。 Xan Brooks 2005年9月14日. 2020年6月18日閲覧。 より [ ]。 鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波書店〈岩波新書〉、2008年、p. ORICON 2018年4月8日. 2018年5月20日閲覧。 日本語. 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宮崎駿

はやおp

2004年 生年月日 1948-08-19 (71歳) 出生地 国籍 血液型 A 職業 、 ジャンル 主な作品 アニメーション映画• 『』(出版プロデューサー)• 『』()• 『』()• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』()• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』(プロデューサー)• 『』()• 『』()• 『』(プロデューサー) 実写映画• 『』(製作協力)• 『』(製作)• 『』(製作)• 『』(冷やしタヌキの政役)• 『』(題字・「戦後思想」編集長役・坂崎一の声) OVA• 『』(プロデューサー) テレビアニメ• 『』()• 『』() 小説• 『』() ラジオ• 『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』() 目次• 来歴 [ ] 生い立ち [ ] 1948年、にて生まれる。 私立を経て、卒業。 大学在学中は多くのアルバイトを経験した。 徳間書店 [ ] 慶大卒業後の、入社。 『』企画部へ配属される。 、『』編集部を経て 、同年より刊行されていた、児童向けテレビ番組雑誌『』がオイルショックのあおりを受けて徳間書店へ売却され、編集スタッフごと移ったのを機に自ら希望して『テレビランド』担当の児童少年編集部へ異動。 、同編集部よりアニメ雑誌『』が創刊、発行される。 にはを初特集する。 宮崎とは共同で『戦国魔城』と題した映画を企画し、徳間書店社長に提出した。 結果は不採用であったが、に宮崎執筆の漫画『』連載開始に尽力する。 後に同作の映画化が決定すると、宮崎の意を受け、プロデューサーを引き受けるようを説得し 、以降は高畑とともに『』の製作を支えた。 その後、『アニメージュ』初代編集長のが児童少年編集部全体の統括を担うと、実質的に『アニメージュ』の編集実務を担当し、後に尾形の後任として、正式に2代目編集長に就任した。 『風の谷のナウシカ』映画化後は徳間書店側の制作委員も務めた。 スタジオジブリ [ ] 10月にスタジオジブリへ移籍して以降は、同スタジオ全作品の映画プロデューサーを務めている。 移籍した当時、『』、『』・『』等の興行成績は振るわず、『』が最後だと言われる状況であった。 そこで、と提携することで、『魔女の宅急便』をヒットさせ、後のスタジオジブリ作品の興行的成功とブランド確立につなげた。 メイキングビデオ『もののけ姫はこうして生まれた。 』では、爆発的なヒットを仕掛けた宣伝プロデューサーとしての一面が収められている。 しかし『』や『』では興行目標がクリアされなかった。 1997年、スタジオジブリが徳間書店に吸収合併され、として発足した「スタジオジブリ・カンパニー」のプレジデントに就任した。 1999年、同書店が事業本部制を導入し、「スタジオジブリ事業本部」が設立されると、本部長に就任した。 2005年、スタジオジブリが徳間書店から再独立した際には、代表取締役社長に就任した。 2月1日付でスタジオジブリ代表取締役社長を退任し(後任は)、以降は代表取締役を務めている。 『イノセンス』で共同プロデューサーをした、もう一人のプロデューサーに「ジブリの社長をやってくれないか」と打診していたが断られている。 2016年に初の公開師弟対談を行う。 対談相手は鈴木の下で仕事を学んだ。 本業以外に『』、『』に端役で出演している。 『』では宮崎監督に代わり、公式ポスターの原画を、『』では題字を担当している。 監督作品の実写映画では短編『』で「悪徳アニメプロデューサー」役、公開の『』では立喰師役の一人(これは本人の懇願によって実現した)、『』のエピソード6では「『熱風社』」映像プロデューサー」として出演している。 また、『』の中で、に付く二枚目風運転手役で出演しその横顔を決めている。 には東京大学大学院の情報学環にて特任教授に就任し、「コンテンツ創造プログラム」などを講じた。 対人関係 [ ] 高畑勲 アニメーション監督のとは、『アニメージュ』の取材を通じて知り合った。 プロデューサーの役割や映画の作り方について、高畑から学んだと語っている。 高畑が『風の谷のナウシカ』で初めてプロデューサーを務めた際、鈴木も高畑とともに映画製作に携わっていた。 高畑が勉強しながら手探りでプロデューサーを務める様を見て、鈴木は「非常に具体的かつ分かりやすくアニメーション映画の作り方を学べた」 としている。 と鈴木が企画した『風の谷のナウシカ』の映画化が決定すると、宮崎の要望に基づき、鈴木はにプロデューサーを引き受けるよう要請した。 高畑が慎重な姿勢を崩さないため、鈴木は高畑の自宅に日参し1か月に渡って延々と説得を繰り返した。 ところが、高畑は1か月かけて日本におけるプロデューサーの役割を分析しており、それを1冊を費やして『プロデューサーとは何か? 』と題した論文に纏め、「だから僕はプロデューサーに向いていない」 と主張した。 呆れた鈴木が「理屈ではそうかもしれないですけれど、高畑さん、あなたは宮崎さんの友人でしょ。 その友人が困っているんですよ。 そんなときに、あなたは力を貸そうとしないんですか」 と声を荒らげたため、高畑は『風の谷のナウシカ』のプロデューサーに就任することを諒承した。 しかし、アニメーション制作の拠点をどうするのか鈴木に目算がなかったため、高畑から「何を作るか、どうやって作るか。 それを全部、宮崎駿におんぶに抱っこか? 」 と叱責された。 以降は、高畑と鈴木が2人で制作拠点となるアニメーションスタジオの選定や人材の確保に奔走した。 『風の谷のナウシカ』製作当時を振り返り、鈴木は「僕はプロデューサーという仕事を、このときプロデューサー初体験だった高畑さんから学んでいくんです」 と述懐している。 でとして働いていた宮崎吾朗に声をかけ、のデザイナーとしてスタジオジブリに入社させた。 ジブリ美術館の仕事を通じて「自分の考えを実行に移す彼のパワー」を評価した鈴木は、宮崎吾朗を『』の企画に参加させ、宮崎駿の猛烈な反対を押し切って監督に据える。 宮崎吾朗は、での対談で「親父(宮崎駿)のコネがなかったら、アニメを作ってないと思いますか?」という視聴者からの質問に「コネというより、そこに鈴木敏夫がいたことのほうが問題だと思う」と述べている。 鈴木は宮崎吾朗のこの発言を遮る形で「宮崎駿を父に持ち、父のもとで映画を作る。 大変な逆境に置かれているわけで、誰も味わえない。 それをやれるのは吾朗君だけ。 日々、生きているという実感があるでしょう?」とコメントした。 押井守 (との対談で)はいわゆる娯楽映画というものをこんなに観た人はいないっていうぐらいいっぱい観てるんですよ。 で、彼が本来やりたかったのは宮崎駿みたいな映画。 ところがいざ自分が映画を作ろうとした時、同時代に宮崎駿がいた。 そうすると「宮崎駿とまったく対極の映画とは何か?」っていうことを真剣に考えた人なんです。 と述べている。 『』アニメ化に尽力している。 この作品は、徳間書店が著作権に疎かったことから押井に無断で権利が売却され、海外で実写化された。 人物 [ ]• 『柔俠伝』の愛読者。 20代の頃は何度読み返していて、新装版発売にあたり「自分のベッドの傍に置いてある本の中で、漫画はバロンさんの作品だけ」と帯コメントを寄せている。 スタジオジブリは(系列のテレビ局)との縁が深いが、鈴木自身は大のファンである。 家ではとを購読し、なかでも東京中日スポーツは創刊時より読み続けている。 選手ではのファンで、自身のラジオ番組にゲスト出演してもらったことがある。 には宮崎駿に落合博満と竜をモデルにしたをデザインしてもらっている。 に中日ドラゴンズ公式ファンクラブが球団設立70周年を記念して創設された際、マスコットとして採用され、ガブリと名付けられた。 自身もクラブより名誉会員1号の称号を贈られた。 娘の鈴木麻実子は、『』の主題歌の和訳や『』の楽曲「ふたたび」の作詞を手がけている。 『ゲド戦記』の公開前に受けたJT()のインタビューにおいて、彼にとってはタバコが嗜好品であり、タバコ以外には特になく、タバコを吸っているため(鈴木自身の)ストレスが少ないのであると笑って答えた。 2016年には松山全日空ホテルにおいて、日本たばこ産業株式会社のJTフォーラムの講演を行っている。 キャスティングの特徴として、本業の声優ではなく、俳優やタレントを起用する傾向がある。 テレビアニメにおいて、「鈴木敏三」の名で凄腕のプロデューサーとして名が挙がっている。 アジアの映画産業は門戸開放しており、映画公開も全アジア規模で行われているのに対して、日本ではアジアの映画は公開されず、「井の中の蛙」になってしまうとして、外国の人材を受け入れるべきであると主張している。 略歴 [ ]• 1948年 - 愛知県名古屋市にて誕生。 1967年 - 慶應義塾大学文学部入学。 1972年 - 徳間書店入社。 1982年 - 徳間書店『月刊アニメージュ』副編集長。 1986年 - 徳間書店『月刊アニメージュ』編集長。 1989年 - 徳間書店退社。 1989年 - スタジオジブリ入社。 1989年 - スタジオジブリ製作部部長。 1990年 - スタジオジブリ取締役。 1997年 - 徳間書店スタジオジブリ・カンパニープレジデント。 1999年 - 徳間書店スタジオジブリ事業本部本部長。 2004年 - 東京大学大学院情報学環特任教授。 2004年 - スタジオジブリ社長。 2008年 - スタジオジブリ取締役。 賞歴 [ ]• 1992年 - 第11回藤本賞特別賞。 1997年 - 第14回山路ふみ子文化賞。 1998年 - 第17回藤本賞。 2002年 - デジタルコンテンツグランプリ2001 DCAj会長賞。 2002年 - 2002年度エランドール賞プロデューサー賞。 2002年 - 第21回藤本賞。 2002年 - 第1回。 2007年 - 第2回渡辺晋賞。 2014年 - 第64回文部科学大臣賞。 2014年 - MEN OF THE YEAR 2014• (1993年) - 企画• (2000年) - キャラクター原案• (2014年) - 題字• (2015年) - 題字• (2020年) - プロデューサー CM [ ]• (2010年 - ) - 企業CMキャラクター「 コニャラ」を製作。 WEB [ ]• (2014年)題字彩飾 小説 [ ]• (2018年) - 著者 その他 [ ]• のキャッチフレーズ 題字• スタジオジブリ 鈴木敏夫 言葉の魔法展 出演 [ ] 映画 [ ]• (1993年4月10日劇場公開)• (1995年) - 西の友人• (1997年)• (2003年) - 悪徳アニメプロデューサー• (2006年) - 冷やしタヌキの政• (2007年) - 「戦後思想」編集長・坂崎一の声• (2013年)• 第6話(2014年) テレビドラマ [ ]• (1992年、) テレビ [ ]• (、同番組で取り上げられた)• () ラジオ [ ]• ( 2007年10月7日〜 毎週日曜23:00 - 23:30、38局ネット DJ) OV [ ]• (1998年)• (2003年)• (2009年) 著書 [ ]• 映画道楽(、2005年4月/、2012年11月)• 仕事道楽-スタジオジブリの現場(、2008年7月、増補版2014年5月)• ジブリの哲学-変わるものと変わらないもの(、2011年8月)、ドキュメントエッセイ• ()、各対談本• 2013年3月、• 2013年7月、• 2013年11月、• 2014年7月、• 2016年3月、• (、2013年8月/ 2分冊、2019年3月)回想記、聞き手:• ジブリの仲間たち(、2016年6月)• ジブリの文学(岩波書店、2017年3月)、エッセイ・対談• 人生は単なる空騒ぎ-言葉の魔法(、2017年12月)• 禅とジブリ(、2018年7月)、ほか僧3名との問答• (、2018年8月)、初の小説作品• 天才の思考-高畑勲と宮崎駿(、2019年5月)• 新・映画道楽 ちょい町哀歌(角川文庫、2020年6月) 評伝 [ ]• 梶山寿子『ジブリマジック 鈴木敏夫の「創網力」』 、2004年11月• 『鈴木敏夫のジブリマジック』 出版社〈〉、2009年6月 関連文献 [ ]• - ほぼ日刊イトイ新聞• 脚注 [ ] []• , p. 246. 『二階の住人とその時代-転形期のサブカルチャー私史』、2016年、80-83頁。 佐々木崇夫(元テレビランド編集長)『三流週刊誌編集部』バジリコ、2006年、298頁。 , p. , p. 梶山寿子『雑草魂 石川光久アニメビジネスを変えた男』日経BP社、2006年2月。 [ ]• , p. 247. , p. YOMIURI ONLINE. 2005年12月26日. の2013年10月26日時点におけるアーカイブ。 ガジェット通信 GetNews. 東京産業新聞社. 2019年5月22日閲覧。 鈴木敏夫『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』4、復刊ドットコム、2014年7月。 [ ]• 2020年5月19日閲覧。 『たばこワールド』STYLE CAFE. 日本たばこ産業株式会社(JT) 2006年6月3日. 2009年9月25日時点のよりアーカイブ。 2013年8月15日閲覧。 (2016年10月) [ ]• , p. 「東商新聞 Biz Extra」通巻48号 企画1頁 『Interview リーダーに聞く 鈴木敏夫』 2017年3月20日• GQ JAPAN 2014年11月20日. 2014年11月21日閲覧。 関連項目 [ ]• 参考文献 [ ]• 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年。 外部リンク [ ]• - (英語)•

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