三菱 重工 ビル 爆破 事件。 三菱重工ビル爆破事件 写真特集:時事ドットコム

三菱重工爆破事件の概要・犯人や被害者などの関連人物・死者

三菱 重工 ビル 爆破 事件

Index• 三菱重工爆破事件の概要 1974(昭和49)年8月30日金曜日の昼12時37分頃、東京都千代田区の三菱重工ビルの守衛室に1本の電話が入ります。 内容はビルを爆破するというものでしたが、その時はいたずら電話として処理されました。 その後も電話が鳴り、最後の予告電話が入ったのが12時41分。 交換手は相手が本を読むように爆破予告をし、具体的なことを何も言わなかったので冗談だと思いましたが、 念のため庶務課長に電話し8階の庶務課長室へ向かいエレベータに乗ります。 その直後の12時45分に大爆発が起きました。 この爆発でビルの1階部分が破壊され、玄関ロビーが大破。 三菱重工ビルの窓は9階まで全て割れ、道を隔てて反対側にある三菱電機ビルや周囲のビルの窓ガラスも割れました。 さらに、道路に停めてあった車両も破壊され、街路樹の葉も吹き飛ばされました。 ビルの中にいた社員、通りにいた通行人など含む384人が巻き込まれて5人が即死。 病院で3人が死亡し、合計8人が死亡。 負傷者376人という被害が出ました。 このときの爆発は、爆発音が新宿まで聞こえるほど大きなものでした。 通常放射状に拡散する爆風はビルの谷間に阻まれてビルの表面を吹上げ、窓ガラスを破壊。 ビル内に入った衝撃波も階段などを伝わりビルを内部から大きく破壊したそうです。 陸上自衛隊によれば、この爆発の威力は敵軍の進行を食い止めるために用いる道路破壊用の20ポンドの爆弾よりも強力だということでした。 犯人グループと裁判 三菱重工ビルを爆破した実行犯は、東アジア反日武装戦線の組織のうちの1つ「狼」のメンバーでした。 東アジア反日武装戦線とは第二次世界大戦以前の日本を悪と捉え、太平洋戦争を侵略戦争として憎んでいました。 そして、戦前や戦中に日本の重工業を支え、戦後も防衛産業を手掛けて世界へ進出して行った三菱重工は、犯行当時も帝国主義であると断定され無差別テロの対象になったそうです。 東アジア反日武装戦線は8月14日に決行予定だった昭和天皇暗殺作戦に失敗したことに不甲斐なさを感じ、企業連続爆弾テロを企てます。 そして、まずは三菱重工ビルを爆破しようとなったのです。 実行犯「狼」のメンバー4人は、この日、昼の12時25分頃に三菱重工ビルの一階出入り口のフラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けました。 東アジア反日武装戦線は「狼」の他に「大地の牙」と「さそり」という組織があり、メンバーは逮捕されたら青酸カリで自殺するように指示されていたそうです。 その後、 昭和50年5月に警視庁公安部が都内のアパートに潜伏していた東アジア反日武装戦線の幹部7人を逮捕。 三菱重工爆破事件の「狼」のメンバー全員と「大地の牙」メンバー2人、そして「さそり」のメンバー1人がいました。 このうち「大地の牙」のメンバー1人が取り調べ中に青酸カリを服毒して自殺しています。 この取り調べでその後に起きた三井物産、帝人中央研究所、大成建設、鹿島建設の爆破事件も東アジア反日武装戦線の犯行であることがわかりました。 そして、昭和50年の8月に起きた日本赤軍によるマレーシアとアメリカ大使館、スウェーデン大使館を占拠する事件によって政治犯の釈放が要求され、超法規的措置によって「狼」のメンバー1人が釈放。 さらに、9月に起きた日本赤軍による日航ハイジャック事件によって「狼」のメンバーもう1人も釈放されて、それぞれ日本赤軍に合流しました。 三菱重工爆破事件の実行犯残りの2人が裁判にかけられ死刑判決。 日本赤軍に合流した2人は未だに捕まっていません。 当時、超法規的措置によって釈放したことはテロに屈したことになり非難の声が高まりました。

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「いよいよ明日逮捕だ」 連続企業爆破事件・世紀のスクープ 警視庁記者たちが震えた40年目の真実(1/8ページ)

三菱 重工 ビル 爆破 事件

wikipedia. 犯人グループは「東アジア反日武装戦線・狼」で、爆破には「虹作戦」と呼ばれる昭和天皇の暗殺計画に使用される予定だった爆弾が流用されました。 事件現場となったのは「三菱重工業東京本社ビル(現:丸の内二丁目ビル)」で、場所は東京都千代田区丸の内二丁目5番1号という人通りの多い場所にあります。 標的は民間人で、 死亡者8人、負傷者376人という大量の犠牲者を出す事件となりました。 テロの背景、動機、事件の概要などを詳しく解説していきます。 三菱重工爆破事件の犯人グループ「東アジア反日武装戦線」とは そして 午後0時45分、昼下がりのオフィス街で時限爆弾が爆発し、この爆発の衝撃でビルの1階部分が大破、玄関ロビーは惨劇となり、 建物内にいた社員が殺傷されました。 割れたガラスは路上にも降り注ぎ、付近を通行していた多数の人も巻き込まれています。 三菱重工ビルは9階までの窓が全て割れ、もう1つの破壊対象だった三菱電機ビル、そして近い場所にあった丸ビルなど周囲のビルの窓ガラスも割れています。 爆発の規模は広範囲に及び、道路に停まっていた自動車や、街路樹の葉も吹き飛ばされました。 戦後最悪の爆弾テロ事件となり、オウム真理教によるサリン事件が起きるまでの約20年間、日本最大規模の犠牲者を出す事件となっています。 事件が発生した場所は 千代田区の丸の内ですが、この時の 爆発音は新宿にも聞こえるほどだったといいます。 血まみれの人たちが道路に横たわり、昼下がりのオフィス街が地獄絵図と化したこの事件。 ここでは、テロの犠牲者と遺体について解説していきます。 この爆破事件では、 爆風とガラス片により三菱重工とは無関係な通行人を含め、死者8人、負傷376人の犠牲者が出ました。 実はこの犠牲者数の多さ、被害の大きさは、犯行グループ「東アジア反日武装戦線」の予想を超えるものでした。 予想以上の被害が出た理由として、通常は放射状に拡散するはずの 爆風がビルの谷間に阻まれ、ビル表面を吹き上げて上昇したことによって爆風の衝撃が上階まで達したことが挙げられます。 この爆風によりビルの大量の窓ガラスが破壊され、粉々に割れた無数のガラスの破片が路上に降り注ぎました。 また、ビル内に入った衝撃波が階段を伝って窓から噴出し、 ビル内部からも破壊が起きています。 そもそも爆発の質量も大きく、爆心には直径30cm・深さ10cmの穴が開いていました。 この爆発の威力はダイナマイト700本分とも言われ、陸上自衛隊の調査では敵軍の侵攻を防ぐために道路破壊に用いられる20ポンド爆弾よりも強力、という見解が示されました。 また、電話で爆破予告をしたものの三菱重工側がイタズラ電話と処理し、 避難措置が取られなかったことも犠牲者が増えた要因です。 しかし、電話は爆発の8分前に掛けられており、例え本物の爆破予告と受け取ったとしても、ビルにいた社員や周囲の通行人全てを避難させるのは無理がありました。 そのため、爆破予告はその意味を成さず、時限爆弾を止める術もなかったことから、多数の死傷者を出す目的が明確であったと言われることになりました。 犠牲者である8人の死者について、遺体の様子や死因は次のように公表されています。 ・37歳の三菱信託銀行課長、28歳の船舶エンジニア、49歳の鉱業会社社員、50歳の三菱重工社員が即死です。 ・38歳のメーカー所長代理は、商談のために静岡県から訪問し、地下食堂から出たところで爆発に巻き込まれ即死しました。 東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴し、裁判に移ります。 しかし、 主犯格の佐々木規夫と大道寺あや子が日本赤軍によるクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件によって超法規的措置となり 釈放・逃亡しました。 その後、リーダー格の 大道寺将司、益永利明の裁判が続行されました。 裁判所はこの事件について、 ・天皇暗殺計画に使用する予定だった爆弾を転用したことは、当然三菱重工爆破事件にも殺意が適用される ・爆破数分前の電話は予告とは言えない ・爆破予告が有効にならなかった場合には時限爆弾を止める手段を講じておらず、爆破させる意思に変わりはない などとして、最高裁でリーダー格の大道寺将司、益永利明に対し 死刑判決を下しました。 東京都出身で、職業訓練校の機械科で爆弾製造に必要な技術知識を身につけ、 爆弾製造の中心的役割を担いました。 現在も確定死刑囚として、 東京拘置所に収監されています。 日本赤軍が起こした上記のテロ事件で人質の解放と引き換えに釈放されたのは、 佐々木規夫と大道寺あや子です。 2人の 裁判は公判停止となり、現在も国際指名手配中となっています。 逮捕された際に青酸カリで自殺を図るものの、捜査員に阻止されています。 逮捕後にマスコミの報道で本人の容貌が広く知られるようになると、ルックスの良さに注目が集まりました。 また、試薬会社に勤めていた時の勤務態度が良好だったことから 周囲の評判も良く、「大道寺あや子は夫に従い協力させられていただけなのではないか」といった 同情の声が上がりました。 しかし、それらの声に反発するように激しい法廷闘争を繰り広げるなど、 歴とした過激思想を持っているメンバーです。 逮捕後、日本赤軍による「ダッカ日航機ハイジャック事件」で 超法規的措置により釈放・出国し、その後日本赤軍に合流しています。 「ダッカ日航機ハイジャック事件」とは 「ダッカ日航機ハイジャック事件」とは、1977年に起きた日本赤軍によるハイジャック事件です。 犯人グループは、人質の身代金として600万ドル 当時約16億円 と、 大道寺あや子を含む日本で服役および勾留中の9名の釈放・日本赤軍への参加を要求しました。 要求が拒否された場合や回答が無い場合は人質を殺害すると警告し、日本政府は交渉や武力での解決を諦め、身代金と釈放を決断しました。 大道寺あや子のその後の足取りとしては1999年、香港で日本赤軍の最高幹部・重信房子と会合を持ったことが確認されています。 また、2001年には日本赤軍が解散されるという声明を受けて、南米から「解散宣言の無効宣言」を発表するなどしています。 南米から宣言したこともあり、国外逃亡中だった大道寺あや子は 南米に潜伏している可能性があると言われました。 しかし、これを最後に行方は掴めておらず、現在は 生死も不明であり、すでに死亡している可能性も否定できません。 2010年4月以降の手配写真は1994年に撮影されたものに差し替えられ、 現在も国際手配中です。 三菱重工爆破事件のその後 戦後最悪の爆弾事件となった「三菱重工爆破事件」は、その後 多くのメディアで取り上げられ、書籍化もされています。 現場に遭遇した元三菱重工社員の宗像 善樹(むなかた よしき)による著書「三菱重工爆破事件」は、当時の様子を細部にまでわたって描いたノンフィクション小説です。

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三菱重工爆破事件の犯人・大道寺あや子の現在!犠牲者数と遺体・判決とその後も徹底解説

三菱 重工 ビル 爆破 事件

企業への爆破 [ ]• - 「狼」班によるビル(現:)爆破()。 8名が死亡、385人が重軽傷。 同年 - 「大地の牙」班による(本社屋)爆破()。 17人が重軽傷。 同年 - 「狼」班による中央研究所爆発()。 同年 - 「大地の牙」班による本社爆破()。 9人が重軽傷。 同年 - 「さそり」班による資材置場爆破()。 - 三班合同による本社ビルと同社大宮工場爆破()。 5人が負傷。 同年 - 「大地の牙」班によるオリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破()。 同年 - 「さそり」班による間組京成江戸川作業所爆破()。 1人が重傷。 同年 - 「さそり」班による間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破()。 捜査と逮捕 [ ] 三菱重工爆破事件直後にに設置されたは、公安部と双方からが投入され、異例の体制となった。 現場検証では時限装置と見られる時計や乾電池などの破片が発見された。 これは現場に散乱していたガラス片40tの中 から見つけられた。 また爆弾は 2個に詰められた系の混合爆薬約55kgの爆弾だったことが判明した。 なお、爆薬の入手先であるが当時禁止されて間もない塩素酸塩を使用した除草剤を転用したものであった。 特別捜査本部は「爆弾はダイナマイト700本分に相当する」と発表した。 特別捜査本部は当初から思想の「」による犯行とみていた。 犯行グループが寄越した犯行声明文と3月に地下出版された爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した教程本「」と用いられたの字体が同一であることが判明、同じ機種で打たれていたことが確認された。 そのため「腹腹時計」作成者と犯行グループは同一である可能性が高まった。 また犯行に使われたペール缶のうち1個は東京都内の工場で製造されたもので、わずか70個しか製造されておらず、すべて東京都内で販売されていたことが判明した。 特別捜査本部は当初として、解放など「東アジア反日武装戦線」と革命理論が酷似しているとして、当時「新左翼評論家」であったをに発生したの容疑で拘束 したが、太田竜のアジトから押収された「腹腹時計」に疑問符が記入されていたり、「自分の理論をまねている者がいる」と周囲に不満をもらしていたことが判明し、太田の潔白が証明された。 しかし公安部は太田の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推理し、後に芋づる式に東アジア反日武装戦線のグループ全体が把握されることになった。 東アジア反日武装戦線は同年からにかけ、連続企業爆破事件を起こしたが、この時にはによってマークされていた。 事件当日、周辺で爆発物らしき包みを持った不審な男を目撃したとの証言が特別捜査本部に寄せられていた。 後にこれは偽情報であったことが判明したが、警視庁によるローラー作戦で、駅の近くにアナキズム集団「東京行動戦線」の関係者がいたことが判明した。 この情報に対し警視庁公安部暴力犯罪取締本部は、この関係者を被疑者として追尾し尻尾を出すのを待っていた。 また前述の太田竜が関係していた「」「レボルト社」に狙いを定めた結果、メンバーのとが浮上し、この二人を追尾していくうちに、「東京行動戦線」関係者と結びつき、犯行グループと思われるメンバーが把握されていった。 ではメンバーのうち2人が不審な行動を取っていたことを把握したが、現場を押さえることができなかった。 しかし1975年に発生したでは、メンバー全員が外出し、互いに連絡を取り合っていたことが確認された。 また彼らのアジトから出たゴミから犯行声明文の書き損じなども発見され、ついに正体をつかんだ。 当初は5月9日に一斉検挙する予定であったが、おりしもが訪日しており、不測の事態を懸念し延期された。 に主要メンバーである、、佐々木規夫、(益永利明)、斎藤和、、と協力者1人が一斉にされた。 この時の逮捕容疑は韓国産業経済研究所爆破事件であった。 その内、斎藤和は警視庁の取り調べ中に、所持していたで自殺した(同じく大道寺あや子も服毒自殺をしようとしたが、警察官に阻止された)。 その後 [ ] 主要メンバー逮捕後にとがされるもし、残党化する。 その後、活動家のらが残党を名乗る新グループによってなどの爆破事件が11月まで続いた。 裁判中、8月にによるで佐々木規夫がで釈放し逃亡。 またに日本赤軍によるで大道寺あや子と浴田由紀子が超法規的措置でされ、国外逃亡した。 逃亡した3人は日本赤軍に合流した。 7月に逃亡していた宇賀神寿一が逮捕される。 その後、裁判ではに大道寺将司と益永利明への、黒川芳正に、協力者には8年が確定した。 に宇賀神寿一の懲役18年が確定した(6月出所)。 に逃亡していた浴田由紀子がで潜伏中に身柄を拘束され日本に移送となり、5月に懲役20年が確定した(3月出所)。 現在、益永利明は確定としてに、黒川芳正はにそれぞれされている。 大道寺将司はにのため東京拘置所で病死した。 現在、国外逃亡した大道寺あや子と佐々木規夫は、は全国指名手配されている。 桐島聡は大道寺あや子と共犯でない事件に関してが成立。 朝日新聞1974年9月4日夕刊• 容積18~20リットルのドラム缶に取っ手のついた容器、詳細は参照のこと• 朝日新聞1974年10月6日朝刊• 朝日新聞、1975年1月25日夕刊• 朝日新聞1974年10月22日朝刊、なお太田竜の逮捕容疑はの記念碑の碑文破損であったが、こちらは執行猶予付きの有罪判決を受けている。 朝日新聞 1974年10月24日朝刊• 朝日新聞1975年1月25日朝刊• によって超法規的措置で釈放された場合は、それ以後の日本での身柄拘束について記載。 関連項目 [ ]•

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